インタビューシリーズ「市民の科学をひらく」(6)矢間秀次郎さん

投稿者: | 2006年1月29日

インタビューに先立って

ATTとは、「荒川・多摩川・利根川」の関東三大河川の頭文字。「荒川、多摩川、利根川及び東京湾の水圏を中心に総合的な調査研究をすすめ、流域振興や都市問題、地球環境をめぐる諸問題に各種の提言をし得る活動を目指す(定款第2条)」。学問の領域や価値観の分水嶺を越えて総合的な視座を据えるというコンセプトです。

今回はインタビューに先立って、矢間さんに多摩川水系・野川の源流を案内していただきました。東京都国分寺市にある湧泉は、矢間さんの「市民環境科学」の出発点です。野川は現在、多くの市民の努力によってよみがえり、蛍の棲む流れとして、憩いの場となっています。

当日は、日本名水百選の一つ「真姿の池湧水群」の国分寺境内から出発し、矢間さんのお話を伺いながらきれいな用水に沿って歩きました。途中、地元の農家の方が水路で野菜を洗っている光景を見たり、花の販売スタンドをのぞいたり、またせせらぎのほとりを保育園児たちが散歩する様子などを目にし、「水辺の空間」のすばらしさを肌で感じることができました。(編集部)

◆矢間 秀次郎さん(ATT流域研究所)◆
やざま・ひでじろうさん 1940年生まれ。元・東京都職員、渋谷区、広報室、公害局、生活文化局、主税局等を歴任。在職中から野川の再生・保全運動に取り組み、1972年に「三多摩問題調査研究会」を組織。市民の手による科学的調査・研究の積み重ねから水環境を守る活動を展開し、「市民環境科学」を実践。同会は1993年に現在のATT流域研究所に改組、事務局長、理事長を歴任。小金井市環境審議会委員。現職は、神﨑建設(株)無垢材と漆喰の家づくり推進室長。

2005年10月12日、東京都国分寺市内にて 聞き手:上田昌文(当NPO代表)

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上田:──昨年、上梓された『市民環境科学の実践―東京・野川の水系運動』けやき出版刊を読んで、私たちは多くのことを学び得たのですが、今日はその現場に立ち、いろいろご示唆をいただきたいと考えています。まずはじめに、水系運動がどのように発足し、どう展開していったのか、矢間さんの個人史も関わらせながらお話しいただけますでしょうか。

矢間:ここハケ一帯には、古代・縄文・弥生時代の遺跡がたくさんあり、先ほど国分寺境内で、その一端をご覧になったわけです。この辺が古代多摩川の岸辺で、湧水や川があるところに食料を得るチャンスも多く、鳥や獣だけでなく人間も水に惹かれるように集まって暮らしたのでしょう。畑を歩いていると、縄文土器の破片が見つかったりするのですから。先ほどの水音、縄文人にも心地よく響いたのではないでしょうか。現代人よりも、はるかに季節の移ろいに敏感であったでしょうね。己の命を自己責任で守るほかなかったでしょうから。この小さな野川は、人類誕生200万年の歴史は無理にしても、数十万年の歴史を映し、秘めながら流れている―そんな思いで野川との出会いを想い起したいですね。

──その出会いのきっかけは具体的にどのようなものでしたか?

私が野川とめぐり会ったのは27歳の時、約37年前です。杉並区から引越してきたんですよ。武蔵野台地が野川へ傾斜していく崖線の上(小金井市中町)で、ハケ上と俗に呼ばれています。私が来た頃、ハケ下の野川沿いに水田や畑がたくさんありました。犬の散歩で田の畦道を回っていた時に顔見知りになったお百姓さんと雑談していましたら、その方が「この田んぼのお米、農協へは出荷しても、自分は食べたくない気持ちなんだ」と言ったのです。訝しげな顔をしていましたら、「ちょっと、川を見てみな、ドブだよ」と言いながら岸辺に行くと、悪臭を放って川底が見えないほどの洗剤の泡なんですね。田の灌漑用水であった野川に、流域の工場排水や生活雑廃水が垂れ流されていたのです。当時、「三多摩地区」は田舎を捨て東京に出てきた人を抱えるベッドタウン、急激な都市化で下水道も道路もインフラが整備されていませんでした。河川を最も身近な排水路として使っていたわけです。工場排水を規制する法律も未整備で垂れ流しでした。当時、朝になって工場が稼動し、工程サイクルが回り始めると、それに合わせて川の色が4回変わったそうです。本当に愕然としました。このドブ川が作家・大岡昇平が『武蔵野夫人』で描いた復員兵の勉と人妻道子との恋を燃え上がらせた舞台なのか―こんな哀れな川になってしまったのかと。

──野川が小説の舞台になったのは、それほど昔のことではないですよね。

そう、昭和25(1950)年ですよ。それが10年ほど後、東京オリンピックの頃から「死の川」と呼ばれ出したんです。臭いし、子どもが落ちたら大変なことになってしまう。さらに河川改修が進まず、少し大雨が降れば氾濫、「埋め立ててしまえ」「暗渠にして上を遊歩道にしよう」という意見が多く出た。他の東京の川が埋め立てられ、いくつも姿を消した。昔の橋だったところとか、よく地名だけ残っていますよね。その大きな理由は、河川そのものが「死の川」、生命のない川なのだから、何の値打ちもないということです。しかも時たま集中豪雨がくると床下浸水などが起こる。それなら川底を今の5倍くらい深く掘り下げよう、でもそうなると人が落ちたら危険だから、暗渠にすればよい。短絡的な機能主義ですね。しかも鉄やセメントが使われ、鉄鋼、セメント業界、日本のビッグビジネスが儲かる。だから、そういう政策を政府も推奨していきます。野川もその運命を辿ろうとしているが、手をこまねいていいはずがない。非力な私に、何が出来るのだろう。そんな思いが胸に去来しましたが、すぐに行動を起こせなかったし、ただ悶々と…。

──たしか1級河川の野川は機関委任事務で東京都が管理する川ですね。都職員という微妙な立場で、つらいこともあったのでは?

いや、そんなにつらいことはありません。「東京に青空を」で公害をなくすのは美濃部知事の公約でしたから、微妙な圧力や圧迫は内外に多少ありましたが、「義がどちらにあるか」で耐えられました。

私は1972年に、まぐれで管理職試験に合格し、公害研究所(戒能通孝所長)に異動しました。公害をなくす使命もありますし、地元の河川をこんな状態のままにしていてはいけないと思い、データを収集しながら現場を繰り返し歩き、コンクリート三面張りの河川改修計画が進行していることを知ったのです。治水に偏向した「川殺しの改修」ではないのか―難しい河川工学の文献を読んだりしたものの、具体的な対抗策、代替案がそう簡単に出来ません。つまり、河川を改修して断面を大きくすれば1時間当たり25~50ミリぐらいの雨に対応することができる、そういった河川改修計画が当時、東京都内の河川を覆っていたのです。この改修計画によれば、当然、河川沿いに建っている家は立ち退かされます。川沿いは土地が安いので若い夫婦などがマイホームにしていたわけですが、意見も聞かれずに、「都市計画決定に基づき改修する」からといきなり立ち退きを迫られたわけです。「住民参加」の言葉はありましたが、スローガンだけで魂が入っていませんから、要は「お上のする事に文句をいう不届きな奴」という横柄な態度が見られたので、当然に関係住民の反発を招きます。それは行政側の事前説明も悪かったし、情報公開もなされず、「下流の洪水を防ぐためだけでなく、ご自分の生活の場が安全度を増す可能性もあります。立ち退いて川幅を広げていく方法以外にも、犠牲の少ない多様な代替案を一緒に検討したいので参加を」という合意形成の土俵づくりが全くなかった時代でした。地域のボスに話を根回ししておけば、反対運動も封じ込めるという時代錯誤が罷り通っていたのです。憲法上は「公共の福祉」のためには財産権を制限することを認めていますが、その「公共の福祉」を為政者が決めるという非民主的な専断に対して、各地で「権利のための闘争」が行われ、後の河川法改正につながりますが、まだ道半ばですね。

──そこまで行くのも、「市民科学」の効果が有効に働きましたか。

ここで「主権在民」という概念のレベルはどの程度か問われるわけですが、私が運動に立ち上がった頃というのは、”官尊民卑”で、帝国憲法の時代とそう変わらなかった。行政は異議申し立てにくる住民が帰ったあと、塩をまくほどでしたから。もっとも、例えば議長の紹介状を持参すれば、急に態度が変わっちゃいますけどね。それは今もほとんど同じで、弱い者には容赦なく、強いものにはへつらう…。日本人の気骨が揺らぎ、非情な”弱肉強食”が目立ちますね。勝ち組に色目を使うことよりも、負け組の復活戦、陣営の立て直しこそ大事なのに、そこでも足の引っ張り合いがあります。そう仕向ける情報操作が巧妙に行われている実態が不透明で、問題の所在を見失うことも少なくありません。

だからこそ、市民科学を確立して、行政・企業側(マスコミや研究者を含む)のデータを客観的に、その信頼性を検証していく事が急務です。それが脆弱だと、市民が世論操作の餌食となり、分断・拡散されて社会変革のパワーが萎えますし、すでに「家庭の幸福」の共同幻想に酔う虚空がひろがってはいないでしょうか。毎年、3万2千人を超える自殺者がおられるのに、真摯に向き合う社会的な空気が希薄なのも肯けます。政治だけでなく、科学も何のためにあるのか―存在意義が問われ、揺らぎに無縁ではありません。

科学する心を磨いていく道場が、小さな野川であった意義は深い。初めから本流・多摩川でしたら多分、上流・下流、左岸・右岸、堤内・堤外等の対極にあるものとの関係性がつかみきれず、全体像を描く考察の過程に、主体的にかかわりきることが出来なかったでしょうね。市民が考え行動する適正規模があり、段階的にATTにシフトしていったのです。

──局面を捉えて異議申し立て、提言を試みていますね。1973年に、『水辺の空間を市民の手に――水系の思想と人間環境』の論文集を自費出版、初刷り1万冊だったとか。まさに「湧くが如く」のパワーを感じます。

この冊子に収録されている論文を出して、国と東京都に「河川政策のどこに問題があるか」を問い、解決策を提言、モデルを提示したのですが、「野川と社会開発―水辺の空間を市民の手に」、これが私たちの処女論文です。月刊『地域開発』100号記念懸賞論文の入選作でした。この論文では、武蔵野台地の地形や特性を踏まえ、野川から多摩川への流域の構造などをきちんとおさえて、河川計画の再考を促しているものの、行政資料を鵜呑みにした甘いところもあり、データを複数の角度からクロスチェックする慎重さに欠けていました。その間違いを修正する勇気が「科学する心」でもあるわけで、安易に糊塗して済ましてはなりません。流域下水道のスケールメリットをめぐる苦い負の体験です。市民科学だから、NGOだから仕方ないという「甘えの構造」は、墓穴を掘ることになりかねません。調査・研究の担い手、「川は誰のものか」との根源的な命題に向けての仕事を、19歳から20代前半の若いボランティアメンバーで成し遂げました。

──そのメンバーは矢間さんが組織されたんですか。

キャップに若い司法修習生(丸井英弘弁護士)を据えて、私は主に実務、マネージメントの側面に尽力したでしょうか。その頃は「市民環境科学」なんて概念はなくて、そういう言葉が出るのはずっと後ですが、行政側の河川計画の問題点が現場に立ってみるとよくわかるんです。現職の公務員が「水辺の空間」という概念を掲げて政策に対して真っ向から、名前を伏せずに「間違いだ」と立ち向かっていく蛮勇。私の方は一方で、自分の身を守るために法律の勉強をしました。同時に市民派の弁護士を生み出す養成組織(小金井司法研究会)を昭和45(1970)年立ち上げ、医師を養成する運動はすぐに頓挫しましたが、107名が司法試験に合格しました。福島瑞穂さんもその一人ですね。もちろん、こちらはデータをおさえて論理で主張していますから、相手も今までの住民と同じようにはいかない、と思ったようでした。でもたらい回しはありましたね。部署ごとの権限があるからと言われて…。一つのことを調べるのに、3日で終わるものが10日もかかる。普通の住民だったらここで嫌になってしまうでしょう。今はやや改善されて、中間報告をしてくれる場合もあります。

──「水系の思想」とサブタイトルにあります。点と線、のみならず面で全体像をとらえる重要性、流域よりも当然、広域ですね。

川は源流から河口までトータルにものを見ないと、見誤ります。どんなに大きな川も小さな川も同じです。それはなぜか。元の源流がきれいでも、中流くらいから汚れ始めるものです。各自治体も河川に対していろいろ努力していますが連携に乏しく、住民運動も「わが道を行く」という有様、ともにテーブルにつく機会は少ないのが実情です。川には用水や支流が流れ込んできます。人間の身体で考えると、腕に毒が入ればリンパ球が止めるという、生体を守るための「堰」がたくさんありますが、河川も本来はそれと同じで、本流に入ってくるたくさんの支流や用水、下水からの汚物を本流にいれないために、川の泥や植物、砂利などに棲む微生物が汚物を吸着し、水をきれいにするのです。だから、用水や小川にはコンクリートを余り使わないことが重要なんです。

ところが、日本が高度成長するためには鉄やセメントを作らなくちゃいけない、作った以上はどこかに使わなくちゃいけない。有用か無用かではない。そこで自然の水循環を破壊してまで、セメントの使い場を探し、用水路さえ三面コンクリート張りにした。すると雑草が生えず、地元の人は手間がなくなりました。しかも地元の土建業をはじめ産業にお金が落ちます。その方がよいのではないかという方向に世論が持っていかれるわけです。でも半年も過ぎれば、清流がなくなり、蛍が消え、人々も水辺から遠ざかった。野川だけでなく全国の河川が同じ道を辿りました。

『水辺の空間を市民の手に』の冒頭に、当時書いた文章があります。これが水系の思想であり、市民環境科学のエッセンスでもあります。

──昭和48(1973)年というと、日本は大気汚染などの公害問題が非常に騒がれた時期でしたよね。

環境庁ができて2年目です。そのときにすでにこの本が出されたわけで、水循環をめぐる市民運動の元祖です。ダムの乱開発に見られるように、いまだ水辺の空間は市民の手に取り戻せていません。しかし、水環境に関心を向ける層は広がりを見せつつあります。

──それまでに川がつぶされ汚染されていくといった状況があり、それを心苦しく思っていた方も少なくなかったと思うんです。そうした中、矢間さんがこのように科学的データを積み上げていく方法を使わなければ行政に立ち向かえないと思ったのは、どういう理由からでしょうか。

まず個人史的に、生い立ちや教育の影響が根本としてあるからでしょう。私は大阪で空襲を受け、5歳から16歳まで疎開先の徳島県小松島市で育ちました。紀伊水道に面した港町です。そこでの原体験が強く影響していると思います。鉱山業を営む父の会社が倒産し、苦しい生活だったにもかかわらず、水と土と森の力で食べるものに不自由しなかったんです。山にいけば果物があり、海には魚介が豊富で、まぁ中学生なら自由に取ることができましたから。当時のエピソードを三つ紹介しましょう。

まず一つ目。磯で海の中を見ると、水深10mくらいまでよく見えました。きれいでしたね。大きく見える海底のカニを見ていたら、そのカニがやって来たタコにあっという間に食べられてしまった。タコが食べ終えた後にミルクのような白い泡がブクブクと、あの鋭い爪をもったカニが呑み込まれる姿を目の当たりにして、命には限りがあるんだと感じました。それが12歳の時です。人生観が変わりますよ。生きるというのは「一期一会」だと思いました。絶対はなく、常に相対的に生きるか死ぬかだ、と。一瞬にして今日の喜びが明暗を分ける…。

二つ目は、今度は山での話。私たちは山に植えられたミカンやヤマモモを自由に食べていました。中学校が終わるとグループで山に行き、山道の左右の斜面のミカンを盗りながら登っていきました――兄貴分の17歳になるM君は鳥を撃つ空気銃を肩に下げていました。そのミカンを、頂上で海を見ながら食べ始めたところ、男の人が登ってきました。びっくりしてすぐに隠して、怒られないかと心配していたら、「左右どちらの斜面のみかんがおいしかったか」と聞かれました。この人はミカン畑の所有者で、一部始終を見ていたんですね。おそるおそる「こちらの方がおいしかった」と答えたら、「ああ、やっぱりうまかったか」とただ一言だけ言われました。それはもう最高のお咎めになりました。今ならすぐに警察や学校に報告されるでしょうが、当時のそういう教育の方が実に自然体で豊かです。それ以来、悪さをしなくなりました。それほど豊かな風土のおかげで、食べるものには困りませんでした。もっとも、子どもたちなりに知恵を使い、朝鮮戦争が始まった時は金属が高く売れたので磁石で集めて売るなどして、5円玉の穴に紐を通して持っていましたが貴重な現金です。

野川の話にちょっと戻ると、子どもが加わる手作りの科学、子どもなりの正義感や達成感を味わう機会を作ることが重要ですね。子どもが企画・進行する「わんぱく夏まつり」を野川で続けていますが、かつてのわんぱくが素敵な青年に育っています。腕白振りが許される場をステップにして大人になってほしい。赤貧ながら豊かな自然の中で家族全員が生かされてきたという原体験があるふるさと・小松島。飢えは人を殺す可能性さえある恐いものですが、私は現金が5円玉一つしかなくても、自然の中で飢えることなく生きてこられた。そういう豊かな青年時代を過ごして、東京に来てみると、魚がいることがニュースになっている。川の魚が死に絶え、隅田川なんて臭くて鼻をつまむほどだった。昭和30年代です。そこで「これはいけない」と自分が思ったとき、周りが言い始めるまで黙っておこうとか、叩かれたら困るから様子を見てから言おうとかしているうちに、既成事実が作られてしまう、そうなってはいけないと強く思ったわけです。たとえ孤立無援でも、そこに正義があるなら立ち上がるべきだ、というのが私の母の教育だった。母はきちっと物を言う人でしたから。

さて三つ目は、県立小松島高校1年生在学中の話です。そこで後に出版社の「図書月販」の社長になった中森蒔人さんが社会科の先生として教鞭を執っておられた。その中森先生に薦められて、図書館にある経済学者の河上肇さんの『貧乏物語』を読みました。「なぜ、こんなに貧乏なの? どうしたら貧乏神を退治できるのか」の渇きを癒す機会であったようです。貧乏も仕組まれたもので、構造的なものだというふうに幼いながら理解をし、社会・人文科学の扉を開く一冊でした。私が中学生になった夏、父の経営する鉱山会社が倒産して、債権者(背中に刺青を彫った男たち)が暴力で脅し、家財道具を持ち去るのに遭遇。以来、早朝5時に起床して、竹輪や薩摩揚を小売店に自転車で配達する仕事に従事していました。休日には船着場で姉と一緒にアイスキャンディの売り子、蒸気機関車の石炭の燃殻からコークスを母子で拾いにいくなど働き尽くめの青春。だが、山・川・海の躍動する舞台があり、石川啄木のような「じっと手を見る」詩心は育ちませんでしたが、後に私は経済学を学んで、環境経済学にも関心を向けられるようになったようです。16歳の多感な時に「貧乏を科学する」機会を与えてくださった恩師も、昨年、鬼籍に入られました。

こうした豊かな自然と、人間交流の中で育ったということが、市民環境科学への接近に大いに影響したと思いますね。つまり、サイエンスというものを基礎的な部分で自分の少年時代に築く用意ができた、そう思っています。

──先ほどの論文についてですが、発表した後にどういう反響がありましたか。運動としては、継続的に成長させていくというプロセスも落とせないですよね。

それについては、論文のベースにある姿勢が重要だったんです。科学とは徹底して観察すること。先ほど野川の湧水点にあるモニタリング装置を見ましたが、まぁ電池や通信装置が切れたら終わりですよね。まずは人間の五感が一番です。自分の五感でまず観察し、記録します。それを3年くらい続けていると、一つの傾向が見えてきます。傾向を大まかにつかむために、定点的に五感で観察をしていくような、現場を重視した積み重ねをする。現場に立つということですね。科学する心はまず観察から出発することだというのが、私が野川でつかんだことです。「繰り返し現場に立つ」という表現を私はしています。川の水環境は刻々と変わり、魚の生息する場所も変わっていくわけです。生物は生き残るために必死だし、それでも生き残れないんですから、昨日魚がいた場所にいないこともある。それは何故なのかと思い、原因を探る。これは「繰り返し現場に立つ」中からつかめることです。

──つまり、生態や植生や、あるいは水そのものを研究されている方などいろんな専門家がいますが、そうした人に専門分野を教えてもらう前に、まず自分たちで調べてみるということですね。

そうです。いろんな専門分野の人が入ってくるわけです。そういう人たちが来たら、各班に入ってもらってお互いに協力し合ってくというのは当然のことですよね。そのとき重要なのは、環境問題にプロはいないということです。「地球の危機」と言われ、たくさんの専門家が多くの資金を使って膨大な調査研究をしているにもかかわらず、なぜこれほどの環境の悪化を許したのか。結局は分水嶺を越えられないからで、つまり総合的な連携が旨くいかないのが主因ではないでしょうか。プロと素人の差は問題を解く情熱の差であると私は思っています。科学の知というのは時代の変遷の中で変わっていくもので、永遠ではないのだから、いかに鋭い問題意識を持つかが問われるべきであって、問題を解く能力の有無を問うだけではいけない。そうしたことを、私は僅か22kmの野川の中から学びました。だからこそ「繰り返し現場に立つ」こと。サイエンスの基礎は観察をベースに考察し、記録して、少なくとも3年、できたら10年それにこだわり続けて、鋭い観察の目を失ってはなりません。

次に、対極にあるものに思いを馳せること。自分の専門分野に隣接する科学にも、目配りをして融合の可能性を探る人間交流が必要です。厳しい批判にさらして、リアルに現実を直視する姿勢が取れるように、己を突き放す客観的な視座がどこまで出来ているかが問われる時代になりつつあります。これが複眼的思考、学の融合という概念に結びつく前提でもあります。

みんな専門分野を絞り込んで、重箱の隅をつつきあっていると、現実と遊離してしまう。市民同士でもすぐにレッテル張っちゃう。この運動をしてきてわかってきたのは、一言で言うと「人間交流」が大事であり、それこそが新しい科学にパワーを与えるということです。自分の趣味だけを追いかけているのではなく、それぞれの持ち味をジョイントさせ、融合させて、新しい結晶を創る理念を求めない限り、地平は見えてこないのではないでしょうか。
私と初期の段階で一緒に行動してくださった学者が4~5人いますが、その中の小倉紀雄さん(東京農工大学名誉教授)が、『市民環境科学への招待』(裳華房刊行)の中で、そうした「人間交流」の重要性にも触れています(囲みを参照)。それは、市民環境科学の定義にもなっています。

小倉さんが入会されたときに、「市民環境科学とは何かに、皆さんはすでに答えを出しています。湧水や植生の調査を見ますと、現場に10年張り付いて記録されたデータを解析して、問題の所在を明らかにし、対応の方向を探ろうとしていますから、入会を決意したのですよ」という意味のことを言われた。地球物理学を専攻された小倉さん、異分野の研究者ですが評価をしてくださってうれしかったですね。

人間交流はできるだけ異分野の人とした方がいい。同分野だとお互い何かと牽制してしまいますね。でも私は無防備ですよ、それは私が明日生きる保証がないと思っているからです。私が持っているノウハウは、もし私が死んだら、交流した人に宿るわけです。自分の所有にこだわらないんです。異分野の人は警戒しないから本音が出やすい。そこにヒントがあるから、異分野の人、私を攻めてくる人は大いに歓迎です。それではじめて人間同士の分水嶺を越えるのです。非難や中傷には、憎しみが宿るくらいで人間の業を感じますが。

──実際に活動を進める上では困難もありますよね。

もちろん、口で言うのは簡単ですが、いろんな感情が生まれてきますし、例えば『ATT』は来年から、デジタルマガジン化をと模索中です。そうなるともう私の能力ではチェックしきれません。自分で責任を負えないものはやってはいけない。特に指導者は、トータルな責任を負わなくちゃいけませんから。私はATTの理事も近々降り、退所する予定です。

ATTの収入はほとんどが『ATT通信』への広告掲載料とご支援くださった誌友の寄付金です。今240社と契約を結んでいます。この広告を取るのも、人間交流の力ですよ。例えば一年に一度まわってくる富山の薬売りを思い浮かべてください。彼は時間をかけて人間関係を築き、顧客の名簿や情報をまとめているわけです。相手のことをそれはもう熟知しています。でもその情報を他の誰かが使って、同じように商売することができるでしょうか。できるわけがありませんよね。単に情報を与えられていても、それを現場で活用する機微を発揮できませんから。広告も同じです。私が同行して指導をしましたが限界がありますね。そうしたつながりの中で広がった『ATT』 の記事や情報は、かなり広い反響を呼びます。例えば先日、私が編集後記(水の輪)に写真入りで書いた小文(囲みを参照)に対して、全国から反響がありました。ささやかですが、「人生意気に感ず」という、喜びを現地の方々と共有できたのです。

その反響はつまり、5000部の力です。人間交流を本当に誠実にやっておれば、それが「信用」となって何倍にも戻ってきます。大阪育ちの母は常に「損して儲けよ」と言いましたが、私は人と付き合うときも、得か損かで付き合っていない。明日まで生きる保証がないのだから、今日と明日で得損は変わるかも、そういう運命のカオス、混沌を12歳くらいから身をもって体感しているからです。

そうした考え方をしていたからこそ、私は公害研究所へも飛び込んだんですね。初代所長、戒能通孝博士は美濃部都政の看板でしたが、戒能博士は岩手県小繋の農民のために、「入会権(国有林に立ち入る権利)」の獲得に心血を注ぎました。反骨の法曹が国の公害対策を凌ぐ政策づくりの法的な盾になってほしいと招聘されたのでしょう。「キミ、美濃部の革新都政が続く保証はないので、すぐ飛び乗るのは損だよ」と、翻意を促してくれた幹部職員もいましたが、私は戒能博士を尊敬していたから飛び込んでしまったんです。もしぐらついていたら、今日の自分はないかもしれません。私の環境問題の人脈が形成されたわけで、ご指導いただいた半谷高久先生や宮本憲一先生など、ご縁ですね。その代わり都庁の中で反動がありましたが、歴史の審判に任せればよい。仙川分水路工事の差止事件(地盤凝固剤による地下水汚染)のように、国や都が行う公共事業に対しても、臆せずに真っ向から立ち向かって、必要ならば裁判だってして、闘っていくわけです。

もちろん行政の中にいるからには、崇高な理念の下でやっているということ、義がこちら側にあることをわかってもらわなければなりません。そのためには、客観的なデータでものを言い、己の行動を律して、自分の身を守るということになります。市民科学は私にとって、鎧であり、武器であったわけです。裁判中には誹謗、中傷以上の嫌がらせを私にしてきました。「表立って味方にはなれないけど妨害してはいけないな」と思ってくださる影の同志も都庁の中にもいました。私の場合は、弁護士の友も多く、親しくお付き合いしてくださっていたジャーナリストが数名おり、マスコミに対して敏感なので、警戒をされたものの、へこたれずに生きてこられた都庁に感謝しています。特に度量のある上司、作家の童門冬二氏(本名・太田久行氏)に出会えた光栄、幸運と言うほかありません。

──有名な歴史小説作家ですね。

そう、芥川賞にノミネートされた作家です。そして作家活動を続けながら、都庁の筆頭局長になった方です。美濃部都政終了とともに辞表を提出しましたが。その方から得た薫陶、教わったことが歳をとるにつれて比重が増してくるようです。主なものを三つ、模範を示してくださったことばかりです。一つは、公私の区別を厳しく付けること。二つ目は、何度か「人を裁くな」と叱られました。三つ目は、微笑を絶やさない人間賛歌。

──そういう童門さんの影響が、矢間さんのさまざまな発想へとつながっているのですね。
とんでもない。胸に刻んだものの、生き方の真似さえも100分の1も出来ないで馬齢を重ねている始末です。

この巨大都市に生きる人間こそ、「心に泉を持とうよ」という理念がこめられた水系運動ですが、かつての都市問題をめぐる論議が影響を及ぼしたかもしれません。個人史に入り過ぎなので、ここらで視点を変えましょう。

もちろん、市民環境科学、市民社会のこれからのあり方について、常に原点を忘れないことが大事です。私はその原点を「水の原理」だと考えます。世界的に認められているデータでは、地球上にある13億8600万トンの水の中で、我々が飲める水はわずか0.022%です。ほとんどが海水で、それ以外は2.6%のみ、しかもその大半は氷河もしくは地下水です。残った0.022%の水が平等に行き渡っていればいいですが、絶対にそうではない。一杯の水を命をかけて奪い合う地域がたくさんあり、アジアやアフリカでは汚染した水を飲んでいる人が大勢いて、そのため人々が命を落としている。特に幼い子どもの死亡率が高い。水をなに不自由なく飲むことができる我々日本人は、その現実をきちんと知りません。水環境というものが示す国際的な緊急課題、深刻さが増しています。今年8月に開催した「雨水東京国際会議」に参画して、まだ自分の視野がいかに狭く、ナルシシズムを払拭しえていないかの内省をさせられた次第です。

──なにか市民科学の展望について、道標のようなものがおありですか。

最後に五円玉の話をしましょう。五円玉のデザインをよく見て下さい。ここには4つの図柄があります。稲穂、下の線は水、そして中心の穴が歯車、裏側に双葉がありますよね。
五円玉は昭和24(1949)年に誕生しました。銅と亜鉛の合金です。この金属は、砲弾や鉄砲弾の薬きょうなんです。敗戦国となった日本で国民が共有できる課題、新生日本への理念を5円玉のデザインにこめようと、砲弾等を武装解除した連合国軍と交渉し、薬きょうの平和利用、通貨の鋳造を認めてもらった。当時、白米を食べられたのは、本当に極僅かの人だけ。だから国家をあげて米の増産をしようと、この「稲穂」がデザインされた。だが、今や減反と自由化で休耕田が増え、山地崩壊が起こっています。

そして12本の線は水を表し、海・川・湖、それも単なる水ではなく、漁業を表している。貝や魚などの蛋白源を意味しているんです。今はどうですか。ダイオキシン汚染がひどいので、妊婦は東京湾の魚を食べないでくださいって…。まさに「水系の思想」が欠けていた結果ですよね。河川、用水は全て海につながっているんです。分水嶺を越えた学の融合、人間交流の拡充が不可欠な理由もそこにあります。次に五円玉の「歯車」には、工業立国への夢がこめられています。1950年には、第一次産業の従事率は約50%、工業は21.8%、第3次産業に29%。2005年の今、第一次産業従事者が3%を割りました。水を命とする産業が半分を占めていた時代には、水を汚す人はすごく怒られましたが、国家の産業構造が変わり、水は葬られました。しかもこんにち工業立国としてどうか。ますます空洞化が進み、失業者は増え続けます。ハイテク化されたから日本人の手が必要なくなり、海外の安い労働賃金で働いてくれるところへ工場の流出が止まりません。経済の原理は利潤が生まれる方向へ流れるというものですから。

さらに、この双葉はヒノキ(日本の神木)です。森林づくりをスギやヒノキで行おうと、全国に拡大造林をした。育ちの早いスギで覆われたが、しかし現状は酷いもので、今スギを伐り出せば約20%の赤字が出ますから、森は放置され、荒廃が進み、悲鳴が聞こえます。

五円玉に描かれた国家政策は、ことごとく破綻しています。そのツケを国民に負わせ、誰も責任を取っていません。責任体系が崩壊した談合社会が今の日本、その内実にメスを入れられない「科学の怠慢」があります。もう一度、新生日本の原点に回帰し、この五円玉の輝きを取り戻す営為を市民環境科学の道標にしたいと、私は考えているのです。■

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