インタビューシリーズ「市民の科学をひらく」(5) 笹本征男さん(上)

投稿者: | 2005年11月1日

占領下の原爆調査が意味するもの(上)

笹本征男さん(占領史研究家)
ささもと・ゆくお 1944年島根県生まれ。中央大学法学部卒。在韓被爆者問題市民会議会員。占領・戦後史研究会会員。著書に『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』(新幹社、1995)。訳書に『占領軍の科学技術基礎づくり(占領下日本1945~1952)』(ボーエン・C・ディーズ著、河出書房新社、2003)。ほか論文多数。

2005年9月12日、市民科学研究室にて
聞き手:上田昌文(当NPO代表)

pdf版はinterview_010.pdf

上田:──戦後60年という大きな区切りの年にきて、日本が様々な面から戦争の意味を考え、広島・長崎の原爆についても今後どう受け止め、伝えていくかという点についても、新しい捉え方、見方を作らなければという機運があるように思います。科学技術という観点から見ても、アメリカの原爆開発における科学技術開発の体制が大きな影響を持ったということが一つ。また、日本は核兵器開発こそ手を染めなかったものの、一方で世界に冠たる原子力大国になっているわけです。この日本の状況が一体どういった背景で生まれ、維持されてきたのかを、改めて振り返る必要があると思います。笹本さんには、現在は低線量被曝PJにもご参加いただいて、歴史的な観点からも毎回新しい示唆や資料などを持ってきていただき、メンバーは大いに刺激を受けています。

今日は原爆調査をメインに語っていただきますが、個人的な歩みに引き寄せて伺いたいと思います。戦後60年の節目ということで 社会的にも様々な話題がのぼっていますが、そういう中で笹本さんが感じたことをまず語っていただき、それを切り口に進めたいと思います。

笹本:今年は8月5日に広島に行き、6日に故郷の島根県益田市で、市民が開いた平和集会で講演をしました。まず、広島での話をしましょう。僕が原爆問題に関わることになったきっかけは、1968年に「原爆文献を読む会」という会に参加したことでした。長岡弘芳さんが呼びかけた会です。それから40年近くになりますが、実は広島市、長崎市にはほとんど行ってないんです。特にアメリカが原爆を投下した8月6、9日は、慰霊祭が盛大に行われますが、それにもほとんど行ったことがない。

一つには、儀式的なものに対する批判的な目から、行きたくないということがあります。今年はたまたま友人が呼んでくれたので行ったのです。8月9日の長崎市にも行ったことがない。20年くらい前に母と一緒に旅した時、お正月の長崎に行きました。ちょうど本島等市長(当時)が撃たれた直後だったかな。

広島・長崎に行かないもう一つの理由は、僕は島根県から出て1965年に東京に来たのですが、それまでヒロシマ・ナガサキ、被爆者の問題というのはほとんど知らなかったのですが、「原爆文献を読む会」への参加を通して中島竜美さんたちに偶然出会い、そのうちの何人かの人とはそれから40年近い付き合いをしていますが、そういう人たちの影響を受けたのです。東京にも、広島・長崎にアメリカが投下した原爆で被爆した人たちが、1万人以上いたということを初めて知りました。

その驚きから、東京で被爆者の問題を考えよう、と。つまり、カタカナのヒロシマ、ナガサキは普遍的なものだから、「東京のヒロシマ」もあり得ると考えました。東京に住んでいる被爆者とはどういう存在なのか、なぜ今そういう人たちがいるのか、と思ったのです。
今年の8月5日の広島では、「韓国の原爆被害者を救護する市民の会」の広島支部長の豊永恵三郎先生に会おうとその日の所在を尋ねると、原水禁(原水爆禁止国民会議)大会の分科会に出ているという。その分科会は原爆症認定訴訟問題と在外被爆者問題についてでした。その時の違和感を話したいと思います。

原爆症認定の問題は今日は触れず、在外被爆者問題についてお話します。在外被爆者とは、広島もしくは長崎で被爆した人が、その後帰国するなどいろいろな事情で外国に行った人たちで、現在外国に住んでいる被爆者のことです。その分科会には、ブラジル在住の日本人被爆者と、アメリカ合衆国在住の日本人被爆者の二人が来ていました。ブラジルの方は20歳頃にブラジルへ移民した。ブラジルにいる被爆者は、ほとんどが日本政府の移民政策によって行った方です。アメリカの被爆者はちょっと複雑で、8月6日に日本にいた外国人や日系アメリカ人です。アメリカ市民権を持っていて、たまたま故郷である広島・長崎に戦争中帰っていて、被爆後アメリカに戻った。その他、占領時や朝鮮戦争時に米軍兵士と結婚してアメリカに渡った女性や、移民として仕事上渡った人、大別するとそうなります。一番考えなければならないのが、原爆を製造して実際に使った国アメリカに住んでいる被爆者に、アメリカ政府は一切補償などしていないこと。それから原爆を実際に使って、今なお核兵器を保有し続けている「核大国アメリカ」に住むということがどういうことか。これは今まであまり日本では語られてこなかったですね。

原爆を作って、投下したのはアメリカです。この「アメリカ」という主語、つまり行為主体としてのアメリカというのが大事です。その集会で僕が一番感動したのは、ブラジルから来た被爆者の盆子原邦彦さんの挨拶なんです。彼は、原爆を投下したアメリカ政府に対する批判をはっきり「アメリカ政府」という言葉を使って言うわけです。日本政府についても「日本政府」とはっきり言いまして、「日本政府」は自分たちを含めた被爆者を差別してきた、放置してきたと指摘しました。もっと感動的だったのが、自分は日本人だが、少なくとも歴史的に考えれば韓国人被爆者の援護は私たちより先にあるべきだと言ったことです。日本の植民地支配によって「強制連行」などで日本に渡ってきた人たちは、日本人より先に援護されるべきだと盆子原さんはおっしゃった。僕は非常に感動した。つまり、彼はアメリカを主語にして語ることができたんです。その後女性だけが集まった分科会にも出ました。一人のフィリピンから来たフィリピン人の老女性がタガログ語で話したのですが、彼女もやっぱり主語をはっきり言いました。「私の村に、1944年11月23日に日本軍が侵略してきた。その時私は13歳だった。日本兵が私を陵辱した」と。「日本軍、日本兵」と明確に言うわけです。

その集まりでも、日本人被爆者と被爆者の子供の挨拶では、アメリカという言葉は出なかった、その前の分科会でも、日本人主催者の発言は、まず「被爆60年」という言葉から始まり、アメリカは出てこない。主語を明確にすること、これはかなり重大なことだとはっきり認識しました。

そこで次の益田市での市民集会では、真っ先にこの話をしました。この市民集会は非常によい集会でしたが、ここでも主催者の挨拶にアメリカという言葉が出てこない。集会中に証言したのは、在日朝鮮人の女性、日本人兵士として広島で被爆した男性、植民地からの引き揚げ者の女性、それと若者が一人でした。被爆者の証言にもアメリカという言葉はなかったのです。私はなぜアメリカという主語抜きに原爆を語るんだ、と言いました。アメリカという主語がないことは、たとえばアメリカの原爆投下の責任を問題にしないということです。主語なしで突然被害の話をし始めるのは、被害者を侮辱する話ではないですか。それが60年も続けられているわけです。今年の夏、それを違和感としてはっきり認識しました。

こうした状況は、日本ではあらゆる分野に見られます。原爆被害を語るときに、アメリカという主語を入れないことが当たり前なんですよ。これは思想の荒廃だと僕は思うんです。今年の秋葉忠利市長の広島平和宣言も、原爆問題、被爆問題を継承しようというのが主眼ですが、この宣言も若者に継承しようというときに一番大事な事実についての言葉──アメリカが原爆を投下したということ──が抜けています。これで継承できますか?

もう一つ、盆子原さんは、総理大臣も広島市長、長崎市長も、私たち在外被爆者を差別しておいて平和を語る資格がないと、配布されたパンフレットに書いているんです。彼だけですよ、そういうこと書いているのは。つまり、彼は日本人だけど外国に住んでいるから、よく見えるわけです。

別に僕は単にアメリカを批判するつもりだけで言ってるんじゃない。歴史的事実として行為主体をはっきり言わないで、たとえばどうして僕たちは日本による中国侵略を語れますか?

──笹本さんのお仕事は、今の「主語を明らかにしない」という私たちの認識構造の問題を、原爆調査を通して明らかにするものだと思います。歴史から発掘すべき、光を当てるべき問題を「原爆調査」に見出してきたわけですよね。具体的にどういうところから着手されて、どのように調べられたのか、お話し下さい。

20年前のある日、中島竜美さんが「原爆記録映画」の素顔というテーマのテレビ番組を作るので、そのための調査を手伝ってくれと言ってきました。原爆記録映画は日本がまさに米軍のために作った記録映画ですけど、それで彼の元で勉強を始めた。毎日中島さんと議論して、かなり詳しい年表をまず作りました。わかった限りの資料から原爆調査に関する日米間の動きを克明に時系列でたどり、縦軸と横軸を絡ませて年表を作りました。その過程でふっと「これ何だろう」ということがありました。

具体的に言いますと、原爆投下後の日本軍による調査に関して、日本国内で原爆被害報道がほとんどされなかったことは知っていましたが、海外のメディア、特にアメリカの新聞を見ていたら、原爆被害が報道されているんですが、それが日本発の情報なんです。同盟通信社(現在の共同通信の前身、国策通信社)、ラジオ東京(NHK海外放送の前身)からの情報というクレジットが記事に入っているんです。これはなんだろうというのが最初でした。なぜ日本から原爆被害情報がアメリカに流れているのか……。僕は「そうか、これは日本側が原爆被害を利用したんだ」とひらめきました。そして、原爆被害者を日本政府・日本軍はアメリカに売った、と、「売った」という言葉が頭に浮かびました。

中島さんの番組も完成して、その後、1989年夏の占領史研究会の山中湖での合宿に科学史家の中山茂先生と吉岡斉さんが来たんです。当時、中山先生を中心に進められていた『通史 日本の科学技術』(学陽書房刊)のための勉強会に占領下の時期を研究している人がいなかったのです。それで中山先生に「一緒にやろう」と言われて、それから本気で勉強を始めたんです。具体的には米軍占領下のGHQ(総司令部)の原爆関係資料を読み始めた。そのうち吉岡さんから要請されて「歴史と社会」という雑誌の1989年9号に「原爆被害初動調査における日本軍の役割」を発表しました。この小論が、私が最初に原爆問題で書いた文章です。その号には、今の広島市長の秋葉さんも書いていましたね。

──笹本さんがまとめられるまでは、原爆調査そのものに関する歴史研究というのはなかったのですか?

原爆調査の事実だけは伝えられていても、その意味とか問題性を追求した歴史研究はなかったですね。唯一あったのが、中川保雄さんの研究*でした。原爆調査に関心を持ったきっかけはうまく説明できませんが、なぜ日本からの原爆情報がアメリカに出ているんだという単純な疑問がきっかけだった。それまで僕は、あれだけの大事件を世界の新聞が伝えるのは当たり前だと思っていました。だから原爆被害の記事がアメリカの新聞に出ていることには、全く疑問を持っていませんでした。前にも話しましたが、なぜ日本から原爆被害の情報が流されているのか、それは敵に被爆者を売っていることじゃあないか、という発見が僕にとっての出発点です。

しかし、そのことが自分なりにわかった時、僕の思考は麻痺し、何も考えられなくなった。頭の中が真っ白くなった。それまで勉強してきたことが全部ご破算になった。かっこいい言い方をすれば、僕の思想は一回死んでしまった。「原爆被害初動調査における日本軍の役割」という文章を書くことには、思想的な死からのよみがえりの意味があったのです。この小論をまとめることが、僕を生き返らせることになったと今は思います。

その後は全てを疑った。広島・長崎について語られていること、書かれていること、話、全部を疑うようになった。それらは僕の疑問に答えていない、僕は納得できないわけです。そして、ずっと調べていくとやっぱり当時の国家権力の問題に関わるわけです。昭和天皇裕仁であり、日本軍であり、当時の帝国政府であり、そういう人間たちの組織の中で、国家意思が発動しているから起きたということがだんだんわかってきたんです。それが追求の大きな柱になった。ただ、調べるのは本当に大変でした。なにしろ証拠がほとんどないんですから。

アメリカが使った大量殺戮兵器によって被害を受けた国が、なぜ敵軍であるその米軍の目の前で被害調査ができるのか、というのが一つ。どうしても解明したいと思って調べましたけど、ほぼわかったことは、昭和天皇裕仁、総理大臣、参謀総長とか、そういう人間たちが米占領のために原爆調査をやれということを言葉として残した資料は何一つない、ということでした。でも、意思決定の言葉はなくても、東京帝国大学などの科学者が動いている様子や、彼らの報告書はわかっているわけです。頭隠して尻隠さずです。だから、国家意思を発動するとき、政府は一番重要な事実は記録文書に残さないということを学んだ。一番大事なことを決めた時は記録に残さない。でも決めたんだから具体的な行動には移すわけですよね。意思決定をしている以上なにか記録があってよいはずですが。原爆調査であの膨大な科学者や政府機関を動かす以上、何らかの国家の意思決定があったのは明らかなんですが、それが(資料として)ないということは問題の特徴であるし、これはおそらく原子力時代の特徴であるかもしれないと思っています。

──原爆調査の歴史研究自体が問いとして封印されてきたところがあり、検証しようにも資料として証拠立てていけない。二重の意味で難しいですよね。そこで、笹本さんが本をまとめられたのが1995年。それに至るまでの研究をもとにお話しいただきたいのですが、まず、原爆の日米の合同調査とはどういうものであったのか、そして、どういう展開をみせたのでしょうか。

アメリカによる原爆投下は第二次世界大戦の最終段階ですが、まだ戦争中だったという点が大事なポイントです。原爆被害の問題を見るとき、必ずそこがあいまいになってしまう。被害の話になると、突然ひどい話になるから、戦争が続いていたという観点がなくなる。ところがその当時、東京には政府があり、昭和天皇がいて、アメリカ含めた40数カ国の連合国軍と戦争をしていたわけですよね、日本は。だから、新兵器に関して当然攻撃された側の日本軍は、どういう兵器か調べるわけです。それが最初の調査で、もちろん日本軍が中心ですが、軍だけでは間に合わないので、京都帝国大学や大阪帝国大学の物理学者、当時の理化学研究所の仁科芳雄らを動員して調査を補強するわけです。それは一応、米占領軍が来るまでの戦時調査、純粋な戦時における軍事調査、兵器効果調査です。

それから、1945年8月15日というのは僕にとってあまり意味のある日ではないけど、それが敗戦の日なのであれば、そこで軍事調査は終わっていいんです。8月15日、大元帥である昭和天皇は戦争が終わったという詔書を出し、8月20日には日本軍に復員命令を出した。それは兵士が市民になれるということですね。その復員命令が出たということは、軍隊の活動は全部終わっていいということです。日本軍の原爆調査も、やめていいんです、本来なら。ところが不思議なことに、日本の調査報告書を見ていると原爆調査を継続している。そこでまた、なぜか?という問題が起こるわけですよ。

日本はポツダム宣言を受け入れたのだから、占領軍が進駐してくることもわかっているわけです。連合国軍(マッカーサーが連合国最高司令官と米太平洋陸軍総司令官を兼務)の中核は米軍で、原爆を作って投下した軍隊ですよね。それがわかってて、なぜ、その軍隊が使った大量殺戮兵器である原爆の効果を、被害を受けた国家が調べ続けようとしたか。これは戦争を考える時の一つのキーポイントです。こういうことは普通は絶対ありえない。たとえば日本軍が中国を侵略したときの南京大虐殺、この現場を日本軍の目の前で中国軍が調べられますか? これは絶対にありえません。もしもそういうそぶりを見せたら、日本軍は中国軍の調査の動きを武力で止めますよね。この日本軍を米軍に置き換えればいい。そんなことは日本側は百も承知なわけですが、でも原爆調査のときには、なぜ日本側はその常識を無視したのか。そこにはすでに、敵軍のマッカーサー軍と協力するという含みがあったんですよ。つまり、マッカーサーに対して「新兵器を使ったでしょ、効果を知りたいでしょ。一番知りたいのは人間に対して原爆がどういう効果があるかを知りたいでしょ。わかりました、私たちが調べます」ということです。だから米占領軍が来るのを待って、日本側が調査継続していったということです。これが一つのポイントです。

そこにはおそらく日本陸海軍の大元帥である昭和天皇裕仁の意思がかかっていると思うんだ。それは見えない。資料がないから。もっと大事な日は1945年9月2日、つまり降伏文書へ調印の日です。これは公式の敗戦の日です。沖縄は違いますが。これから連合国軍が日本を占領し、その占領は講和条約締結まで続く。連合国最高司令官マッカーサーが天皇の上に位置することになったわけです。では、原爆調査はというと、それまで日本軍あるいは日本帝国政府の意思としては、原爆調査に協力すると決めてありますから、その証を示さなきゃいけない。その事に関して僕が見つけた資料は、米軍の原爆調査報告書にあったわずか2行の文です。降伏調印の翌日、その記録には、日本政府代表者が横浜のマッカーサー司令部に原爆被害報告書を提出したということが書かれてありました。その後、僕は日本側が提出した報告書がGHQで英訳されてファイルされてあることを知り、その英文報告書を見つけました。8月13日付と8月15日付の報告書が2本あるんですが、今のところ、それが唯一僕の仮説を証明する文書です。

9月2日にマッカーサーは、日本占領にあたって「軍票」(日本の貨幣は通用できなくなる)を使うと脅かしたのですが、これは日本政府をなくして米軍が直接支配するという意味です。日本軍も中国侵略時に軍票を使ったわけですが、それを米軍がしようとした。日本政府はびっくりして、9月2日の夜中に当時の外務大臣重光葵が横浜のマッカーサー司令部に行く。9月3日の明け方でしょう。同じ時にマッカーサー司令部に日本政府代表者が原爆調査の報告書を提出している。ただしその経緯については、日本側の記録がまったくない。

──日本側の原爆調査報告書をアメリカに提出したことと、アメリカが軍票を使おうとしたこととのかけひきがあった、という仮説は成り立つのでしょうか?

成り立ちます、具体的に。僕の全くの仮説ですけど、日本政府代表者というのは重光葵外務大臣じゃないとおかしいと思います。重光は軍票問題で米軍の参謀総長とやりあってるわけですよ。だから原爆調査の報告書を出すことは、恭順の意を示すことですよ。それは外務大臣クラスの人物でなければ効果は薄い。それだけ重要な記録なんです。米軍にとって報告書の中身は二の次です、これから日本を占領して米軍はいくらでも調べられるのだから。問題は日本政府代表者がなぜこの時に米占領軍に出したか、ということです。

その報告書は僕がGHQのファイルから見つけたんだけど、最近、アメリカにあるマッカーサー記念館のファイルの中で日本政府代表者が提出した同じ英訳報告書があることを発見しました。そのファイルのタイトルはAtomic Bombで、日本側のこの報告書のみがファイルされています。僕が本(『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』)を書いてから10年経ってこのことがわかったのです。マッカーサーは報告書の意味をわかっていたと思います。敗戦国の責任者がなぜ自分のところへ原爆被害調査報告書を出してきたのかという意味を。

マッカーサーとしても「はい、ありがとうございました」とは言えない。あれだけ大量殺戮しておいて、殺戮された側から「はい、どうぞ。自分たちが調べました」と言って調査資料をもらって、占領支配の正統性が生まれるわけはありません。本来ならマッカーサーは受け取ることを拒否すべきですよ、「調査はこっちがするべきことだ」と。でもマッカーサーは拒否しなかった。資料が欲しいから。それが第2の話になります。

それから何が起こったか。日本政府は学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会を、9月14日に設置します。これはすごい組織で、当時の自然科学系分野を全部網羅した組織です。物理学・化学・地学、生物学、機械・金属材料、電力・通信、土木・建築、医学、農学・水産学、林学、獣医学・畜産学の9つの分科会を作り、協力官庁は内務省、情報局、日本陸海軍省、司法省、農林省、厚生省、その他、つまり当時の大日本帝国が総力をあげて作った調査委員会です。これが新しい展開です。そして、マッカーサーはこの大調査を容認した。それが新しい始まりです。

──その大調査団は人数的にはどのくらいの規模で、予算的にはどのくらいの規模だったのですか。

都築正男が1954年のビキニ事件の直前に書いた文章で、9分科会の予算が300万円と言っています。僕が知っているのはこれだけ。他は個別に、九州帝大医学部で使ったのが60万円など、部分的にわかるのはありますが…。都築正男は医学科会の科会長ですが、これも少々おかしな話です。というのも、東京帝国大学医学部長には田宮猛雄という人間がいて、都築は外科の教室主任だった。本来なら組織的には医学部長の田宮猛雄が医学科会長になるべきなのでしょうが、なぜ外科教室主任でしかなかった都築かというと、当時都築は海軍軍医中将だったからかもしれません。軍医中将という位は軍医としては最高の地位でした。だから原爆被害というのは彼から見れば「人体に対する兵器の効果」であり、その効果の調査なんです。人体に対する兵器の効果・被害は、当時の日本軍の用語では「戦傷」と言いますが、この戦傷の研究は軍医の任務でしたから、当然軍医中将であった都築は戦傷研究をしていた。田宮は行政上は医学部長でも、軍医ではなかったんですね。

──その都築の記録の中に予算の記録が……。

都築は「300万円」と明らかにしています。僕はその記録しか見ていないから…。それにしてもこれは大変な金額ですね。調査に関わった人間の人数は正確にはわからないけど、9分科会のうち医学科会が最も多く、助手を入れて1,400人と言われています。他の科会は正確にはわかりませんが、それにしても相当な数ですね。

『軍縮地球市民』第2号(2005年夏)にも書きましたが、2004年に東京大学総合研究博物館で開かれた特別展示「『石の記憶-ヒロシマ・ナガサキ』被爆試料に注がれた科学者の目」を訪れたときに出会った資料がたくさんありました。渡辺武男は当時東京帝国大学地質学教室教授で、学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の物理学・化学・地学科会の委員の一人でした。資料の一つに、1945年9月14日付で文部省が渡辺武男に対して発行した「身分証」がありました。それには渡辺を「特別委員会ノ調査員タルコトヲ證ス」とあるのです。僕が初めて目にする文書でした。それを見て改めて、当時の大日本帝国政府は本気で原爆調査をしようと思ったんだということを本当に実感しました。マッカーサーという敵軍の最高司令官がいて、その目の前で文部省がぬけぬけと身分証明書発行しているんですよ。「はい、どうぞ。広島、長崎に入ってください」ってね。そのことが何を意味するのか。

その身分証明書の現物を見てもう一つ思ったのは、何十人と委員がいたわけですが、僕は、他の委員の身分証を見たことがないんです。僕が見たのは渡辺武男のものだけ。彼のところにあったということは他の委員にも発行されていたはずです。このような重要な資料がこれまでまったく公開されてこなかったところにも、原爆調査をめぐる深い闇の部分を感じます。

また、非常に重要なことですが、マッカーサーがいつこの原子爆弾災害調査特別委員会の結成を知り、結成を容認したかを知りたい。でもそれに関してマッカーサー側の記録もない。一番大事な情報は為政者同士ですっと消しちゃうということでしょう。マッカーサーが容認したことははっきりしている。さっきも言ったように、戦勝国による占領統治の常識で言えば、勝者が負けた側にそんな新兵器の効果調査を許すなんてありえないんです、どんな戦争であっても。

それを問題にしなかった、今まで日本で語られてきたヒロシマ・ナガサキの思想って何だ、ということにもなるわけです。最初から丸ごと相手に全てを売り払っておいて、そのことは黙ってきたんですよ。これをどう理解したらいいか……。10年経っても今もってなかなかうまく言葉に出てこない。

──その大調査団に属した科学者たちは、自分が受けた命令がどこから発せられ、どういう役割をふられ、結果的にどういう目的で使われる調査であるかということを、どの程度認識していたんでしょうか。また、それを記録として残している人は本当に皆無なんでしょうか。

それは僕が今頭を悩ませている問題でもあります。ほとんど手がかりがないから。でも文部省の管轄下に学術研究会議がある以上、命令は当然、文部省から出ていたはずです。その証拠は先の身分証明書です。渡辺武男が残した資料の中には予算書もありました。予算支出項目は科研費です。渡辺武男の科研費も何万円かわかります。でも記録はそこまでなんです。他の委員の科研費の予算はわからない。

個々の科学者の問題でいうと、科学者にとって非常に重要な問題だから、僕は慎重に考えています。つまり科学者の責任に関わってくるから……命令がはっきりしないと責任がとれないから。でも命令がはっきりしません。もう一ついうと、組織上、当時の文部省の中でこういう調査を扱っている部局は科学教育局で、初代の局長は山崎匡輔。そこまではわかっています。二代目の局長は茅誠司、それもわかっているけど、具体的に茅が何をしたとか、山崎がどうしたとか、そういう資料はないんです。山崎匡輔文書は昔の国立教育研究所、今の国立教育政策研究所に入っているけど、今言うような資料はない。山崎の上の地位にもまだ人はいるでしょう。でもそれもわからない。しかも当時の帝国政府の官僚組織で言うと内務省や陸海軍省などがあるわけだから、そっちが出てこないと話にならない。つまり陸海軍と話した上でやっているんだから。でも陸海軍の記録はない。ここでも「頭隠して尻隠さず」。

科学者がどこまで認識していたかということは、僕にとって一番つらい部分ですよ。彼らは、自分たちがこれだけ屈辱的な──あえて倫理的な話なのであえてそう言いますが──敵が原爆で同胞をあれだけ殺した、その中に外国人もいましたが、その現場に調査に入ることが何を意味するのか、百も承知だったと思います。でもそれをその後、科学者たちは何も言わないということが大問題です。

彼ら第一線の科学者が、マッカーサーのために行う調査の意味をわからないはずがない。どんな屈辱を感じたか。そのことをなんで言わないか。人間として、個人として、そういう屈辱感を言えないよう縛られてきたのは、それが国家の命令だからです。そのことを逆証明しているのが報告書に関わる問題なんです。科学者たちは自分たちが調べた報告をまず日本語原稿にし、それをタイプして英文原稿にする。その英文原稿はマッカーサー(GHQ)に提出します。報告書を英文にして日本語と同時に提出するよう命令されていたから、彼らはそれを忠実に行った。渡辺武男のあるお弟子さんが特別展示のシンポジウムの時に証言しましたけど、「私は渡辺先生と公私にわたりつきあったけれども、私が先生の研究室に入るときに唯一先輩たちに言われたのは、絶対に先生に原爆調査の話を聞いてはいけないということでした。だから私は生涯先生と親しかったけれども、原爆調査のことは一回も聞いたことはない」。つまり渡辺さんは沈黙した、この調査に関して。この沈黙の意味を僕は考えます。

この沈黙は渡辺武男の屈辱感の表現だと僕は理解します。何百人何千人といた科学者は何一つ言わない。仁科芳雄も黙っている。これだけの大調査団が動いているわけですよね、その中の誰一人として、マッカーサーに報告書は渡さないといった反乱的行為を一切起こしていない。不思議なことですよ。なぜかと言えば、それは自分たち科学者の位置をわかっているから。それまでの中国侵略、朝鮮半島などの植民地支配に対して自分たちがどういう位置にいたかを、百も承知だから。マッカーサーへの協力はその裏返しでしょう。そう僕は認識しています。

でもみんな黙っているんだったら、僕のように後からきた人間はその歴史に入り込めないわけよ。自分たちの報告書をマッカーサーに渡せるかといって、死に物狂いで抵抗しようとした人がどうして一人もいなかったのか……。ちなみにマッカーサーからは、英文の報告書を1部作り、日本語を5部作るように命令が入っている。その命令に対してみな実に忠実に従っている。それで英文の報告書はGHQのファイルに残っているのです。180本以上も。見事なまでです。この荒廃というのはひどいな。しかもそれに対して、当時最高の知性を持った人たちが、今もって口をつぐんでいる。

──引き合いに出して、ご本人はつらいかもしれませんが、加藤周一さんが『羊の歌』で──当時は東大の血液学教室の助手だったかな──その記述が少し出てきますね。命令を受け、派遣されていった、調査の中で没頭する日々があったという記述が2ページくらいにわたって出てきたと思いますけれども、それだけ読んでも、原爆調査が誰が何を意図して行なったのかについては触れないままで、その時の印象しか語られていませんね。それでもその記述はきわめて例外的な、本当に稀な例だと思いますが、きっと彼のような立場の人は膨大にいて、今おっしゃったように、本当はわかっていた、わかっているが故に口をつぐんでいる、という構造がずっと続いているのだと思うんです。

僕は本で加藤周一さんのことを書いていますから、僕の本が出た後、おそらく何人もの人が加藤さんに接触を試みているでしょう、加藤さんは会うことを全部拒否しているはずだけどね。あまり個人のことは言いたくないんですけど、せめて加藤さんしかいないんですね、原爆調査に従事した人でああいう風に語っている人は。今年の3月10日の朝日新聞夕刊の連載「夕陽妄言」で加藤さんが、いわゆる米軍の東京大空襲のときの随筆で、当時を回想していた。その記事を強烈に覚えているんですが、加藤さんは医者として書くんですね。当時米軍の空襲で戦災者が傷つけられて来ると、私は医者だから治すために治療するんだと書いているわけですが、突然8月6日の話になり、加藤さんは調査と観察のために広島に入ったと書いていた。治療のために入ったとは書かないんですよ。彼には僕の本を送っているから、読んでいると思うんですよ。それでなおかつ、調査と観察のために行ったと書くんです。

国から命令されたとなぜ書けないのか。なぜそこまであなたを国が縛るのですか、と僕は言いたいです。加藤さんでもそうなんです。これが原爆調査問題の底深さです。そこには個人がいなかった。個人の自由がなかった。ならばそれを認めなさいよ、もう。思想の自由も学問の自由もなかったんだから、あなたは一つの部品として動いたんでしょう、と。でも部品ではなく人間なんだから、もう声をあげて下さい……。僕の加藤さんへの思いはこういうことです。

だから僕は原爆調査に関わった人間の名簿を作って本に入れた。あれは報告書を元にして作った名簿です。実際に参加した人間はあの数倍いますよ、あるいは数十倍はいますよ。延べにすれば何万人ですよ。現地の陸海軍の兵士なんて入っていないからね、看護婦さんとか全部入ったら……。

繰り返しになりますが、原爆被害国日本がなぜ、ここまで敵国アメリカ、原爆投下国アメリカに対して国家をあげて調査協力したかという問題は、60年経っても70年経っても語り継がなきゃいけない問題ですよ。それまで日本帝国が行った全ての植民地支配、中国などへの海外侵略の総仕上げなんですよ、これは。その歴史があるから、この原爆調査を日本側は本気でやったんですよ。

あの原爆被害者の姿を見ていたら、敵が使うのをわかっていて報告書を作って、果たして敵軍に渡せるものなのか。米軍が来て、報告書を出せと言われたが、渡さなかったので米占領軍の軍事裁判にかけられた人間がいたといったような話が一つでもあれば、僕はこんな本は書かないですよ。でもそうした日本側の抵抗は本当に皆無なんです。

*中川保雄「広島・長崎の原爆放射線影響研究ー急性死・急性障害の過小評価ー」 『科学史研究』第Ⅱ期 第25巻(No.157)、86年春。

【「下」に続く】

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