第148回科学と社会を考える土曜講座 「悩む女性をとおしてスローライフを考える」~どようメーリングリストに寄せられた意見から~

投稿者: | 2003年4月19日

第148回科学と社会を考える土曜講座
「悩む女性をとおしてスローライフを考える」~どようメーリングリストに寄せられた意見から~
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竹永和子さんは看護婦出身ですが、自分のライフスタイルを考えて、個人事業主として起業している方です。現在の女性たちが、社会や家庭の中で何に悩み、どんな状態に置かれているのかたっていただきました。また女性たちが問題を抱えているということは、とうぜん男性たちにもいろいろな問題があるわけでそのあたりのことを具体事例をあげて語っていただきました。とくに、ビジネスライクとマザーリングライクを対比させた発想法は、いろいろなところでも応用できそうです。
マザーリングというのは、それ以前に「母性」という言葉がありましたが、女性にとっては「母性」というのは嫌な印象を与える言葉でもあるので「マザーリング」という言葉を作ったそうです。マザーリングという言葉で社会を見直してみると、いろいろ違ったことが見てきます。
たとえば、ビジネスライクは、「デジタル発想で、結果が大事、利益を追求し、感情は抑えることを求められる。」一方マザーリングライクは、「アナログ発想で、プロセスが大事、見返りを求めず、感情表現を豊かにする。」世界です。
このほかにさすが看護婦出身らしく、あらゆる生活習慣病の予防原則として5つのルールを教えていただきました。これは講座に参加できなかった方にも、ぜひ実践の参考になると思います。
①体重を落とす。(早食い、大食いをしない)
②特定の制限食はしない。(バランスのとれた食事を少量、ゆっくりと楽しんで食べる)
③水(もしくはお茶)を1日2リットル飲む。
④運動をする。ただし過激ではない運動を(散歩などがよい)。
⑤ストレス発散をする。
当日は女性が多く参加していただいたことにとてもうれしく感謝しています。また土曜講座史上最年少の参加者である彩音(あやね)ちゃんという1歳半の子が参加してくれたのも、こうしたテーマにふさわしくよかったと思います。独身男性にも多く参加してほしかったのですが、後半の討論会では井戸端会議の雰囲気になったのもよかったと思っています。上田さんが最後にまとめたのですが、これまでの土曜講座の内容とどのように関係するのか心配していたけれども集会や勉強会に参加できない多くの社会人や主婦の人たちのその先に、さまざまな家庭の事情があり、それが見えた。そうした事情を知ることは社会的な問題を多くの人に伝え共有してゆくときにとても重要だということがわかった、というまとめに集約されているでしょうね。
■森元之
3月15日の土曜講座、「悩む女性を通してスローライフを考える」は、いつもの講座と一味違った講座でした。思いついたことを書きます。
まず、竹永和子さんの透き通った声と洗練された話し方がとても印象的でした。長年の保健相談で培われた、ふんわりと相手を包み込むようなやさしさと、明瞭で分かりやすい言葉づかいはさすがプロだと思いました。
話の内容は、ほぼ予想していた通りで、育児や女性の社会進出によるストレスが、女性の体と心をむしばみ、悲劇を生み出す現代社会の現実、そして、それにどう対処していったらよいかという話でした。
真面目な人ほど、「頑張らなくては」と必死で仕事をこなし、自分で自分を苦しめるということ。ストレス解消のために「やけ酒」「やけ食い」「買い物依存」などさまざまな依存症に陥り、そのためにさらなるストレスを作り出し、悪循環に陥ること。
それらの解決法は、まず「自分ひとりで頑張る必要はない」と自覚して、上手にサポート体制を利用すること。しかも、身内や近所の人の善意に頼るのではなく、できるだけ、お金を払ってプロに頼むほうがよい。そのためには経済的な基盤をきちんと確保して、女性も自立することが必要。そして、家事もきちんと有償化すべき。家事はただ働きだという意識はやめよう。家族(たいがいは妻や嫁)がする介護はただ(無料)という認識もやめよう。家族だけでする介護には限界がある。自分がいやだと思うこと、つらい仕事は、上手に避けよう。過度な重荷を背負うことはない。それを引き受けることは、自分に破綻をきたすことになるだけ。「いやなことからは逃げてもよいのだ」と思うこと。自分で自分の心を傷つけない。
竹永さんは、リタイアした看護士などに声をかけて、訪問看護のネットワークを立ち上げようとなさっています。育児や介護や病気の時に、気軽に訪問して助けてもらえたり、相談に乗ってもらえるようなシステムを作り、今後ビジネス化していきたいそうです。
参加者は女性のほうが多く、質疑応答の時間には、女性からの人生相談や経験談が飛び交っていました。いっぽう、男性のほうは、押され気味で、ほとんど意見や質問がでなかったのですが、男性の方の感想を聞いてみたかったと思います。
■薮玲子
当日参加していた男性で、出産以外は介護に至るまで全て体験した者として、色々な視点から思う事はあったのだがいずれにしても結語がないままに発言を控えてしまいました。竹永さんは一生懸命努力しても自分だけでは解決が出来ずにそれこそ”悩んでいる”女性の声を代弁して話して居られたし、程度は異なっても多くの女性に共通して大きな問題が根強くあることを感じさせてくれました。強いてその要素を分解すると
個々の女性の事情やその周辺の問題
社会的機構や制度の問題
男性の無理解や非協力からくる問題 等でしょう。
個々の問題等の解決は難しくても男性の精神的な・実際的な理解と協力で少なくても女性の悩みはかなり救われるはずと思います。
論はさておき、自分はどうだったかな、と実体験でまず思考するのがこの頃の癖ですが、正直言ってあまり会社でも家でも身近に痛切に感じたことがないのです。これこそが、男の無関心・身勝手だし家内に言わせれば”ずるい”ということでしょう。結構言い争ったり怒られてはいたし、気が付いたことはやったつもりだが、時代的な認識もあってその程度で許されてきたのでしょう。
その結果として、専業主婦が大部分であった家内と会社人間(という程ではないが)だった私の現状を比較してみると(Mは私、家内をF)
子供との繋がり F>>M
友人や地域との繋がり F>>M
趣味や自覚 F>>M
どれをとっても質的にFに差を着けられているのを感じます。これはFを自慢しているのではなく、Mが仕事が大事、仕事が人生等と言っていても実は人生の質にはある部分が欠落したものでしか無かったと痛感します。(勿論得られたものも大きかったのは確かですが。)
特に会社生活を離れてみると、会社への思いも永年一緒にやってきた上司や同僚などとの情も会社を離れた瞬間に殆ど消えて無くなってしまいました。ただ人間的に深い繋がりがあった人との関係だけが今でも自分に残されています。
体験してみて初めて、こんなものなのか自分で驚いています。
勿論人によって大差があるでしょうし、本当に人生の目的になる仕事をしている羨ましい?ような人も多くいるでしょうから、あまり他人に通用するかどうかは判りません。言えることは”男は仕事が人生”とか”会社人間”という言葉がかなり空しい実体をもっているし、男もそれを気づかず、あるいは気づきながらもその言葉で自分や周囲にご都合主義な弁明に使っている人が大部いるような気がします。
本論からどんどん外れるがもう一言、言わせてください。
竹永さんは思考・態度を対極的にビジネスライク(B)とマザーリング(M)に分けて説明されました。これは大変分かり易く納得できるのですが、このBの事項が仕事をする上で本質的な事(テキパキと能率良く、ミスしないようにとか)と思われたら大分自分が考えてきたのとは違います。かつて自分がやってきた企業の従業員に対する評価でいえば、Bを完璧にしても5段階評価の2(やや劣る)くらいにしか評価出来ないということ言っておきたいのです。Bイコール良い仕事ではありません。
今日や明日くらいはBであってもこれだけでは仕事は(特に企業は)明後日には行き詰まるか消えて行くでしょう。やはり始終立ち止まってスローにM的に考えて自分を高めていかねば仕事の分野でも他にもついて行けないのです。
なんか、かつての管理職みたいで嫌な言い方になってきましたが、言いたいことは、男も8時間働いた後は、家庭の人・市民としての人・社会に生きる人としてMを豊かにもったの生活をしなければ、後々までも内容のある良い仕事・良い生活をしたとは言えないように思います。そうなれば女性の悩みも大分軽減されてくるのではないでしょうか。
言ってもせんない事とは思うが、仕事が終わった立場から見ると後悔を含めてこんな実感があります。
■後藤高暁
「悩む女性のための・・・」に関連して、すこし思うところを書かせてください。
講座の内容を聞くと「いわゆる仕事とシャドウワークを、両方担ってしまい、自らを酷使してしまう女性達」というのがテーマであったのかな、想像します。この場合、悩みは「どうして自分がこんなに辛くなってしまっているのだろう」というあたりでしょうか。それが構造的なものであると気づくのが、フェミニズムへの第一歩という気がしています。
両方ともすべて請け負う必要はないのだ、と目からうろこが落ちるように悟ることができればよいのですが、現実にはなかなかそうはいきません。というのもこれがアイデンティティに埋め込まれた装置(?)になってしまっているからです。
私事になりますが、2~3年ほど前から母親がうつになりました。父親の引退で念願の夫婦の老後が始まったわけなのですが、母のシナリオではこれまで自分を犠牲にしてお父さんを支えてきたのだからうんとねぎらってもらえる、とどこか期待していたのではないかと思うのです。ところが父親はあいかわらず自分の興味の赴くままに暮らし、母は「これまでの自分のがんばりや犠牲を、お父さんはどれほどわかっているのかしら。わたしの一生はなんだったの?お父さんは能力を伸ばしたり実績を上げたり肩書きを持ったり人脈を持ったり(つまり仕事に限らず一切の社会参加から吸い上げた能力と自信)があるけど、わたしには??」と立ち止まってしまったのです。自己卑下に泣いたり、連れ合いを責めたり、「若いころにもどってやりなおしたい」と後悔する毎日でしたが、半年ほど前に立ち直りました。今は長いこと憧れていたけれどできなかった「詩作と朗読」の会やコーラスグループに入り、パソコンの勉強をしています。
一件落着と思ったら今度は私のつれあいの母親がうつに。こちらは、男3人女1人(←彼女)というきょうだい構成のため、実母の介護を多大な犠牲を払ってやりぬいたところ、男きょうだい達に、「あなたが勝手にやったんでしょ」というような態度をとられたというショックがテーマです。
いずれも、人のために生きる、ということがいかに彼女達を縛ってきたか。それをあたかも自立した個人の自由な選択のごとく解されて「好きでやってきた」とかたづけられることの理不尽さ、という共通項があります。
人のために何かするのは喜びでもありますが、女性の構造的他者奉仕はこのレベルではない。相互的でない関係=奉仕専門職をつくりあげてしまう辛さ(現代に生きる人間にとっては)にあるのではないでしょうか。母達は、女性の近代的自我のちょうど転換期の悲哀を味わっているように見えます。もちろん、今でもこのような側面は脈々と続いていますが、私達世代は、もっと早く気がついて悩みますので、老後まで持ち越さないように思います。
翻って、子育てですが、これこそ見返りを期待できない(してはならない)分野ですね。子育ての倫理的主体はどのようにつくられるのでしょうね。子育ては楽しいものの、単に快楽だけでは担えぬような負担だと思います。特に積極的に何かをしてあげたり返ってくる、ということ以外に、「待機している」ことが含まれるので、これは産業社会に生きる人間にとってはすごい違和感のある所業(?)だとおもいます。「お母さんが空気のようにいてくれる」というのが主婦の真骨頂だとおもうのですが、一昔前の男性にくらべ、今はこの辺りを妻に求める男性が減っているような感じがしています。前は、夫婦関係というよりも、母空間に憩う子供たちに夫(おとうさん)も加わっている、という感じが心地よい男性が多かったのかもしれないと思います。■S.N.

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