第78回研究発表「宇宙イデオロギーを批判する」に参加して

投稿者: | 1997年5月26日

第78回研究発表「宇宙イデオロギーを批判する」に参加して

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第78回研究発表(発表者:藤田康元)には20名近い方が参加しました。当日参加された古田ゆかりさんと高橋真理子さんが感想を寄せてくださいました。なお、6月に創刊した『土曜講座論文集第1集』には「人はなぜ宇宙にこだわるのか」という藤田さんの論文が掲載されています。併せてお読みいただければ、幸いです。

先日、4歳の子どもとプラネタリウムを見た。彼は、プラネタリウムは初めてである。興味を示すか否か、最後まで見ていられるか、あるいはもっと基本的な部分で、人工的な闇の中で数十分間耐えられるかどうかという心配までしたが、そんな心配はすべて杞憂で、彼は「瞬きをしているのか」と思うほど映像に見入っていた。とくに冒頭、場内が暗くなり始めたとき、「ママ、見て!」とスクリーンにあらわれた満点の星を指さしたのだった。
プラネタリウムを楽しむ子ども。また行きたいと言う子ども。そんな子どもを見ながら、私は、「いいぞ、いいぞ」という気持ちになっていた。星とか宇宙に興味を持つ子なんてなかなかカッコいいじゃないか、と感じながら、一方で藤田氏の「宇宙イデオロギーを批判する」という講義を思い出していた。
「これがイデオロギーに巻き込まれ、さらにはイデオロギーの構成員となる意識の原型なのだろうか?」
「人類は本質的に宇宙のなぞを解明したいと欲している」――これは今まで何度となくきいてきたことばであったし、とくに批判的な感情も持ち得なかった。そこには、自分が空を見上げたとき、プラネタリウムを見たとき、16歳の夏にカナダの山奥でひと晩に7つの流れ星を見たとき、七夕の夜、たいていは雨模様で見ることのできないベガとアルタイルの姿を厚い雲のはるか彼方に想像するとき、天文ファンでもないのに、彗星が近づくと見えたの見えないのと言い合うときに、地上から遊離したような不思議な感情が、この言説を裏付けているように思えたものである。

ここで縷々のべたような事柄は、本質的な宇宙論とは異なり、単に非科学をも含めた「星に関するお話」である。それでも、これらの感情が「人類の基本的欲求」に含まれるのであろうし、古代から続いてきた神話的な宇宙観が自分の名間も内在しているだろうと漠然と考えていたのだが、藤田氏の講義を聞いたあとでは、そうすることこそがかかる言説を強化していたのだろうか。そのことが20億ドルの望遠鏡やその他宇宙論研究に要する多大な投資を支えているのだろうか。
しかし、宇宙論に限らず、「人類がもつ知に対する欲求」は多くの場面で語られている。考古学しかり、海洋研究しかり、文学しかり、である。そしてそれぞれに、「過剰な意味を付与」しているように思うし、「抽象的な人間というカテゴリーを使用して説得力を高めようとするレトリック」と言うこともできる。これらが宇宙論研究ほどに多大な費用を必要としていないから問題にするに足らない、と藤田氏は言わないだろう。
すべての人類が「学問的探求」に従事するのは現実的ではない。高度に難解な学問であっても、一握りの研究者がこれに従事し、これをわかりやすく理解するために活動する人がいるという、いわば「役割分担」があり、中には興味を抱かない人がいるという分布があったとき、「人類は」ということばは使用不可能であるかどうか。そこに南北の問題を含めたときはどうか。もう少し、ほかの方の考えを聞いてみたい。
まとまらない感想ではあるが、その「まとまらなさ」が、現在の私である。講義が終わってからもこのテーマについて考え続けていたが、考えるほどにいろいろな側面や仮定が澎湃している状態である。【古田ゆかり】

 

「天文学、宇宙科学が一般市民に何をもたらすのだろうか」、という問いは、私の頭の片隅に常に置かれてきました。というのも、いきなり自己紹介させていただくと(今回の土曜講座は初参加でした)、私は、今年の3月まで名古屋大学の大学院で、地球に近い宇宙空間での自然現象(オーロラなど)を研究してきまして、この4月から来年開館予定の科学館の準備室で、特にプラネタリウムの運営に携わっているのです。大学院では5年間、研究者サイドの世界にいて、これからはその世界と一般市民の間の場所にたつことになります。
研究会での内容に触れず、自分のことばかり続けて恐縮ですが、何故そういった移行をしたかということについて少し書かせていただいてから、今回の研究会の感想と結び付けていきたいと思います。

宇宙科学をやるきっかけとしてのオーロラは、単純に憧れの対象でした。自分でもわかっていたことでしたが、これは宇宙科学に対する憧れではなく、アラスカに対する憧れでした。
それはどうであれ、言葉どおりに「オーロラを求めて」私は大学院へと進みました。研究者の世界を垣間みた私にとって何よりも面白かったのは、好奇心の固まりみたいな人たちが集まっていることでした。こんなに面白い世界にいられるのだったら、研究をやってみようという、なんとも不純な動機で私はさらに博士課程まで進みました。
しかし、一方で、何のためにこの研究をやっているのか、という私自身への疑問、そして研究自体への疑問は持ち続けていました。たとえば、「オーロラがなぜ爆発的におこるのか」という研究をすることがどんな社会的意義を持っているのか。こういった問いを何度か年上の研究者の方々に聞きましたが、ほとんどの人たちは自らの知的好奇心を満たすためのものとして研究を位置づけている、というのが私の感想でした。それがいけないといことでは決してなく、むしろ、ほんとうにそれを面白いと思える人がうらやましくもあったのですが、私自身は(長い時間費やしたけれども)どうやら宇宙空間の問題を本当に自分の問題にすることはできなかったのでした。研究するということは、取り組んでいる課題を、自分の問題(仕事とプライベート、などと分けられない問題)にして始めてできることなのだと思います。
さて、いろいろ悩む期間を経て、私は「人に興味がある」ことを、もっとオープンにしてもやっていける、というより、それをより生かした仕事をしたほうがよい、と思い、幸いにも、新しい科学館の立ち上げに携われることになりました。これはたまたま、なのですが、プラネタリウムを担当しています。まがりなりにも、研究者がどんなプロセスをふんで研究しているのか、どれだけ自然科学が人間的な営みであるのか、を見てきたので、それを伝えられる場所としての科学館を考えています。
日本のプラネタリウムは今でも星座、神話の話がほとんどで、来観者の希望も、最新宇宙論よりはむしろ神話を求めている、というデータは、どこでもそれほど変わらないようです。アメリカなどの天文学を伝えるプラネタリウムとは対象的です。気質や慣習、その他さまざまな違いによって生じるものだとは思いますが、何故そこまで違うのか、というのは面白い問題です。
プラネタリウムを運営するものとして、人々が宇宙に、あるいは天文学に、何を求めるのか、をもっと知りたいと思っています。
(いいかげん前置きが長くなりましたが、)こんな状況で、藤田さんの「宇宙イデオロギー批判」の研究会に出席しましたので、一般市民にとっての宇宙論、の意見は大変興味深いものでした。

自らの研究の「社会的正当性」のために、「宇宙を知ることは、生命の根元を知ることにつながる」といった研究者の発言が神秘主義に結びつき現実を批判する視点を失わせる、というのが藤田さんの「イデオロギー批判」の大きな要因をなしているようです。そういった研究者の発言のインパクトは確かに大きく、研究者はその責任の重さを知っているべきです。
私自身の感覚は、といえば、”自分のふるさとを感じさせる宇宙”発言には共感を感じます。この共感は、研究者としてではなく、むしろ一般市民として持っているものです。藤田さんのおっしゃるような「批判精神を失わされた」結果であるかもしれません。けれども、それがビッグサイエンスとしての宇宙科学を肯定することにつながるかといったら、それはまた別の問題ではないかと思っています。会の中でも話が出ていましたが、それぞれの人間が独自の宇宙観を持つことがやりにくい構造というのが、この社会にはあるようで、だからこそ、それを持つ重要性を認識する必要があります。

「宇宙」そのものは、それぞれの人間と宇宙のつながりを考えさせ、それぞれの宇宙観を持ついいきっかけを与えてくれる…私が「共感」をする故はそこにあります。そして、私はプラネタリウムの持つ可能性の中でも、非常に大きな役割として、その「共感」を大事にしたいと思っています。プラネタリウムは博物館資料としてかなり特殊な部類に属しますが、よい展示に必要なのが一般の人々の視点を持っていることだとすると、プラネタリウムで必要なのは宇宙に近い自分を感じさせる演出なのではないかと思っています。
一方、少し研究者サイドにたって言えば、宇宙科学に携わる研究者が、自分のとりくんでいる問題に対して、それが自らの生命に結びついていると感じながら研究しているとはあまり思えません。ただ、彼らは深い好奇心をもって、その課題を自分の問題として研究していることは確かです。
それを「人間の根源につながる宇宙の研究」という表現する場合もあって構わないのではないかと思います。ただ、ビッグサイエンスとして、巨額を使っていることに対しては、市民が正しくその研究を判断していく必要があり、そのためには、研究者は「人類のために」という大口をたたくというのではなく、研究プロセスを地道に見せ続けることが必要なのではないかと思います。それは、人間の営みとしての科学を見せることであり、私は、科学館やプラネタリウムが持てる可能性がここにもあると思っています。
その研究プロセスを踏まえた上で、市民が「人間の根源につながる宇宙」と言われたときに、それを自分とつなげてどう判断できるか…よい・悪いの議論ではなく、それについてどう思うかを議論していくことがその道であると思うと今回の研究会の意義が見えてきたという気がします。
今回の研究会の詳細は、ほかの方の文章ででてくるでしょうと勝手に期待して、この文章を書かせていただきました。私自身、模索している問題でもあり、一貫しない部分があること、お詫びいたします。今後も話をつづけていけたらと思います。【高橋真理子】

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