インタビューシリーズ「市民の科学をひらく」(4)松原洋子さん

投稿者: | 2005年10月1日

2005年7月11日、市民科学研究室にて
聞き手:上田昌文(当NPO代表)

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松原洋子さん(立命館大学先端総合学術研究科教授)
1958年生まれ お茶の水女子大学大学院人間文化研究科助手を経て、現職。著書に『優生学と人間社会』(共著、講談社現代新書)、『生命の臨界─争点としての生命』(共著、人文書院)ほか。 専攻は生物学史、医学史。

上田:──松原さんのお仕事は、歴史を深く掘り下げることで生命操作技術がもたらす現実の問題を見ようという視点が明確で、私たち市民の側から見て、何をどう市民の意思として社会が扱っていくべきなのかという問いに何らかの答えを示唆してくれるように感じます。ともあれ、まずは個人史的なお話から伺いますが、生物学といっても実験生物学ではなく、社会的な研究に取り組むことになったきっかけは何でしょう?

松原:優生学史に取り組むことになったのは、もともと生物科学と社会の関係に関心があったからです。それは高校の時からで、きっかけは生物の授業ですね。まず、その先生の語り口が好きでした。自然科学の授業は「現時点ではこういうことが正しい」ということをまるで未来永劫変わらない事実のように語るのが普通ですが、その先生は「こういうことだったらしいわよ」とか「こういう風に考えたんですって」という言い方をされた。これには「当面こうだけど今後違ってくるかもしれない」とか、「科学的知識というのは作られていくものだ」という印象を持って新鮮でした。そういった、押しつけがましくない、ある種の社会的な客観性を知識に持ち込む語り方に興味があったのでしょうね。また1972年から、高校の生物の教科書にオペロン説をはじめとする分子生物学が一気に入りましたよね。生物という教科は、生化学もあり形態学もあり、方法論的にばらばらなので科学的な一貫性が感じられない、そういう印象を持っていましたが、分子生物学には一貫性が感じられた。こんなにクリアカットに生物の基本的な部分が説明できるのか、という感動がありました。

同時にその頃、遺伝子組換えや体外受精といった新しい生命科学技術と社会の間に問題が生じていて、それが非常に本質的な文明論的問題であることが提示され始めていました。渡辺格さんの『人間の終焉』(朝日出版、1976年)をはじめ、DNAに関する本がいくつか出て、生物の先生が授業で取り上げて下さったのです。このトピックに大変ひきつけられました。そこで大学では、こうした問題について何か勉強したいと思ったのですが、まだSTSという言葉もなく科学史も一般には知られていなかったから、どうやって勉強したらいいかわからず、とりあえず筑波大学の生物学類に進みました。でも最初から実験科学者になる気はなくて、中村桂子さんのような科学と社会をつなぐ仕事がしたいと思っていました。筑波大学に入った当初からそうした考えは持っていたものの、普通の理学部系の専攻ですから、何から手をつけていいかわからない。ところが私の話を聞いたある先生が、「中村禎里先生に手紙を書くように」とおっしゃった。その先生がいなければ科学史は思いつきませんでしたね。さっそく手紙を送ったら、中村先生はすぐ返事を下さって、生物学史分科会に連れて行ってくださいました。当時東工大で開かれていた月例会には、米本昌平、河本英夫、横山輝雄、鬼頭秀一といった現在活躍されている方々が、学生や研究員として参加されていました。私は大学3年生の頃から参加したので、早かった方ですね。

──生物の科学史だと「ダーウィンがどう」といった話になりがちですが、社会史にはいろんな切り口があります。生物学史分科会はどのように取り組んだのですか?

生物学史分科会は生物学の学問史が中心でした。当時、米本さんは進化論史や生気論史、河本さんは19世紀の生命論史を、中村先生も遺伝学史を研究していました。今でこそ生物学史分科会では、社会との接点に関しての発表が多くなっていますが――生物学史分科会は民科の生物部会から分派してできたようなところなので、もともと社会への関心の高い人たちの集まりですが――基本的にはオーソドックスな生物学史の研究会でした。私もすぐに今で言うSTSみたいなことをしようと考えたわけではなく、とりあえず生物学史の王道である進化論史を勉強しようと思いました。でも筑波大学の生物では科学史で卒業研究する人なんていません。どうしようかと思って狙いをつけた先生が、カブトガニの研究で有名な関口晃一先生でした。関口先生はカブトガニをあらゆる面から研究していて、先生自身も博物学的なバックグラウンドがあって、学問的にもお人柄でも包容力がありそうだし、この先生ならやれそうだと相談しに行ったんです。私が「卒論を進化論史で書きたいんです」と言ったら、それは無理だけどカブトガニの歴史ならやってもいいと言われ、どうしても生物学史で卒論を書きたかったから「やります」と言って、先生が集めていた本草学のカブトガニの資料を読んで…。だからデビュー論文は「江戸時代の博物学的文献におけるカブトガニ」なんです。

──優生学の鈴木善次先生との出会いは。

鈴木先生は生物学史分科会のコアメンバーでした。私は筑波大学を卒業してから東大の科学史科学哲学に入り、村上陽一郎先生が指導教官になりましたが、生物学史プロパーの論文は、ほとんど全部、院生研究会で勉強しました。私の場合、進化論史と社会の関係に関心があったので、テーマは「社会ダーウィニズム」かな、ということで、当時社会ダーウィニズムについて唯一研究していた米本さんに、教えを乞いました。読書会や勉強会を通して米本さんに文献のこととか、モノの見方を教えてもらったり…。実質的な師匠みたいなものです。ただ、社会ダーウィニズムはあまりに茫漠としていてアプローチが難しいので、そのうち優生学史に絞り、鈴木先生とはそこから一緒に仕事をさせてもらいました。

──社会ダーウィニズムであれ優生保護法の問題であれ、本当に現実の問題ですよね。そういう現実の問題は自分の中でどう絡み合ってきましたか?

科学史の分野での優生学史研究は、70年代後半くらいから英・米を中心に進んできて、そのアプローチは「科学者の社会的責任」という考え方でした。遺伝学者がどうして優生学と関わったのか、とか。それが80年代半ばくらいまで。ただ、何かおかしいと思った。そうした切り口はもちろんありうるのですが、現場の優生学というのは性の問題です。子供を産む/産まない、結婚していい/してはいけない、っていう話です。だから、ジェンダーやセクシャリティーという科学とは全く異質の話が現実には決定的なのに、当時の科学史には登場しなかった。「眼からうろこ」だったのがフーコーの『知への意志』です。あれでバイオポリティクスとしての優生学や優生思想が提示され、性・ジェンダー・家族などが決定的なファクターだということがわかった。「そうそう、優生学の本丸はここなのよ」と。科学史では、遺伝決定論批判とか良い科学/悪い科学とか「科学者の社会的責任」だけで掬っていて、生殖をめぐるポリティクスとしての優生学の現場が脱色されていた。でも80年代以降、科学史の中にカルチュラル・スタディーズのアプローチがだいぶ入ってくると、ボディポリティクス、バイオポリティクスとしての優生学が正面から問題化されるようになりました。80年代後半からフーコー・アプローチは日本でも注目されて、衛生学や性の問題を含めて論文がたくさん出てきましたが、その時私は、フーコー的アプローチは非常に魅力的で重要だけれども、今の日本の研究状況の中でそのアプローチで優生学の問題を提示されると非常にまずい、つまり事実関係や歴史的状況がほとんど知られていないで状態で「言説分析」でいくのはまずい、と思いました。アメリカの場合すごい蓄積があるわけです、実証的な歴史研究としての優生学史の蓄積が。その上で、それをずらす、脱構築するというフーコー的、ポストモダン的なアプローチが出てきて、両方があるからいいのです。日本の場合は前者がほとんどなかったから、私はとにかく愚直に前者をやろうと思ったのです。

ただ、戦中期の問題は日本史の研究者がたくさん仕事をしていて、日本史のプロの世界に割り込むのはちょっと無理かなと思って、明治期とか大正期の優生思想のあたりをうろうろしていました。明確なきっかけは優生保護法がなくなったときです。「文化国家の優生法」という論考にも書きましたけど、96年に大改正という形で「優生保護法」が「母体保護法」に変わりましたが、その時はなぜそう変えなくちゃいけないのかという検証が政府の責任において一切なされなかった。障害者、フェミニスト、人口政策関係に関心のある人は優生保護法の問題や優生学の歴史について批判し、運動としては優生保護法の廃絶が焦点でした。その中で、優生思想や優生政策の問題性を女性や障害者の運動家たちが語ってきた。それが96年に当時の政変とか厚生省の機構改革とかいう事情もあって、ばたばたと自民党と政府主導で優生保護法は事実上なくなった。これは私にとって強烈な突きつけになりました。つまり、「なくなって良かった」というより、「これで歴史を問う機会がなくなるんじゃないか」と思ったんです。これは臆している場合じゃないと思って、真正面から取り組んでみて、ナチスの断種法や国民優生法、優生保護法などを自分の目で一次文献を洗い直したら、従来言われていることとだいぶ様子が違う。そう思って、一連の仕事をしました。だから学問的な蓄積の上に、というより、法改正という「事件」が大きなきっかけでしたね。

──優生保護法改正は、もっと注目され、問い返されるべき問題であったのに、多くの人は優生保護法の何たるかも知らない間に中身がすりかわった。そういう事態に対して研究者として次に何を見せたいとお考えでしょう?

とにかくまずいと思ったのは、何事もなかったことにされること。優生保護法から母体保護法への改正で一応優生的な文言を全部削除した、行政からすれば、だから文句を言われる筋合いはない、ということになります。でも優生保護法の存在自体が問題だという以前に、それをめぐる人々の苦難の歴史、苦難があるのに見えなかった歴史があるわけです。それで、当事者たちをはじめ、問題をひしひしと感じとった女性や障害者たちはずっと主張し、運動もしてきた。なぜそうする必要があったかというと、やはり闇に葬られた人々の経験というものがあるわけですよね。私は優生学の歴史を見ていく中でそれが確実にあるとわかっていたし、制度を変えることで「見えなかったもの」が「最初からなかったものだ」という風に塗り替えられるのは許し難いことじゃないかと思った。それは義憤のようなもので、研究者としての行動とはちょっと次元が違いました。ある意味で、自分が直接突きつけられている事件として強烈な印象を持って、このときは、私も理屈を超えた感じで、臆病さが一気に抜けて飛び込んだという感じです。

──研究者は普通、客観的なアプローチということで運動に飛び込まないスタンスをむしろ大事にしますよね。一方で問題を抱えた当事者がいて、自分の声が社会に届かないこと悩む。研究者はその両方が見える存在だと思えるわけです。松原さんの場合、歴史を客観的に突き放すスタンスも見据えつつ、でも状況が見えるからこそ当事者との関わりで歴史研究のアプローチをしていくという内的動機づけを感じます。歴史を深く掘り下げることで現実を自分なりに捉え返し、当事者でなくともやれることがある。そういう関係性は大事だと思っていて…。

私も最初から歴史をやろうと思ったわけではないし、そんなに面白いと思っていたわけではないんです。ただ、自然科学をメタ的に研究する上で、哲学ではなく歴史というのはどこかで現実的な担保があると思える気がして…。それも構築されたものといえばそうなんだけど。でも歴史的な経験による反証に私は信頼を置いているところがある。でも今学生ならば、たぶん最初からSTSに飛び込んでいますよね、明らかに。もともとは、現実はどうなのか、この技術は将来どうなのか、ということに一番関心がありましたから。でも、それと科学史という方法が出会ったのが、優生学の問題かなと思うんです。今思えば、偶然出会った歴史的なアプローチによって、科学をめぐる現実をちょっと違う視点で見ることができるようになったかな。優生学は、科学は絡むけど科学だけでは割り切れないんです。病気、最初から障害を抱えている、そういう人たちが生きる、それをどう現実化できるのかという問いは、科学的という以外の目線がないと無理です。アポリアですよ、優生の問題は。

──アポリアとおっしゃったけど、技術の力で変えていける、その対象として人間を扱うという大きな流れがありますよね。それに対して、歴史を見ることでどう問題設定するか、もう少し今日の技術に関わらせてお話しして下さい。

例えば、産まれた赤ちゃんが難聴だとわかると療育システムに入るんですけど、それはまず手話を導入するのではなく、いかに聴者に近づけるようにするかというシステムです。普通学級に進み、大学まで卒業した難聴の子の中には、われわれが考えていた以上に孤独で、不自由な思いをしてきたケースが少なくないということが最近わかってきました。たとえば対面の会話では理解できても、ゼミなどであちらこちらから声がとんでくるような議論になると聞き取ることができない。授業も、内容が高度になる高校くらいになると音声から類推して内容を理解するのは難しくなるので、テキストを読んで自分で勉強するんです。普通学級で通して大学進学までした子は、難聴療育の専門家からみると成功例だけれども、実はたいへんがんばってきた子どもたち自身は、親や先生に困難を理解してもらえずとても孤独に過ごしてきたということがあったのです。彼らは後に手話を使う難聴者やろうあの人と会って、あ、こういう世界があったのか、と。彼らは手話教育を受ける機会もなく、他方、音声言語も母語にし切れず…。もちろん、その子の性格や障害の程度も関わるので一概には言えませんが、成功例と見なされてきた子どもがそういうことを語り始めた。

「聞こえない」ことは医学的問題としては「音声言語が聞こえない」ことなので、音声言語の可能性をとことん探る。文科省が学校教育で認めている公式言語は日本語であって、手話は補助的な扱いです。かつては聾学校で手話を使うと、しかられたそうです。一般にわれわれが手話として認識しているものは、「日本語対応手話(シムコム)」と呼ばれるもので、日本語を視覚化したものですが、ろうあの人たちの間で独自に受け継がれてきた「日本手話」は、日本語とはとは全く別の言語体系を持つ外国語のようなものです。日本手話の導入は、従来の療育システムではまったく眼中になかった。最近ようやくフリースクールのような形で、バイリンガル教育が試みられるようになりましたが。

こうした療育システムの背景には医学の体系があって、医学的対応をとことん追求すると人工内耳手術などになっていきます。もっとも私は、そういういわば「サイボーグ化」を否定するつもりはありません。特に「自然な身体」とはなにか、について再考させられたのはALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちを知ってからです。ALSの人たちは、病状が重くなると意識感覚はあっても一切アウトプットできなくなったり、人工呼吸器をつけなくてはならなくなったりします。なかには、そのような状態で生きたくない、あるいは無理に生かすべきではない、という意見もあります。たしかに、本人にとっても患者にとっても、過酷な毎日から逃れたいという気持ちはわかります。でも、病人の方や家族のそれぞれの暮らし方をみたとき、機械につながれて生きることも、その人らしい暮らしのひとこまとして、人生になじませることもできるのだと知りました。近代医学はわれわれの身の丈の知識を越えた部分がありますが、これを全否定すると今の生活は成立しない。われわれは「自然に」生きているつもりでも、身の丈を超えた技術に生かされている部分もあるわけです。技術との関係のなかで、「これは人間らしくない」と直感する局面が出てくるのですが、よく考えてみるとその基準はかなり恣意的なところがあります。管で栄養を摂っている人や人工呼吸器をつけている人を「人間として不自然だ」と言うのは、不遜だと思います。

やみくもにチューブをつけるから問題があるんです。最近の注目されている栄養ケアでは、ゼリーなどでうまく口から摂れるように工夫すれば、経管栄養に頼らなくても済むことがあるそうです。そうした工夫があまりにも疎かにされてきた。これは高度な生物医療の問題ではなく、きめ細かく体と話をして対応する医学、医療ですね。こうした方法で管に繋がれる人を減らすことと、この方法が合わなくなった人が「サイボーグ化」して生きるということは、両立するはずです。医療費を削減するために、医療コストを減らそうとするときに、現状を前提としてコストのかかる人を排除するのではなく、身体状況に応じて適切な医療技術を享受できるように、仕組みをかえることによって、コストの問題を回避する余地があるのではないでしょうか。早く死んだ方がいい、あるいは産まれない方がいい、という判断を医療コストを理由に行う前に、医療の既得権保持や体制維持のために生じている無駄から、本来は解消していかなくてはならないと思います。

自然とはなにか、人間らしいとは何かを、きちんと考えないといけない。同性の人同士が、婚姻を法的に認めて欲しいと求めている例も同じです。生活を長い間共有して支えあえられる制度としての婚姻を求めているのに、それは「不自然」と思われている。異性愛を前提に婚姻を認める、という事自体は「自然」ではなく、歴史的な産物であり、それが近代国家、国民国家と資本主義を支えてきた。そういうシステムがつくった規範によってはじかれた人たちが、自分なりのまっとうな生活を求め、主張しているわけですよね。今でもその主張を「不自然だ」と思っている人はたくさんいるでしょうが、でも彼ら彼女らがあきらめるのが当たり前とは思えない。例えば同性カップルが生殖技術によって子どもをもつことは生命操作に基づく欲望の肥大と見られてしまうけど、社会システム全体から考えた時、それが即座に「異常だ、不自然だ、人間らしさを超えている」と言えるのか。

たしかに、医療モデルの暴力には、抵抗していかなければいけない。でもだからといって、今の生物医学とか生命技術が、われわれの倫理観に背き、コミュニティーを破壊するのではないかと直感されるとき、その直感はもしかしたら倫理という名の偏見に支えられているかもしれない。直感的に不自然だとか身の丈を超えると思っても、物質系としての自分を技術と接合することが自分にとって意味があると思えることもある。例えば遺伝子治療の臨床研究はリスクも高いし、現状では効果もあまり期待できないけれども、それに賭けてみようという局面はあると思うんです。化学合成薬品にしても医療技術にしても、「不自然」な異物を身体と交渉させながら生きのびてきたのが現在の私たちです。その過程で、身体が損なわれたり、失われたりもしてきたことも見据えながら、物質系=生き物としての自分と、自然科学や技術との交渉を、私はポジティブに捉え返したい。そうした交渉を正しく評価することが、薬害や医療過誤の防止につながります。最近は医療のケアの側面の必要性が強調されることが多く、それは意味のあることとは思います。しかし、医療の基本は程度の差はあれ、身体を技術の文脈に投入して期待する効果を生み出すことです。

──よく知られている技術として、出生前診断と脳死臓器移植を今の文脈にひきつけて考えたいのですが、前者の場合、障害を持たない子を確保したいという衝動が一方にあり、他方、障害者は自分たちの存在を否定されると恐れています。技術は今後発展していくし、これからも新しい技術が出てくるでしょう。そうなると両極の立場がいつもせめぎあう。障害者からすれば自分たちは少数者だという意識があるから、余計にその問題を指摘していかなければという思いが強いですよね。一方で、そうした技術がビジネスとして成り立つ土台がある。そういう関係性の中で、今松原さんがおっしゃったことをどう落とし込んでいけばいいのでしょう。

私の基本的なスタンスとしては、産まれなくていい、死んでもいい、殺してもかまわないと名指しされてしまう人が生き延びるということと、生物科学技術とをつなげたいんです。それでいえば、出生前診断は生かすために使うものです。しかし、実際には出生前診断は産めない子どもを発見するために使われている。生かすのが難しい、いい人生が送れないとみなされる子どもが苦しまないように、そういう子どもをもった親が苦しまないように、この技術が使われている。出生前診断によって、異常が発見されても、その子が産まれた場合、具体的に病後がどうなるのか、どんな人生を送るのかは実際にはわからない。ダウン症と診断されても、その程度や性質はいろいろで、その胎児が産まれて育ててみないとわからないのです。でも、出生前診断が伝えるのは「ダウン症」ということだけ。中絶してしまえば、診断された胎児が産まれた場合の予後のデータもとれない。

検査の精度は病気によって違うし、検査を受ける人がおかれた家族歴や生活状況によって、検査の持つ意味もかわってくるでしょう。でも、出生前診断、是か非かという以前に、技術の精度として、また生物学的な情報として、実際どの病気についてはどの程度わかるのか、その「わかる」ということはどういうことなのか、基本的なことを知らないといけませんね。産まれてからも、医学的診断はいろいろと行われていくわけですが、生まれおちていれば、医学的情報とは別のファクター――人々の支援や文化による別の解釈など――をとりいれて、なんとか生き延びている、という工夫や挑戦ができるわけです。でも、出生前診断については、それが難しい。ともかく、病名を一人歩きさせずに、出生前診断を「正しく」とりこむことができるのか、考えなくてはならない。

病名の一人歩きは生命倫理の授業でもおこります。生命倫理で有名ないろいろな事例を病名とともに、生徒に語るとき、往々にして予備知識がない生徒には、ある人の苦難が○○病の属性として刻み込まれてしまう。そういう病気と一緒に歩んできた人たちの、病気だけではない日常が社会問題や倫理問題に押しやられて、この問題にはこういう問題があって、こう対処する、といった具合にフローチャート的に受け止められてしまう。

──例えば学校の授業などを通じて整理された情報の構図ができ、それが適用されて、自分はこう選択していけばこうなる、とイメージできたとします。科学技術の恐いところは、それにうまく乗っかるように技術をあてはめていくところにあるという気がします。こういう地点にいるから、これを選べばこうなりますよ、という具合に。誰にとっても自分の肉親の死に立ち会えば、死のイメージや重さが言葉にできないものとして得られるはずですが、それがある類型のようなものに整理されてしまうと、自分の実感とは線引きし、整理されたものとして見ていくところがありますよね。自分の実感や経験、それと、特に科学技術が提供しようとしている選択肢には、どこかズレがある、乖離がある、そのことをもっと見るべきかと思います。

出生前診断について言えば、例えば水頭症が超音波診断でわかりますが、そのリテラシーは医療機関によって大きく違います。小児神経医とか小児外科とかの体制のバックアップがある医療機関とそうでないところでは、データのリテラシーや対応能力は全く違います。一般の臨床検査データについてもそうで、多くの医師は検査会社が出したものをそのまま伝えているだけ、ということも少なくない。検査会社が出してきている「安全域」や「危険域」の数値設定も、会社によって違っていたりする。検査結果をわれわれは額面通り受け取るけど、実は医療者もよくわかっていないところがある。

だから、ある技術について是か非か問う前に、吟味しておくべきことはたくさんあります。最終的にはどこかで判断することになりますが、その前提になる科学技術が現場でいかに展開しているかについての知識が不足しているんですよね。でも医療システムの中では、検査である結果がでたら、次はこれ、という風に流れが決まっている。恐いのは、それが標準になってしまうと、それに乗らない人が悪者になるということです。

今よく言われる「市民参加」も、それが市民のコンセンサスを得たというお墨付きを「標準」に与えるための手段になっているなら大きな問題です。

──そこから出発しなければいけないんですね。

同じ人間の生命にも、いろんな位相があります――若いとき、老いたとき、軽い病気のとき、不治の病にあるとき。老いさらばえ、重い病気になったとき、見捨てられることもあり、それが自然の摂理にかなっているかのように言われることもある。けれど、一方でそういう人たちを見過ごすことがしのびなくて、創意工夫をしていろいろな技術を開発しながら支えるという営みが、医療の核となっている。医療はヒトという自然に人為的に介入して、寿命を延ばしたりするわけですから、「不自然」なものなんです。だから、繰りかえしますが先端医療技術の適用について「不自然」なもの、つまり人間の生き死ににとって自然の摂理に反するものとして排除しようとするとき、その根拠をよく考えないと、医療を必要としている人から医療を奪うことになりかねません。

──そこに微妙な問題があると思うんです。こっち側は自然で、こっち側が不自然と線引きをする場合、社会の多数を占めている方が勝ちだといった考え方があって、松原さんがおっしゃったような生を否定されかねない状況にいる人たちが実は、線引きをする多数派から見れば初めから追いやられている。そもそもいろんな人がいろんな線を引いていいはずなのに、ここに固まったものがどんと出来てしまう。これは市民の問題なんですけど。私たちは自分自身の意思として選択しているようでいても、実は社会の中でなんとなく太く引かれた線に吸い寄せられていく、そういう流れにのってしまっていることを自覚していかないと変わらないと思う。でもそういう自覚はどうしたら生まれるんだろうか…。

私はその点に関しては、人文学に魅力を感じるんです。人文学には、言語化以前の人間の苦悩や問題に言葉を与え、一つの言説として高めていくという側面があります。公認されない、あるいは公認以前の存在すら認知されない人間の行為や文化を、言葉を通して浮き彫りにしていく、同時に公認されたものの虚構性を顕わにしていく、ということをします。本来自然の探求としての自然科学もそういうところがあるはずだと思うんですが、とにかく人文学は、私たちの認知の構造を言葉によって変換して見えないものを見えるようにし、そこに潜む権力関係を明らかにしてきたと思うんです。要するに、合理的な判断とか、公共的な認定の前提を取り払って、言葉になる以前の渾沌とした部分を明らかにする。言葉の権力をもたないマイノリティーが自分を否定してかかるマジョリティーに対して、自己主張して無様な闘いをしながら、やがてマジョリティーにとってはノイズでしかなかった主張を、意味のあるものとして認知させるような言説空間を創出していくこと。人文学にはそうした力がある。上田さんの問いについては、私もまだ直感的にしか答えられないんですけど、どこまで規範をはずして自由にものを見られるか、ということでしょう。すごく端的に言うと。

──そうなんですね。

精神障害者のグループホーム、「べてるの家」が、最近注目されていますが、統合失調症の人たちの「幻聴大会」なんて面白いですよね。病気としんどいつきあいをしながら、「幻聴さんがこう言った、ああ言った」と面白さやへんてこぶりを競い合う。そうしていく中で、「幻聴さん」の語調がソフトになって、つきあいやすくなってくる。「精神病者」について、今までにないカルチャーを患者自身がつくっていて、それを世間にお披露目している。障害者の権利とかいう以前に、その「へんてこ」ぶりに魅せられてしまう。これによって、障害者差別を正当化する言説空間が、すこしゆがめられるというか、そういう対抗の仕方もあるなあ、と思います。そういうことは、現実にはあちこちに転がっているのではないでしょうか。

──そう思いますね。私も「市民」という言葉をたてていますけど、今の話を聞いていて、やっぱりそういう言葉を使うときにある一つの規範みたいに使っちゃいけないなと思って…。今はもうはやらない「庶民」という言い方が、「市民」とどう違うのかと考えると、思うに「庶民」は雑多なものがあって当たり前みたいな世界ですよね。例えば精神障害者も以前は近所にいて、何か事を起こしたらみんな寄り集って解決したり。そういう場面がいつのまにか視野から消えていく、そのことと庶民から市民への変化が何かオーバーラップしているような気がしてなりません。だから「市民」という言葉を出すときに、庶民性みたいなのを脱色しないように持っていかなきゃいけない。それは今おっしゃったような「へんてこ」と結びつくんだろうなと。科学技術の規範的なあり方とか、何か誘導していく力に対抗し得るものは、多分その雑多な庶民性みたいなものが関係していると思えるんですね。

そうですね。「庶民」という語感は、私はあまり好きではないのですけれど、たしかに優等生的な響きがある「市民」よりも、多様な感じがします。人々は公共圏の論理と強調することがあるとしても、そこに収まりきらなくて逸脱していくダイナミクスも常にあるわけです。市民参加の科学技術などというと、どうしても理性的な人間というのが暗黙の前提になると思いますが、そういう人間の中にもへんてこな部分というか、逸脱する部分があるわけです。まあ、それが人間の生き物らしさだと思うのですが。人間は、技術によって支えられて生存しているので、特別な生き物ではあるけれど、それでも死を避けられない存在です。そこに解放感があるんですよね、うまく説明できませんけど。

医学・医療・生物科学、つまり自分の中に入ってきて、生き物としての自分そのものに手を出す科学技術の領域――簡単に言えば生命倫理のテーマとして問題化されやすい領域――は、他の技術とは違う局面がありますね。だから、リスク評価の前提となる価値観も、人間の外側で作用する理工系技術の場合とは違います。理工系技術の場合は標準的な健康状態の人間を想定して、それを損なうことがリスクとなりますが、医療技術の場合、よくみてみるとその標準がはっきりしないのですよね。

──生命の終焉は死ですが、生命を考える時にその死を含みこんでいるか否かで、捉え方がずいぶん変わってくるでしょう。自分は死ぬ存在であり、だからこそ有限性を自覚できて、今あることに対してむしろ積極的に自分なりの独自性をもって挑むことができる。逆に、技術的な力が大きくなればなるほど、死を引き伸ばせ、死がいつの間にか見えなくなってしまうということがありますよね。そういうことと今のお話がどうもすごく関係しているような気がして…。

たしかに、葬式にしてもかつては住んでいる家から出すのが当たり前だったのが、今では葬祭場ですることが都会では多くなって、住んでいる街では目にしなくなりました。そういう意味でも見えなくなっている。ただ、そういう環境で「死を思う」というのが、今上田さんがおっしゃった思い方とは違う可能性があるのではないでしょうか。生き物としての有限性の感覚といったものではなくて、リビングウィルだとか生前葬だとか遺言といったものは、死後に自分の意思を反映させる、自分らしい生を死後に持続させるやり方、つまり自分がコントロールできる生の局面を何とか持続させようというものだと思う。これは「死も勘定に入れる生き方」というのとは違う気がするんです。「死の準備」「デス・エデュケーション」は「いのちの大切さ」を知ることに通じるといいますが、生き物として力尽きるまで生きるというより、「わたしらしい生」を全うするために死に際を設計しているうちに生が空洞化する、ということも起こるのではないでしょうか。「死を思え」は、生の過剰性と共に生きるという命令ではなく、コントロール可能な生の終焉としての死を迎えよ、という命令に聞こえるひとも多いのでは。

でも、思い通りに行かない生命に、可能性を拓く自由も感じるのです。最近、ハンセン病の元患者さんたちのお話を、集中的にうかがう機会がありました。療養所の中では子どもは産むべきではないとして、強制的に不妊手術や中絶をさせられました。でも、ごくわずかではありますが産んだ人もいるんです。例えば、夫婦で脱走して、産んで、子どもは転々としながら育って、大変苦労している人がいる。あるいは育てきれなくて子どもは親類に預け、自分は療養所に帰る。でも、そうやって子どもを産んで、離れて育ったお子さんと行き来ができて、そのお子さんも立派になられてという幸せな例もあります。もちろん、親子共に悲惨ということもあるのですが。

このような例を知って思ったのは、産む方に向かった人の逸脱のパワーです。療養所の中にあっては、子どもは産めないのが当然というなかで、異例の経路をたどって産んだ人がいる。産まれた子は、厳しい運命をたどることが多かったでしょう。早く命をおとした子もいる。でも、いろいろな人々の配慮に守られて、育ち上がった子どもたちもいるのです。脱走して産むというのは無謀なんですけど、それによって別の世界が拓かれる可能性がでてくる。何が起るかわからないけど、予想もつかない果実というのもあるな、と。

──面白いですね、その辺が結論になるかはわからないですが、そういう実感を計画的に与えるのは難しくても、感触みたいなものを伝えていくことは重要な仕事かな。生命倫理の問題に関しても、市民としてどうアプローチするか、心構え的な何かになる気はします。

そうなんです。だから、どれだけ自分というものを信じて面白がるか、ということなのかな、結局は。人生について、高を括らないことです。ハンセン病元患者の方々が、いかに生きのびてきたかを知ると、客観的に考えれば将来に全く展望がもてず、絶望的な状況にあっても、とにかく日々生き続けていく、あるいは突破口を見逃さない、あるいはこじ開ける人たちが、思いもよらない明るい場所に出られたことがわかる。「逸脱」も重要ですね、変な言い方ですが。基本的にはよき市民として生きている人も、危機になると枠には収まりきらない自分がいるという発見をするはずなんです。究極の苦労をしてきた人を見ると、どこか破天荒で楽観的な生命力を感じることがあります。飛躍するようですが、科学の面白さも、世界はこのようなものだと高を括っていられなくするところにあると思うんですよ。

──科学の魅力はみんな本当にそこに感じていると思うんですよ。だから、最後におっしゃった生命力というのが本当は科学者に必要なんじゃないかと思います。

そうなんですよね。

──逸脱とか。でも社会的に話題になるトピックにポッとスポットが当たったときは、実は科学って逸脱なんだなと、つまりはちゃめちゃな研究をやってるじゃないかと。そういうのは一瞬話題になるけれども、でも普段ずっと進めている研究はベルトコンベア式で、逸脱性がなくて。

科学者共同体に従順でなくてはいけないという。

──そういう構造があるけれども、逆に言うと、科学者以外の市民の文化も変わらないと科学者も変わらないという…。

だから結局、科学研究に説明責任を求めると言いますが、社会に説明できる程度の科学はきっと野心的な科学者にとってはつまらないものでしょう。「科学者の責任」というものも確かに重要は重要です、科学研究は社会的な活動になっているから。科学の暴力性、危険性は確かにありますが、一方で科学はすばらしい文化でもありますよね。装置と理論でもって、もって生まれた五感を超越し、物質世界を知覚し記述することができる。科学が社会に向けて自らを語るとき、有用性や安全への配慮が強調されるわけですが、それとは別にユニークな文化としての科学の面白さがあって、相撲に谷町(タニマチ)がいるように、日常とは違う世界を切り拓く科学の突飛さと緻密さの同居の不思議、オタク世界の強烈な魅力を支えるというカルチャーがあってよいと思います。これは啓蒙とはまったく別のアプローチです。「市民と科学」と言ったとき、そういうところが希薄になっている気もしますけど…。

──例えばNHKの「ようこそ先輩」という番組に一流の科学者が出て、語るんですが、相手が小学生なので、とてもこんな難しい分野は伝わらないんじゃないかと思っていても、実際には伝わるんですね。そうさせるのは、その人が発する奇人変人的のオーラの部分なんですよ。

「こいつはちょっと違うぞ」というね。

──そう、やっぱりあるんですよね、極めた人にはそういうものが。それは言葉を飛び越えて人間的に共感できる何かを発散し合ってるのかなって。

何者だ、こいつは、みたいなおもしろさ。言葉のセンスが際だっている人は別として、一般に科学者が、彼らが考える普通の人に歩み寄ってわかりやすく話そうとすると、きっと彼らがやっている仕事とは似てもにつかない凡庸な表現になってしまうのだと思います。一流の芸術家の生演奏が、誰にも感動を与えるように、科学も伝わるといいですね。

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