連載「生命へのまなざしと科学」(3)あなたは動物を苦しめていませんか(2)

投稿者: | 2001年3月14日

上田昌文

●科学の名のもとでの残虐行為

食肉生産のために殺される動物の数をずっと下回ってはいるものの、それでもおそらく世界全体で一日に数十万匹の動物たちが科学研究のために殺されています。動物実験に従事する科学者たちは動物たちに毒物を注射し、塗布し、はたまた”栄養物”を詰め込み、あるいは飲食を長期間与えず、さらには脳に電極をつっこみ、目や耳を潰し、生まれたばかりの仔を親から引き離して暗闇に閉じ込め……といった拷問さながらの行為を繰り返しています。一方私たちは、自分が日々使用したり摂取したりしている薬剤、食品添加物、化粧品など数限りない化学物質の安全性や有効性を保証するために、あるいは自分が受けている病気の診断法や治療法が開発される過程で、おびただしい数の動物が犠牲になっていることをほとんど意識しません。

白衣を着た科学者以外の人間が行なったとすれば、間違いなく道徳的に非難されるだろう動物への虐待行為を、私たちはかなり膨大な金を出して支え続けています。健康の向上、病気の治癒、安全の確保、研究者の仮説の検証、学生の教育などのために、科学の名のもとで遂行されるのであれば、どんな動物をどう痛めつけようとかまわない、という暗黙の了解があるかのようです。

動物実験は非人間的です。しかしそれは命を扱う科学に不可欠の方法だとみなされています。非人間的な行為も科学的でありさえすれば正当化されるのでしょうか?はたまたそれは本当に科学的なのでしょうか?

●動物実験の非科学性

動物実験に対する最も基本的な懐疑は、動物から得られる実験結果を人間に適用することができるのだろうか、というものです。

第一に、臨床と実験系の差異があります。生育条件などがコントロールされ遺伝的にも系統だった動物を用いて人為的に病気を起こすのが「実験系」ですが、その実験系での病気と、複雑な要因がからんで生じているだろう実際の人間の病気とは、当然隔たりは大きいのです。食塩水を投与したり腎臓動脈をクリップで括ったりして血圧を上げたラットが、高血圧症の解明に役立つモデルになれるものなのでしょうか?

第二に、種によるばらつきが大きいこと。モルヒネは麻酔剤・鎮痛剤として使われますが、猫やマウスには逆に興奮剤になります。また砒素は羊に対して人間の致死量の数十倍を与えても安全です(砒素化合物によってラットで発ガンさせるためにはヒトへの投与の何倍・何十倍もの量が必要です)。人間に死をもたらすタマゴテングタケはウサギには無毒です。このように毒性や効果の発現は動物種によって大きく異なるため、人間へのはっきりした結果を動物実験から推測することは難しいのです。動物実験ならびに臨床試験で「安全」を確認したはずの薬剤が薬害を起こすことも稀ではないのも、動物実験で副作用を判断するのがいかに難しいかを示しています。

第三に、同一種でもばらつきは生じます。放射線や精神安定剤対する感受性は老齢と若齢の動物でかなり異なる場合があることや、同じラットでも投与した毒物の効き目が、朝と夕方、夏と冬、過密な飼育とそうでない場合、などで大きく違ってくる例が知られています。

第四に、実験系動物が非常に不自然な状態に置かれることの問題です。生物には本来自分の居場所となるそれなりに好適な環境の中で、ある精神的な平衡状態を保ちながら通常の生理的な機能を発揮させてゆく存在です。極端にストレスを感じるような実験室内の環境で育て、激しい苦痛を覚えるような行為を加えておきながら、その動物から得られる反応を一般化しようとすることは、かなり非科学的なことだと思われます。

たとえば癲癇の治療薬を開発するために、サルに電気ショックを与え続け、癲癇に”類似した”発作・痙攣を起こさせ、これに種々の薬剤を投与して沈静化するかどうかを探る……などという方法が科学的であるとはとうてい考えられません。

●動物の身体は部品の集合体?

じつは、人間への適用の可否の問題以前に、より根本的な難点を動物実験はかかえていると思われます。人体における臓器移植を手がかりに考えてみましょう。

臓器移植の難点の一つはこうです。臓器の働きを知るために、摘出を含む何らかの人為的操作をその臓器に加えて身体全体の変化を調べてみるというのは、確かに一つの方法です。しかしその方法で臓器の働きがわかったとしても、その知見は悪い臓器を良い臓器に取り替えれば健康体に戻るということを保証するものではありません。肉体のどのような器官でも完全に孤立して他の器官と無縁であるようなものはないからです。それこそ身体に備わった全体的システムの一つである免疫が、移植された臓器に対して常にしかけてくる拒絶反応という”攻撃”をかわすために、免疫機能を薬で抑制し続けねばなりません。この危うい状態を決して健康と言うわけにはいかないでしょう。

動物実験を貫徹しているのは、臓器移植に典型的に表れている「部品の集合体としての生き物」という考え方です。個々の動物を、その身体全体のみならず生活や環境を含めてトータルにみることは難しいので、いきおい自分がその動物に加える操作の条件についてのみ厳密であろうとし、その条件を変化させれば着目する「部品」がそれに応じてどう変化するのか、ということだけに注意を払います。ここですでに「自分が扱える要素を自分が扱えるように扱う」ことだけで(つまり自分に扱いきれないことを予め除外して)結論を引き出そうとする点で、その動物自身に即してみても得られる知見に不確かさが伴ってしまうわけですが、それに加えて「こうして得られた知見が人間に適応可能である」と決めつけるときに、輪をかけた不確かさが付きまとうことになるのです。

人間は動物とは一線を画した存在なのだ、したがって動物を”モノ”として人のために利用するのは決して悪いことでない――これが動物実験を道徳的に正当化する理屈ですが、「動物がモノである以上、その臓器が部品でなくて何なのだ」という言わんばかりの研究が今さかんに進められています。他人の臓器を使うことの倫理的な問題を回避し、臓器不足を解消するため、動物の臓器を人間に使えるようにしようという研究のことですが(異種間移植)、人間に臓器を提供するために殺されることになるヒヒやブタのことなど、ほとんど問題にされません。アニマルマシーンであるブタなどを臓器製造工場にしてしまってもなんら痛痒を感じない、ということなのでしょうか。

●専門の知の増大と誤った対応

さて、動物実験を主たる手段の一つにした医学研究を推し進めていけば、様々な疾病からの解放が本当に約束されるのでしょうか?私はそうは思えないのです。

大半の人は、精神的あるいは肉体的健全さを保つためには「暴飲暴食しない、ストレスを溜めない……」といったごく常識的な対処が一番であることがわかっているのに、「風邪を引いたら即、風邪薬」といった選択をしてしまうのはなぜなのでしょう?

私たちの多くは、身体のことを医者任せ、薬任せにしてしまって、「自分の生活や経験に即して自分なりに筋の通ったやり方で自分の心身のことを考察してみる」という、本来の意味で「科学的」と言えそうな態度を放棄しているのではないでしょうか。自分の身体のことは誰よりも自分が知っているはずなのに、その自分に固有の経験的な知を自身で深めずに、専門家の知に自身を委ねてしまうのです(自身の知を深めることではじめて専門知をどう活かせばよいかが見えてくるはずなのですが……)。そしてそうすることで、マスとしてみた場合、医療や医学・薬学研究に膨大な金が注ぎこまれることになり、研究それ自身は金がありさえすれば自己増殖的に細分化し肥大化する傾向がありますから、その結果専門知がますます幅を利かせるようになります。そして私たちは、科学研究にからんで厳然と存在している、たとえば動物実験のような非人間的な行為の意味合いを知り考える機会をいよいよ失っていくのです。あたかもそれが自分とはまったく無関係な、したがって自分には何の責任も生じない事柄として、無視を決め込むことができるかのように、です。

私たちはタバコの害を知るのに、タバコを吸いもしない動物たちに強制的に煙を吸わせ続けるという愚をおかす必要はありません。膨大な疫学データを用いて健康被害のいくつもの実相を示すことができます。健康の向上にとって必要なのは、動物実験を用いた組織学的な病変の観察ではなく、タバコの使用を減らすための社会的措置であることはあまりにも明らかです。タバコに限らず、我々を不健康にし我々に危害をもたらす大きな要因である、酒、不自然な生活習慣、ストレス、交通事故、有害物質による汚染などについても、同様のことが言えるはずです。動物実験という不確かな方法を用いて危険度を確定しようとしたり治療法を打ち立てようとしたりする前に、実施すべき社会的なあるいは個人的な対処がたくさんあるはずです。動物を使って手軽にデータを取るという安易な「科学主義」が偏重され、社会全体に非合理な対応を生んでいるのです。

●動物実験の全廃は21世紀の課題

私は動物の生体実験を全廃し、まっとうな代替法を見つけ出していくことが21世紀の科学の大きな目標だろうと考えています(代替法については、疫学、数理モデルなどの利用、試験管内で細胞や組織の培養を使った方法など、いろいろなものが少しずつ開発されてきています)。これが科学だけの問題にとどまらないことはもう十分理解していただけるでしょう。私たちの自然観、経済や社会のあり方、道徳や倫理にもからんだ難しい問題ですが、ここで述べてきた動物実験の非科学性は、それをきちんと認識することで科学自体を変化させてゆくことのできる契機として、近代科学自身に胚胎したものだとみなせないでしょうか。非人間的な行為を正当化しない科学のあり方を動物実験の廃止を手がかりに探っていくことできるのではないか、と私は思うのです。動物実験には近代科学の持つ負性の一面が集約されていますが、その負の側面を乗りこえていくには、私たちの命の問題を「すべての生き物の相のもとに」とらえる新しい思考様式、つまり命への新しいまなざしを獲得していくことが必要なのです。

(『ひとりから』2001年3月 第9号)

 

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