シンポジウム「市民がすすめる大学改革」資料 大学問題に関するアンケート(全18項目) 送っていただいたご回答の全文 2000年3月11日 制作:シンポジウム実行委員会

投稿者: | 1999年4月23日

シンポジウム「市民がすすめる大学改革」資料
大学問題に関するアンケート(全18項目)
送っていただいたご回答の全文

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2000年3月11日
制作:シンポジウム実行委員会

はじめに
郵送で約100人、電子メールでもおそらく100人ほどにお送りした「アンケート」に対して、ご返送いただいたのがこれらの回答です(ただし、匿名であっても公表を望まないものが2通ありました)。掲載は、ほぼ到着順です。氏名・所属の公表については、回答者ご本人のご意向に沿いました。
答えにくい、あるいは答えるのに労力を要する質問であったにもかかわらず、1ヶ月足らずでご回答いただけたことに心より感謝いたします。3月11日のシンポジウムを皮切りに、これらの回答をじっくり検討しながら、次のステップに向けて、また多くの方々にお声がけをしたいと思います。この「アンケート回答集」は、今後大学の問題を考え、改革を実行していく際のすばらしい手引きになると信じます。

●シンポジウム実行委員
上田昌文(科学と社会を考える土曜講座・代表)
猪野修治(湘南科学史懇話会・代表)
森 元之(北斗出版編集者)
加納 誠(東京理科大学理学部)
大学問題アンケート
質問項目(全18項目)
実施:2000年2月5日~3月5日

1●大学(および公共の研究機関、以下同様)が開かれた存在となるために、社会の他のアクターである「企業」「国家・行政」「市民」「地域自治組織」「他大学」「中等教育機関」などと恒常的にどういう新しい連携を持つべきでしょうか。あるいは既存の関係をどう改めることがポイントとなるでしょうか。
2●大学の独立性を高めるために、新しい財政支援の方法を上記のアクターとの関係においていかに位置付けることができるでしょうか。財政、資金運用面からみた現在の大学の問題は何でしょうか。市民が、たとえば「草の根研究支援費」などを設けて直接財政的に支えることの可能性についてどう思われますか。大学の独立性と生産性を高める従来とは違う「ファンド」や公的財政支援のあり方はとは何でしょうか。
3●大学(および公共の研究機関)の市民社会への開放度を具体的に検証してみます。
3-1●あなたの属する大学の図書館は一般市民に開放されていますか。もし開放されていれば、利用の具体的状況(入館手続き、貸出の有無、利用時間など)を教えてください。もし開放されていないのでしたら、どのようにしてその開放を実現していきますか。そのためにあなたは何をしますか。
3-2●あなたの属する大学は、教室スペースや付属研究設備などを一般市民が利用できるようになっていますか。もしそうなら、その利用状況を簡単に教えてください。もしそうでないなら、どのようにしてそれを実現していきますか。
3-3●現在あなたの大学で実施している市民向けの公開講座や、地域作りのための大学外部の人々との連携研究など、市民や地元地域と結びついた活動があれば、その概要を教えてください。また今後市民との連携を創出したり、強化したりする方向でどのような活動の構想をもっていますか。たとえば各大学に設置されることになる「運営諮問機関」(99年国立学校設置法・改正)に市民が参加して、そのことが有効に機能するためには何がポイントとなるでしょうか。
4●地域経済や地域文化と結びついた大学のあり方とは何でしょうか。地場産業の成長、地元のニーズにみあった技術の開発などを産学連携に取り込んでいくことはできるでしょうか。大学は地域に対してどう貢献できるのか、あるいは貢献すべきなのでしょうか。
5●「学問的成果の社会的還元」をどこまで検証できるのでしょうか。税金の使われ方の正当性をどう確かめるのが適切なのでしょうか。何らかのチェック機構を想定することができるでしょうか。学問研究の自律性とその社会的コントロールは、基本的にどういうバランスを保つべきでしょうか。
6●「大学を適切に評価する仕組み」とは何でしょうか。それはどうあるべきでしょうか。大学が行っている自己点検・評価はうまく機能するのでしょうか。第三者評価はうまく機能するのでしょうか。大学間、教授間、学生による評価、国際間比較評価、あるいは市民による評価……などのそれぞれの可能性と問題点は何でしょうか。
7●大学の人事・人材登用の面での一番の問題は何でしょうか。あなたの大学で、従来の枠組みにとらわれない、新しい多様な人材登用の事例があれば教えてください。いわゆる「学閥」や帰属意識に縛られた不明朗・不公正な採用・昇進・天下りなどを抜本的に改めていくには何が必要でしょうか。
8●大学人のモラル、自浄機能を高める(業者との癒着やセクハラ、研究上の怠慢などに対する厳しい処置)には何が必要でしょうか。たとえばいわゆる「御用学者」の存在をどう考えますか。たとえばその学者が政府の審議会に属し、自らの専門知見をとおして公的な政策判断の決定に関与し、その政策決定が社会に危害をもたらすような場合、その学者の責任についてどのように考えるべきでしょうか。
9●大学における女性差別の問題について、自らの経験から思うことがありましたら記してください。教育、研究、就職など大学に関連するさまざまな状況において、ジェンダーの観点からどういう問題があると考えますか。
10●外国人講師・教授の採用や、海外留学生の採用を大幅に促進していくべきではないのでしょうか。そのための前提となる「国立大学教員=公務員」という位置付けをどう考えるべきでしょうか。海外との学生の交換をはじめ、国際的な流動性を高める工夫はどの程度なされているのでしょうか。
11●これまで大学人として「市民セクター」とのかかわりを持ち、「市民のための学問」を実践してきた人々として誰を挙げることができるでしょうか。その事例からみえてくる現在の大学の問題点とは何でしょうか。また現在、大学以外の場でそうした「市民のための学問」を志向して新しい学問研究のあり方を提唱している人がいれば、それは誰でしょうか。その人の構想をどう評価しますか。
12●研究と教育のバランスを、教わる側と教える側の両者がともに利することができるように、どう作り出していくべきでしょうか。「教養部廃止」の意味合いは何でしょうか。「よい大学教師」とは、研究者と教育者の両面の仕事をどうこなしている者なのでしょうか。大学での「教育」は、正当に評価されているのでしょうか。
13●非常勤講師に対する待遇について何が問題だと考えますか。厳しい勤務・賃金条件、公的助成や運営に対する意思決定からの疎外、身分の不安定などの問題を解決していくために、大学自体が組織的にどう取り組んでいけるのでしょうか。あなた自身はどう取り組みますか。
14●情報化の進展、学びの機会の多様化の中で、大学での「学問」にどのような意義付けがなされるべきでしょうか。大学でなければ学ぶことができないこととは何でしょうか。社会人が必要に応じて学べる機会をもっと高めるにはどうすればよいでしょうか。無償で学ぶことを制度的に保証することは無理なのでしょうか。「生涯学習」と大学の関係はどうあるべきなのでしょうか。
15●「分数の計算もできない大学生」の存在をどう考えますか。大学生の知的能力や学ぶ気力の低下、大学の「レジャーランド化」という事態の構造的原因は何でしょうか。「学生の自治」は消滅したのでしょか。学ぶことの活力、知的な追究を自由に行うことの喜びを、大学が取り戻すには何が必要でしょうか。
16●「市民のための科学」を実現していくために、今後私たちが克服していかねばならない大学のシステム上の問題は何でしょうか。どう変えていくことがポイントになるとお考えですか。■

 

井口和基(フリーランス/理論物理学)

1●「企業」⇔「国家・行政」⇔「大学」「中等教育機関」が三角形を作りその間に「市民」「地域自治組織」が入るような関係が好ましい.既存の関係では,「国家・行政」⊃「国立大学」かつ「企業」⊃「私立大学」の関係になっている.
2● 財政、資金運用面からみた現在の大学の問題は,国立大学の場合,財政がすべて国に依存しているため,大学関係者が自由にお金を運用できないことである.教授,職員,秘書人事面においても,学生採用においても,あらゆる面で大学職員の無気力無関心を誘発するような財政運用制度になっている.例えば,1人の職員の人事ですら,大学学長にはその権限がない.そのため,教授が自分の部下であってもその責任の所在があいまいになり,手におえない(例えば,セクハラ行為などで)教職員が現れたとしても,退職させることができない.また,逆にノーベル賞を取ったり,優れた業績を上げたり,大きな栄誉を受けた教職員や学生が現れても,彼らに金銭面や表彰面で援助することができない.このように,大学の財政、資金運用面は,各大学の理事長や学長の権限で行なえるような制度に変えるべきである.「草の根研究支援費」などは,あらゆるレベルで率先して行なえるようにすべきである.
大学の独立性と生産性を高める従来とは違う「ファンド」や公的財政支援のあり方は,「大学の運営は財団法人としてできるようにすること」である.アメリカの大学のほとんどすべてがこれで運営されている.「大学が設立される」ことを英語では,”The university is founded”のように言うが,その”foundation”意味は,「財団設立」のことである.日本では,聖路加国際病院が財団運営されている日本で唯一の病院であるが,「地下鉄サリン事件」の時に見たように,この病院の極めて迅速な対応が多くの人々の命を救ったことは記憶に新しい.実際,この病院のホテルのような建物や病室は,およそ日本の国立大学病院のレベルとは異なっている.そして運営もキリスト教を基にして国際水準で運営されている(事実,教会が院内にある).
このように,財団運営が極めて大学にとってもどんな組織であっても自由と独立を増すための必要最小限の条件である.
4●地域経済や地域文化と結びついた大学のあり方とは,以下のようなものだろうと私は考えている.
例えば,法学部や経済学部や経営学部の学生が自分が学んだことをその地域の地場産業で実地見聞できたり,学生からの指導を受けたりすることができるような開かれた関係がある大学の事である.さらには,大学のスポーツスタジアムで行われる(サッカーや野球やバスケットやラグビーや水泳などの)競技に地元の人々がレクリエーションとして応援や見学できるような大学の事である.さらには,ダンスパーティーやクラス会など市民の行事が大学のキャンパス内で(例えば,ホールなどで)自由に行われるような大学の事である.
アメリカの州立大学はすでに数十年前からこういうことがごく日常的に行われているのである.
5●「学問的成果の社会的還元」は現在のところ日本では全く考慮されていないと言える.大学研究者は「我々の税金からくる研究費をどれだけ使ったか」で評価される.そうしてたくさん使った結果ある人が良い研究で有名になったとする.するとその人は日本のマスコミや様々な場所で「講演」することによって講演費を稼ぎ,「個人所得」を増やすことができる.そして彼らはそれが「学問的成果の社会的還元」と考えている.本来なら,こういう講演費は大学に回るべきであるが,現実は副収入に計上される.つまり,大学の良い研究者は,税金を湯水のように使い,その結果今度は講演費を儲けることで自分のステイタスを評価する.これでは税金の節約ということはまったく行われないだろう.
アメリカの場合,研究者はNSF(National Science Foundation)などの研究助成に申請し,もし申請が通れば,自分の得た研究費の15%は自分の成功報酬として個人で使うことができる.そして,さらに50%は大学へ還元される.残りの35%程度を自分の研究のために使うことができる.従って,良い研究プロジェクトを提案できる研究者はどんどんリッチになるが,無闇に税金を浪費することはない.また,自分の仕事上の講演で儲けたお金は,大学のものとなる.
このように,研究開発に関する制度を欧米式に変えない限り,特許権の問題や公私混同の問題は解決できないことになる.
6●「大学を適切に評価する仕組み」は,公的な第三者機関(オンブズマン)が大学のすべてのアクティビティ-をチェックできるようにすることである.大学が行っている自己点検・評価は,日本の場合うまく行かない.なぜなら,日本的あいまいさや温情が入るからである.
大学間評価は,上で述べた「公的な第三者機関」が行うべきである.さもなくば,大学の既成の序列や予備校などの評価だけがひとり歩きしてしまうだろう.
教授間評価は,各大学の学部レベルで行うべきである.良い意味で教授間でも正々堂々と競争すべきである.いわゆる「根まわし方式」で行われる大学教授人事の弊害は押して知るべしである.
学生による評価は,講議クラスごとに学部レベルで行うべきである.これはその教師の給料に響くようになることが好ましい.これなくして,大学の素晴らしい講議は期待できないからである.
国際間比較評価は,すでにアメリカの「公的な第三者機関」で行っているので,それを参照すれば良い.日本の大学は,アメリカの大学を除く世界の大学ランキングで,100番以内に1,2個しか入らないのが現状である.この原因はどこにあるのか日本の大学関係者や文部省はもっと真面目に考えなくてはいけない.
市民による評価は,さまざまなレベルでどんどん行うべきである.
7●日本の大学の人事・人材登用の面での一番の問題は,以下のようなものである.
1)まず採用する場合,「講座制」が最大の障害である.人事は学部レベルで公開して学生も参加して行われるべきである.
2)一方,一旦採用した教職員に対して,教授に部下を首にする権限がない.同じことは,理事長や学長にも言える.理事長個人に教授を首にする権限がない.そのため,とにかく一旦採用されることが大事で,採用されれば半永久的に大学に「居座る」ことができる.これが日本の大学を大きく荒廃させている原因である.
3)アメリカの差別禁止法案やAffirmative action法などを運用している大学がないこと.そのため,人事にはいつも35歳未満とかの「年齢制限」が付く.そのため,大学の流動性を著しく阻害している.
4)各省庁の「系列」があるように,日本企業にも企業間の「系列」がある.これはいわゆる「財閥」からきたものである.大学にも同様な「系列」関係(いわゆる,学閥)があり,これが大学の大きな問題である.大学人事でも,これが極めて顕著に働いている.どんな馬鹿でも東大卒はどこか地方の大学職員になれる.これが地方の市民を「侮辱する」行為であることを大学関係者は早く気付くべきである.
「学閥」や帰属意識に縛られた不明朗・不公正な採用・昇進・天下りなどを抜本的に改めていくには,官僚に対する規制法案のように,こういうことを禁止する「法案」が必要である.さもなくば,全く大学関係者は,自分が天下りしているとは考えないだろう.同時に,定年制度も改革して,退職年齢を引き上げる必要もある.
8●大学人のモラル、自浄機能を高める(業者との癒着やセクハラ、研究上の怠慢などに対する厳しい処置)には,「大学裁判所」,「聴聞委員会」,「ホットライン」などを設置する必要がある.アメリカの大学にはすでにこうした組織は存在し,アメリカの大学人の質の高さを維持するのにたいへん役立っている.
その政策決定が社会に危害をもたらすような場合、その学者の責任は,極めて重い.従って,そうした場合は,「大学裁判所」,「聴聞委員会」等を通じてその犯罪行為が「クロ」となった場合,「免許剥奪,学位剥奪」して「永久追放」すべきである.
9●日本の大学は,equal opportunity/affirmative action法を採用すべきである.
10●外国人講師・教授の採用や、海外留学生の採用を大幅に促進していくのは当然である.外国語教育などでは当たり前になる必要がある.「国立大学教員=公務員」の問題は,上でも述べたように,大学職員の本来のミッションからすれば,それは不適切である.もっと柔軟な,よりプロ化した雇用形態が必要である.例えば,プロスポーツ選手のような「契約金,年棒制」が良いように考えられる.
11●例えば,宇井純氏がいる.この時の問題は,こういう「市民の側に付く科学者や学者」は,万年「助手」などのように出世街道からはずされ,干されてしまうことである.こういう場合は,文部省やその大学がこういう人事を行っていることをマスコミに公表するのが一番適している対抗策だろう.
12●日本の大学に限らず,日本人に一番理解しにくいことは,「学問は職人芸ではない」ということである.ところが,日本人は,どうしても学問を一種の「職人芸」と考える習慣があり,例えば,物理学でも数学でも何でもその専門の職人であると見なしてしまう.そのため,いわゆる「講座制」に見るように,一人の学者と一つの学問が強烈にリンクしてしまう.しかし,学者は「新しい知識を生み出すこと」が生来の仕事なのであり,「既知の知識の集積」が目的なのではない.だから,学者は未解決の問題に答えることが仕事なのであり,学問知識を整理することが仕事なのではない.同様に,学生へ教える場合も,新しい事実や新しい真実を教えることが仕事なのであり,既知の知識の切り売りが本来の仕事なのではない.
これが理解されていないために,教養は教養部が教えるとか,教育は教育課程の人が教えるというように,物事が分断し固定化した形で捕らえることが問題である.そのため,「教養部がなければ,教養を教えられない」というような誤った考え方に導かれる.問題は,「教養学部が教授にとって必要かどうか」ではなく,「学生にとって教養が必要かどうか」ということである.したがって,大学生には教養課程はどうしても必要であるが,そのために教授側にとって教養学部を設置する必要は必ずしもない.
アメリカの大学の場合,教養科目は何単位必要,専門科目は何単位必要と学生には明確に規定があるが,教授達は教養学部にいるわけではない.その科目に必要な適した授業を用意すれば良いだけの話である.
この意味で,「教養部廃止」の意味合いはまったく何の影響もない.しかし,上で述べたように,人と学問をリンクして考える日本の大学関係者には,一見重大問題に見えることになる.
「よい大学教師」とは,その時代の学生のニーズに真に答える授業を行なえる学者である.ただし,この時,大学院教育と大学教育を分けて考える必要がある.前者は良い研究者=よい教師になり得るが,後者には必ずしもその条件は必要無い.むしろ,初学者たちをいかに条件付けること,動機づけることができるかの能力が問題であるからである.
日本の場合,この2つの区別がないことが問題である.
13●私個人も非常勤講師をしたことがあるが,非常勤講師に対する待遇についての問題は,何よりも使われた時間に対する報酬–給料–が低いことである.大学の授業レベルの内容を教えるのに,高校の大学受験の塾や予備校の講師よりも給料が低いのでは,だれもまともな準備をして授業を行わないだろう.毎日適当にお話して,それで単位をやればただで予備校なみの給料がもらえるのだからその方に人は流れるだろう.何の保証がない分,給料が上がらなくては本来ならいけないだろう.
14●この問題は,いわゆるペーパーテストの大学入試を廃止することである.授業料を支払えば,誰でも授業を聞けるようにすることである.これが「生涯学習」の最低の条件である.アメリカの州立大学ではすでにこれは実現している.さらには,70歳以上は授業料免除のように「シルバー制度」まですでに完備している.
大学での学問の意義付けは,大学だけが全く初等レベルから最先端レベル(博士レベル)までの用意周到なプログラムを持っていることである.
15●「分数の計算もできない大学生」ばかりでなく,すでに「太平洋戦争を知らない大学生」,「イギリスの首都を知らない大学生」「漢字を読み書きできない大学生」等すべて現れている.だからこそ,オウム真理教の麻原や他のカルト集団の首謀者をあたかも「偉大な人間」と錯覚してしまうことがあるのだろう.また,大学生の知的能力低下ばかりでなく,その親,その祖父祖母の知的能力の低下は目を見張るものがある.これらすべて,大学が「若者のため」と狭義に日本では捕らえられてきたことに結果である.
学ぶことの活力、知的な追究を自由に行うことの喜びを、大学が取り戻すには,大学に「本物」のスポーツ選手,科学者,音楽家等,本物を大学内に集めることである.
16●まず,日本社会に「(市民のための)大学都市」を少しずつ建設してゆくことだろう.そして,文部省からも,政府からも,企業からも独立した真にアカデミズムの世界を早急に構築することだろう.さもなくば,そうした社会を欲する人々の中には,誤ってオウム真理教や原理教や統一教会などを疑似アカデミズムとして捕え,誤った道に進んでしまう若者達が絶えないだろう.

 

渡辺勇一(新潟大学・理学部・生物学科)

1●現状で、私は大学の顔の向け方については種々の不満を感じていますが、一度に解決する方向は無理だと思います。何故かというと、財政・運営などについて、多大な影響を省庁を始めとした官僚が有していて、独法化が実現すれば更に従属(評価)と財源の交付という最後の閂がおろされる様な方向が進んでいるからです。
市民に開かれた大学とは何であるか? それについて、私は最近同僚にメイルを発信したばかりです。「科学と幸福」(著者・佐藤文隆、岩波現代文庫)の、162~163ページにある、「地域アカデミー」のすすめ、です。
大学の教員と、地域の各種の階層の人が「交わりの場」を作り、講演会、研修会、懇親会、機関誌の発行などを通じて、あらゆる問題をあつかってゆくというものです。
開かれた大学に市民が種々の意見を提示するということは、学問の有る程度の理解、あるいは大学の教職員の有している固有の問題を理解することなしには進まないでしょう。
このような学問への接触と、問題点を共有しつつ、大学の教員も市民(教員以外をこうまとめて呼ぶことにします)も、共に成長してゆく必要があるのです。
★上の理想はアメリカなどで実現されていると佐藤氏は記している点について、日本の大学の研究者(私は理系なので、この範囲に限って)は、欧米や韓国、東南アジアと比べても、テクニシアン(技術補助者)を持たずに、器具洗いから動物の世話まで、全て自分でした上で、授業・実習・運営・公開講座・などをこなしているという余裕のない実状にあるので(実にこの点に、日本の大学が開かれた時間を持てない根本原因があります。気が付いていない教員もいるかも知れないけれど、私の留学経験では、研究者と同数のtechnicians が存在していた実状を見て驚きました)。
運営面について見てみましょう。極めて最近、国立大学設置法が変わった事によって、新たに大学に運営諮問会議というものができ、ここに市民が参加できることになりました。我が大学の場合、しかし知事、市長、銀行頭取、教育委員長などを指名するだけで、一般市民を考慮していません。また、この会議は大学以外の人間のみの集まりで、実質的な大学との議論が実現できるのか大いに疑問ではないかと、私は教授会で質問したことがあります。この時に山口大学の例を出して、山口では一般市民に大学についての作文を書いてもらって、これを元に委員を選出するという事をしている事も述べました。
この設問に対しては、まだまだ展開されなければいけない事があるのですが、既に相当な文になっているので、別の機会にしたいと思います。
2●市民は納税者として、正当な金を国家に払っているのですから、それと別に再び再生支援の方法などを考えるのはおかしいと思います。それに巨大な金額(17兆円が1996年から2000年までにしよう予定)が省庁を経由して配当されるのですから、ちょっとした基金など、太刀打ちできません。
財源を通じての支配というのは、どこの世界の、いかなる組織でも鉄則ですから、極めて断ち切ることの難しいことです。まずは、科技予算がどのように配分されているかを知るところから始めるのが良いのではないでしょうか。実は科学者でさえも、ビッグサイエンス、巨大プロジェクトの名のもとに流されている巨額の金の全体の動きを知らない人間が多いのです。私はことあるごとに、これでよいのか巨額予算の当て方、使われ方という項目で種々の場で発言しています。
言っておかなければいけない事に、どの分野にいかにお金を使うべきかという事を決定するのは、科学をしている人間にとっても、大変難しい事なのです。しかしこの難しさをこの2~3年、無理に突破して「競争的資金の配当」「提案公募型プロジェクト」などの名目で進めていますし、また独立行政法人が実現した暁には、評価権が行政側に移り、いとも簡単に財源の配分が(何によって?と私などは心配しているのですが)決められる法律が既にできているのです。このような状況では、市民が細々と科学を援助する方向ではなく、何が研究・教育予算の面で起っており、今後進むかについての問題を知る方が先であろうと、少なくとも私は断言します。
3-1●解放はされました。私は、公開講座委員をしていますが、「大学が公開講座を一生懸命実行しなさいと我々に言うのなら、図書の解放もするべきではないか」と、委員会の席で強く要望したことがあります。このために解放されたのかどうかは自信がありませんが、去年(?)くらいから変わりました。しかし学術的な要求に基づいた利用などという、まだ面倒な規定のようなものがあります。
3-2●なっていません。いくつかの問題を指摘します。
教育・研究者が利用するだけで、結構手狭・老朽化している所が多い。図書なら解りますが、研究施設をどのように利用しようというのでしょうか。設問の意図がやや理解しがたい所があります。私が留学した、結構開かれた大学でも、講演会に人が自由に来たりした事はありますが、研究施設の利用など、理系では考えられない事です。使用の説明、管理などに立ち会っていれるほど、余裕がないことは、1の設問で触れました。
3-3●公開講座について簡単に紹介。全学企画が毎年文系・理系でひとつずつ。学部による企画が10余りの学部・研究所で隔年に出す。その他、高校生のための化学の実験講座、臨海実験所の夏の学校の様なものなどあり。また、高校生が大学説明会を見たり、大学生の時に種々の催しを見ることもいれましょう。
4●この問題も大変大きい。私は工学部の様子を余り知らないのですが、工学部でも地場産業との連携がそれほどではないように思います。地元の新聞記者とも語ったことがありますが、地域への貢献という場合、その地域内の産業に貢献したり、歴史・地理を研究したりということもありますが、むしろ地域というローカルなとらえ方から、もっと世界的な視野でものをみることができる人間が、その地域に居て、世界の学問を語る、国際世界の状況を学生に的確に説明するといった事だって地域への貢献なのだと思います。最近どうも地域の中に大学を閉じこめようという動きすら感じます。新潟には、オギノ通りという道があって、女性の排卵の時期について、世界的に貢献した荻野博士がここらに産科医として開業していたのです。オギノは世界のオギノになりました。彼の研究には、新潟であるという必然はあったのでしょうか。
またあり得ないかも知れませんが、物理・化学・生物の学問で新潟からノーベル賞授賞者が出たとした場合、それは、新潟の地域にその人が存在するということで、大変新潟へ貢献したことになるのではないでしょうか?
湯川博士が京都大学でノーベル賞を受賞したことは、後々まで京都の名誉になったのだと思います。勿論、京都の古い歴史や遺跡を研究する意義を否定するものではありませんが。Not to be too local ! と言いたいのです。
近くの巻というところでは、原発問題が有名になって、住民投票などが行われましたが、この際に科学的な見地から講演会を何度も行いました。私も微力でしたが、会の設営、講師の選定(科学者が一番相応しい人を知っていて交渉などが可能)、自ら学ぶ場ともしました。研究室だけが地域への貢献の原点ではありません。住民運動との関わりという点からも見る必要があります。
もうひとつ、人間の活動として、種々の裁判・解雇問題などに、知識人として参加する(かなり政治的なものになる場合もある)ことは、地域という範囲内で起こることが多いと思います。種々の訴訟では、法学専門の人だけでなく、理系の人も異なる立場から参加する可能性があります。今は余りありませんが、DNA鑑定など、大変問題の多いもので、この点で訴訟が起こった場合、生物学者が役にたつ場面がでてきます。また科学という立場を超えて、ミナマタの患者を人道的な見地から放置しておけないという立場で動くことを大学人がしてはいけないという事はないでしょう。科学の面からも、人道の面からも両面から協力は可能なはずです。
5●この問題は学問の実例に深く入らなければ、実のない話しになるでしょう。ポイントは設問4と同様、余り短兵急にならないことです。実用的かどうかという点ではメンデルがエンドウマメの背丈の遺伝などについて、研究発表したときに、それが現在ほど、意義があるとは全くだれも思わなかったはずです。また宇宙の出来かたが今解ったからといって、我々の生活の何が変わるでしょうか。
根本的には、ミミズのような目立たない動物がどのように生きて、体がどのようなしくみを持っているかを考えても、「知る」という営みについて、市民は余裕をもって接するべきです。市民と逆の方向に認定されるかどうか不明ですが、「財界」は、利益をもたらす研究のみが価値があると決めてかかって、種々の科学技術政策の中に財界の意志を通そうとしています(総合科学技術会議が、内閣府におかれることになったのがその例)。社会的コントロールという時には、一般市民がのけものになっているのに、言葉だけ civilian control の様に使われて、実態が伴わない歴史が繰り返されています。任期制のときだって、市民はどれほどその議論に参加しましたか。また話しは違いますが、介護保険の実施が迫っていますがこの制度を作る上で、市民はどれほど「勉強し」「提案する」程動きましたか。
官僚と財界が強い国ですので、まずこれも動かしている力を知るべきでしょう。
研究の発展については、無理にコントロールをすべきでない(予算を巨大に使うか否かといった時点では議論すべきだけれど)、何を研究テーマとするかを、その分野以外の人間が言えることではないのです。人から押し付けられた研究課題を積極的にする事ができないのが人間なのです。我々研究者でさえも、この道筋で進めば、このような発見がある、などと断言できないのが、研究の常態なのです。
ですから、科学者ほど、評価やコントロールの難しさを知っていて、なかなか互いに評価する道を取ろうとはしません。この点では、沢山のノーベル賞を取った研究は有名ですので、どのようにして、その研究成果が得られたかの道筋が良く記録されていることが多いので、学ぶに値します。「ノーベル賞の決闘」なども大変示唆に富んでいます。ある期間重要と思われる課題に財源を投資して、ろくな成果がでないので、もう予算を取りやめるかどうかという場面がでてきます。もしあの時点でとりやめれば、不妊などの仕組みについての脳と脳下垂体の関係の説明、臨床的な知識の解明がどれだけ遅れたことでしょう(実際には予算は0とされず、2分の1にされたにとどまった)。
6●5大学の自己点検・評価については、内部から見ていると大変貧しいものであることを実感する。
アメリカのccreditation の進め方に比べると、学生の教育をいかに進めるかという観点が乏しい。いかに不利な条件でも努力して頑張っているかを強調するために、問題点が消えてしまっているのが実状。第三者評価も、良い評価をしてくれる知り合いを捜すなどの傾向が見られる(文部省も知っている)。
再びアメリカの評価活動を見ていると、足りないところは、物なのか、内部の努力なのか、を峻別して、物不足は州に要求を強く求めるといった方向を取っている。我が国の場合、物の不足があっても言わない、内部の努力不足も隠蔽するといった状況でも自己評価書が進められて、分厚い書類が作成できる所に問題がある。もしハード不足を指摘された時に文部省や大蔵省が的確に応えるのであれば、大学側も変わるであろう。現状では余りに支配の構図ができすぎていて、このような指摘ができないのである。
今大学の中は、少しでも弱点を見せまいとする傾向が強いように思う。このために、最低限のアリバイ的業績を出している状態では、相互評価、教授間の評価などで、どう切り込んで良いか互いに掴めないのが実状であろう。
国際比較を行う点では、項目1で指摘したように、大学教員の実状(補助員の差)などをきちんと把握しないと、片手落ちになってしまう。
学生による評価は、当大学でも何年か前から行っている。事前に心配された程の無責任な解答がされることはないが、現在の様に読書をほとんど買わず、図書も借りずの学生による評価活動は、限界があることも事実。余りに一方的な教え方、説明不足の授業などの改善には効果があるであろう。しかし板書をノートに写す順番と同じにやってくれ等という要求が小中学生の言葉と同様にでてくるのには疑問を感じる。教室の中で講義を受けていて、黒板に書かれる言葉は、たとい近くに書かれたとしても、時間的に差をもって書かれたはずである。このような事を認識しないで、板書が悪いと答える学生が多すぎる。
まとめとして、評価というのは、あらゆるグループによってなされる必要があると思うけれど、萎縮しないような切り口で(評価が財源の配分と「直ちに」リンクするとなったら誰が萎縮しないで伸び伸び筆を運ぶことができようか!)露骨な反応・処置によって報復される状況で行われることのないようにしなくてはいけない。
また、誰が何を評価するにしても、自分が絶対であり、この評価で運営・組織や待遇が一度に変わってしまうという様な drastic なやり方を取るべきではないと思う。複眼視野をもち、長い目をもたなければ、愚が賢を滅ぼしたり、評価が良くなるためには、デッチアゲ(データの捏造を含め)が起こってしまうという、悪が正を歪める事態が生ずるのである。英国の Times に出ているような、項目の点数評価の合計点でランクを毎年決め(英国人は、この結果にどの程度一喜一憂しているのだろうか?)るといった方法を私は余り好まない。点数で計るときに落ちるものがあるだろうと思う。
7●私は、この大学に全く業績だけで採用され、その後の人事も閥や、情実など全くなしに行われている。当理学部には、省庁の勤務経験者や企業に勤めた人も教員として入っているので、有る程度は多様な人材が登用されていると思われる。
我々が生物学科で行う人事で、(当たり前と思われるかも知れないが)他にないのは、研究論文業績だけでなく、学生教育に関して「授業科目名」「授業内容」などの実績も書いてもらうことである。こんな簡単な事が行われず、論文だけでほとんどの大学が行われ続けているのが実状。敢えて、高等教育フォーラムにもこの件については投稿したことがある。
8●学問・教育を行っている人間だから、モラルが高いという事は思いこみである。それなりに自己顕示欲が科学の研究には必要であるが、これが高じると悪に容易に結びつく。手柄を立てようと犯罪を取り締まる警察に腐敗行為が出ることと共通する。
子供の頃に、クオレ物語りなどを読んで涙した教員は、長じてから不正行為を余り行わないように思う。子供時代の教育に尽きるように思うのだが。
日本と米国の高校生を比較した書籍で述べられていることであるが、米国で「自分が損しても正直な行為を貫く」という教育が徹底している反面、我が国は家庭でも学校でもそのような教えを受けることがないとの事である。このような教育が徹底していないところではモラルの形成が社会全体で低下するから、特定個人が清く行動しようと思ってもスポルされることが多い。
「御用学者」を確信犯的に行っている場合には、罪は明白である。しかし、自分の道を信じて悪と思わずに政策に協力した(マンハッタン計画の様な場合、反ファシズムという行為は確かに悪とは思えない難しさがある)様な場合、どこまで裁くことができるのだろうか。現在でも行革会議、中央省庁等改革推進本部顧問会議などに関与し、活発に独法化賛成の意見を述べている学者は、当方からすれば御用学者で、学問を滅ぼすと考えるのだが、これが絶対に当たっているか否かは、その学者がもう学者活動を辞した老齢になってからでないと判明しないのである。老いた人間をむち打つことは、東洋では困難な行為の一つであろう。
9●これも、いくつかの会合で私は発言していることであるが、男でも業績をあげるために、相当余裕のない生活を(研究補助者が貧困なため)余儀なくされている状況で、女性がこの競争に加わるのは、大変な事である。もし研究補助者がお産をした婦人研究者の指示を受けて、研究活動を続けてゆけるような条件が整ったら、話しは大変変わってくる。男と女が家事の分担問題でどうこう(これなどは、私は超越していて、料理洗濯が大好きであるから、当方の家庭では何の問題もなく、専業主婦である妻を私が助けている)争っているのは、Gender間の狭い争いで、貧しい研究環境を放置している官僚の責任など何も追及する方向が生まれてこないのである。
上記の様な立場の人は現状では少なく、ほとんどの男性研究者は、女性は能力が乏しいなどという評価に固まっているように思われる。
10●まず私の大学の実状から話すのが良いと思います。
*外国人教員:理学部では、1年~半年の契約で、学科を順番に外国人の教員を招いています。研究の交流が第一で、国籍は中国、韓国、ロシア、オーストリア、イギリス、などなど、多様です。しかしこのような契約教員は、学生の教育には2~3回の講演(お国の実状や、自己の研究ばなし)をするだけで、専門教育に深入りしていることはないように思います。この籍は、一時大学生が大変に増えた時の臨時の籍で、いつ返却を迫られるか解らない部分を使っているのです。
*留学生:学生の交換については、交流協定を結んでいる大学(黒竜江、マルデブルグ)とは、有る程度のことを行っています。例えば夏に20人程度の学生を短期に招いたり、国際交流協会のプロジェクトに応募して予算が得られています。国費の留学生は圧倒的に大学院に多くて、特に文系の大学院では東南アジアの学生によって学位を取得する学生は占められている状態です。
教員に優秀な研究者をどんどん雇用したら良いという発想には、全面的に賛成しがたいものがあります。日本の研究者・研究補助者は、50年も続く公務員の定員削減(マッカーサー時代に制定されたものと思います)により減少を繰り返して、今、若手が構成員の中で存在せず(私の生物学科も助手という若手の籍が0であり、これは異常である)、将来の研究を背負って立つ人材が確保し難い状況になっていることをまず市民の方も理解する必要があるでしょう。確かに外国で優秀が業績を出している教員・研究者があっても、日本の中の人材を(特に若手)育てる事をしないで、根なし草に花を接ぐ様な事をしていては、未来は危ういと思います。私はいわゆる愛国者ではなく、日の丸・君が代を押し付けてくる今の世の中には、大きな疑問を持っています。
しかし、パスツールも自分の国を常に意識していたように、自国の研究、研究者を全く考えずに、国外から優秀な人材を無制限に集め日本の研究者の口を今以上にせばめてしまうことに抵抗を感じます。
後で、大学生の学力低下問題がでてきますが、このような外国人の教師が授業を行うとしたら、英語になるでしょうが、現在の大学生は英語の授業どころか、日本語の授業ですらついてゆくのが大変なのですから、授業をどうするのでしょうか。優秀な学生だけを相手にしていれば良いという反論もあるかも知れません。しかし学生の頃に何でも記憶確かに覚え成績が良いものだけが研究者として成功するものではありません。裾野を広く考える必要があります。
もっと言いたいこともありますが、この辺でこの項目を終了します。
11●大学と地域のところで申し上げましたように、大学の学問と市民の関わりを、余りに浅く考えないようお願いします。大学を出て、市民の接触時間を多く持っている人間だけが、市民のための学問をしていると判定されるのでしょうか? 以下に市民と大学の関わりをいくつか記してみます。敢えて人名を上げるとすれば、下の文中にもある、家永氏などが最有力。
・)市民が公害病などに曝されている時に、測定などをしてデータを作る
・)また企業などによって、事実が歪められる事を正す役割をする
・)文化セミナー、公開講座などを沢山行って市民に話をしている
ラジオ・テレビ(著作)など直接でない場合もある
・)裁判などを法的な側面から市民のために運動を支える
市民が起こした裁判もあれば、家永氏のように、自ら起こした裁判もあるでしょう。
・)文化財の発掘、調査を通じて市民と共に活動する
・)自然保護団体との共同活動
・)市民とは接触がないけれど、環境ホルモン、薬害、医療などの問題を著作を通じ危険を訴える
遺伝子組み替え産物、原発などの場合もこれに当たる。
・)政治家・官僚・財界などの問題を市民に訴え、改善する
例えば日本政府は、日米構造協議という場で、630兆円もの内需拡大を迫られ、これを公共投資計画を作ることで応えた。この影響が、全国のダム、埋め立て、空港などの問題で根っこにある。戦争に向かって行く場合も、この状況が当てはまるでしょう。必ず戦争は、情報操作をしながら、真実を隠蔽しつつ進められるものだからです。戦争がなくても、マスコミの統制自体を指摘して、常に市民が正しい情報を得られるようにする等も(大学教員だけの仕事ではないにしても)重要でしょう。大学には腐ってボロボロなりつつあるけれど、また危機に瀕しているけれど、学問の自由といって、何を研究しても(権力に都合悪いものでも)良い自由があるのですから、それを有効に使わない手はないのです。
さて、繰り返しになるかも知れませんが、文化としての学問を発展させるという表現を取れば、市民にとって、無意味なものなどあるのでしょうか。それともこれは余りにも広すぎて、市民には取捨選択して、不要と思う物を切り捨てる方が税金の特になるのでしょうか。簡単に結論をだすことは難しいのですが、議論をしてみる価値はある問題です。余りにも大学と市民との接点がない今の様な状況を見ていると。
もうひとつ、学問をやさしく語り、市民に学者・教育者は何を追及しているのかの「語りの場」が、現代の忙しい論文競争の中では失われて久しいのだと思います。その代わりをテレビの科学番組などがしている状態ですね。
でも、余り学問が進むと、説明が隔靴掻痒ということになるのも避けられません。
12●これも私自身の経験から語らせて下さい。ある日、以下のようなメイルを学生(東京工大在学)から受けました。
>教育を充実させようと思ったら講義に力を注ぐ(時間を使う)研究を充実させようと思ったら論文に力を注ぐ(時間を使う)とこのように対立が起こると思うのですがこの対立の解消法としてどこを切り崩していくべきだと思いますか?またどのような解決法があるとお考えですか?できれば制度云々といったような上任せではなく小さい変化でも身近で行えるブレークスルー案を見つけたいと思うのですが。
この問題は大変切実でありながら、誰も正面切って論じていないものだと考えかなり長いメイルで応えました。こここに全文を引用するとvolume が大きくなりますので、<付記1>とすることにします。
教育を本当に改革しようと熱意を持っている教員にとって、現在の大学の状況は必ずしも住み易いものではありません。大学審議会や、財界、官僚が矢継ぎ早に、種々の提案をしてくるからです。下にあげる制度改革は、本来ならば悪い物ではなく、事前にゆっくり議論が大学内で行われれば良いのですが、今ではとにかく力ずくで入れられるといった進行が多いようです。
インターンシップ、セメスター制度、秋季入学、飛び級、学生による評価、GPA(Grade Point Average)など外から言われる改変を、どのように実行するかばかり討議して、自分達の学生がどのような事に不平・不満を感じているかを察知しないで、改革だなどと忙しくしている大学もあると私は確信しています。授業シラバス作成なども、文部省の外圧(冊子を見せる必要性が生じた)によって、進んでいった経緯があるのです。
教養が何故なくなったか、これも大学側で不要とした状況があったとは全く記憶にはないことですから、政策として行われたのでしょう。推測するところでは、教養教育(戦後アメリカの教育視察団がきて、日本の教育者と討議をして、General Education というものを(戦争の後始末=財閥解体等と同様の事)実施したのですが、残念ながら日本人のおおよその教員には、その制度を生かすことができず、欠点ばかりが現れたようです。教養教育は、真の文化としての学問を修得した人間にしかできないのですから、学生が不満を覚えるのが当然です。全く未確認の話しですが、時の首相の孫が、大学に進学して、教養の授業がいかに面白くないかを、爺様に話したことが教養部廃止の動きになったなどという情報もどこからか流れるのも、あながちウソではないかも知れません。
13●項目10で書いたように、国立大の若手教員の定員は減るばかりですから、その様な、雇用口の減少のために、非常勤で稼がざるを得ない(企業にはこのような人達はなかなか入る気がしない、研究好きの人が多い)事態はますます、今後も増え続けることになるでしょう。それどころか、筑波の研究者などでは、技術の派遣社員(博士など学位をもっている)で仕事を依頼することが常態になっているのです。私のところにも人材派遣会社からいくつかの手紙がきています。 8
条件の悪い非常勤講師を何年も続けて年老いた人の話を何度か聞いたことがあります。もうけを第一と考える私立大学の理事会、他人が差別されていても自分のことで精一杯な教員、リストラ社会の中での我慢強要、などなど、壁は余りにも強大で、私がその中で何をするかと言われても、そこまで手が回りませんというのが偽らざるところでしょう。
14●幸か不幸か、少子化に向かう中で、大学の中で市民に対して教育を行う動きは強まっています。但し、定員削減が25%など実施されてくれば、その内実は大変質の落ちた物になろうと思います。
私自身、テレビの講座を色々みますが、30分程度だと、本当に学んだという実感はそれほど得られない様に思います。しかし学びのために、このようなテレビ番組が大きな寄与をしていることは間違いありません。
大学は、このような情報社会の中で、何をすべきか? 大変根本的で難しい問題提起で、直ちに良い考えをまとめることができそうもありません。
私見では、高校までの「大学入学」に隷属した「疑似」勉強では、人間は本当の喜びを知ることは難しいのではないかと思います。ある事物が、どのような疑問から、どのようなプロセスを経て解決されてきたか、そこにどういう人間が関わってきたか、ここまで掘り下げた勉強を必ずしも大学の教員の全てが行っている訳ではありませんが、何割かの教員は深い物をもっていると思います。こういう真の学問形成について語るのは、まとまった時間を要するし疑問を受けながら双方向で行う必要があります。こういった教育の場として大学は存在するのかも知れません。もうひとつ、自然科学では大変技術が進んでしまって、高校の教科書にも電子顕微鏡の写真がでているほどです。実際に電子顕微鏡に触れたり、それを動かすという経験も一般市民にはとても難しいでしょう。このような実験装置から得られる体験もテレビでは限界があり、それを保有している場での実技が必要でしょう。この様な点でも大学や研究所は意義を持つのですが、余裕がなければ市民のためのプログラムをこなすことはできないかも知れません。
15●この問題だけでも解決したら、日本の教育関係者一同万歳を叫んで、一大パーテイを開催することになるでしょう。
問題は総合的です。大学だけの問題に限れば、悪役は全て大学になってしまいます。現在の大学への種々の脅迫的改革は、このような論法に立って、誰か(財界)のために大学を変えてしまおうというものです。市民のための大学作りは、まやかしのための表現に使われているに過ぎないことをまず見破る必要があるでしょう。
その上に立って、更に論を進めてみると、原因として多数のものがあっても乱暴に一つに絞ってしまうことも可能なのが、この問題に関する特徴とも言えます。
教師が悪い、家庭が悪い、大学以前の初等教育が悪い、などなどいかようにも論を展開することができるのです。
なお、私は現在までの利便をつい追及してきた「科学の発達」にだって、罪を追わせることができると思っています。
何でも力を出さず苦労なくできる(計算はコンピュータ、文字はワープロ)、楽しいことが満ち溢れている(テレビゲーム、クルマ、実際にこの表現だけで大学生の変化を語る教員もいる)、自動化されて面倒を避ける(リモコン)安易に要求が実現し、時間を有効に使うための計画など不必要になってきている(携帯電話もこの典型、留守録)機器の発達、などなど、人間の集中力をそぎ落とす様な進歩は際限なく続きます。
テレビによって、人間の脳が変わってきているとする本も出ています。
昨年にあった、教育フォーラム主体の「学力問題」シンポでも、誰が悪役か決めるなとかいう意見がありましたし、内容は進めば進むほど百家争鳴の呈を示しました。
★さて、上にあげたどの因子も考えてゆかねばいけないと言うのが、私の持論です。ここでは大学の責任論(飽くまでも一部である事を強調します)のみを展開すれば、真の学問の面白さに触れたり、成果を共有できるはずの大学が、高校卒業までに学問が嫌いになったり、無関心である人間をいかにして覚醒(余り良い言葉がないが)させるかという使命を有していることは断言できるにしても、その覚醒作業を果たすためには、大学にも教育軽視(出世に何の関係もない)の風潮があるし、研究だけを一途にやっていれば教育できるもので無いことを解っていない人間がいるし、エリート意識だけで教員になっている者もいるだろうし、研究教育以外の仕事が増えすぎて余裕が失われているなどの問題が壁となっています。
問題点を指摘するだけでも難しい問題であることを更に強調しておきます。
16●科学には、自然科学も社会・人文科学も含まれるのでしょうね?今の政治家が考える「科学技術創造立国」という政策には工学など産業に役立つ自然科学しか考えられていませんので、まずこの点を確認します。
問題に逆らうようですが、大学の中にのみ視点を定めてよい状態なのかとこちらから問いかけたい気持ちです。何故か? それは大学のシステムなど吹っ飛びそうな「独立行政法人化」問題が大学に突きつけられているからです。
項目11の所で、私が市民との関連で上げた研究内容など、もし大臣・行政が評価することになれば、いくらでも制約して都合の悪い学問分野は「トリ潰す」ことが可能です(組織の改廃を勧告できると法律が示した)。
大学に興味を持たれる市民の方は、一刻も早く「独立行政法人通則法」を読むことをお奨めします。ここには、現在の大学の活動評価を財源をからめて根こそぎ変えてしまう方策が如実に現れています。大学内に毒があると思って色々詮索しているうちに、200X年から独立行政法人になって、大学の人間からも決定権、選択権、が全て奪われてしまったら、市民のための等と言っても空しいものに終わることは必定です。
<付記1>
なお、先ほどの項目で、学生の自主的な運動についての設問がありましたが、戦後の民主主義植え付け(反動教科書の墨塗りから始まり教育委員会の公選、教養教育の設定、財閥解体、反動イデオローグの追放)によって、一気に国民の意識が高まり、1960年を頂点としてその運動が以後のマスコミ対策(マスコミ黒書に詳細に記載)によって、国民が政治運動を行うエネルギーを消失していった歴史をみれば、学生運動が消えたのを全て学生の沈滞という事でかたづけることはできません。
ものには全て因果があり、こうなっているのです。
★教員を取り巻く状況
ほとんどご存じの事と思いますが、教員は大変色々な仕事の中にいて、単に研究か教育かという2律背反の法則はあてはまりません。
いくつかの件を書いてみましょう。
1)運営:教授会、学生委員会関係(奨学金の審査、就職、クラブの予算など)、RI施設、廃棄物施設、情報センター、図書館の運営問題、学部・大学院の組織改革、委員会の機構改革、これからは就職委員としての活動も大変になってくる。
2)入試:大学入試(前期・後期・推薦)、大学院入試(二回)、編入生入試、問題作成・監督・採点・判定など、更に入試制度の見直し改革など。
3)学位関係:大学院生(修士・博士)の指導、論文作成、学位申請書類作成、発表会運営、発表の審査、判定など。
4)教育:カリキュラムの理念から実際の作成、改革、ガイダンスの実施、大学教育改革センターなど教育推進の委員活動。
5)広報・交流など:学部紹介のパンフ、高校生への紹介活動、大学・大学院紹介のパンフ作成、国際交流(教員の招聘、協定の推進)、留学生に関わる要件(引き受ける場合は色々)、公開講座(隔年に学部が担当、全学も毎年あり)、種々の学内広報、同窓会広報、年史などの作成。
6)評価活動など:学部の自己評価(電話帳ほどの厚さの書類を作成)、他者(他大学の教員)による第三者評価。
7)教育、授業のシラバス作成、時間割作成、授業の実施、アンケート作成と分析(個人でも組織でも)、教員同志の授業研究(FDという)、教育関係の学会に入っていれば、その活動(シンポなど)。
8)研究:研究費の申請書類作成、成果の報告、学生・大学院生のテーマ設定と研究の実施指導、論文作成指導、学会の委員をしていれば、その業務・会議など、他人の論文の審査(雑誌委員から審査を依頼される事あり)、自己の研究遂行と、論文作成、学会での発表、種々のシンポへの参加(演者or聴衆)。
9)人事:公募書類の作成、全国への配布(今はインターネットなど)、書類の審査、種々の発令への手続き、などなど。
10)その他:交通対策、環境問題、建物の利用計画(新築などあると大変)などなど、外部からの依頼(審議会やら、高校の先生やら、一般市民から)。
落としていることもあるかも知れませんが、このようなゴッタ煮のような作業の中に多くの教員が毎日奔走しているわけです。
自分で何にこの仕事が繋がっているか(教育か研究か)が、もう訳がわからなくなっている場合もあります。このような業務の中で、全てのことにエネルギーを注ぐのは大変困難であることがお分かりと思います。
教員がある大学に採用されるときに、必ず人事選考が行われます。この時に必要とされる書類は、公表されていますから、学生でもすぐ解ります。最近ではインターネットで知らされることが多いし、学会のニュースにも情報が公開される。
さて、この書類というのは通常にゆけば
1)履歴書、 2)研究論文・著書目録 3)これまでの研究の経過と今後の抱負 4)教育についての抱負 5)研究費獲得の詳細(どこから、いくら)
といったような種類が多く、教育についての抱負は、3の中に含まれた形で「研究と教育についての抱負」という様に、どちらかと言えば、教育は付け足しになることが多くあります。
ところで、この教育についての抱負の中には、これまでどのような科目をどの程度の時間費やしてきたかを記入することは、採用側が特に要求しなければあまり行われません。
従って、いくら教育に時間を使っても、普通は評価されがたいのです。
話し変わって、私達の教室で最近教授を採用しようとして進めている人事の場合、過去に担当した科目、内容、時間数を記入して提出するよう要求しました。大変重要な情報がここに入ってくるわけです。このような進め方は比較的少ないのではないかと思います。
★そこで、学生諸君にもできる活動といえば、教員を募集している時に、このように教育関係の経過・貢献をきちんと書類として要求しているかをチェックするのが、簡単な運動だと思います。もし要求していなければ、それを要求する様に求めるのです。案外教員側は、他の大学と同じように書類の目録を作って機械的に発送していることが多いものです。
地味な仕事ですが、ここで教育の書類を入れて、教員が採用・昇進する時に教育の経歴が明示されることが、第一歩なのです。
★教員は、研究者として出発(まず教えないで、研究する生活)するために終生、教育より研究が大事という本能を植え付けられています。そして視野が狭い研究生活(全てが狭いとは言えないけれど、論文がカバーする世界は確かに狭い)に突入して、後はその世界に没入して、論文数が勝負ということをくり返し叩き込まれるので、普通に進めばこの殻を破る人間は余程特殊と言わざるを得ないでしょう。
若い頃は、研究に費やす生活時間がとても多くて、それなりの論文をどんどん書けますし、全体の状況が見えずのぼせて(夢見て)研究を進めていますので、仕方がありませんが、中年を越すと世界の状況も良く見えてきて、自分の位置も有る程度判別できるようになります。そして自分が今後どの程度の事をできるかも解ってくるでしょう。それと共に、研究外の時間が大幅に増加してきて、この面からも、若い頃の様にゆかなくなります。
さてこの中年~老年の時期に、教育熱心になっても良い時期がくるのですけれど、実際には、なかなかそうならないのが実状でしょうね。
原因)夢を捨てきれない(棺桶に片足入れるまでは望みあり)、惰性(研究やっているのは、それなりに自己を満足させる。何故なら、一応世界が相手だし論文は形を残す)、新しい事をするのが億劫(教育というのは、実に改革的なもの)
上の様な問題が思い浮かびますが、もっとあるかもしれません。いずれにしてもたいした研究に期待できなくても、教育はもっと見返りが何にもないのが現状です。
「あの人は教育熱心だ」というセリフは、「あの人は何の特にもならない授業などに熱をあげる、馬鹿なヒマ人である」という事と同義なのです。
この状況を学生達もどう変えるかです。あなた方の大学で、比較的(あくまでも回りと比較するのです)良い授業をする教員が何人かいませんか?
もしこのような教員がいたら、大学全体(マスコミも含めたらもっと良い)が下に置かないような扱いをしてあげれば良いのです。
その点では、種々の「XX賞」などは、全て研究業績だけで、教育にいくら尽くしても何も表彰されない状況は、余り続けていると、本当におかしくなってしまう元凶となるでしょう。
全ての世の中の基準は学者は研究第一という方向へ向かっているのです。
アメリカには、”The best teacher of the year” などという表彰制度があり教育に熱心な先生は一人だけ?表彰されると聞いています。
数に限りがあれば、我こそという気持ちを起こす様にはなりづらいから、結構の数の教員を学生が主体になって(教員同士はダメ=色々な利害対立関係が醜く存在するから)掘り起こしてゆく運動をするなどは如何でしょうか。
最初の何年かは、教員の方も「何を学生共はタワケタ事をやっておるんだ」と言う目でみるでしょう。もし学生の教員を選択する目が不確実で、例えば単位に甘いだけの教師を評価したり、試験問題を事前に教えてくれたりする教員をもち上げたりしていると、この制度はすぐ見破られます。教員とても馬鹿ではありませんから、いい加減な教育をしているものを、有る程度見抜いています。その様な教員がもし学生にかつぎ上げられるなら、それまでです。
また出席状況なども問題になるでしょう。それなりの勉強を学生側もした上での問題です。
さて、上の表彰制度みたいものの他に、教育をする側として、どうしても一言言わして頂きたい事があります。
全ての教員に通づるかどうか不明ですが、教育をする側としては、何を一番求めているかというと、教える側と教わる側の人間としとの「交流」なのです。良い授業にも悪い授業にも、学生が全く同じ顔つき、同じ態度で居るということは、最も我々にはこたえることです。最近の傾向として、学生の表情が読めない事があります。新潟大学のアンケートの結果を出しましょう。
設問O)教育は学生と教員の間の「親しみ」が重要と思われますが、現在教育を実施する中で、思われている事を以下の項目から選んで下さい。
1)親しみをもって接触できる学生は皆無である。 3.2%
2)こちらが働きかけても、10%程度の学生しか反応が見られない 47.6%
3)学生との相互の関係は、極めて良好で満足している 29.4%
4)事務的に接触すれば良いと考えているので、どれにも当たらない 1.6%
5)その他(御意見) 20.6%
このように、半数程度の教員は、教育するなかで、学生の反応がないことを嘆いています。少人数の教育では関係が良好となってきますが、教養など大人数にならざるを得ない環境では、嘆きが大きいのです。
私は、授業の最後にアンケートをとり、どのように学生が私の授業を感じているかを書いてもらっています。
★学生は授業の終わりに教員に何をプレゼントすべきか。花束などより、学生自身が、その授業をどのように感じたのか、教員からわざわざ問いかけられなくても、自分達で企画立案して、教員に戻すべきではないでしょうか。もしそれに足るほどの授業であったとすれば。
私の授業では、毎回学生に(私にとっては)興味有る課題を考えて出してその集まった中から、数点の力作をワープロに入れて、全員にそれを見える形にして、議論を行ったり、授業の中に有効に組み込んでいます。
このような作業を120名もの学生のレポートを毎週見て行うということを学生は考えた事があるでしょうか。しかもこのメイルの最初に書いたような種々の仕事の合間(通常は土・日を使うことが多い)にこなす訳ですから、それが「教員の仕事じゃないか」などと冷たいセリフを返さずに、そのような熱意をこめて働いている教員に対しては、学生の方も何らかの労力を使って、教員に学生の気持ちを返すと言うことはできるのではないか(この数年間では、一度もありません。私の力がまだ不足しているのか)と思います。
さて上の★で書いた事をもう一度良く読んで考えて下さい。
教員は、研究面で賞を貰うのも良いが、学生から本当に心のこもったメッセージ(条件としてはそれなりの授業をしたとして)を頂戴することによって、いかに教育をして深い満足を得ることができたか、身にしみて知ることになり、その経験がひろまれば、少しずつでも教員の中に、教えがいのある教育と言う物を見直す傾向も次第に大きくなってくるかも知れないと思います。
これはあくまでも可能性ですから、絶対とは言えません。
さて、相当入力を続けて、さしもの私の素早い指(ピアノで鍛えている)もちょっと疲れてきました。
最後に、私が教育熱心な理由を書いて、今回のメイルを終了します。
やはり、上に記入したように、学生の以下のようなセリフを読んだ時に「うん、来年もこれを肥料に頑張るか」ということになるのです。
◎これぞ、大学の授業という講義であった(他には余りなかった)
◎最初は辛かったけれど、この講義の目的とするものが、本当に学生の力をつけるためになるのだという事がよく解った。
◎教養の授業なのに、医学部の夏のEME(早期臨床経験実習)に行ったら皮膚科の実地でとても役だった。ありがとうございました。
◎この授業では、教員がいかに学問が楽しく面白いものであるかを身をもって示してくれたと思う。面白くない物は学問ではないという言葉(ちっと人名を忘れた)が本当に実感できた。
これらの言葉に出会った時に、本当に教育をしていて良かったという気持ちにさせられるのです。教育というのは、教師にとって一方的に授け学生にとって授けられるだけのものではないという、簡単な真理が掴めた時に、教員は相当の時間を費やしても教育活動へ向かって行くのです。
それにしても、最初に提起された、時間的な衝突は、決して解決されるものではありません。
現在、提起されている独立行政法人という制度を勉強してみて下さい。いかに教員がこの制度の下で自由な研究・教育をすることができなくなるか恐らく息の根がとまるでしょう。
同じ大学に生活するものとして、学生もこのような大学に対してかけられてくる政治の網を、しっかりと見据えて、それが教育や研究にまずい方向に作用するとなれば、周囲の学生でも市民にでも訴えるべきでしょう。
何故なら、昔から学生ほど時間が沢山贅沢に保有している存在はなかったからです。だから学生運動とは成り立ったのでした。
今、教員の業務をとくともう一度見て下さい。
何を犠牲にして、このような業務の他に、政治やヴォランテイア活動に更にエネルギーを注ぐ事ができるか、大変難しい状況です。
はっきりいって、私の場合は、どれも重要と思われるから、研究時間は相当消費されてしまっていることを付記しておきます。
価値観の問題というのが結論:
それでは、そちらからの応答も是非お願いします。
<付記2>
大学が現代の学生を受け入れていて、その学生に授業をうまく教えてゆけないのには、種々の原因があり、単一のものを決めつけることができないと私は応えました。
当方の大学のアンケートでも、
設問)大学生の学力低下の原因はどこにあると思いますか(複数選択あり)
1)大学以前の教育に主要な問題がある 18.9%
2)大学入試(科目減)と、高校以下の教育の双方とも問題 44.3%
3)大学入試が最大の問題 5.5%
4)学習環境よりも、生活全般の影響の方が大きい 32.8%
5)複雑過ぎるので何とも特定できない 10.0%
6)考えたことがない 1.0%
となり、単に教育課程に加えて、生活全般を上げている人が多いのです。
この問題では、特に一つの因子をあげただけでも、相当問題がでてくるようです。私は携帯電話が大嫌いで、2年生全員が携帯を持っていて、実習中にもそれを使ったりしているのを見て、世も末だなと感じています。
自分の時間を厳しく管理して使っているものは、あのように他者から間断なく電話がかかってきて、自分の時間を中断される事を嫌うはずですが、現在の若者には、中断されるべき価値有る時間を持っていないと言っても過言ではないでしょう。
自己に集中して、読書や創造活動に時間を費やすと言うことは、我々の生活の基本(今行っている仕事もその一つ)であり、そのような事を通じて自己の向上というものを常に求めているのが生活というものです。
しかし、現在の携帯世代の多くには、この自己に集中したり、他者との深い交流が欠如してきているようです。このような見方は、既に三無主義の頃からありましたが、携帯のような利器で、更にその悪しき傾向は仕上げを受けているようです。
授業をしていて、集中のできない大学生、読書に熱中することができなくなった大学生、人との議論ができない大学生が、このまま増え続けると、大学だけの問題ではなくなるでしょう。今は、大学問題との接点でこの問題を提起しますが。
新聞から以下の様な記事が発見されました。聞き手は毎日新聞記者で答えているのは、精神科医として文化の変容を追求してきた京都造形芸術大学の野田正彰教授(今年の1月25日付け)
――携帯で話しているほうが落ち着くという人が若者中心に増えているようですね。
◆会うよりも電話で話すほうがいいという若者も多い。会ってしまうと、気を遣う。相手の視線や態度、いろいろなものが見えてプレッシャーがかかるのが苦痛になる。電話は、いやなら切ってしまえばいい。また、会って話しても視線を合わさず、話す内容は断片的な情報のやり取りばかり。「あの映画観た?」「あの店行った?」という会話ばかり。 電話と同じ話し方をする。1980年代にコンピュータにのめり込む若者の面接調査を行ったが、彼らの間でも「結論を早く言って」という会話が多かった。人との会話が情報の交換のみになって、感情の交流が極めて少ない。他人との関係の希薄さを電話でつなぎ止めている。極端な例をあげると、ふろにまで携帯電話を持って入る若者さえいる。
――例えば、どんな文化摩擦がありますか。
◆「京都大学新聞」に出ていた話をあげましょう。中国とマレーシアからの2人の留学生が日本人学生の様子を非常に不思議がっている。「試験どうだった?」「就職どう?」という断片的な情報交換のみが大学生の会話になっているという。初め2人は、自分たちの語学力や日本人学生の外国人に対する興味がないため中に入り込めないのかと思っていたが、感情の交流がない日本人同士の姿を見るにつけ、大変なカルチャーショックを受けている。話にならない、会話にならないということです。日本人学生たちが、一体何を考えているのかが分からなくなるという。■
(匿名希望)
1●大学が、外部アクターと漫然と連係をもっても、あまり意味はないのではないか。何をテーマにするか、具体性が必要なのではないか。
2●大学への財政的支援は金額的に中途半端ではない。市民支援が可能かどうか。仮に可能だとしても、限定的になろう。
3-1●開放されていない。スペースが狭く、当分無理。学生の座る場所さえ十分でない。(キャンパスで差はあるが)
3-2●一般市民は通常、使えないと思う。
3-3●市民向けの公開講座はほとんどやってない。青少年向けの科学実験体験会はある。
5●各大学が毎年、その1年間の教育、研究の成果を社会的に公表したらどうか。卒業、修了、就職の状況、論文発表の水準、学問分野における成果や活動状況など、しかるべき物差しで、市民にわかるように発表する。国の各研究機関はすでにやっているのではないか。もちろん、それから短絡的な大学評価をすべきではないが、刺激にはなろう。
6●現在、学生による授業評価は実施されているが、問題点も多い。おそらく、その評価に教員側がうまく対応できていないのではないか。授業の仕方を変えることは容易なことではない。すぐれた授業とは何か。模範的なものを知る機会も少ない。教員間での授業開放も進んでいない。授業そのものが、もっと開かれたものになるのが先決だろう。
7●教員採用の完全な公募制の実施が必要でしょう。当大学でも、最近ようやく軌道に乗った段階。その場合の、業績評価、人物評価の妥当性をどう保証するかも大切。
9●)女性教員がそもそも少ない。底辺から増やすことが必要。
10●外国人専任教員はいないに等しい。増えるべきだが、言葉の問題など、解決すべき問題も多い。
12●理工系大学での「教養部廃止」には、反対である。あれは間違っていたと思う。人文社会系教育をどうしたらいいのか。担当教員をどう養成、維持できるのか聞きたい。むしろ、教養教育を強化すべきなのだ。
13●問題は多いが、給与格差がひどすぎる。まず、これを改善する。また非常勤講師は、大学の教育に関与していながら、大学運営の情報はほとんど伝えられておらず、無責任態勢で放置されているのが実情。給与を倍に上げ、一方で教育への関与を深める必要がある。そのためには、現在の高すぎる専任教員の給与を下げてでもやるべきだろう。
14●知識の集積、開発、創造は、いつの時代にも必要。その場は、大学でなくてもいい。しかし、大学に代わるものがなければ、やはり問題だろう。今後は、大学の役割は相対的には低下するだろうが、なくなりはしない。
15●大学は変わらなければならないが、大学だけではまったく不十分。教育全体の問題。今後10年で、日本の教育はおそらく激変するだろう。自治については、中学、高校、から経験させる必要がある。学校は、それを認めるべきだ。
16●「市民のための科学」とは何か。大学の専門の先生方に、そうした意識があるのか。現在の科学のディシプリンでは大いに疑問がある。高度な専門性と市民のための科学との乖離の克服は、永遠の課題だろう。市民科学研究所のような研究機関を複数設けるのも一案かもしれない。結局、そのための専門家が増えることになるわけだが、市民サービスに徹することができれば、効果はあるかもしれない。問題は財政的な基盤。どうするか。

 

原田 泰(物質工学工業技術研究所/分析化学、環境教育)

まず、私は通産省の付置研究機関に所属しており、大学関係者ではないことを表明しておきます。しかし2001年4月より独立行政法人となることが決まり現在準備をすすめています。次にいただいたアンケートは項目ごとに問題意識が異なるために、回答の方も視点がゆれてしまったこともお断りしておきます。
1●他の勢力との関係のあり方を検討する前に、自己の存在を明確にすることが必要だと思います。(自分は社会において、また社会に対して何をしようとするのか、を具体的に明らかにすること。)組織体としては、目的を明確にすること、意思決定のメカニズムを持つこと、外部から独立していることが挙げられ、民主社会の構成要素としては、内部における民主性と透明性が前提条件であり、その上で他の組織、制度と積極的に関係を持つことになると思います。
現在の日本において大学が他のセクターの影響から自立することは、特に財政的に難しいと思われます。その場合、資金及び政治力を依存するセクターに対して従属する傾向が出るのはしかたがないでしょうが、その関係の中で社会的な責任を果たすべく努力するには組織内部の民主性と外部の協力できる勢力との連携が必要です。その連携の内容は具体的な状況により異なり一概には言えないでしょう。
2●大学の財政は研究費だけでなく、人件費、施設設備の整備・維持管理の費用が必要であり、これらを草の根的に支援することは現在の大学では不可能です。市民(あるいは市民団体)が研究者あるいは研究を指定して支援することは企業のひも付き支援と同じ関係であり、可能性があると同時に妥当性をどう証明するかの問題が残ります。組織運営における透明性の確保が必要ですが、(6)の評価の問題がでてきます。
3●大学ではなく通産省付置研究所の場合です。
3-1●職員の紹介があれば閲覧は可能。貸し出しはできない。個人的に依頼があれば対応する。図書館自体の開放の前にインターネット上の蔵書目録の公開などコンピュータメディアによる情報サービスの可能性がある。
3-2●一般利用はできない。防犯、安全、職員の労働条件などの問題がある。
3-3●夏休みの児童・生徒向け講座、一般公開など。地域社会とは産学官連携推進センターが対応。自治体の工業技術センターなどとの共同研究の実施を行っている。
4●地域社会と研究との連携についてはaction researchの方法論があります。
(ttp://elmo.scu.edu.au/schools/sawd/ari/ar.html)
5●このあとも評価についての項目がありますが、客観的な評価はありえず、かならず主観的なものになります。税金の使い方の正当性の確認は、政治的に受け入れられた報告の形式で行うことになるでしょう。必ず異論はでます。
6●上と同じです。評価の基準よりも、どのようなプロセスで評価するのか、評価の結果をどのようにして改善に反映するのかを実行しながら検証して改善することが大事だと思います。
7●問題を改善するためには透明性が必要だと思います。
8●活動を公開し、批判を受け入れること。御用学者自体がいけないのではなく、相互批判が存在しないことが問題だと思います。
9●差別は社会的に形成されるものなので、外部からの批判がなければ改まりにくいと思います。問題を指摘する教育が必要です。
10●この設問は国立大学に限定したもののように思われます。教員=公務員のしばりは国家をどのように見るかのイデオロギーともかかわってきます。大学一般で見るならば国籍で差別することは上の女性差別と同様の問題だと思います。
11●東京大学で自主講座公害言論を主催した宇井純氏、原子力資料情報センターの高木仁三郎などが思い浮かびます。
現在の大学の問題は、現代社会の中で権力機構の一部となっていることですが、問題というよりも、限界と見るべきだと思います。
12●研究と教育は別の機能であり、矛盾をはらみながら両立を志向すべきだと考えます。既存の専門分野に偏らない研究者を育成する意味では教養部的な教育は必要だと思いますが、教養部はそのような役割を果たしきれなかったと思います。
13●教育、研究の問題と労働条件の問題が絡んでいると思います。
14●「学問」の専門家の存在意義が問われていると考えます。自分は社会に対してどのように寄与したいのかを考えたらどうでしょうか。これもaction researchが参考になると思います。
15●学生の質が変化したのは、大学という制度の社会における意味が変化したからと見ることができるかもしれません。そのような状況から出発せざるを得ないのではないでしょうか?「学生の自治」が消滅するのか存続するのかは、学生の問題です。自治とは他人から押し付けられたり、お膳立てしてもらうようなものではないと思いますが……。
16●「市民」という概念自体があいまいなものです。「市民のための科学」という概念も、雰囲気としては想像できますが、それだけでは言葉にすぎません。社会の中で必要とされているものは何か、をもっと具体的に個別に明らかにしないと、「私たち」(が誰であるにせよ)が何をすべきかを考えても空転するばかりだと思います。■
宮内泰介(北海道大学・文学部/社会学)
質問は多岐にわたり、また、相互に関連している。これすべてを考えて回答すると大部の本になってしまう。また、質問は、アンケート形式の質問というより、質問者側の問題提起だと受け止めた。私としては、この質問者側の問題提起からはみ出して考えていることもいくつかあるので、一つ一つの質問に答えるというより、全部をがらがらポンして、自分なりの構成で答えてみたい。
いくつかの発言から――
大学が作った外部評価委員会についてある教授の発言。「この委員会に入っている東大の○○先生ならある程度評価できるだろうが、他に入っている人、たとえば高校の校長先生に大学がちゃんと評価できるだろうか」
自然保護の住民運動に携わるある住民。「大学も変わらなくてはならないね。今では住民と協力する大学の先生もだいぶ出てきてはいるけれど」
ある学生の発言。「大学ももっとコスト意識を持たなくては。ここで繰り広げられているのは『唯野教授』そのものだ」
現状の問題点をいちいち挙げていけばきりがないので、大きな方向性を次の5点で考えたい。
(1)情報公開
知性を謳う大学の中が、実は反知性的な幾多の行為に満ちあふれている、ということを告発したのは1970年代末の大学闘争だった。それから30年。事態はあまり変わっているとは思えない。こうした問題の多くは、情報公開によってある程度解決するのではないか、と私は考えている。理由は簡単だ。情報が公開されるとなったら、今繰り広げられているようなあまたのアホなことはできなくなるだろうということだ。たとえば講座同士でポストの奪い合いをやっている。その様子も公開されるとなったら、「いつポストを貸した」「いやその前に貸した」とかいった本当にゲンナリするほどのアホなことは、恥ずかしくてやってられない(それでもやってられたら、それはそれでえらいかもしれない)。
もっとも情報公開は、それをちゃんと利用する市民がいてはじめて社会的な効力を発揮する。市民による大学ウォッチング(監視)が必要である。現在文部省の音頭で各大学に「外部評価委員会」が設置されているが、それでは不十分である。大学監視市民委員会のようなものが各地にできることが望ましい。
(2)評価
大学教員の多くは評価されることを嫌う。文部省が音頭をとって行っている「大学の自己評価」や、一部の大学で行われている「学生による授業評価」を、積極的に賛成している大学教員はむしろ少数派である。
「何を評価するのかが問題」とか「評価は一方的になりやすい」とか「評価は勤務評定になる」とかいった反論がある。しかし、そういう教員のすべては、学生に対しては評価しているのである。評価というものの問い直しには私も賛成であるが、それは学生への成績評価の問い直しとセットでなければならない。
にもかかわらず私は評価が必要だと思っている。もちろん一元的な評価は避けなければならないし、それが権力と結びついてはならない。しかし、それは評価をやめようという話にはならない。
何を評価するのかは確かに簡単ではない。しかし、仕事をしている以上、評価の対象は存在しているのである。いわゆる「業績」、教育活動、いわゆる「社会的貢献」といった分け方が現在なされている。その3つをバランスよく評価するだけでも一元的評価は避けられるだろう。
評価はもちろん大学によって違っていいと思う。ある大学では、レフェリー制のある学術雑誌の論文数と引用数(どのくらい論文が引用されているか)のみを評価基準とするといった純粋学問路線をとり、別の大学では、学術雑誌と一般雑誌といった区別をせず、どのくらいの文章を発表しているかを評価の中心とする、また別の大学では、教育活動をどのくらい熱心にしているか、学生の評判はどうかを評価の中心とする、といったように大学によって評価基準が多様化する必要がある。
いかなる評価基準をとろうとも、それは最終的には社会にとっての意義を問う評価になるはずだ。
よく大学教員は、「学問的な意義」とか「学問上の意義」ということを語る。しかし、私はあえて言いたい。「学問的意義はしばしば社会的無意味である」。少なくとも、学問的意義よりも社会的意義の方が上位にあるべきである。これは大学の外の人にはあたりまえだと思うが、大学の中に長くいるとそうでもなくなってしまうのである。社会的な問題意識から学問の世界に入った若い人が、学問の世界の中で、感覚を磨滅させられ、社会的意義が「飛んでしまう」例を私は数多く知っている。
(3)教育機能について
これは2つの方向から論じることができる。一つは、現状の18~22歳人口を教育する機関という前提での議論。もう一つは、その役割そのものを変える必要があるという考え方に基づく議論。
まず、18~22歳人口を教育する機関という前提に立ったときに言えるのは、現在の大学はその機能を十分には果たしていない、ということだ。現在の大学は、研究を中心に考えている教員と、何とか4年間を無事楽をして卒業したいと考えている学生との奇妙な共謀の上に成り立っている。
そこで「教育」がなされていたとしても、”ミニ学者”の養成といった側面が強調される。「ここは社会学なんだから、もう少し社会学っぽいことをやってくれよ」とか「着想は面白いけど、それをどう社会学的な論文にしていくの?」といった台詞は、たぶん日常的に語られているだろう(私も言っていないという自信はない)。
圧倒的多数の学生は、大学院に行って学者になるわけではない。しかし、大学教員の多くは、「大学院に進むような学生を育てることが理想」と考えている。これは本当の話だ。もっと悪い例だと「大学院に進む」のが優秀な学生で、「社会に出る」学生はだめなやつと考えている人もいたりする。大学>社会、という図式なのである。幸い、大学には、まだ大学外の社会を生きてきた人は圧倒的に少なくて、その世界をまだ知らない若い学生しかいないから、「学問の世界を教えることで事足れり」という考えが、それほど本格的な反論にも合わないで済むわけである。
大学が18~22歳人口を教育する機関として生き残るのなら、その年齢の学生が何を求めているのか、そのニーズに沿った教育システムに作り替える必要がある。それは決して学問の切り売りではないだろう。おそらく多様なニーズがありうる。純粋に技術を習得したいと考える学生、4年間いろいろ考えたいと思う学生(それは決して切り売りされた学問を消費することではなく)、などなど。それらを教えられるのは、決して今の大学教員ではないだろう。そうした教育機能を支えられる教員――たとえば元会社員、元NPO職員、元自治体職員、あるいはプロフェッショナルな教育者(ファシリテーターとしての)など――を集め、また、養成する必要がある。
一方、そうした18~22歳人口を教育するという機能は、今後は必要ないという議論も成り立つ。人が勉強や研究をする必要性を感じるのは、やはり実際の社会の中でであって、本の中や学校の中でではない。したがって、知の蓄積たる大学を利用して勉強ないし研究したいと考えるのは、本来ならば、いったん仕事をした人たちであろう。大学は、むしろそうした人たちの学びの場であるべきだろう。
したがって、学位を与えるという機能も、全廃するか、残すとしても部分的な機能としてのみ残すべきである。学位のために学ぶのではなく、学びたいことを学びたいときに学べることが大事なのだから。
(4)研究機能について
大学が知や技術の最先端で、それが高いところから水が流れるごとく社会へ還元される、という時代はとっくに終わっている。今日、社会にとって大事な知見や技術の多くは、大学以外のところ――企業、NPOなど――から生まれている。
しかし大学が独占してきた知の蓄積、知の技術の蓄積、あるいはそれが持っている施設は、決してあなどれない。大学図書館が保有している膨大な情報、大学が蓄積してきた研究手法は、今後も社会にとって有用であろう。しかし、それはアカデミズムが独占して使っている限り、無用の長物になりかねない。
今後の大学(の研究機能)の方向は、市民の研究のセンターとしての大学という方向だと考える。アカデズムの隘路(アカデミック・インボリューションとでも呼んでおこう)へ向かう知の利用・蓄積の方向ではなく、社会のさまざまな層による研究のセンターとしての役割を果たしていく方向である。研究の必要がある人や組織、研究したい人や組織が、いつでもそこを利用でき、必要に応じて助言が得られ(大学教員はその助言者の役割を担う)、またその成果を公表できる場としての大学。隘路のシステムとしての大学ではなく、オープンなシステムとしての大学へ。
そうした方向の実現のためには、大学側が変わるだけでなく、市民研究そのものがいっそう推進され、その方法や成果を蓄積していくことが必要である。そして、そうした市民研究が推進されるためには、公的ないし社会的な支援システムが必要である。研究の分野での市民のエンパワメントが、大学再生の鍵を握っているのである(※)。
(※)私個人としては、(せめて)ここに力を入れたいと思って、これまで微力ながらやってきた。現在は、市民研究会を1つ組織し、また、札幌のNPOで調査入門講座を開く予定である。
(5)規模とお金について
大学をどうしていくのか、という議論で欠かせないのは、規模とお金の議論である。わかりやすく言えば、こんなに大学はたくさん要るのか、こんなに大学教員は要るのか(『学校教員統計調査平成10年度中間報告』によると、短大教員、高専教員を含めて146,053名)、こんなに社会のお金(主に税金)を大学につぎ込んでいいのか、ということである。必要だとしたらどのくらいの規模が必要なのか、どのくらいの規模のスタッフが必要なのか。どのくらいのお金、あるいは誰が支払うお金が必要なのか(税金か、有志のお金か、受益者のお金か)。
私見では、現在の社会全体に占める大学の規模は大きすぎるのではないか、税金を使いすぎているのではないか、という印象を持っている(これは印象にすぎないので、詳しい研究が必要だ)。社会にとって直接・間接に有用な知や技術を今後も生産・蓄積していこうと考えるとき、大学に当てているお金を別のアクターに振り分けた方が有効であるという場合が結構あると考える。
大学と文部省の関係は、土建屋と建設省の関係とだいたい同じである。いや、それ以上かもしれない。両者のもたれあいで、閉鎖的な拡大路線がとられてきた。公共事業の欺瞞性を追求する大学人は、大学と文部省の関係の欺瞞性をも追求しなければならない。
とにかく文教予算は増やせるだけ増やしたらいい、という考え方はもはや通用しない。
【付】
・質問の(3)について=北海道大学の図書館、教室スペース、研究設備は、市民に開放されていません(一部開放されている部分もあり)。
・質問の(11)について=「市民のための学問」(というより「市民による学問 」)を実践してきた人と私が考え、また目標にしているのは、宇井純、高木仁三郎、鶴見良行、花崎皋平の4氏です。他に、久米三四郎さん、京大原子力グループのみなさん、村井吉敬さん、島津暉之さんなどなど。また、鹿野政直氏のいう、明治以降の「民間学」の系譜を見直す必要があると考えます。

 

S.S.

以下の回答全般にわたってのお断りです。
「大学」と一口に言っても、地方の(地域と密着している、あるいはせざるをえない)大学と、旧帝大系の「中央志向」の大学とでは事情が違いますし、教育を重視する大学と研究成果を重視する大学とでも事情が違うと思います(それらの「違い」があることがいいか悪いかは別にして)。したがって、「大学問題」を考えるにあたっても、そのへんをきちんと整理して議論すべきように思います。ともあれ、以下の回答は、旧帝大系の、しかし地方に位置する大学の、しかもマイナーな学問分野の一教員からみての意見であることをお断りしておきます。
1● 個人的には、中等教育機関(中学や高校)との関わりをもちたいと思っている(たとえば、数年間高校の教員あるいは校長を経験してみるとか)。しかし、これらは、「大学の研究・教育に専念する義務のある国立大学教員」にはとても認められないだろう。小中高の教員に「社会に出て異分野の風にあたる」ことが推奨されているが、同じような形で、大学教員にも、「社会に出て異分野の風にあたる」機会が欲しい。(サバティカルとは性格の違うものとして。しばしば話題になる、大学教員の「兼職」とは別に。)こうしたことが、結果的に大学を社会に開いていくことに繋がるのではないでしょうか。
2● 市民が自分たちの利害関心にそった研究をサポートする方法として、「委託研究」の制度を活用することはできないのでしょうか。現実に、地方自治体あるいは民間企業などからの「委託研究」が盛んに行なわれているので、現にあるその制度にのっかることができれば、比較的スムーズに行くのではないでしょうか(法律的なことは知りませんが)。
ただネックになるのは、そうして行なわれた研究成果が、既存の学会でも「評価される=価値が認められる」性格のものの場合はいいでしょうが、そうでない場合、大学教員=研究者の業績評価に結びつかない、という点です。レフェリー付きの学会誌に何本論文を出したかだけが評価の対象になる現実がありますので。ですから、「研究者としての評価」にも、たとえば「市民からの受託研究を何本うけたか」ということが研究者の評価にプラスに作用するような仕組を、同時に作り上げていく必要があるように思います。
3-2● 教室や研究設備を、普通の市民が利用することはできないと思います。それなりに公共性のある団体が(たとえば試験会場として)利用することはできると思います。でも、教員が主催するという形で(そして実際に教員が一員として加わっているのであれば)手続きを取れば、だいたいの「研究・学習」目的に使うことはできると思います。
しかし、単に教室などを一般市民が使うことにそれほど意味があるのでしょうか。むしろ、公民館や地区センターなどの集会室を使う方が、自由度も大きく、多くの場合設備もいいと思います。(大学では、たとえば、夕方5時を過ぎると暖房も入らなくなります。)
研究用の実験設備を一般市民に開放することも、非現実的でしょう(継続して行なっている実験を中断しなければならない、安全管理上の問題等々、ちょっと考えただけでも)。しかし、学生実験用の設備を、たとえば夏休み中に、教員の再教育セミナーなどに活用することはあってもいいと思います。
3-3●「大学の市民への開放」というスローガンは、あまり生産的ではないような気がします。「大学」などという巨大な、実体もよく分からない組織を相手にするのではなく、大学の中にある「研究室」ないし「教員」を市民に開いていく(=教員や研究者が市民との意志の疎通をはかる)ことを追求し、それが広まっていくことが、すなわち「大学が市民に開かれる」ということの意味ではないでしょうか。そしてそれは、60年代末や70年代にはそれなりに盛んに行なわれていました。今でも、たとえば文学の分野で、文学の先生が文学愛好の市民サークルと(大学の研究室で、あるいは公民館で、あるいは地域の読み聞かせの会で……)交流をもっています。むしろ、人文系の分野に学ぶべき点が多いのではないでしょうか。
「大学を市民に開く」といったときには、大学が「公開講座」を開くのが一般的です。これでは、市民がまったく受け身です。そうではなく、研究室ないし教員単位で開いていけば、地域にある既存の組織や市民の問題関心との交流がスムーズにいくような気がします。
4●大学が地域に貢献することの必要性はわかります。しかし逆に、「地域にこだわらない→普遍性を追求する」という側面も必要に思います。○○大学では、やたら「北海道における……」「北方文化圏における……」といった研究テーマがもてはやされ、場合によっては、そうした視点を相対化するような発想・意見を軽視するような風潮があるような気がしないでもありません(私の偏見である可能性が大いにありますが)。
6●学生による評価は賛成ですが、そのためには、学生にもそれなりの「覚悟」を求めたい。学生による、本学では、教員に対する「評価表」を学生がつくりインターネットで公開しているが、基本的に「単位が楽にとれるかどうか」に関心があり、授業の中味を彼らなりに評価しようとする姿勢がない。また、こうした評価に、教員からのリアクションを絡ませ、さらに発展させていこうという姿勢も見られない。
7●人事における「学閥など」の問題は、今やあまりないと思う(少なくとも私の身のまわりでは)。今問題なのは、新しい学問分野を大学のなかでいかに立ち上げるか、ということだと思います。人事は既存の学問分野に所属する人間が行ないますので、どうしてもその学問分野の拡大を狙います。公正な人事を行ない優秀な人材を招けば招くほど、その分野が膨張します。しかし、新しい学問分野あるいは新しいアプローチ(既存の学会などでまだ十分に認められていないような)がたえず生まれつつあります。そうした分野を大学のなかで立ち上げることは、ほとんど不可能です(たとえば、ジェンダー研究みたいなものを考えるだけで、よくわかると思います)。
12●個人的には、「研究と教育は一体」とか、「いい研究者でなければいい教育者たり得ない」というのは欺瞞だと思っています。これを欺瞞だと世間が思うようにならない限り、大学での教育の評価は行われないと思います。
一部の大学(たとえば名古屋大学)で、研究部と教育部とをわける構想があるようです。その具体的な中味を知りませんが、「私は大学で教育に専念する」と宣言しても、大学の立派なメンバーと認められなければなりません。かつて、「10年間に論文を一つも書かない大学教員がいる」といってバッシングがありましたが、すべての大学・すべての教員に一律にそうした基準をあてはめるなど、愚の骨頂です。
なお、かつて教養部があったころは、新しい学問分野の研究者が教養部担当教員として入り込むことが出来ました。しかし、教養部が廃止され、すべての教員が「学部」に所属した結果、既存の学問分野の支配が強まり、大学のなかに新しい目が育つことがますます困難になったのではないでしょうか。世の風潮のせいで、学生の間にも、「教養なんかいらない」という風潮が強まり、目に余るほどです。もっとも、教師の側でも、魅力ある「教養の講義」を提供し得ていないという面もありますが。

 

N.T.

1●まず、大学は、「学びたい人」が純粋に知的に欲求を満たせる場所として、いわば人の根元的な部分から生まれたものであり、「企業」「国家」「市民」等からは独立であるべき存在だと思います。だから、これから他のアクターと偏りなく対等に接するのが自然な在り方です。しかし現実には、「国家」や「企業」と従属に近い関係にありながら、「市民」「地域」とは接点をほとんどど持たず、眼中にないといった状態の大学が多いのではないでしょうか?これからの大学には、「国・企業」からの自立性の確立と「市民・地域」への開放が望まれます。後者については、・市民が大学の授業・研究に参加できる・大学が市民・地域の要望に合った、または利益となる研究をする等が考えられます。
2●大学を独立させるには、資金運用面で国から独立する必要があると思います。それでは補助金を受けられなくなりますが、その出所は市民の税金です。ここで市民・地域から直接資金を受け、代わりに彼らの望む知的利益を還元するという構図を想定します。つまり企業に対してそうであるように、研究による知識をウリにすることで、社会の頭脳として、大学を独立した存在たらしめます。大学は、自分で資金を調達するため、他のアクターへの積極的働きかけが必要になります。一方市民には「知識はタダではない」という意識改革が求められます。
3●一般の人に対しては、入館手続きが無いので入ることはできますが、机の数から見ても積極的に受け入れる雰囲気では無いのです。また貸出しを受けることも出来ません。
4●地域と大学が結びつくには、地域開発の為の知識と研究資金のやりとりが不可欠です。その為にも、(資金面で)大学が国から独立しなければなりません。大学が社会の頭脳として有り続けるには、各大学が研究内容において独自性を持たねばならず、その内容が地域の還元される事は有力な選択肢であると思います。
5●税金という形で社会的還元を求めても、満たされない事が多いと思います。それには社会の立場に立ったチェック機構が、大学の研究内容もしくは補助金の流れを直接コントロールする必要があります。しかしそこにおいて、大学の独立性は尊重されねばなりません。つまり、知的探求は本来強制されたものでなく、社会的欲求にそぐわなくても広く受け入れる姿勢が大切だと思います。
6●立場によって評価は異なるので、様々な視点からの評価を総合する必要がある。大学内部からだけでは不十分である。
7●人事での差別、不適切な登用を審査・監視する第三者のチェック機構を置き、それに補助金調整等の権限を与える。
10●「国立大学教員=公務員」は止めるべきで、人材登用に関して大学に独自性を持たせるべきだと思います。
12●まず、研究者と教育者を両立させる事は、時間的にも、肉体的にも困難であると思います。理想的には各一人づつで分担すべきですが、資金面で一人二役を強いられるのが現状です。ここで、研究(先生)と教育(生徒)の関係を考えた時、ある程度、研究の方が優先されるべきだと思います。なぜなら大学という最高学府においては、各人が自発的に知的探求を行うべきであり、生徒といえども知識を与えてもらう、といった態度は許されないからです。
14●どの様な立場にあっても、学ぶ事は限りなく、その方法も多様化してきていますが、大学が他と異なる点は、置かれた環境に振り回されず、全てに客観的な視点において学問を追求出来る所だと思います。その意味で、一度社会に出た人が一足身を引いて大学に帰って来ることは、ごく自然で、大学の存在意義に欠かせない行為です。社会人には社会人独特の観点があるはずで、彼らの存在は、必ず大学全体にとって有益であると思います。これからの大学には、彼らをも取り込んだ、新しい組織体系を築いてゆけるように、意識を変える必要があります。
15●大学生に至るまでの過程(小、中、高等学校)において、生徒の頭の中には、小→中→高→大学→社会といった、まるで定められたかの様な、ぼんやりとしたレールがあると思います。「このレールに乗っていれば、とりあえず身分が保証される」と進んでいく中で、「学ぶ」という、何にも代え難い根元的姿勢を知らずに大学生とり、、本来大学にはそぐわない存在になってしまう。これは学歴でしか彼らを判断でない社会の裏返しではないでしょうか。大学を出ていなくても彼らを積極的に受け入れていく社会環境が望まれます。

 

板橋志保

大学に就職したのは昨年4月で、おまけに教員ではなくプロジェクトの研究員なので、傍観者的でもある。学生の立場の方が強い。
1●大学の中にいると、俗世とは別世界の温室だな、と思う。問題は沢山あるし、社会から求められているものもあるにもかかわらず、見ないこともできる。それはおかしい。大学も社会の一部に過ぎないのだから。
現在でも企業の寄付講座や実用化を目指した研究は存在する。私学も含め公的機関である大学が、1私企業の利益を代弁するような形で結びつくのはよくないと思う。金儲けが悪いというわけではなく、国家・行政といま以上に結びつくのはよくない。独立性を保つべき。
市民にとっては、大学は誰が何をやっているのか、さっぱり見えないのではないか。おおげさなことではなく、大学の先生達がもっと街に出ていって、市民と交流する機会が持てないか。子供向けの実験教室や、大学祭の時に展示や講座を開く、でもよいが。
2●研究費がひも付きになっていることが問題。パトロンの顔色を伺った”提灯持ち研究”、派手な研究が蔓延る。本当のパトロンである納税者=市民の顔色を気にすればいいものを、資金配給者たる国などの顔色を気にするのはおかしい。
基本的な研究費が少ないために、研究そのものの競争(その是非はともかく)でなく、研究費の獲得競争に必死にならざるをえず、本末転倒だ。研究費の潤沢なところと貧乏なところの格差が激しいのも問題だ。
私学の問題–私学でありながら、人件費など多くは私学助成金(税金)でまかなわれている。財政で弱みを握られているので、文部省から締め付けがいっそう強くなる。
市民が財政的に支えることは、制度的には可能であろう。しかし現実的には財政的に厳しいのではないか。
むしろ現状では、例えば、環境汚染の測定など、大学教員に頼んで安価にすますなど、大学(教員)に依存している部分もあるのではないか。良心的な教員は周囲との軋轢もあり、研究費も少ないはずなので、財政・人的負担には限界がある。市民の側が費用や、人を出して、支えるようにすれば良いと思う。
3-1●図書館は、名前を書けば閲覧可能。利用時間の制限はないと思う。貸し出しの有無はわからない。
セルフコピー機があるので安く(1枚10円)コピーが取れる(ただし現金コピーではなく、生協のコピーカードである点がやや難点か)。ただし他の図書館のような入口のゲートがないので、出入りは事実上自由。母校1の以前の図書館は、入口のゲートも何もなく、近所の高校生・予備校生がよく勉強していた。しかし、移転後はゲートが出来、カードがないと入館できなくなった。母校2は公立であるため、住民は登録すれば入館・閲覧可能。ただし大学生は不可だし、住民は書庫に入れないので、専門雑誌などは閲覧できない。以前はなかったが、最近セルフコピー機ができ、1枚10円でコピーできるようになった。
3-2●教室やスポーツ施設などの開放はしていないと思う。植物園は一般に開放されている。ただし学外者は記名が必要。(植物園はきちんと管理されており、名ばかりの他とは違う。平日と土曜の昼間のみ開園)
3-3●植物園での講座みたいなのをたまにやっている。
市民向けというより高校生(受験生)対象に、1日実験や講義をする講座を開いている(私学ゆえ、宣伝の一環)
4●地方大学がみな帝大を目指す/張り合うのではなく、地域に密着した、例えば農業や食品工業、繊維工業など、やることは沢山あろう。誰でもかれでもひとつの同じ”世界の最先端”を目指し、国際誌に載ることをよしとする風潮を改めた方が良い。
5●何を指標とするか、難しいですね。まずは、税金の使われ方、については、税金から出た研究費がどう使われているか、大学教員が何をしているのか、もっと情報公開するよう、求めたらどうだろうか。近年よく出ている「自己評価」みたいな提灯報告書ではなくて、もっと簡単で基本的なことで良いので。
6●難しい。厳正な評価のものさしはない、と思う。目に見えるもの/否、定量化可能なもの/否……。また分野間の差違があまりに大きいので。例えば、論文の数などは客観的に定量的に評価できるのでよく使われる。しかし実験室で1カ月の実験で成果が出る分野もあれば、フィールドワークのように10年調べてなんぼ(木が森になるには数十年かかる)という分野もある。一人でやる分野もあれば、100人ががりでやる研究もある。それらを同じものさしで評価されても困る。
誰が評価するのか?誰しも重箱の隅をつつくような研究にならざるをえず、ちょっと分野が違えば判断できない。結局近い人が評価することになり、異なる学説は認めないとか、内容以外の派閥や好き嫌いなど余計なことで判断が左右されるおそれもある。近頃は文部省の科学研究費の審査員を公表するようなので、それはそれで良い傾向だと思う。
7●選考が公正でない。採用者が内定しているのに「公募」の形式だけを整えたものなどは迷惑極まりない。また本人の持てる力よりも、派閥が効くなど最悪。人事には人の一生がかかっているのだから、いいかげんなことはやめて欲しい。要するに、採用する側が”人を見る目がない””人を育てる力がない”ということだと思う。
8●大学人の人格は、立派な人から呆れた人まで幅広すぎる。モラルや自浄能力に期待しても難しいのではないか。市民が”監視”でもするしかないか。絶対的な権力者として君臨する非常識極まりない教員を黙認するのではなく、意見できたり、困っている学生を助けるなど、できればいいな……。
「御用学者」をくだらないからといって無視するのではなく、きちんと批判すべき。恣意的に知見をねじ曲げている場合も多々あるので、少なくとも学問的批判はできる。ただし個人的に闘ったのでは、制裁がくるおそれがあるので、ある程度まとまって闘った方が良いとは思うが。
9●私自身は、就職面接で「(任期付の職なので)期間中はこどもを生むな」と言われて驚いた。未婚で結婚予定もないにもかかわらず、個人的なことに立ち入られた。就職難の話になると「女の子は嫁に行く道もあるから」といまだによく聞く。
“能力主義”であるからこそ、女性であるだけで厳しいのかもしれない。数年のブランクがいのち取りになることもある。任期付の職が増えてくると、産休をとることもできなくなる。
出産に伴う女性の仕事の継続の問題は、大学だけの問題ではないが、これまで女性教員(研究者)が少ないこともあって、あまり顧みられていなかったのではないか。大学教員の産休代替教員などは聞いたことがないが、どうなっているのだろう。私の周囲では、女性教員(研究者)の場合、配偶者も大学教員(研究者)のケースが多いように思う。時間の自由がきくせいか、夫が育児や家事を分担している人も多い。(逆に言うと、普通の勤め人と結婚することは難しいのかもしれない)状況は厳しいが、例えば託児付きの学会があったり、少しずつは改善されているのかもしれない。生物分野では女性がかなり多いので、今後女性が生きやすく変わっていく(いきたい)と思う。
セクシャルハラスメントについて。好色な男性教授が女子学生に触る、などのことは、噂話ではよく聞くし、明確なセクハラのケースも耳にしたことはある。本学では最近「セクハラ防止ガイドライン」が制定された。文部省からの指導と、女子学生が多いことを考慮して、未然に防ぐことが狙いかもしれない。
11●宇井純(元東大、沖縄大)、立川涼(元愛媛大)、原田正純(元熊本大)、宮田秀明(摂南大)、生越忠(和光大)、瀬戸昌之(農工大)、植村振作(阪大)、山田國広(元阪大、京都精華大)、中根周歩(広島大)、島津康男(元名古屋大)、西條八束(元名古屋大)、小倉紀雄(農工大)、寺井久慈(名古屋大)、岡本三夫(広島修道大)、小林圭二など京大原子炉研の人々……かつての中西準子(元東大、横国大)(敬称略)。
市民に役立つ良心的な研究をしている人はもっといるが、「市民セクターとのかかわり」というとこれらの人々が思い浮かぶ。
市民と一緒に調査をしたり、本務以外のことをしているのが”遊んでいる”とみなされる。また一般書や教科書を書いても業績としては評価されない。せっかく良い仕事をしても認められない。
現在大学以外の場で「市民のための学問」を提唱しているのは高木仁三郎氏。
12●悩ましい。大学は第一義的には教育機関であることをはっきりさせた方が良い。現状は混乱しており、学生にとっても教員にとっても好ましくない。教員採用の際には、主に研究で評価されるし、採用後もやはり研究成果(論文数)で評価されがち。大学での教育は正当に評価されていない。授業は負担が大きいわりに評価が低いので、力を入れにくい構造はあると思う。
もとより、初めて教員になる場合には、教育歴はないのだから「研究で評価」は一定やむをえないのかもしれない。しかし、若い教員と学生との軋轢を実際に見聞きして、”教育軽視”は深刻な問題だと思うようになった。教育と研究は別の能力も技術も必要。小・中・高校の教員は教員免許が必要であり、まがりなりにも「教育学」の教育を受けている。しかし大学教員の場合は、教育方法についてのトレーニングはない。自分の経験のみであるから、個人差も大きい。失礼を承知で言えば、”お勉強ばかりしてきた”若い教員が、いきなり教育現場に放り出されるのは酷だと思う。実際に教育する中で学んでいくことも多いとは思うが、上司からのサポートは少なく、教員個人の負担が大きいのではないか。場合によっては学生にとって迷惑でもある(若い教員との軋轢がきっかけで退学した学生を複数知っている)。
若いうちは(助手)研究を中心にし、ある程度ベテランになったら後進の指導を中心にというように、年齢によって重点の置き方を変えるのもよいかもしれない。世間一般ではそうしていると思うが。
世界の最先端を目指し数ヶ月を争いつつ、一方学生には1から基本を教える、ことを両立させるのは難しいのではないか。人を育てるには時間も手間もかかる。時間の限られた生身の人間を相手にしているのだから。学生を大事にして欲しいと思う。
学生を育てる対象として大事にするか、労働力として使おうと思うか、学生のとらえ方にも2通りあるように思う。授業料を払っている”お客様”である学生に対して、後者はあんまりではないかと思う。
是非はともかく、「大学教員」とひとくくりにせず、研究と教育の両立というたてまえをいったん下ろして、個人の適性と大学の性格により、教育中心・研究中心に分ける手もある。
13●授業は負担が大きいのに、賃金が安い。生活費を稼ぐのでせいいっぱいで、研究が進みにくいのではないか。所属先からの研究費は一切ないし、他の研究費は応募資格さえないものもある。実績がないとますます正規採用が厳しくなる。”就職浪人”の一時しのぎではなく、”恒常的”な非常勤講師の処遇問題は深刻だと思う。
非常勤講師とは別に、ポスドク問題も大問題だと考える。最近の大学院の重点化で、大学院生の数が増え、一方、職は増えないので、就職問題が大爆発するだろう。若い研究者の多くは任期付の職に付かざるをえない。ポスドクで一定期間渡り歩いて修行をすることそのものは良いことだとは思うが、問題も多い。任期付だと、短期的に成果の出る研究テーマをせざるをえず、じっくりと長期的な研究は難しい。任期中は成果を出すことと、次の行き先を探すことで必死で、”余計なこと”をする余裕がない(「市民の科学」などと言っておれなくなるだろう)成果は必ずしも出るわけではないし、運や状況もあり本人のせいでもない。成果が出なかったら次の職は厳しい……。ポスドクは給料は良いが、将来の保証がないことを考えると、一時の麻薬ではないかと思う(例えば、ポスドクで月給50万円貰っているとして、常勤職で月給が半減して、生活を縮小できるだろうか?贅沢癖がつくのもいかがなものか)”浪人”ではなく、”恒常的”にポスドクを続ける「スーパーポスドク」とやらができるらしいがどうなることやら。一部の優秀な選ばれた人と、路頭に迷うその他大勢、と分かれるのだろうか……。
14●私自身も社会人から学生になったし、知り合いには30代、40代(以上)の学生がいる。大学は、就職のための予備校や、はくをつけるためでなく、本当に学びたいことを学びたい時にいつでも誰でも学べる場になって欲しいと切に願っている。
現状で、大学でなければ学ぶことが難しいことは、理系の実験系。高価な機器や設備(例えばRI)が必要で、個人や市民では金銭的に無理だろう。また図書館やコンピュータ(ネットワーク環境)も重要。
義務教育卒業後、高校、大学と1直線コースだけでなく、働きたい時は働く、勉強したくなったら勉強する、と状況に応じて自由に選べるようにできれば、本人にとっても良いし、教育効果も上がるのではないか。
学生時代、私の1つ上に60代の人がおり、定年退職後学部1年生から入り、70才で博士号を取った。くじけそうになると、彼と話をして励まされていた。年取った学生の熱心さは、現役学生の比ではない。様々な年代の学生が共に学ぶ中で、学問だけでなく人生の上で学ぶことも多く。学生・教師双方にとって刺激になって良いのではないか。
社会人が学ぶ機会を増やすには、入試を簡単にする、在籍期間を長くする、変則的な通い方を可能とする。授業料を安くする。奨学金や研究助成を出す。大学に通うための休職が認められること。(現に存在する、企業から大学へ派遣の場合の優遇措置でなく、自発的に学びたい場合)
大学の制度だけを直しても、経歴に空白やまわり道があると就職の際に不利になるような社会の見方を改めないと、難しいとは思う。
国公立大学は100%税金でまかなっているので、設備などは市民に開放し、誰でも学べるようにすべき。
大学以外も含め、教育は無償にすべき。国立大の授業料は現在年間約50万円、私の職場は約130万円。これでは高所得者しか大学へ行けない。おまけに学生に対し、給付の奨学金は殆どなく、国の事業である日本育英会奨学金(借金)も充分ではない。授業料を無償にするとともに、食い扶持の心配をせず、落ち着いて勉強ができるような、学生への生活面での財政支援も必要ではないか。
15●「分数の計算もできない」受験のためのテクニックばかりつめこんで覚えさせられ、生きるために必要なことや、考えることが身についていないのではないか。子供の頃から勉強しすぎて、大事なことがこぼれているようだ。本来、学ぶこと=知らないことを知ることは、世界を広げる楽しいことである。にもかかわらず、「強いられた」勉強ばかりさせられ、うんざりしているのではないか(私もそう思っていた)。苦行の様な受験勉強を推奨するような雰囲気もあるが、そんなことは害にしかならない。やめた方が良い。小・中・高の貴重な12年間をそんなことに費やすのは実にもったいない。
大学以前の教育課程で、学ぶことの楽しさを教えれば、人は自然と知りたいと思い学び始めるだろう。
大学へ入ること自体が目的化し、入ってから何をしたいか考えない本末転倒した状態。受験勉強が過度に難しすぎることが大きな原因だと思う。受験勉強でエネルギーを使い果たしてしまい、学問する気力が(今に始まったことではない。15年前もそうだった)
生物や自然を相手にした学問では、机上の知識よりも、森や川で遊んだり虫を捕まえたりする経験や体力–現場感覚の方が大事だと思う。生物系の学生が昆虫を嫌がっているのを見て、ため息が出る。
16●逆説的だが、大学への期待や信頼感を捨てるところから始めた方が良いのかもしれない。大学の先生といっても偉いわけでも人格が立派なわけでもなく、ただの普通のひと。大学も社会の一部。
私たちの大学をいかに利用するか、そして作っていくかを考えたい。
疲弊し硬直しきった大学の、膿をいったん出し切って、再構築した方がよいのかもしれない。”劇薬”ゆえにひょっとしたら二度と立ち直れないかもしれないが。振り回される学生にとっては迷惑な話だが……。
大学に未来はあるのか?明るくは考えていない。
市民の科学として「大学がなくてもやっていける」科学を作ることを望んでいる。
大学改革のアンケートの最後にこんな言葉を書いて失礼しました。

 

池内了(名古屋大学・理学部/天体物理)

アンケートの質問事項頂きました。実に、問題が多岐にわたっており、これら一つ一つに私の考えを書こうとすれば膨大な時間を必要とし、現在の私にはとてもその余裕はありません。以下で、私が考えている問題を書くことで回答に変えたいと思います。(従って、以下の番号は、質問票の番号とは関係しません。)
一般に、大学(特に、国立大学)が閉じており、もっと市民に開かれるべきだという意見を多く聞き、私も本質的な部分には同意しており、そのための個人的な努力を続けているつもりですが、やはり「開かれた」という意味をもっと具体的に検討しなければならないと考えています。
(1)第一義的には、大学は授業料を払っている学生に知の財産を継承する場を提供することが大学の役割です。この点から言えば、大学は、教育を受けたいと望む学生に精一杯開いているかが問題となるでしょう。(例えば、外国人学校卒業者は、国立大学から閉め出されている。)
(2)また、国費(つまり税金)で経営され、あるいは補助金を受けている大学は、授業料を払う学生のみに限らず、納税者の教育要求にもっと開かれるべきという意見もあると思います。その場合、通常の学生とはどのように異なった開かれ方があるかを検討しなければならないと思います。大学側が一方的に提供する開放講座や生涯学習のメニューのみではなく、いかなる形態や内容が望まれているのか、明白ではありません。これには、納税者が、大学の施設(図書館、博物館、情報センター、教室や教材、コピーなど)をもっと自由に利用できることも含まれていると思いますが、通常の学生のみを想定した施設の規模や予算・人員配置の中で、いかなる開かれ方があるのか、そのためにいかなる措置が必要であるのか、その吟味をしない限り、容易には解は見つからないと懸念しています。
(3)また、国立大学の教員は、税金から給与を得ているのですから、その研究内容がもっと納税者に還元されるよう努力すべきという意見もあるでしょう。実際、個人のレベルでそのような努力をされている教員もおられますが、やはりボランティア活動となっていると思われます。厳しい研究競争の中で、研究者コミュニティに評価される仕事に重心があるためです。また、研究に必要な資金を獲得するためにはそうならざるを得ない側面もあります。このような状況下では、研究者が市民の要請を応えるようになるためには、大学そのものを開くより、市民が経営する研究所を作り、研究資金や給与を提供する以外にはないのでは、と考えています。即時的に納税者が学問研究をチェックしたり社会的コントロールするという発想には、私は同意できません。事後評価は可能かもしれませんが。
(4)以上は、市民に開かれた大学という言葉の内容をさまざまな要素(教育、研究、施設利用、協同行動など)に従ってきめ細かく点検し、人員・予算・スペースなどの物理的条件をどう整備するかを並行して考えないと、いっそう不幸な分裂が起こると危惧してあえて書いてみました。
現在の大学が抱えているさまざまな問題(汚職やセクハラなどの自浄機能、評価や人事の閉鎖性、ジェンダー差別、安易な教育、忙しすぎる教員、成果があまり出ない研究など、さまざまに指摘されています)に対し、さて何が特効薬になるかわかりません。そもそも特効薬などはないのでしょうが、効率化と安上がりの政策が押し付けられていくばかりで、いっそう問題は難しくなる一方のように思われます、企業の倫理が大学に貫徹しつつあり、研究や教育が競争原理にさらされて楽しいものでなくなっている、と感じています。それに対抗するための「開かれた大学」という理念であらねば、誠実な教員は疲労困ぱいしてしまい、自己のことにしか目が向かない教員は逃避してしまう、という気がします。そうならないために、以下のようなことを検討してはいかがでしょう。
(1)大学(大学の人間)に何を望むのか、をいっそう明確にすべきであろうと考えます。個人として可能なこと、法制度まで変えねばならないこと、資金や人員の手当で可能なことなどを弁別し、誰がどのように負担し合うかまで構想した提案が必要であると思います。そのような具体的な提案を大学の人間と市民が協同して策定することが、今大事なのではないでしょうか。
(2)教育内容・人事・予算・研究内容などについての自治を大学にしっかりと保証すること、同時にそれらの事後評価に市民が参加し公開すること、が重要と思います。大学の自律性の保証とその検証のシステムのことです。その中身をもっと具体的に詰める必要があると思います。(例えば、大学に教員評議会・学生評議会・市民評議会が対等に作られ、それが各々の観点で事後評価を行うなどが考えられます。)
(3)ただ、現在の大学は大きすぎ、多くの目標を持ち、多用な社会との接点があり、一律に論じたり制度を思考したりするのは困難であると思います、そのために、あるべき大学のスケール、目標の明確化、市民との接点の付け方などについてのモデルから出発すべきなのかもしれません。その線に従って、国立大学を改編する方向があっても良いと思っています。(現在のような、初めに独立行政法人化ありき、の議論ではなく。)
以上、思いつくままに書いてみました。「大学と市民社会が結びつくこと」の意義を十分に理解した上での発言のつもりです。

 

塩出浩和(城西国際大学、東洋英和女学院大学/中国政治)

1●大学と外部との関係は多様であって良いと思います。しかし、日本の大学は私、公、国を問わず、大量の税金(私立には私学振興財団経由)が使われているので、納税者としての市民(国籍にかかわりなく)がもっと影響力を行使できるようにすべきです。とりあえずキャンパス周辺の住民と対話を進めることを提案します。学生の駐車違反などで迷惑をかけていることですし。
2●将来的には大学は基本的に私立のみとすべきです。民間の財団や会社がそれぞれの思想・理念に基づいて大学を設置・運営するわけです。「市民立」大学の出現が期待されます。公立大学については地方自治体が民主的になっていれば、容易に市民立大学としての運営ができると思います。
国立大学は、国費をどうしても使用すべき研究と教育(大規模な基礎科学の研究や障害者のための教育など)にあたるもの10校程度に限定できます。文部省は廃止すべきでしょう。教育に対する政府の介入は憲法違反の疑いがあります。
税は直接に大学には使わず、優秀で援助を必要とする学生のスカラーシップにあてます。学生はそこから学納金(授業料)を払うわけです。現行の私学援助も憲法に反しますので。
3―1●図書館は公・国立は無条件で市民に開放されなければなりません。私立も現状では助成を受けているのですから開かれるべきです。
私はよくハワイ大学のハミルトン・ライブラリー(学部生よりも院生向けの図書館)を使いますが、まったくの自由で、手続きは一切なしです。レファレンスの援助も受けられコピー機も使えます。ファカルティーや学生との差は貸出ができるかどうかだけです。図書館内のコンピューターを使用してのインターネット接続も、市民は自由にできます。
3-2●図書館に準じて開放すべきです。このせまい日本で使われないテニス・コート、がらんとした教室を見るのはつらいものがあります。
3-3●地方公共団体や企業と共同で、あるいは大学単独で市民のための公開講座を開くことは、とりわけ私立大学の場合、生き残りのためにも必要になっています。
4●地域社会のメンバー市民としての大学が求められます。大学も地域の市民という訳です。この点から、例えば工学系・理学系実験施設から出る有害排出物などについても、企業と同様に(あるいはそれ以上に)大学は責任をもたなければなりません。
5●大学の活動の社会的還元は、何よりも将来の世代に有能な人材を供給することでしょう。研究成果や文化的資産についてはユニバシティー・ミュージアムの整備などがまたれます。学術研究の社会的還元については学会とジャーナリズムの役割が大きいと思います。ジャーナリズムは社会科学・人文科学上の研究成果をもっと報道すべきです。理工系の発見・発明については新聞・テレビも最近はよくやっていると思います。文系についてはマダマダ。
6●大学の顧客は第1に社会(具体的には未来の社会)、そして第2に学生です。ですから、社会と学生から評価されなければなりません。社会からの評価が、個々の大学への資金の集まり具合などにより良く反映されるよう税制上の施策がもっと必要でしょう。
学生による大学評価は重要です。授業評価には欠点もありますが、その導入は欧米ではあたりまえです。教員のボーナスやシニュア取得にも反映させるべきです。
7●同僚・先輩による人事評価には政治的・人間的配慮がはいってしまうので、人事委員会への外部人員の登用と審査の公開性確保が必要です。
8●大学内の特異な上下関係がセクハラ等の問題を引きおこします。指導教授制度の改革が必要でしょう。先ずは学位審査の公開化・外部化がなされるべきです。
モラルの向上は、大学を社会に向けて開いていくことにより達成できると思います。
9●一般的に言って女性教員・事務職員の昇任・採用は同程度の能力の男性に比べて遅れています。これは大学による差が大きく、私の勤める城西国際大学は女性学が中心だけあって学長・理事長・事務方の主な課長や教員にも女性が就いています。
10●外国人・留学生の扱いも大学による差が大きい。以前勤めていた国際大学では学長・研究科長・研究所長とも外国人で、学生についてもその6割~7割が外国人でした。ただし以前は外国人教員は有期契約、日本人教員は終身雇用でした。今は日本人も有期として平等になっています。
今度勤める城西国際大学でも学科長など外国人(ベトナム人)ですが、契約等は詳しく知りません。私が属することになる留学生別科は、私を含めて、日本人一人、台湾人一人、中国人一人という専任教員体制となります。こういう大学は珍しいでしょう。
11●近代日本における学問の役割は国家建設にありましたが、今後の学問は人類の存続と市民のエンタテイメントというふたつの機能を担わなければなりません。学問の府としての大学は市民のために開かれていることが生き残る条件になるでしょう。
12●大学ごと、学部ごと、そして教員ごとに研究を主にする人(部門)と教育を主にする人(部門)に分業が進んでいくでしょう。
全体的に見ると現在の大学は教育にコストをかけすぎています。その割に成果があがっていません。教育部門の改革は急務です。現在のカリキュラムなら学部は2~3年で十分です。
13●非常勤講師は給料が低い割に大学カリキュラムの中核を担っています。身分も終身雇用が基本の専任との差が大きすぎます。交渉力のある非常勤の労働組合が必要です。
14●社会人教育は将来の大学教育の中心になるでしょう。高卒すぐの一般学生より社会人学生の方がまじめで教育にもハリがでます。企業の中途採用、再雇用の制度が充実されるべきです。
15●大学での教育に向かない学生が入学しています。進学率が高すぎると思います。大学の数が多すぎるのでしょう。
教育で重要なのは初等教育と家庭・地域教育でしょう。そこで基本的な生活知識と世界認識(この世の中は「わたし」の敵ではないという感覚)そして自己発見(わたしは意味のある「何ものかである」ということの確認)をさせることが大切です。
インターネットなど情報取得手段が多様化している現在、これ以上のこと(知識)は「学校」でなくても得られるのです。この意味からも国立大学の半減を支持します。
16●市民がイニシアチブをとってCharter(契約条項)をつくり「市民立」の大学や研究所を作っていくことが望ましいと思います。私立大学には国立よりも希望がもてますが、まだ少数のボス理事が牛耳っている所が多いというのが現状でしょう。
今の教育(家庭も学校も含めて)は「あなたの周りには敵意がいっぱい、だから強くなりましょう」という理念でかたまりすぎています。富国強兵の時代はこれでよかったのでしょう。しかしこのような教育は神戸や京都や柏崎の少年たちを造ってしまいました。これに対する反省の上にしか将来の教育はないでしょう。

 

(匿名希望)

3-1●身分証明書を持参すれば入館証が発行され、図書を閲覧することができます。書庫には入れませんが、職員に持ってきてもらい、閲覧することができます。(教職員の紹介状を用意すれば、書庫に入ることも出来ます。)借出しはできません。利用時間は、平日午前9時から午後10時まで、土日は午前10時から午後5時までです。詳細は、ホームページで見ることができます。(北海道大学の場合)
15●今の日本の教育に最も欠けているのは、「批判すること(そして可能なら代案を提示すること)」の権利と義務をきちんと教えることではないでしょうか。その意味では、「若者の理科離れ」など大した問題ではない。
今の大学生は、ほんとうに教師を批判しない。促せば、それなりに質問はする。しかし、単なる質問ではなく、「先生のその説明はおかしい」などとは、まったく言わない。「そんな説明のしかたでは理解できない、もっとわかりやすく説明してくれ」とすら、言わない。そのくせ、陰では、「あの教師は……」とブツブツ言っている。
大学生がこうした有様なのは、おそらく小学校や中学校から、ひたすら教師のいいなりになることを教えられてきたせいだろうと思う(自分の子供を見て、つくずく思う。教師への不平・不満を正面から受け止める先生がいない。そのうち子供は口をつぐむことを覚えていく)。
だから、小学校や中学校で、「教師(ひいては既存の権威)にどんどん文句を言っていいんだ。そして、もっともな意見ならちゃんと受け入れてもらえるんだ。そうするうちに、自分たちの学校もどんどんよくなるんだ」ということを身体で覚えさせること、それが何より大事なのではないでしょうか。そうした教育をうけた子供たちが社会に出ていけば、絶えず建設的な意見が社会に満ちあふれ、それの実現に向けて行動する人たちが続々出てくると思います。
こうした人材の育成こそが、日本の経済発展にも貢献すると思います。(日本の今の閉塞状況は、70年初めに大学闘争が力でつぶされ、「物言わぬ羊」の生産こそが教育、という政策が押し進められたことに大きな原因があると、個人的には思っています。)
(ちょっと愚痴っぽいかな。ともあれ、「分数の計算もできない大学生」よりもっと重要なことがある!! ということを言いたいのです。分数なんか、ちょっと勉強すればすぐできるようになりますよ。しかし、批判的精神はそう簡単に身につかない!!! )

 

高野雅夫(名古屋大学大学院・理学研究科・地球惑星理学)

1●研究、教育の課題設定に関する議論を行うときに、「社会」に大学の方針案を示し、意見を聞いて議論し、それを研究、教育計画に反映させることが必要。
現状の国立大学では組織の改革をするときに、こういうことは政府(文部省)に対しては、さんざんやっているが、他のアクターに対してはまったくやっていない。それは、文部省が直接のスポンサーであり、それ以外のアクターは大学からは直接見えないし、見える制度がないからである。
そういう制度をつくることは、現状ではなかなか難しい。大学のトップにも末端の教官にも、そういうことの価値がわかっている人が大変少ない。個人的な努力でスタートして大学内のキーパーソンがネットワークを作って「運動」をするしかない。
2●大学への寄付についての税制上の優遇措置をもっと強化して、企業や個人からの寄付をしやすくすべき。直接のスポンサーが多様になれば、研究者にとって「社会に貢献する」ことも意識せざるをえなくなる。
3-1●土・日・祝日には市民に開放されている(資料の閲覧・複写に限る)。平日では、受付で住所・氏名・利用目的などを記入すれば入館できる。これを広げるには、図書館スタッフの数を増やす必要があると思われる。定員削減のもとで、アルバイトをかなりやとって運営している現状では、そこが一番の問題。
3-2●なっていない。教室的なものについては、学科レベルでの施設利用はやろうと思えばできるが、そういう施設(迷路の中にある小汚い教室)は市民が使うメリットはないだろう。全学レベルの講堂やホールを貸し出しすることは、中央事務に窓口さえつくればよい。ただし、私たちがそのような提案を行うルートはない。
研究設備については、学内の教官と共同研究者になればよい。そうでないと難しい。研究設備は、たいていは研究目的ごとに特化しており、一般的な目的には使えない。
3-3●市民向けの名古屋大学講座みたいなものは、年に数本やっている。また、地元のテレビで講座をやっている。ただ、こういう「啓蒙」的なことをいくらやっても、学問の社会への貢献をやったことにはならない。
研究については、行動する市民グループとの共同研究を行うこと。教育については、教育目標の設定(これが現在昏迷している)について市民と対話すること、が必要。こういうことは、私が関わっている新しい大学院「環境学研究科」では、個人的に実現に向けて努力しようとしているが、それがすぐに組織的な動きになるとは思えない。
4●地域にとって、大学は「知のセンター」であるべき。市民が何らかの問題を考えようとした時、図書館や博物館を窓口にして、その問題にもっとも詳しい教官を紹介してもらって、直接会って個人的に話ができるようになるとよい。教官もそのような対話を通して、新しい研究課題を発見することができる。そのような中から地域における産学連携もできるだろう。
6●評価の基準:
1)初等・中等教育の教科書の内容を書きかえるのに貢献したか。
2)設定された教育目標にみあった力を学生につけて社会に送り出したか。
3)新しい「ものづくり」に貢献したか。
4)社会の中で利害が対立しているような場で、客観的なデータを示して合意形成を行うことに貢献したか。
5)一般書やテレビ番組、Webページなどで、市民がみておもしろいコンテンツを作ったか。
(これらの中に「ノーベル賞をとったか」というような基準は本質的に必要なものではない。)
こういう基準に照らして、まずは個々の教官が自分の研究・教育活動を説明することが必要。
評価にあたっての考え方:
1)結果の評価だけでなく、「構想(これからやることの目的・目標・体制づくり)の評価」をやることがより大切。
2)結果の評価は5年~10年程度の長い時間スケールで。
3)社会との関係を強く意識すべき学問分野もあれば、そうではない分野もある。それは、学問の世界におけるその分野の位置にもよるし、一つの分野でも時期(学問の進化の段階)にもよる。それらを判断するには、科学史・科学論的な視点が必要。
4)すなわち、評価をどうやるか、ということ自体が科学史・科学論上の研究課題(その筋の専門家がそういう課題意識をもっているかどうかは不明)。現状では研究と評価の実践をリンクして試行錯誤するしかない。つまり大学の評価機関が研究活動を行う。それは、市民グループや民間シンクタンクなどとの共同研究で。
5)そのような評価が力を持つためには、学内に向けても「合意形成」の努力が必要。
7●異分野の人を人事選考委員に必ず含める。実質的に選ぶ人間に、学問の将来構想を描き、ある人事がその将来構想にとって、どうプラスになるか、という説明をする責任をもたせる。(私の所属するグループではこれが機能している。)
8●モラルについては徹底した情報公開をして、教官組織の外部に監視の目を置くほかない。名古屋大学では学生を中心にセクハラ問題にとりくむグループができている。
国立大学において、「御用学者」を制度的に規制することは現実にはできない。それは国家にとっての大学の存在意義の柱であるから。「審議会」の内容を市民がいちいちチェックするしかない。その作業に参加することは一人の市民としての大学人にはできる。責任はきちんと追求すべし。
9●私の所属する教室は、創設50年来女性教官がおらず、「ブラックリスト」にのっている。ごく最近、女性の助手が採用された。人事がある時に、一応、女性をできるだけとろう、という声はあがるし、女性だからマイナスという評価はしない。いかんせん、候補者内の女性比が極端に低いため、確率的に候補者の中でトップの評価をされることは少ない。アファーマティブアクションを行う(女性だからプラスと評価する)よう合意形成することは、外圧なしにはできない雰囲気。
女性の割合は学部生で2割、修士課程で1割、博士課程で0.5割。進学するごとに女性の割合が減っているのが現実。われわれの当事者能力がある問題としては、修士課程、博士課程にすすむ時に、女性比を落とさないようにする、ということ。
修士課程は何とかなるが、博士課程については、現在、男女を問わず卒業後の就職が極めて厳しく、私としては、男女を問わず積極的に進学するようすすめることはできない気持ちである。
10●現状でも、外国人をパーマネントの教官として採用することは制度上は何も問題はない。私の分野でも何人かいる。実際は、講義を日本語でやる必要がある、という「非関税障壁」がある。あとは公募した時に、日本での研究教育の場が、外国人にとって魅力を感じられるかどうか。
11●島津康男氏。ただし、彼はまったくの個人的努力で、自分の学問の必要性から「市民のための学問」を実践した。そういう自発性は大学においては必ず必要。強要はできない。
12●国立大学においては、教育の目標をどこに設定するか、ということが昏迷している。現在、理学系では、漠然と、極度に専門分科した学問の「後継者養成」を目標にしている。ところが、昨今の国立研究所や大学の定員削減で、助手などのポストが減り、後継者養成=失業者養成になろうとしている。すなわち、後継者養成はそもそも成り立たなくなっている。一方で、国立大学は「大学院重点化」で大学院生の定員を大幅に増やした。
この袋小路の状況は学問の状況と対応している。つまり、極度に専門分科した「専門家による専門家のための」科学(=「終焉しつつある科学」)は、研究において社会とのつながりが切れ、教育において卒業生を社会に受け入れてもらえない構造になっている。
私は、今後の研究を、「21世紀の世界を持続可能にするにはどうしたらよいか」という課題に取り組む方向に転換しようとしている。これは、専門家も素人もない分野であり、これから学生といっしょに作るべき学問だと考えている。その過程は、学生、教官一人一人が自分なりの問題意識を育てていくことであり、同時に、共通の課題意識を持った人どうしのネットワークづくりを学ぶことであると考えている。そのような体験をした学生が、社会に出て、「キーパーソン」として新しい社会をつくるネットワークづくりを担うようになれば、そういう卒業生は社会に受け入れてもらえるだろう、と期待している。少なくとも、すぐには受け入れてもらえなくても、学生も教官も「楽しい」だろうし、人生なんとかやっていく力をつけることになると期待している。この過程では、研究と教育は表裏一体のものだと思う。
教養教育の問題は根が深い。受験に強迫的に追い立てられてきて、それからやっと解放された新入生には「リハビリ」が必要である。それは、何らかの「コミュニティ」の一員になること。現在は、その機能がサークルにしかない。学問における「コミュニティ」をつくることが必要。私は、「地球環境塾」と称して「寺子屋セミナー」(1年生から4年生、院生までいるゼミ)を作って、これに取り組もうとしている。しかしながら、このような「コミュニティ」を大学が制度的に学生全員に用意することは、教官の数と力量、教室の数から言って不可能。学問的「コミュニティ」を体験した学生が「キーパーソン」になって、学生の自主的な活動として行うようにするしかないだろう。
13●非常勤講師は大学の外や他の研究機関で活躍されている方に、講義をしてもらうような場合にたいへん有効。そうではなく、授業の数合わせのために非常勤をお願いするのは、基本的にやめるべき。私の所属する教室ではそのような形態はない。
14●大学の教育目標の設定がまちがっているために、大学で学ぶこと、身につけることが社会からまったく期待されていない。期待されないものに意欲を持って取り組むのは無理。一方で、官僚機構の部品となるべく期待されるようなものを、学生に身につけさせるような教育目標はまちがっている。「時代の課題」に「参加する」学問を学生といっしょに作り出す、という研究・教育の課題設定をする他はない。もちろん、何が、「時代の課題」であり、「参加する」というのはどういうことか、という点には大きな自由度があるべき。
16●大学のもっともいいところは、大学の中身である研究・教育について個人的な努力が可能なところである。この「自由」なシステムは、今後の社会システムのお手本となるべき側面もある。これは残さなければならない。このシステムは、一面では、「いいかげんな」ものの存在を許すシステムでもあることは覚悟すべき。
「市民のための科学」を実現するという課題は、「終焉しつつある科学」の側からも出てこざるをえない課題意識である。この課題意識を共有する学内外の人々とネットワークを作って、知恵を出し合い、努力すること。

 

K.M.(東京工業大学)

1●まずはとりかかりとして、大学内部で、大学が開かれた存在となるべきであることについての広い合意を形成する必要があると思います。「開かれた」といっても、事務的な窓口となる「職員」や、教育や研究を担う「教員」が具体的な場面で「開かれる」べきであることを認識することが出発点となるでしょう。担い手の意識が変われば、制度的な改変は比較的はやく進むと思います。大学の内部がいままでの「閉じた」大学でよいとしているうちは、外からの働きかけに対する反応は鈍いでしょう。
2●大学が、市民を含め、さまざまな財政源をもってその財政基盤を多様化するのは重要かと思いますが、国以外にそのすべてをもとめ、国から完全に独立することは不可能だと思います。大学が、社会に認められる存在であり続けることによって、「資金は出すがその運用は任せる」という種類の公的な財源は、目的志向的な財源とともに必要だとおもいます。その提供者としては、さしあたって国ないしなんらかの公的機関となるとおもいます。
3-1●開放されています。使用時間は学生と同じです。東工大附属図書館には、目黒区大岡山の本館と横浜市緑区長津田町の分館がありますが、ともに平日はもちろん(創立記念日の5月26日、7月下旬から8月末、12月下旬から1月下旬、3月は、9時から17時、それ以外の平日は9時から21時)、土日も11時から17時まで開放されています。入館時に利用願い(備え付けの用紙一枚で、入館のたびに記入しなければならない)に記入してカウンターに提出すれば、だれでも入館し内部の資料を使用することができます。東工大の図書館は、完全な開架式なので、閲覧できる資料に、学生と差はありません。コピーも可能です。ただし、貸し出しはできません。
3-2●一般市民のみが利用できるようになってはいません。(形式的にしろ)所属の教官の紹介が必要です。さらに利用時には、利用者のなかに学内者がいる必要があると思います。しかし、学内者の主催する催しに学外者が参加することについてはかなり自由です。
3-3●1974年からはじまった「大岡山現代講座」という一般公開の講演会を年2回程度やっているほか、各種の公開講座を開催しています。また、高校生向きには、夏期公開学校(実験講座のような)やスーパーコンピュータを用いたプログラム・コンテストがあります。また、大学生レベルでは、ロボットコンテストも有名です。また、学内への入構が自由なので、桜の季節に花見を楽しんだり、秋にイチョウの実(銀杏)を拾ったりしている地元の人を見かけます。
4●可能だと思います。
5●チェック機構をいきなり立ち上げることは困難だと思います。まずは、大学がやっている事業(教育と研究)を公開する仕組みをきちんと確保としておくべきでしょう。市民から請求があったときに、公開できる仕組みをつくることです。広報誌やホームページなどで大学内でなにがなされ、施設を使いたいときにはどうすればよいかが、分かりやすく接近しやすい仕組みを作っておくことが必要でしょう。
6●現在の大学の自己評価は、批判されてもよいように一応やっておくといった、たぶんに「アリバイ的」なものです。しかし、そうした動きがはじまったことは、当初の動機はどうあれ、評価すべきだと思います。こうした動きがいったん形成されれば、当初の思惑を越えて進む可能性があります。大学外からもさまざまな大学評価の動きがあってもよいと思います。そのことによって大学と大学外との交流が深まるでしょう。
7●とくに新しい人材登用の事例は知りません。現在、学術情報センターで公募情報が一般に公開されるようになり、少なくともどこでどのような公募があるかはわかるようになりました。これだけでも一歩前進だと思います。オープンな人材登用は、よい意味での人材流動性と結びついていると思います。人材登用法としてよい具体案はまだ私にはありませんが、方向性としては、一方で、職業的な安定性を確保しながら、大学を自由に移れるような仕組みを構築していく必要があると思います。
8●大学人の個人のモラルを高めるとともに、そうなるような制度的な仕組みでモラルの維持を保証することが必要でしょう。つまり、業者と癒着できないような予算運用や入札の仕組みをつくるとか、適切な研究評価の仕組みをつくるとか(教育のような評価されていない部分も評価するようにするような)ことです。学者が、政府の政策に関与すること自体は悪いことではないと思います。官僚を越えるような政策立案に寄与できるなら、大いに影響力を行使すべきだと思います。これからは、政策についても、「無名」でなく「有名」で、その責任主体がはっきりするような政策を増やしていくべきでしょう。
9●東工大は、理工系の単科大学ゆえに、学生の段階から女性が少ない構成になっています。1999年5月1日現在で見ますと、女性は、学部生で5499人中554人(10.0%)、大学院修士課程で2995人中364人(12.2%)、大学院博士後期課程で1341人中169人(12.6%)です。少し古くなりますが、1994年6月に名簿で教員の中の男女比を、個人的に調べたことがあります。教授335人中1人、助教授296人中7人、講師24人中2人、助手432人中23人、技官146人中61人、全体で合計1087人中33人でした(現在では、助教授・教授の層の女性比はもう少し高くなっているようです)。教員の中では、もともと女性教員が少なく、しかも階層の下層に多く偏っているという構造があります。ただ、こうした傾向は、日本のどの大学でも見られ、欧米でも女性教員の割合は高いものの、階層の下層に偏っているという傾向は同じです。したがってジェンダーの問題は、構造的なもので、あらゆる場面で少しずつ、社会の意識を変えていくことによって変わっていく問題であると思われます。
10●現在は、国立大学でも外国人講師・教授の採用や、海外留学生の採用は、増加しています。前者については、まだ十分に進んでいるとはいえませんが、留学生はアジアを中心にずいぶん多くなっています。1999年5月1日現在で見ますと、留学生は、学部生で5499人中178人(3.2%)、大学院修士課程で2995人中174人(5.8%)、大学院博士後期課程で1341人中295人(21.2%)です。これに100人余りの研究生をくわえたる東工大には現在、760人前後の留学生が在学しています。このうち、アジア地区から667人ともっとも多くの留学生が来ています(多い順に中華人民共和国236人、大韓民国150人、インドネシア55人、マレーシア39人です)。
11●大学とはべつにいわば「市民のための学問」を進めてきたのは、その内容に異論があるにしても、福沢諭吉らにはじまるかつての「言論人」はその祖型だと思います。現在、大学人として「市民セクター」とのかかわりを持ち、「市民のための学問」を実践してきた人々というと、すぐには思いつきません。大学以外の場でそうした「市民のための学問」を志向して新しい学問研究のあり方を提唱している人がいれば、たとえば、原子力資料情報室を運営し、「高木学校」を立ち上げた高木仁三郎の名前が思い浮かびます。大学という場も必要だと思いますし、その意味では専門家も必要だと思います。そのとはべつに大学以外の知の場は、大学との対置という意味いじょうに必要だと思います。
12●現在は、教育が大学での教員の採用や昇任などでちゃんとした評価の対象になっていないことが最大の問題です。採用時にいわれる「教育歴」は、どのような場所でどのくらいの期間教えたことがあるかということで、教育の内容は問われません。業績として評価されるのは、研究業績です。それは、論文数や特許数といった数量的なもので評価されます。内容の評価は、まったく同じ分野の専門家以外は困難で、せいぜい論文の掲載された学術雑誌の一般の評判を加味するくらいでしょう(したがって雑誌が、論文採用の際に審査員によって可否が判定されたか、つまりそうした審査員(レフェリー)がいるかどうかで重視されます。場合によってはそうした雑誌の「格」の数量的な基準としてImpact Factorというのがつかわれることもあります。ある雑誌のImpact Factor=(その雑誌が引用された総数)÷(その雑誌中の掲載論文数)です。医学部などの教員採用審査では、業績一覧に論文だけでなく、その論文が掲載された雑誌のImpact factorが併記されるということを聞いたことがあります)。しかし、教育の質についてはどのような基準で判断すべきか、まだ合意点がなく、評価方法は未開拓といえます。最近、一部の大学で採用されている講義についての学生アンケートというのも一つの方法でしょう。そうした教育での評価を、採用や昇任、場合によっては給与に反映させるべきでしょう。
13●たぶん、非常勤講師は、二種類に区別すべきだとおもいます。つまり、大学の研究・教育職へのステップとしての非常勤講師と、ある時期にある特定の知識を提供してもらう、文字通り「臨時」に講義を頼む非常勤講師です。前者を第一種の非常勤講師、後者を第二種の非常講師だとすると、第二種の非常勤講師については、その講義の時間数のみの給与で(つまりほぼ現在の非常勤講師の待遇と同じで)よいと思います。第二種に属するのは、たいていは、すでに常勤職をもっているなど、生活・研究条件の保証を持つ人々です。第一種の非常勤講師については、研究者への道の一段階として、表に見える「講義」の時間数だけでなく、背後の研究活動での研究条件も整備することを考えていくべきでしょう。この両者の(無意識の、ないし意識して)混同が、「非常勤講師問題」を生んでいると考えています。
14●特定のテーマに関する情報は、そこへのアプローチの仕方がわかっているなら、誰でも入手し、それに基づいて考えることが原理的にできる時代になっています。インターネット上の情報を含めて広く文字で伝えられる情報では伝達できない、「探究」のノウハウを伝え、訓練する場所が大学となるのではないでしょうか。言い換えれば、生の文字情報ではつたわらないさまざまな、知の技法とでも呼べる「暗黙知」を伝える場所が大学ではないでしょうか。
15●「分数の計算もできない大学生」は、現在の中等教育の問題と、大学入試の問題の結果生まれたものだと思います。
大学入試収入のみを考えた学生集めのための「入試科目」減らしをやめ、大学が望む学生がとれるような入試科目を設定すべきでしょう。一方で、文部省の中等教育政策の失敗があります。「ゆとりの教育」と称して、時間数を減らしながら、教科内容は、アリバイ的に項目を減らしながら、実質的な削減になっていないためです。「学習指導要領」の内容の検討を一部の「教育学者」に任せることなく、もし諸学会が真に危機感をもつならば、研究者側が(大学側が)、その教育内容についての対案を出すべきでしょう。学会の研究者たちは、そうした「仕事」が業績として評価されないので、やりたがらないのが実状ですし、やろうとすると、自分の属する特定分野を、中等学校の教科内容に如何に入れるかあるいは残すかに汲々としてしまうのが実状だと思います。大学の「レジャーランド化」なども、大学で「教育」が真剣に検討されてこなかったためではないでしょうか。
16●現在の大学が、市民一般のものになっていないとしたら、大学入学が、18歳で入学するのがもっとも適当であるという制度的な枠組みがあるためでしょう。もし、かりに終身雇用制が完全に崩壊するなら、大学の入学者は結果的に多様化する可能性があります。しかし、また逆の可能性もあります。終身雇用制が完全に崩壊するなら、高校や大学を卒業したばかりのいわば職業技能をほとんどもたいない人々を企業は雇わず、そうした技能をもつ中高年層を安い賃金で雇うようになるかもしれません。すると、中高年層ではなく、若年層に失業が集中するかもしれません。そのため若年層に社会矛盾や社会不安が広がり、その安全弁のための政策として、国の補助によって、大学の授業料の無料化がはかられて、若者を全入させて、しばらく大学で預かってもらうということが逆に進むかもしれません(ヨーロッパでの大学授業料無料化はそうした意味合いがあるということを聞いたことがあります)。つまり、大学のあり方は、社会全体のあり方で規定されていくと思います。したがって、私たちがどのように社会を欲するのかという設計によって、大学のあり方の設計も決まるのではないでしょうか。

 

S.S.(東京大学総合図書館)

回答するに当たって私自身の限界を言っておかなければなりません。
私は東京大学という大規模な総合大学の図書館で働く一係員ですが、東大全体こと、他部局のことはよくわかっていません。東大当局は、「改革」関係の結論的情報はかなり公開していますが、予算・決算や大学の諸会議の議事録、文部省などとの会議や交渉内容などは職員には公開していません。他部局のことは東大全体のことよりももっとわかりにくい状況で、部局年次報告、部局ニュースなど公開文書はありますが、余裕がなく読んでいないので、わずかに知人との話し合いなどで断片的な情報を得る程度です。
現在は国立大学独立行政法人化問題や大学独自の将来構想などで、大学問題に関心のある教職員は増えていると思われますが、自分の研究・教育や業務で精一杯で、よほど意識的・精力的にならないと全体の問題把握とその対策を考えることは困難です。これではいけないと思いますが、これが私自身を含め多くの教職員の現実ではないかと思われます。その結果大学上層部と委員会メンバーなどで審議し決定するという事態を遺憾ながら許してしまっています。
このような状態なので(誤解を恐れる気持ちもあり)私はあまり回答することが出来ず、出来た回答も主観的、一面的、抽象的で不十分であると言わざるを得ません。そのことを斟酌していただくようお願いします。
(なおご存じと思いますが、文部省と国立大学、文部省関係機関の動向は、文部省外郭団体発行の「文教速報」、「文教ニュース」(いずれも週刊、市販)で知ることが出来ます。また各大学や文部省のインターネット・ホームページがあるので表面的ことはある程度わかります。ホームページへの注文などを一般市民から出してはいかがでしょうか。
1●今国立大学は国家権力指導による「産(官)学協同」の津波に襲われ飲み込まれうとしています。これは大学の管理・運営・研究・教育を変質させ、職員の意味・態様を変質させています。独立行政法人化はこの傾向を法的、制度的に確立するものになるでしょう。これを規制することが現在の最大課題であると思いますが、規制する「力」どころか「主張」を持つものも学内にはほとんどいません。残念ながら学内の少数者と連帯した学外からの規制を期待せざるを得ません。
「産学協同」は一応「社会に開かれた大学」という名目を立てているので、一般市民から大学の公開を要求するチャンスでもあると思います。「一般市民への公開」、「生活・社会問題などへの大学の貢献要求」などが突破口の一つになるのではないでしょうか。
2●自由に使える校費や一般管理費が減って、科研費や総長留め置き金など使途を規制できる資金の割合が高まっていることが問題。企業からの資金は様々の形で流入し、増加しています。「草の根研究支援費」などが出来れば面白い試みと思います。
3―1●限定つきで公開されています。ほとんどの国立大学図書館も以下とほぼ同様のようです。
★目的:申込者の近隣公共図書館や大学図書館にない資料の学術研究・調査目的のため、学内者の利用の支障とならない範囲で許可。(図書館自体収集資料が公共図書館と違い、学術研究・教育的資料に限定している。例えば文学はいわゆる純文学のみで小説単行本は買わない。実務書は買わないなど。予算不足、書棚不足も一因。)民間企業の利用は掲載出版、翻刻、放送利用など特殊な場合以外は認めていない(個人名で申し込んでもらうが、目的によっては断る)。
★入館手続き:あらかじめ往復はがき、Eメールなどで、利用目的、資料が特定できなければその資料名を書いて申し込む。資料の所在を確認して承諾の返事を出すので、返事を持参してもらう。断ることはほとんどない。来館すると臨時入館証を発行する。利用期間はケースバイケースだが1日ー1週間が多い。受付は午後4時45分まで(5時以降はカウンターが業者派遣職員とアルバイターとなるため)。利用は閉館(午後9時半)まで。
★利用内容:館内閲覧と館内のコピー機(1枚10円)利用のみ。(コピーは出来ないように思われているが、ほとんどの大学図書館でも出来る。)コピーに関する規制は学内者と同様。資料の館外貸出しはしていない。施設見学や東大・東大図書館に関する質問は随時受け付けている。当館は国連寄託図書館なので、国連資料を担当している国際資料室の利用は無制限(一般市民も自由)。
★備考:職員数が9次にわたる(1次につき原則として5%)定員削減(母数は教員・看護婦など学内全教職員数だが、実際の減員は事務・図書・技術職員・守衛・用務職員など。したがって5%削減計画でも職員は8ー9%削減となる。総合図書館では約100人いた定員が46名となった。しかも役職ポストは減らないので減員は実質的に日常業務を担っている掛員に集中。日常業務への影響は削減数字以上のものがある)や、新規増員が教員にはあるが職員にはないことにより学内新機関への引き抜きなどで非常に減っており、業務が質(電算化対策など)量共に増えているため、掛員自身が利用者の増えることを歓迎できない状態である。市民の方々もこのような事情に目を向けていただきたい。
図書館には利用対象別に国会(各省庁)・公共・大学・学校・企業などの館種があるので、一般市民の図書館利用に限って言えば、公共図書館を充実させ、学術資料を備えさせるなどの要求をすべきではないだろうか。行政機関の情報公開を進めたり、企図書室の公開なども必要であろう。
3―2●図書館では、館内展示会を一般公開しています。その他は利用できる機会はありません。部局では大学祭とか創設記念日などに施設の公開をしているところがあります。企業による理工系部局の施設・設備利用はいろいろな方法で行われているようです。
3―3●東京大学公開講座があります。「市民や地元地域と結びついた活動」については分かりません。
4●「地場産業の成長、地元(具体的には企業・行政?)のニーズにみあった技術開発など」はまさに現在国や企業が推奨し、推進しようとしていることです。大学側も存在意義をここに求めようとしています。そのことは学問の自由を損ね、内容をゆがめるという根本的な問題をはらんでいると思います。
大学を国や企業の自由にさせないためには、大学の組合などと連携して、大学への地域の一般市民の問題意識の応じた働きかけが重要ではないかと思います。
8●職員には所属大学の教員の誰がどんな審議会に属し、どんな働きをしているかなどほとんど把握できていません。そのような事を調べ、インターネットなどで公表してくれる組織か有志がいると随分助かるし、当の教員なども勝手なことがしずらくなると思うのですが。悪いことをしている者はそれを暴露、公表されることを一番恐れるのではないでしょうか。
9●東京大学事務・図書職員(技術職員は係長組織がない)の女性係長はここ10年弱の間に組合運動の成果として非常に増えました。しかし、係長昇任の年齢には女性が男性よりも遅いという差別が、若干改善しているがまだあります。大学本部係長および課長、部長などの管理職では女性は依然としてまれです。
しかし近年は係長になりたがらないという傾向が出てきているようです(男性にも?)。それは近年急展開している「改革」や「事務改善」計画作りで、係長になると会議や会議関連の業務を担当させられ、非常に忙しくなるからではないかと思われます。残業も増えるので特に女性には家庭との両立が困難になるようです。個人としての文化的、社会的要求などの実現が不自由になります。(男性も)女性に限らず掛長は日常業務をする余裕が非常に少なくなるので、図書館では図書館業務がしたい職員は係長になることを敬遠することもあるようです。多くの国立大学では他部局、他大学・機関に異動しないと昇任させないという人事政策をとっているので、所属図書館・室に愛着を持ち異動を断る職員は昇任できません。(男性も同様)近年は係員もそうなってきましたが、特に係長になると2~4年(平均3年)で他へ異動させられます。そんな浮き草のような存在になりたくないという職員もいます。
10●日本人の博士浪人が非常に増えているので、外国人教員の大幅な増員には疑問があります。(勿論、外国人教員の権利・義務は日本人教員と同等であるべきです)。
海外留学生の採用は国の政策でもあり、事実非常に増えています。貴会の「促進していくべき」という理由は国の政策とおなじなのでしょうか。違うとしたらどう違うのでしょうか。
12●「教養部廃止」は専門教育(職業教育)重視の意味が一番強いと思います。視野が狭く、仕事の社会的な意義など考えずに与えられた仕事をうまくこなせる職業人養成(速成)が狙いではないでしょうか。
13●非常勤講師に限らず、非常勤職員の待遇については余りにも劣悪で人権問題だと思います。東京大学職員組合では伝統的に非常勤職員問題を重視してきました。近年非常勤職員(パートタイマー、アルバイターなど)が増加しているので、最近「定員外職員ネットワーク」を作り組織し始めたところです。当館では長期勤続パートタイマーが4名おり、うち2名が組合員です。館内で出来る待遇改善は非常に限定されているので、全学的、全国的な統一運動として取り組まねばならないと考えています。
非常勤講師問題は東大では今のところ余り表面化していませんが、当事者が組合に問題提起すれば組合としても取り組むことが出来るでしょう。当事者が黙っていては組合は動きません。
14●社会人が学ぶことの障害は経済的理由もありますが、最大の理由は時間的余裕がないことではないかと思います。
私たち現役の者はその意味でも人減らし反対、残業反対、労働強化反対と言わなければなりません。

 

植松英穂(日本大学・理工学部/科学史)

今回の調査における「大学」は、国立あるいは公立大学のことであると思われ、私立大学は問題外であるようでしたが、回答可能な範囲で答えました。
3-1●日本大学理工学部図書館は一般に開放していないが、大学の公開講座を受講した人たちには利用できるようになっている。また、地域図書館と連携をとり、地域図書館へ市民の要望があれば、地域図書館への図書の貸し出しを行っている。
大学図書館は専門性が高いので、都道府県立・市町村立図書館とは目的が異なっている。目的の違いを市民がきちんと理解しないと、逆に大学図書館が困ってしまうのではないだろうか。やみくもに市民が大学図書館を利用できればよいというものではないと思われる。
欧米では図書館は開放的と書かれてあったが、ヨーロッパの大学図書館は閉鎖的なところが多いと思われる。
3-2●日大理工は教室や研究施設の一般市民は利用できない。
ほとんど税金で運営されている国公立大学において、税金という理由で一般市民が教室や研究施設の利用ができるというのは、「開かれた大学」とは異なる問題であると思われる。もしそのような論理が成り立つのであれば、税金で運営されている裁判所、国会議事堂などもそのような対象になってしまう。
これまでの市民運動においては、税金が適正に使われているかということが問題にされてきたが、今回のアンケートではそれにとどまらずに、さらに踏み込んでいるように思われる。
本来の大学の存在意味あるいは意義は何であるのかということを充分に論じた上で、教室利用が市民運動として適切であるかどうか議論すべきではないのか。特に一般市民の研究施設の利用は、危険が伴う場合が多くあり、また研究者の研究場所が無くなってしまう可能性があり、市民が要求すべきことではないと思われる。
4●地域産業との結びつきは、既に千葉県で実施されていて、千葉県に校舎の一部がある日大理工では、そのような事業に参加している。
5●「学問的成果の社会的還元」に関しての検証については、「学問の自由」という伝統的な考え方があり、これに対して税金の使われ方をチェックするのは不可能である。また、「社会的還元」の意味するとことがきわめて曖昧で、十人十色の考えがある。ある人にとっては役に立っても、他の人には役に立たないことがある。今役に立たなくても、将来役に立つかも知れない。これに関して議論しても有意義な結論は得られないと思われる。
6●大学を適切に評価することを考える場合に、大学の存在意味・意義を論じる必要がある。研究しない大学教員が増えたため、自己点検・評価ということが言われたのではないかと思っている。
歴史的には大学は教育機関であったものが、20世紀になって特に研究機関としても認められるようになった。そして社会的には大学は教育よりも研究が重要視されるようになってきている。本来大学の基盤は教育である。そこのところをきちんと押さえないと、大学の存在意味・意義が分からなくなってしまう。
現在、大学が行っている自己点検・評価はお手盛りのものであり、第三者機関により点検・評価されなければならない。アメリカの場合は、他の大学により点検評価されている。
学生による評価は、最近はやっているが、それは講義内容についてだけのものである。また、学生の能力を考えると必ずしも信用できるものではない。
市民による評価は、情報収集能力からみて無理であると思われる。
7●大学の人事や講座制については、かつて名古屋大学の坂田昌一が彼の所属していた物理学科を一大改革をした。それは研究に民主主義を導入したもので、講座制を止め、研究グループ制を取り入れ、研究の活性化を図った。人事や研究を全教員で決めていくというものである。日大理工の物理はこの方法を取り入れている。
8●モラルなどは個人の問題であり、どうすることもできない。御用学者については、これもどのような時代にも存在するものであり、個人の問題といえる。市民よりの学者もいるし、国家よりの学者もいる。そのようなことを意識しない学者もいる。大学といえども一般社会と変わらない。
市民レベルの問題と国家レベルの問題は視点が異なっていて、両者は対立することが多い。視点が異なっているのであるから対立することはあたりまえである。何を持って御用学者とするかは難しいが、社会に危害をもたらすようなものに対しては、市民運動を盛り上げて対抗するしか方法はないであろう。
10●外国人教員については、教育機関としての大学を考えると積極的に増やさなければならない理由はないし、かといって閉ざす必要もないと思っている。
11●市民のための学問を実践している人は、高千穂商科大学の勝木渥氏である。環境科学の確立を目指している。現在、杉並病と深く関わっている。
12●については、試行錯誤の連続で、確定的なことは言えない。相手(学生)によって大きく変わってしまう。
大学での教育は社会的には全く評価されていない。
13●非常勤講師の多くは、大学の経営の都合上で行われているものであって、本来専任をおくべきものである。大学自体消極的な姿勢を持っている。根本的な改革は国家の支援がないと難しいと思われる。
14●大学でなければ学ぶことができないことはほとんどないと思われる。高校までは教える内容が決められているのに対して、大学ではそのような制限がないが、大学で教えていることは市販されている専門書に書いてある。しかし、専門書に書かれていることを正しく理解したかどうかは読んだだけでは分からない。また、短時間に効率よく学ぼうとする場合は、大学の講義は便利である。最先端の研究との関わりなど大学でしか教われないことも多い。
日大理工は日本で始めて社会人大学院を設置した。
無償で学ぶことを制度的に保証するには、全ての研究教育機関を国営にしなければならないと考えられる。
15●日本は大学の大衆化路線を進めてきた。それはそれで国力として考えれば意味があったと思われる。その結果大学生の能力の低下という事態を招いた。それは、社会において大学そのものの存在意義、存在価値がなくなっているからであると思われる。一流企業にはいるためという目標で一流大学を目指す、一流大学にはいるために一流高校に入る、一流高校にはいるために一流中学に入る。一流という価値は、どこで決まっているかというと予備校の偏差値、すなわち受験生の人気である。受験生の人気の高いところが一流となっている。大学に入ることが目的となり、大学に入って何をするのかということを全く考えないためにこのようなことが生じていると思っている。また、日本のどこの大学に行っても、特徴がみられない状況で、大学の価値を決めているのが偏差値となっていることも原因の一つとなっている。受験生にしてみれば大学の内容を知ることができない。それで頼りになるのは偏差値のみとなってしまう。
例えば各大学の物理学科を比較すると、それぞれ研究していることが異なっているので、よく調べればそれぞれの大学の特徴が分かるのであるが、高校生にはそれが難しい。高校生が核融合やプラズマのことを学びたいと思っても、それがどこの大学で行われているか知ることが難しい。どこの物理学科でもそれをしているというわけではない。大学自体も内容が分かるように広報していかなければならないと思っている。
16●「市民のための科学」というのも抽象的で、十人十色各自考えが異なると思われる。研究者の個人の志向であり、目的にはならないのではないかと思われる。

 

S.H.(京都精華大学・人文学部教員/科学史)

1●新しい提携は必要でしょう。各セクターの性格によって、大学との新しい提携の性質が違うと思いますし、形も異なるでしょう。これに関しては、それぞれ各論的にかなり長く論じる必要があると思います。今回は考えもまとまっていませんので、一般的に新しい関係・提携が必要であるということだけを述べるに留めさせて下さい。
2●現在私が所属している私立大学の場合、帰属収入の約83.8%(98年度:以下同じ)が学生生徒等納付金です。また入学検定料は約4.6%を占めています。従って、財政面での現在の課題は、充分な学生が確保できるのか、と、一年前と同じくらい受験生が受けてくれるのか(いい言葉ではないですが受験生の確保ですね)、という点です。おそらく、多くの中小(弱小)私立大学における、現時点での財政課題は、同様ではないでしょうか。
また、私が所属している大学の場合、施設面を充実するため、資金を借りていろいろな施設を増設しました。それらに関わる負債は現在まだ50億円ほど残っています。これも大学の財政を考えると非常に大きな問題であります。そしてこのことも、中小(弱小)私立大学の多くに共通する問題ではないでしょうか。というのも、90年代に入り、多くの大学でハード面の充実をはかろうとした動きがあったと思われるからです。
このように考えると、多くの中小私立大学の財政面での現在における課題は、いかにして、現時点の収入の構造を維持しながら教育的研究的内実を維持できるか、また、現在の収入構造でいかにして過去の負債を減少させることができるか、ということだと思います。しかし、御存知のように受験生、学生獲得競争の激化は、現在の収入構造の維持を難しいものとしています。しかもいわゆる補助金も大きくはありません(私の所属する大学の場合7.8%、97年度の大学法人の平均は12.7%です)。収入のパイプの多様化も重要ですが、大学の場合営利企業ではありませんので、商売というわけにもいきません。市民による「支援」は、概念的には重要だと思いますが、現実的に、財政の中心部分になるには、仕組みをかなり考えなければならないでしょう。しかも時間が必要でしょう。
つまり、市民による「支援」は、現段階では、理念的には重要と思いますが、現実的に力を持つのは難しいという感じがします。これも一般論で申し訳ありません。
この問題自体大変大きく、現在の多くの大学では緊急の問題となっているともいます。そしてその緊急性はいかに受験者と入学者を確保するかという点に集中しているように思います。
3-1●開放されています。手続料は1000円(3年間有効)。手続には、情報館(私の所属する大学では「図書館機能」を情報館が担っています)所定の申請用紙(必要事項の記入)、写真(3×4cm)1枚、名前住所を確認できる身分証明書が必要です。これで利用カードが作られ、利用カードがあれば情報館内の図書資料等に関して閲覧可能のです。インターネットも利用できます。
情報館内資料の貸出しに関しては、図書は10冊まで2週間、雑誌は5冊まで1週間、残念ながらAV資料は、館内閲覧は可能ですが、貸出しはしていません。
利用時間はカードがある場合開館時は自由に入退出できます。
3-2●教室スペース等のスペースとしての利用は可能です。学外の市民等の場合、申し込み制で、学内の学生教職員が利用していない場合使用が可能です(許可は最終的には常務理事会がすることになっています)。使用料も頂きます。最大規模の教室(101人以上で利用可)で、1日使用料8000円、と、暖房光熱費等5000円です。
私の所属する大学には芸術系の学部があり、様々な設備がありますが、その使用については市民に開放していません。学生教職員が作品を作るのを優先するためと、安全面のためです。特に学生は休暇期間も作品を作っていますので、開放の可能性は少ないというのが現状です。
利用状況は、私の所属する大学の場合、郊外にあるということもあって、学会などによる利用にほぼ限定されています。
3-3●アッセンブリアワーと称して公開講演会を企画しています。無料です。
99年度開催分は以下のようになっています。
5月 6日(木) 井筒和幸(映画監督)
「憎たらしいほど愛しい《映画》」
5月27日(木) 野田知佑(カヌーイスト/エッセイスト)
「世界の川を旅する」
6月10日(木) 鷲田清一(哲学者)
「悲鳴をあげる身体」
7月 1日(木) 谷村志穂(作家)
「疑問符の向こう側」
9月30日(木) 村上 隆(現代美術家)
「PO+KU ART レボルーション」
10月14日(木) バイマーヤンジン(チベット人声楽家)
「チベットと日本~異文化を超えて~」
10月28日(木) 松岡 環(アジア映画研究者)
「歌い踊るインド映画の世界~その特異性と普遍性~」
11月11日(木) 今福龍太(文化人類学者)
「デジタルな語り部-~ストーリーテリングの未来~」
公開講座も実施しています。こちらは有料です。料金は講座によって違います(5000円~15000円)。また回数もそれぞれによって5回から10回と幅があります。
99年度後期は以下の8講座を開きました。
写真講座「写真表現の現在」講師:八角聡仁・倉田精二・瀬田登久子・佐内正史
映像表現講座「映画編集の思想と技法~あなたにも映画がつくれる~」講師:浦岡敬一
短歌講座「現代短歌入門~読みかた、作りかた~」講師:岡井隆
英語表現講座「ベーシック・イングリッシュの発想と方法~850語ですべてを表現する~」講師:片桐ユズル
宗教論講座「現代日本文学と宗教」講師:笠原芳光
身体表現講座「リラクゼーションのためのボディワーク(表現編)」講師:坂本 公成・森 裕子
デザイン講座 I「自己表現のためのDTP(基礎編)」講師:佐竹邦彦
デザイン講座 II「自己表現のためのDTP(中級編)」 講師:佐竹邦彦
木野評論という評論誌を年1回発行しています。市販しております。
市民との連携に関しては、2000年4月から環境社会学科という新学科ができ、そこを中心にNGOやNPOとの連携を企画予定です。
こうした活動の運営企画への市民の参加については今のところ考えられていません。
例えば、「運営諮問機関」といったものが出来市民が参加する場合でも、運営企画の方向性や質をどうしていくかがポイントとなると思います。
4●美術学部(4月から芸術学部と改称)では、京都の伝統産業の実習を目指す、学外実習をカリキュラム化しており、すでに20年間の実績を積んでいます。これは地場産業の技術の開発というよりは、地場産業の技術の吸収・実習という方向性で、結びつき方は逆ともいえますが、京都の伝統的技術を少しでも身につけた若い人々を社会に送り出すという役目は果たしているでしょう。
しかし、いわゆる先端的技術の開発とかは学部の性格から見てできませんし(環境社会学科はそういう方向性を持ち得ると思いますが)、地域経済・文化の成長という方向への取り組みは弱いかもしれません。
5●これも非常に難しい問題です。検証ということですから、何らかの形で調査しないとだめでしょう。調査は大学自体でやることも可能ですが難しいと思います。現在でも「自己点検自己評価」を行なっていますが、それをやる意味を、大学構成員が全員ある程度確認しているかといえば心もとない感じがします。また、そのやる意味自体にしても文部省が考える将来の許認可の参考とするという形のものでは、押し付けであり、かつ、くだらないものである、といった感じを多くの人に与えるでしょう。何らかのNGOやNPOによる検証が必要でしょう。それも視点を異にする4~5くらいの非政府組織による評価・検証が必要と思います。
税金の使われ方も難しいですね。私の所属する大学では財務資料を公表していますが、これは義務ではないようです。財務資料の公表が広がり、それをもとに、これまた複数の個人や組識が検証するという方式しかないのではないでしょうか。
あと、評価主体をどうするかという問題があります。これも主体によって大学との関わりや利害関係が異なるので一概に論じられません。学生による、特に授業評価に関しては最近議論が生まれてきたので、これは歓迎すべき兆候と思います。大学間の評価は、難しいでしょうね。自分の所属するところを、何らかの意図のもと、良くみたい、あるいは、悪くみたいといった力を排除するのはこれまた大変な気がします。
そして、その評価が、大学の受験生学生獲得競争にひびくとなっては、偏差値による大学の評価と似た意味を持つでしょうし、それが、例えば、教員による教育研究努力の軽減や放棄につながったりしたら、まさに大学崩壊ということになり兼ねません。
7●大学の人事では公平性が問題でしょうね。今はかなり国立大学でも公募が広がっていますが、学閥的である事例もありますね。
私の所属している大学で、教員の人事は、人事委員会を構成し、公募し、業績や教育歴を考慮して数名を面接して、最終候補者を絞るというやり方です。
こういう場合でも、人事委員をどう選ぶかといった点で問題がないとはいえません。
実質問題としては理想的な人事・人材登用というのはなかなか難しいですね。
大学の規模や大学の経営主体の問題も絡んできます。
この問題で最近考えているのは、2つの事です。
第一は、現在の、特に教員の地位の停滞性。聞くところによると、問題がある教員が、教員ということで居続けるという例があるようです。第二は、博士課程を出た、大学教員予備群の増加。私の知り合いでも、多くのオーバードクターがいます。現在の大学教員よりも研究教育をうまくできるであろうという人がたくさんいる感じがします。これも問題ですね。
少しずれましたが、感想です。
8●自浄作用は、現在のような組織体制では非常に難しいと思います。教育研究内容の監査システムが必要ではないでしょうか。
セクハラに関しては人権委員会的なものが必要ですが、これも外部的に構成する方がいいと思います。
御用学者ですが、どうしようもありません。批判こそ重要でしょうか。
9●自らの経験として、具体的に感じたことはあまり多くありません。
私の所属する大学には美術学部がありますが、女性教員が少ないのではないか、と、個人的には思っています。
しかし、それが、採用時の差別的な機構のためであるとは考えてはいません。
10●外国人講師教員の採用は重要です。しかし、私立大学の場合、教育研究以外に行政的な仕事もあり、外国人講師教員の場合、語学的ハンディがかなりあるように思います。海外との交流といった点では、彼らの方がずっと有利ですが。
海外留学生に関しても問題は多岐にわたってあります。具体的には本国政府との問題とか、入管との問題や、留学生の日本での生活の問題です。私の大学の場合、大学で企画した文化的事業が、某国の政治方針と異なるということで、様々な形での干渉を受けています。大学が、国家や他の組識と独立に海外との交流をやっていくというのは非常に厳しくしんどいことであります。理念的には、国際交流や、国際的な流動性を高めるのは必要ですし、重要なことですが、周辺問題としていろいろ現実的にコンフリクトやプロブレムがあり総論的にだけ語るのは難しいと思います。
11●古くは廣重徹でしょうか。丸山真男もそうかもしれません。
そういう人が出難くなったことと、大学の経営問題が前面化しているために、考えるという営為で大学と社会をつかむのが難しくなったことでしょう。つまり、経済と経営で、大学と社会が現在は語られ、大学の意味や学問の意味では語られなくなりつつある、ということです。私の(2)に関する回答はその典型です。
高木仁三郎でしょうか。
重要な問題提起であり、実践だと持っています。しかし、日本では現在のところ非常なマイノリティですね。少なくとも、まず、大きなマイノリティにする必要があるでしょう。
12●まずは、教員間での情報交換が重要と思います。そこからカリキュラムに実際的有機的連関をつけるべきでしょう。これは同じ大学内に閉じている必要はありません。
教養部廃止の意味は、私からすると無意味。教養部教員のプライドという点もあるかも知れません。
私の個人的意見ですが、よい大学教師とは、(よい・わかる・面白い)教育で報酬を得、その報酬を趣味の研究に費やし、その研究をさらに教育にリサイクルする、という感じです。
ところで、次の質問ですが、大学の教育は正当には評価されていません。とはいえ、高校までのように枠がきっちりと決まっていてはどうしようもありません。ひどい授業を、学生が自主的に判断し、学生に見限られた教員は自ら退くか、再勉強する、といったことが柔らかい形で制度化されればいいのですが。日本ではどうしても管理的に動くでしょうから問題はありますが。
13●非常勤講師機構といったような安定化の機構が必要かもしれません。また財政問題との絡みになりますが、多くの大学で非常勤講師は、財政的な安全弁とされています。最近でも関西の有名私立で、非常勤講師のコマ数が来年度に向けて何の相談もなく減らされました。私もへらさえましたが、私の場合は、時間が増えるというメリットが大きいですが、非常勤で暮らしている方々にとっては大変な状況です。
運営に関する意思決定の疎外から解放は、現在の大学組識の法的側面からみて無理でしょう。経済的面では、特任教員制度が多くの私立大学でおそらく導入されるので、それがもしかするとプラスに働くかもしれません。
この問題に関して私は個人的にはアイディアがありません。
14●大学は学問の生産蓄積再配置の場であると、私は、個人的には考えています。社会との関係でいえば、生産蓄積再配置された学問に、社会側がどうアクセスできるようにするか、が、大学の課題でしょう。
大学でないと、というのは、そこにいる人とそこにある情報とそこの設備によります。その集積のあり方が大学の在り方でしょう。それはかなり個別で具体的なものです。大学一般にいえることは抽象的なことに過ぎないともいえそうです。例えば、こういうことに関するこういうことは、時間をかけると、この大学のこういう人々との討論と、その大学のこういう資料の検索と、その大学のこういうハード・ソフト・機能を使用し、あることを自分で調べ、それに自分で直接触れることができる、といった形で、その大学で、学べることが出てくるのではないでしょうか。一定以上の自由な時間も大事です。
社会人が学べる機会を増やすには、大学のカリキュラムの柔軟化と、社会(会社など)の側の制度的支援が必要でしょう。例えば、3日働き3日は大学へいくとか。そのとき、3日分の給料は支払われ、会社が3日分の授業料(本人と5分5分といったこともありえますね)を大学に支払うとか。無償という場合は、政府の奨学金などの充実しかないですね。
最後に生涯学習との関係ですが、私は個人的に生涯学習の概念がよく分からず、文部省がいってるやつならうっとおしいので、特に考えはありません。
15●今の社会で必要な最小限の知識学習パックみたいなものの提起が必要です。これも文部省がやるとまた変な問題があるから、中国韓国朝鮮台湾日本共通といった感じで、国際交流と近隣とのコミュニケーション基盤の整備もかねてNGOがやればいいんですけどね。
大学生の知的能力や気分の低下は本当にあるのか、という方が疑問としてあります。私個人が接している学生は、私が学生のころに比べて、心理的問題により関心を向け、社会的問題からより関心が退いている傾向はありそうですが、能力気分の低下はあまり感じません。まあ、こっちも一緒に低下してたら問題が見えませんが。
大学のレジャーランド化といいますが、レジャーランド化もちゃんとしてはいないのです。むしろ徹底的にレジャーランド化した方がいいかもしれない。僕の感じでは社会のコンビニ化が、大学周辺も含めて日本中で生じ、コンビニ化した地域で、バイトと生活ができるから、レジャーランドとしての大学も機能を低下させているように思います。クラブはあまり盛んでありません。下宿大学バイト、自宅大学バイトの三角形だけが重要だったりします。構造的原因は経済経営文化のアメリカ化でしょう。マクド化・マック化といってもいいかもしれません。アメリカによる世界支配というところに一番大きな問題があると思われます。これも空想ですが。その中心には家族や個人の裕福化があるでしょう。社会への眼よりも、個人の心や生活の安定が重要になり、傷つけ傷つくのが恐くなるということです。愛という対に収束するのが一番。かつてのエバンゲリオンの人類補完計画というわけです。
そういう中、自治はうっとおしい、うざったいんですよね。自治より自分中心こそ重要なわけです。私もその傾向が強いですが。そこで、活力や喜びを取り戻すには、攻撃的で過激・華麗な講義でしょうか。大学自体がそういう時空を用意するということでしょう。
16●これも難しいですね。一般的にいえば、外部評価の導入と思います。それと、理事会、教授会の公開ですね。その場を公開できなくとも議事録とかはね。私は、当たり前と思っていますが、教授会でこの提案をしたところ、表現の自由が犯される・発現を自由にできなくなるという意見が圧倒的で、議論にもなりませんでした。その事をここに書いたためにもしかしたら守秘義務違反で懲戒を受けるかもしれませんが。
<付記>
全体的に非常にしんどいアンケートです。各項目の答えがいくつもの論文やエッセイになりそうです。
各質問にいくつもの・複数の質問事項が隠されており、それにいちいち対応しなければならないので(それはそれぞれの質問が重要だからということですが)、かなりの時間とそうとうの気力体力がないとできません。
各論的に
(1)各セクターごとの質問にすべきではないでしょうか。あるいは一般的抽象的に大学と社会との関係とか。また新しい連携が必要とアプリオリにいわず(開かれた存在になる=新しい連携を持つ、ではないと思われますので)に、ちょっと理由も書いてもらう方がいいと思います。
(2)これが現在の大学問題の最大のポイントと思います。
短期的財政問題と、中期的財政問題と、長期的財政問題があるのではないでしょうか。市民による支えは、この中では中期もしくは長期的問題となると思います。短期的課題に直面している多くの中小(弱小)私立大学では、この問題を真剣に取り上げるのはかなり大変でしょう。結局大きな強い大学の味方に結果的になるという可能性もあります。それが、教育の劣悪環境の改善になるかもしれませんが、多様性の減少と知の集中化の促進につながるかもしれません。
(3)この問題は、各大学でかなり取り組んでいるので紹介的には簡単に答えられる問題です。ただ、(3-3)の運営諮問機関は、例えば、ある所では教授会の自治と対立的に捉えられるでしょうし、ある所では理事会の専制への対抗的組識として捉えられるのではないでしょうか。どういう大学を想定するか、その構成員のどこにどういう権力が分散しているか、などによってかなり意味が違ってくる組識でしょう。
(4)これは大学の学部の性格に左右されます。文学系、人文系、教養系の場合、具体的直接的即効的貢献がかなり難しいのではないでしょうか。
(5)社会的還元とは何か、というのがまず問題で、そこから議論をはじめる必要があるように思います。多くの大学では、(3)で質問を受けたような活動が社会的還元の主力部分だ、と認識しているように思いますが。
(6)経営・経済問題と絡んで「評価」問題が、今の大学の二番目の問題と思います。今実施されているのは自己評価。紆余曲折がありつつも、文部省の顔色を見て、これは行なわざるを得ない、ということで多くの大学が実行しているようです。
学生による評価が次くらいでしょうか。今年あたりからさらに議論になるでしょう。教授間、大学間、そして外部評価・監査は、各教員、教授会、理事会の強い抵抗が予想されます。
(7)これは、どういう学問分野かと、どういう大学かという二つの要素の強い関数になっていると思います。
医学部工学部あたりは非常にひどいという噂はありますね。また、古い大学と、非常に新しい大学も、それなりの問題を抱えているようでもあります。
(8)これは職業倫理の問題でもありますね。
ただし、教員に過度の道徳性を求めようという風潮があり、それは気になっています。
(9)これはアカハラなどの問題ですね。(8)と関係してますし。
(10)教員問題と留学生問題は切り離した方がいいでしょう。また、いわゆる国際化問題とも切り離した方がいいと思います。つまり別の課題がそれぞれにはあるのではないかという感じです。例えば、国際化問題ですと、語学の問題や、日本の近現代史をどう考えるかと強く関わります。
(11)これは体系的研究が必要なところですね。いわゆる民間学との関係も含めて。鶴見俊輔などは、大学、特に日本の大学こそ諸悪の根元という考えでもありますし。
(12)研究と教育のバランス、教養部の意味、大学教師の理想像、大学における教育に評価の問題といろいろ多岐にわたる問題が質問されており、大変答えにくいと思います。また、私立大学の場合、教育と研究以外に、大学行政という仕事もあり、これも非常に重要です。行政と教育が第一で、研究はその後、という感じもします。そうしないと、現在の大学を巡る状況の中では、大学の「生き残り」が難しい、と、私立大学関係者で、考えている人がかなりいるように思います。
(13)これは大問題ですね。オーバードクター問題も含まれますし、修士課程の増員も関わっているはずです。
非常勤の労働問題は、民間企業のリストラ問題とパラレルに考えていく必要もあります。
今後訴訟等が多く提起されるのではないでしょうか。
(14)これもいくつもの内容の複合の質問です。情報社会内での学問の意味。情報社会内での大学の学問の意味。
社会人と大学の関係。生涯学習と大学の関係。
それぞれ大型問題で、大学経営メディアでは、一つ一つが特集の核になります。
(15)これは事実問題と評価問題が絡んでいます。
(16)これも大問題。本が必要という感じ。
もう少し具体的な部分に分解して質問してもらえればと思いますが。あと、理系工学系の大学と、文系大学では科学に対して持つスタンスが違いますね。文系大学では、いかに科学技術に対して、その論理実践構造を理解し、批判的接近を可能にするかがポイントとなると思います。個人的意見ですが。

 

(匿名希望)

1●年齢制限(子供から老人まで)を全てなくすこと。大学図書館を学生以外にも利用できるようにすること。
2●私立の大学は企業と同じで、もうかることしか考えていない。しかし、国公私立を問わず、その大学のある地域に住む住民が資金援助するというのはどうだろうか。高等学校の学区制のような地域制度を作る。
3―1●今まで行った大学は、全て図書館を開放していなかった。
3―2●利用できるようになっていない。
3―3●特に現在、そのようなことに関わっっていないので分からない。
4●「大学」という存在自体のとらえ方が、人によって多種多様である。ある人は「インテリの集団」としかみない。またある人は「大学と自分のプライド」を混乱して把握していたりする。「小学校」とは違い、「大学」を地域と密接させていくのは、特に地方では難しいと思う。
6●「大学」に対して基本的に第三者は悪口しか言わない。大学内部(教官等)は内部の問題をまるめこむだけ。第三者評価には期待できない。
8●大学の教官(助手も含む)に、道徳観念のある人などまずいない。いたとしてもまれな存在である。大学と政治が「金」で結びついている状態であるから、どうしようもない。
9●よほど能力があるか、運がよいかを除いて、どうしようもない。
10●家が金持ちであれば、誰でも留学生になれるという状態。
12●大学で「学問している」学生自体、非常に少ないと思う。
14・15・16●(自らの体験から少しまとめたいと思う)
私自身、最初に入った大学は、自分の行きたい所ではなく、親が勝手に決めたのでやむをえず行った所だった。その中で、自分が何をしてよいのか分からず、とにかく図書館で本ばかり読んでいた。授業もろくに出たことがない。このままそこにいても仕方ないと思い、2年で中退した。お金も行き場もなく、働くしかなく、そう言えば酒を飲むことだけは大学で学んだような気がする。自分の行きたい学部に入っていた友人たちがうらやましかった。卒業以来、一度も同窓会にも出ていない。そういう私の存在に気付き、いろいろと声をかけて、チャンスを教えてくれるような親切な教官もいた。しかし、私がやっと国文の勉強ができる大学に入れたのは25の時だった。この時になって初めて、真剣に学ぶことができた。しかし、公立大の理系に行っていたというだけで、女性教師の嫉妬をかい、大学の中で随分イジメにあった。でも、結局、どうにもできないのは分かっていたので、なるたけ避けるしか策はなかった。
「大学」というものを、本来の「学問する場」に変えるためには、とりあえず、日本人にとっては天と地がひっくり返る位の発想を出し、それを具体化するしかないと思える。多分、不可能だとは思うが、私の考えられる範囲では、「入学試験全面廃止」、それから「奨学金制度の充実」、そして「単位取得試験を難しく」し、1年で、入学生が2年に進級できる人数を1/10以下にすること。(この1/10という数字は、難関大の倍率を基にした)

 

宇佐見義尚(亜細亜大学・経済学部/経済思想史)

12●この設問(研究と教育のバランス)は、「大学の本質」に関わる問題で、もし、大学というものが学生にとって単に高校教育の延長線上で「学ぶあるいは教育を受ける」ところであるにすぎないとすれば、確かにこの設問は深刻な問題であり、現に我が国における大部分の大学で盛んに議論されているところである。
しかし、大学の本質を「そこでは教員と学生が一緒に研究する」場所であるというところに置くならば、この設問は力を失う。だがしかし高校卒業者のおよそ半分が大学に進学する我が国において、そのような大衆に果たして大学で教員とともに研究する能力が備わっているのかとの疑問を持つならば、この設問の立場に再び立つことになり、この問題は重く現実の問題としてわれわれの前に立ちはだかる。
高度に大衆化された高校(高校への進学率は95%以上)の多くが、学級崩壊(学校崩壊)を来たし学力の低下が目に余る現在、この問題を大学に引きずらせないためには、高校までの教育(理念)と大学における教育(理念)とを完全に断絶させる以外にない。高校までの教育を、日本国民(市民)共通の教育内容として、大学におけるそれは、学生一人一人の個性的な関心事に出発した自分自身のテーマ(その人生と関わった)について研究する場所であるとするならば、大学入試のあり方そのものも変わらざるをえなくなり、それによって高校教育が大学入試に左右されることもなく、高校では高校教育そのものに専念できる。中央教育審議会は、「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」を答申(平成11年12月16日)しているが、そこでは「大学の本質」論が、大学の大衆化という現実に翻弄されて余りに蔑ろにされてしまっているのではないか。
大学は、高等教育と断絶して初めて、ダイナミックな大学本来の機能を果たすことができるし、他方、高校もそうしてこそ初めて、15~18歳という最も大事な時期にその教育・しつけに専念できるというものである。
13●大学就職(専任教員)浪人としての「非常勤講師」を廃止する事が、この問題に対する根本的解決策である。それ(専任教員の増員)が、財政上不可能であるならば、大学においては、「非常勤講師」は限定して採用すべきである。つまり、どのような職種であれ他に「常勤」の職業を持つ者か定年退職者のみに限定して採用する。それによって、「厳しい勤務・賃金条件……」の諸問題は起こり得ないのではないか。本来の「非常勤講師」とはそのようなものであったし、そうすることによって、大学に多様な人材を豊富に導入することができた。
しかし、現在の問題は、「非常勤講師」を手前勝手に利用するだけ利用しているにすぎない大学の人事感覚であり、劣悪な勤務条件でも甘受せざるを得ない大学就職(専任教員)浪人の存在である。
大学における「非常勤講師」の存在意義は、大学に多種多様な人材を短期間流動的に導入するための意味においてのみ存在する。その原点に戻るならば、ここで問題となっているような(人権を無視されたような)「非常勤講師」体制は即刻廃止されなければならない。
14●この設問こそが、新しい大学の本質、役割、機能についてその根本を問うものである。
[1]大学における「学問」の意義:大学ではそこで研究されるテーマ(学問)についてあらゆる意味において自由であることにその意義がある。
[2]大学でのみ学びうること:その時代を支配する価値や常識から自由に、また経済的採算からも自由に、そこで学ぶ者の個人的な問題関心(自分の人生)をも自由に深めることは大学においてのみ実現される。大学は、そうしたことを可能にする理念、組織、財政、機能を持たなければならない。
[3]大学の開放:大学を現在のような18ー22歳年齢の人たちの教育機関であることを基本的にやめるべきである。それによって、「社会人が必要に応じて学べる」環境が自ずと整う。
[4]大学の無償開放:大学の所在地の住民から住民税の(例えば)100分の1を「大学税」として徴収する。それによって、少なくてもその地域住民への知的サービスに対する無償化は実現される。大学は、その地域のシンボルとして、誇りとして存在すべきである。
[5]生涯学習と大学:これこそが、大学の中心的な使命の一つである。大学は、人々にその生涯にわたって知的充実感をもたらすものであり、過去、現在、未来への自由な問題発見の場所であり、人々の良心であり、社会・政治・文化問題について自由に意見交換ができ、問題解決のための情報・資料・文献を整備しているセンターである。

 

N.S.

2●私学とはいえ、さまざまな形の助成金補助金を文部省から受けておりますし、それほど多くはありませんが、企業から委託研究費や研究助成金なども受けております。大学の総経費に対するそれぞれの割合について数字でお示しすることはできませんが、金額が多いにこしたことはありません。それが、大学の格付けに関係するとおもわれていますので、研究成果(論文数)をあげることが強く要求されるなど、文部省の顔色をうかがっているのが実状といえます。もっとも、個々には自由に研究教育を行っていると思っている人もいるようですが、基本的には拘束されているのだということを意識していないということでしょう。「草の根ファンド」はとても無理ではないでしょうか。それを受けるために、別の拘束力が生じることになると思われるでしょうから。
3-1●年中無休、地域市民への解放、は大学図書館として理想的です。しかし、実際には、図書館が在学生にどうにか対応できるほどの大きさしかなく(他の施設にくらべて貧弱、マンパワーも不足)、大学休校のときは休館、月~金曜は9時~20時、土曜は9時~17時開館。地方自治体の図書館にはおいていない、専門書については、その図書館の紹介状があれば、閲覧可能。ということになっています。
ほかの御質問にも共通していえることですし、いうまでもないことですが、少子化時代をむかえ、私学が生き残るには、大学の格付けが高くなければなりません。図書館が整備されているかどうか、地域住民にどれだけ解放されているか、電算化がすすんでいるか、が問われていますので、徐々によくなっていくでしょう。
3-2●利用できません。
3-3●年に2回(各3日)市民公開講座が開かれています。地域産業振興会のようなところから要望がくれば、展示品を出したり、講演をしたりしています。
4●理工学部ですので、貢献できると思いますし、すべきだとも思います。
7● 教員人事は、各学科が教室会議(教授だけの学科もあるようですが)できめております。全学科が公募制をとっているというわけではありません。
11●杉並区にある高千穂商科大学の勝木渥氏。杉並区長の諮問機関である環境審議会会長を務めておられます。環境科学を教えており、東京都の不燃ゴミ積み替え施設「杉並中継所」付近の住民のいわゆる「杉並病」の問題に熱心に取り組んでおられます。
12●学生の知力・勉学意欲の低下が深刻な問題となっておりますので、教育に力をいれなければなりません。一般教育は廃止されませんでしたが、されなかったことのよさが理解されていないようなところがあります。廃止してはじめて教養教育の重要さがわかったといわれています。「教育」をどう評価するか、どこでも悩んでいることだと思います。論文数というわけにはいきませんから。
14●少子化と関連して、社会人大学生、大学院生が入りやすくなっています。

 

吉田清志(農業試験場研究員・長野県)

直接大学関係者でない私にもアンケートを送りいただいてありがとうございます。この間いろいろな状況もあり、まじめに考えようと言う意志はあったのですがと、言い訳っぽいのですが、私の職場も国の農基法改正等による方針転換のあおりを受け改廃の瀬戸際になっています(この経過もおもしろいのかもしれませんが)そのためあまり時間が取れずに来てしまいました。また、他の大学の方にと言う努力も怠ってしまいました。すべての項目はとても私には答えられませんし、恥ずかしいことですがほとんど見直さずに出してしまうことになってしまいました。また、研究機関のことと、大学のことがごっちゃになっています、すいません。
国の研究機関は2001年から特定独立行政法人ということで個別の法案も整い、動き始めています。どうなるのかよく分からない面が多いと思います。国は悪くなることはなにもないと言っていますが、当初の話と違うじゃないか、みたいなことはいくつかあるようです。
また、今国会には地方自治法の改正の中に、任期付き研究員を地方自治体にも導入するための法案が上程されました。研究員だけでなく行政職員にも同様の制度が作られます(特殊な語学とか経済犯罪捜査のための税理士等のような人たち等?)。各自治体は条例を作る必要性はありますが、導入は可能となりました。いいのか悪いのかよくわかりませんが流動化が始まるのでしょうか。
前にも議論のなされていたことかもしれませんが、地方の農村に住むせいか、市民という概念が、やはり私にはよく分かりません。今回は地域の住民という意味で考えさせていただきます。
1●地域に開かれたと言うようなスローガンはどこの機関でも掲げていますが、公開日のようなイベントがせいぜいです。恒常的な関係と言うのは、例えば市などが主催する講習会の講師とか、ある意味で一方的に知識、技術などを教える内容で、個人的に得る物は別として一方通行になっているとおもいます。互いに得る物があるように考えるには、コーディネーターのような役割をしてくれる人がいればいいかなと思っています。
2●2001年から国の研究機関が特定独立行政法人と言う組織になります。国立大学もその方向のようですが、これ自体は行革の中の定数減らしの方策にすぎず、私個人は賛成ではありません(試験研究や教育の意味等の議論は結局行われなかったことも含めて)が、予算やその使用法がこれまでよりは自由かつ、ある意味で合理的にはなるように思います。
でも、それが具体的に良い方向になるのかはよくわかりません。ただ、制度としては「草の根研究支援費」等が受け入れやすくなるのかなとは思います。
はっきりした記憶がないのですが、地域の企業や団体や行政機関等が集まった団体が農学部の研究テーマからいくつかを選んで、研究資金を提供する(金額は高くありませんが)と言う制度が昔からあったと思います。そんな形も公開性があっていいのかとも思います。
4●公立試験場は基本的に地元の課題を扱っていますので、すべてが産官連携となっているともいえます。ただ、創造的なのかとか、実際どの程度役立っているのか、とか検証の必要はあると思います。また、課題をどうやって見つけるのかはかなり難しい問題だと思います。本当に地域の状況や問題を把握して課題を公平に設定できる個人や団体がなければ、企業にある種の「お墨付き」を与えるだけになってしまう可能性もあります。
6●評価はとても難しいと思います。試験研究機関でも、これまで各県で試みは始まっていますが、すぐに結果の見える内容だけが評価される、課題化する前の部分(予備試験や調査のようなこと)が評価されない、逆に基礎的な内容の方が夢があると評価されてしまう、現在の行政のシステムでは、評価されても良くも悪くも実際の予算にあまり影響がないなどあります。どうしても一面的なってしまって、ある程度その分野の歴史も分かる人がいないとなかなか大変かと思います。大学との連携は案外この辺で必要なのかもしれません(互いに)。
14●地方に住んでいる限り大学はそれほど身近ではありません。国立大学が一つといくつかの私立大学だけですし、公開講座を開いても常時行ける人は物理的に限られます。社会人大学院等も同様で、仕事を辞めないで行ける人は都会より更に限られると思います。私自身の例で恐縮ですが、35歳くらいで行政機関から研究機関に変わったのですが、大学でも専門外のほとんど興味のなかった分野だったこともあり、大学でやっとけばとか、今大学へ行ければちゃんとやるのにとか思ったのですが、結局、ある程度限られた範囲のことであれば独学でも何とかはなると思います。大学生も卒論実験などで、私の職場に来たりもしていますがやはり自分の専攻分野以外は現実になにがポイントなのか分かりかねているように見受けます。そう思うと大学で学んでおいた方が良かったなと思うことは、課題の見つけ方やどう考え、それをどう表現するかのように思います。すると、自分は書きもせずに卒業したのですが、卒論等の演習のようなものがよいと言うことになるのでしょうか。
16●よくわかりません。乱暴な言い方ですが、学生が、就職のことに振り回され、将来嫌でも参加する実社会のことばかり考えて、先生は実社会と疎遠になっているとすれば、逆であった方がいいのだろうなと思います。

 

(匿名希望/名古屋大学)

1●各々の役割の違いをはっきり理解して連携を持つことが重要であると思います。大学には普遍的な真理を追求し、物事をより客観的に組織的に一般化して理解し発展させていくこと、そして人をそのような教育・研究を通して育ててゆくと言う役割があります。役割がオーバーラップするところはあるものの、大学や国、企業はその守備範囲がお互い違うということを知り尊重するべきであると思います。大学と国家・行政との結びつきは大変強いものがありますが、予算を出す方ともらう方という関係であることを考えると、パトロンの干渉と恣意的な圧力をシステマティックに排除する大学の自治が絶対に必要であると考えます(長い歴史が教える所です)。これは企業との関係でも言えます。言うことを聞かないと予算もあげないぞという圧力が予想され、財政の切迫から大学側も迎合して力を注ぐ、そちらの方だけを向くという恐れがあります。政府というのは市民の総体のはずですが、実際は市民のスペクトルも広いわけですから、同一とはとても言えないのが現状です。さらに国が国民個個人よりも収益を生み出す企業をより大事にする面も否めません(企業は市民から構成されているのに、企業と市民も遊離した部分があるのも明らかです)。予算は出すが、口は出せないシステムを作ること、それに対応して大学はその理念と成果を、国は勿論タックスペイヤーである市民・社会に明らかにし、多様な価値観を持った人からなる客観的に判断できる独立した機関により評価をして、改善していくことが必要であると思います。
いずれにせよ、最もおおもとの要素である市民のための教育・研究が基本であると思います。
さらに、何ものからも独立して真理や客観的な情報やサジェッションを提供できることが、市民や地域自治組織との信頼ある連携をつくる基礎であると思います。中等教育機関との関係では、大学で得られた成果を分かりやすく還元するとともに、中等教育機関の教師に、よりアップデートされた知識の伝授や最新の学問教育を行い、中等教育に生かすことができるシステムをつくる(例えば、教師の大学院での再教育など)などの工夫をする必要があると考えます。
2●市民が支援費を支給してより市民側を向いた学問や教育を行うことは意味のあることであると思いますが、市民は既に税金を払っているのですから、2重払いをしていることになります。基本としてはその税金から、大学での学問・教育に予算が「適性に」支給されるべきであると考えます。税金をどのように使うのが適性かについて、1)にも述べましたが、国民が判断できるように情報を十分与え、国民の希望と意志がより反映できるシステムができたらと思います。
3-1●名古屋大学付属図書館は中央図書館と複数の部局・学部・学科図書室(以下部局図書室と呼ぶ)から構成されます。中央図書館には総合的な教育・研究用図書や雑誌があり、部局図書室にはその部局や学科に特有な図書・雑誌があります。これら全体についての詳しい情報は以下のホームページにあります。http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/
ここではこのホームページを基に、私自身が見聞きしたことも加えて報告します。
中央図書館について最初の述べます。
学内の人とともに学外の人も利用(館外貸し出しを含む)できます。
利用規則では:他大学の学生・研究者の方は所属する大学図書館が発行する紹介状又は国立大学図書館間共通閲覧証が必要です。
それ以外の方は規則では公共図書館の紹介状が必要であるとのことですが、紹介状を持っていない人は身分を証明するものがあれば良いそうです(電話で確かめました。公に言ってしまって良いのかどうかわかりませんが)http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/guide/visitor.html
また、開館時間ですが、通常は9時から20時で夏期間は9時から17時まで(但し、本の貸し出し等の時間はこれより短い)です。また、土日と祝日も9時から17時まで開館しています(貸し出しなし)。これは学内の者に取っても勿論大変助かりますが、社会人などの学外の方が利用しやすくなるという意味もあると思います。
http://www.nul.nagoya-u.ac.jp/guide/schedule.html
次に部局図書館ですが、部局によってかなり異なる様ですが、全般的に利用は学科又は学内の人に限定されているようです。たとえば、医学部分館では日曜日、祝日(振り替え休日)は休館で、利用できる人は医学部の人や名古屋大学の学生、教職員の他に学外の医学や医療関係者にも必要に応じて許可しているようです。理学部・理学研究科では貸し出しは学科内の者と学内にのみ限定しているようです。工学部の図書室のHPを見ましたが、学外の人の記述がないので、学外の人の利用は前提としていないか、外の大学図書館との連携(図書やコピーのサービス)を前提にしているのかもしれません。どちらにせよ、部局図書室が対象としているのはその分野の学生や研究者という感じで一般市民はまだ念頭に置いてはいないように思われます。
アンケートには問われていませんが、少し付け加えさせていただきますと、中央図書館や部局図書室では、度重なる公務員定員削減の影響を受けて館員数が減少しており、通常の図書業務や上記の図書の開館時間の延長や祝日の開館を行うために、かなり館員の負担がかかってきているのが現状です。そのため、正規の館員の他に多くのパート職員の館員が働いています。(事務系では、定員削減の影響で、正規の職員に加えてパート職員が仕事をしているのが一般的です。本来はちゃんとした身分保証をするべき仕事であると思いますが、その待遇は正規の人とは異なっており、このような雇用形態でその場その場を何とかしのいでいく方法は問題であると危惧しています。)また、図書購入予算は必要な予算よりはるかに少なく、かなりの部分を研究費からのオーバーヘッド(いわゆる全学共通経費)でまかなっています。しかし、毎年の図書の値上がりに対して研究費の延びはほとんどないため、中央図書館はもとより部局図書室でも定常的にとっている雑誌を(利用状況の低いものから)取り止めたりしてしのいでいます。雑誌というのは連続してあることが重要な面もあるので、これも長期的に見た時大きな問題となる可能性があります。これは国が、最も基本的な資料である図書を、長期的にどのように考えるかというスタンスに関ることで、由々しき事態であると思っています。この点を少しでも解消するため、中央図書館を中心に全学的に電子図書館構想が進められてきており、多くの雑誌がインターネット等を通して見ることができるようになってきてはいます。
3-2●御質問の教室スペースなどはあまり開放されていないようです。
簡単に調べたのは講堂(豊田講堂)とか、会議や集会ができる建物ですが、これは利用規則や関係する人に聞いた限りでは、原則として学内の人が責任者となって使用するもので、学外の人だけで利用できるようにはなっていません。また、体育館等の利用については総合保健体育センターが管轄しています。体育施設は体育館(複数)、陸上競技場、テニスコート(複数)、野球場、その他がありますが、使用者は本学学生と教職員に限るとなっています。これらの施設は利用の目的によっては学内の人を誰か見つけて責任者になってもらい利用することはできるとは思いますが、ほとんどの人は大学人を直接知らないわけですから、利用できないということになります。
3-3● 大きく分けると公開講座、大学開放事業、リフレッシュ教育があります。個々について簡単に述べます。詳細はhttp://www.nagoya-u.ac.jp/sogo/extension/renkei.htmlを参照してください。
★3-3-1) 名古屋大学公開講座
http://www.nagoya-u.ac.jp/JAPANESE/EVENTS/kouza.html
★3-3-1-1) 名古屋大学東山地区公開講座と呼ばれています(過去には複数の公開講座が開講されていましたが、少なくなったようです) テーマ:(1999年度の例)「だます・だまされる」色々な分野の講師が話しをする。
例:訪問取り引きにおけるだましの手口と被害者救済、ドーピングの現状からスポーツをみる、植物をだまして花を咲かせる、等
期間(1999年度の例)8月24日から10月19日まで、毎週午後6時から午後7時30分まで
募集人員 200名(先着順) 一般市民(18才以上)
会費 8500円(どうして会費が必要か理解できませんが、きっと規則があるのだと思います)
★3-3-1-2)また、本年度から大学独自のラジオ放送公開講座も行われています(放送局は東海ラジオというこの地域ではメジャーな放送局です)題目は上記と同じ。
★3-3-1-3)学科で行われている公開講座
教育学部公開講座
本年度の例「子どもの教育環境を考える ー家庭・学校・地域社会ー」/10月17日から12月5日まで、毎週日曜日午後1時から3時まで/場所:名古屋市生涯学習推進センター
医学部保健学科公開講座
本年度の例「生活と環境―豊かな生活をめざして-」/9月
11日(土)と9月25日(土)午後2時から4時まで(各日講師2名)/場所:名古屋大学医学部:150名 参加費用4,500円
農学部公開講座
本年度の例「私たちの暮らしと植物―自然との共生を考える-」/8月3日と8月4日:70名 参加費用6,500円
他にも総合保健体育センターは一般市民を対象にした体力に関する公開講座を開催したり、他にも色々な試みがされているようです。
★3-3-2) 大学開放事業
広報プラザが大学の最新の科学研究成果等を一般の人に提供しています(土日祝日を除く毎日。 その他には学部等がイベント的に事業を行っています。例えば理学研究科の「星の誕生を観測しよう」(対象:中・高校生)や農学部の「農業小学校」(対象:小学生)などです。
また、大学は一般公開を年に1回実施しています(我々の研究所も公開日を設けて、色々なデモンストレーションや講演会などを実施しています)。
★3-3-2) リフレッシュ教育
社会人・職業人に対して高度な専門的・実践的職業教育やリフレッシュ教育の機会を提供する大学院研究科が設けられています。この社会人特別選抜を実施している研究科は文学、教育学、法学、経済学、医学部、工学、生命農学、多元数理(数学)、国際言語文化で在職のまま入学できるコースもあるようです。これらは全て大学院ですが、大学でも聴講生などの制度があるようです。
大学としての今後の方向性ははっきりとは分かりませんが、教育や研究の成果を広く社会に還元するということの重要性はよりはっきりしてきていますので、上記の活動は今後ますます盛んになってくると思います。ただ、現在行われているのは、かなり正式なまた、大掛かりな講演会形式のものが多いわけですが、もう少しテーマに応じたフレキシブルな社会との連携が必要であると思います。大学人も社会人ですから、各々の問題意識に応じて、きめ細かい社会との連携と問題意識の共有(教え、教えられる)が重要で、その方向に向かうと思います。
「運営諮問機関」への市民の参加については、どのような「市民」が参加するかにもよると思いますが、形だけの人が選ばれて、お茶をにごすことになると、一般市民の人も段々興味を失ってしまい、形式化し機能しなくなると思います。最初から、どのような要望があり、それが、大学内部で、どのような理念・方針の基にどのように議論され、どのように取り入れられているのか(又はどのような理由で取り入れられなかったか)を、そのすべてが外部に分かるようにする、そうしたシステムを作ることが重要であると思います。
6●大学の評価というとき、大学全体や学科の教育・研究・管理運営・サービスへの評価と、構成する個々の教官や事務官の評価があると思います。
大学全体については、大学全体で共有する大学統一基準を設定し、各学科では、それに準拠して多様ではあるが卓越した独自の基準を設定し評価しようという動きがあります。
個々の教官の評価に関しては、各人は教育と研究という2つの側面を持つ訳ですが、研究に関してはまだ何とかなりそうであると思われますが、教育に関してはどのように評価するか大変難しいように思われます。
研究組織及び教官個人の研究に関する評価としては、自己点検・評価はうまく機能しないと思います。研究の内容や成果を客観的な資料やデータを基に、大局的な評価や判断ができる第3者評価委員会が評価する必要があります。研究形態の多様性も考慮した適正な委員会が構成される必要がありますが、評価委員会が適正に機能しているかどうかを判断するシステムが特に重要であると思います。そのためには、研究グループや研究者個人が各々の研究の成果等について客観的なデータを基に、分かりやすい言葉で説明し、それに対して評価委員会がどういう基準で、どのように評価したかを大学内部のみならず、市民・社会に対して広く開示する必要があります。
教育の評価については、私が参加している大学内のある会合で以下のような議論がされましたが、私の意見も同様です。その議論を以下に記します。今まで、共通教育全科目について講議終了時に学生のアンケートを実施しているが、データの蓄積のみで有効に活用されていない。教官の人名も含めて公開するべきであると考えるが、諸々の事情から実現されていない。少なくとも学部内等では名前も入れて情報を公開し、改善を行う(学部のプライドをかけて、責任を持って改善する)とともに、学生に対して(学生の意見に基づき)どのような対策や改善を行っているかというフィードバックをかけることが必要である。更に、どこで議論し、誰が実施するか、どのような体制で行うかが重要である。教官がアンケートを行ったり評価したりするのは適当ではない。学生が主体的に行うべきではないか、ということです。
7●人事は公募で行う必要があると思います。少なくともどういう人事が行われているのか外部から見えるようにするべきであると思います(どうしてある人を選んだかの理由や他との比較は色々あるので公表は難しいと思いますが)。欧州などの大学で行われている方法はその大学や学科の人以外の(外国の人も含めて)人を入れた評価委員会(場合によっては外部の人だけの委員会)をつくり、候補者の評価を行うというものです。また、一部の国では、内部の昇進を(書かれた規則ではなく伝統的に)許していないところもあります(ドイツなどがそうです)。この方法は良い面もありますが、実施するに当たりいくつか考慮することがあると思います。一つは教官・研究者の全国的な規模での流動性(任期制ではありません!)が必要であるということです。昇進もできない、外にも行けないでは、困るので、少ない数の機関だけであると機能しないということです。しかし、どこかが開始しないと進まないという面もあります。もう一つは、日本の大学の多くでは、教授だけでなく(多くの場合教授よりも?)助手の人や助教授の人に多くの負担がかかっています。これは教育と研究双方での現状です。特に研究面では不可欠な構成員です。大きな負担をしてもらう時は調子の良いことを言って、昇進の時は外部の人を取るとなると(同時に内部の人にも外部のポジションがあればめでたしですが)、内部の人のやる気・志気低下につながる可能性が強く、信頼関係にも響くということになります。
大学の発行している研究者のプロフィール(1997年度版)という名簿で、本学(名古屋大学)の出身者がどのくらいを占めるのかというのを簡単にみてみました(数え間違いがある可能性がありますが、おおよそ正しい数字であると思います)
例えば理学部・理学研究科は本学出身者81名外部104名 (本学出身者 44%)
農学部・生命農学研究科は本学出身者85名外部42名 (本学出身者 67%)
工学部・工学研究科は本学出身者253名外部185名 (本学出身者 58%)
他の大学の状況は良く分かりませんが、公募システムを導入すると、よりオープンな大学になると思います。
8●業者との癒着については、学科により事情が著しく異なると思いますが、一般的に予算が少ない上により安いものを買おうとしているのが現状です。また、科学研究費も含めて実際にお金を扱うことはなく、全て会計掛のチェックを受けているので、かなり厳正であると思います。
研究上の怠慢ですが、私が見る所、大部分の人はかなり一生懸命やっています。やる気を失っている人等も見受けられますが、数としては少ないと思います(定量的な根拠はありませんが恐らく数パーセントだと思います)。誤解を招きやすいのは、怠慢な人は少ない(皆一生懸命にやっている)が、能力の乏しい人は確かにいるということです。能力というのは相対的なものですのでこの言い方は正確さを欠きますが。研究は科学的な方法論があるので、努力をすれば前進することができます。しかしその前進の幅、新たな飛躍ができるかどうかは、努力に加えて能力(適性を含む)によるわけです。程度の差を超えた能力が欠けた人が教育や研究を行うことは、本人はもとより、組織、タックスペイヤーにとっても不幸な事だと思います。
御用学者とそうでない学者との差がハッキリしないわけですが、学者としての良心とその人がどちらを向いているかと言うことであると思います。残念ながら政府の方を向く方向と社会・市民を向く方向が、多くの場合反対な訳です。御用学者も確信犯的な場合と持ちつ持たれつの利用しあう場合、一方的に利用される場合とあると思います。特に政府の審議会等で重要な役割を果たす場合、その「専門的な知見」が総合的であればまだよいのですが、そういう偉い先生はトップエリートである(あった)場合が多いので、全体に配慮できない知見が多いように思います。また、そういう先生はある分野(文教とか)で大きな力を持っているので、政府としても、そういう先生にある方針を出してもらい、その分野を押さえ付けようとする意図もあるように思います。
一方それでは専門家が各種の審議会に入らなくても良いかと言うと、入る必要は当然あると思います。要はどういう人が入るか、どういう風に選ぶかという過程が重要であるわけです。上記の評価のところでも述べましたし、今回の警察の監督体制に関る不祥事でも分かりますが、都合の良い人を選び、審議や監督をしたという形だけを取ることを防ぐためには、審議会や監督体制がパトロンから独立することが重要で、そのためには全部の過程を公開して、オンブズマンや一般の人に監視してもらうしか方法がないと思います。
例えば愛知の万博や藤前干潟の廃棄物処分場、徳島の可動堰の問題でも明らかですが、委員の人たちは色々な制約にしばられてアセスメント等を進めているわけです。この場合どこまでを仮定して(どこまでが既に決まっていて)、どこから先を議論するのかはっきりしない場合が多いと思います。これは、情報が色々な段階で開示されておらず、各々の段階の人が客観的な状況を把握しないで議論を行っていることに大きな問題があると思います。また、アセスメント等の提言では、「たばこの吸いすぎに注意」式の取りようによっては「注意してどんどん吸って下さい」とも解釈できるようなものが多く、結局は既定方針通り、事業を進めるのに利用されてしまうケースが多いのは残念だと思います。(一方、これは委員会の方にも、ちゃんと注意や警告はしたという言い訳を与えていることにもなっています)やはり審議や計画の進め方に関して、計画立案の段階から完全に情報を公開し、広く意見を取り入れる機構と、それに対する対処を明らかにするシステムを作るしかないと思います。
9●特段の差別は感じていません。ただ、もっと保育施設などを整備することが必要であること、夫の家庭内の共同が重要であると(自戒を含めて)感じています。
10●私の研究グループの一人はパーマネントな外国人教官(助教授)です。その他にも研究所内に外国人教官がいます。これは教官公募を行っていることとも関連していると思います。私達の場合でいうと、研究面では国際的な関係も広まり、教育面では、学生が外国人教官から研究指導や授業を(英語で)受けることにより、研究教育双方で得難い経験と刺激を受けており大変良いと思っています。最初は遠慮していた学生もそのうち英語で議論等をしだしてきます。一方教官側から言うと、研究・教育面ではこのように大変良いのですが、大学では様々な会議や役割の分担(委員になる)、予算書を始め様々な書類を作るなどの仕事があり、外国人教官はこれらの仕事を行うのは困難ですから、他の人にしわ寄せがゆくことになります。しかし、私としては、(私達の場合は)プラスマイナスを総合すると大きくプラスであると思っています。
過去には外国人教官を公務員として採用することが、困難な時期がありましたが、現在は制度上は問題がないようです。但し、名古屋大学の場合は規則により、常勤であるにも関らず、3年ごとに契約を更新する必要があります。私達の研究所では、この規則に則っていますが、この規則自体が差別であり、将来はなくしてゆくべきであるという結論に達しています。大学自体もこの規則が時代遅れであることを認識していると聞いています。
外国人学生の受け入れは、大学の理念としても促進するべき重要な課題として位置付けられています。名古屋大学は訳1000名の留学生がおり、その数も毎年増加しています。その面では大変望ましいことですが、色々な問題もあります。第一に経済的な問題です。私は大学院の方しか知らないので、大学院に限定しますが、私費留学生は奨学金が取りにくく苦労しているケースが多いようです。まず育英会の奨学金は日本人にしか与えられないので、他の奨学金を申請することになりますが、大変競争倍率が高いのが現状です。大学としては、大学にきた奨学金の枠を学科の人数に応じて按分するため、特に小さな学科や部局は、ほとんど奨学金をもらうことができなくなることになります。
また、住居に関しては外国人来訪研究者と外国人学生用のレジデンスがあり、200部屋以上あるようですが、それでも足りない状態です。アジアの国から来る学生にとり、日本の物価は高いので、奨学金をもらえないと、高い授業料を払った上に(免除の場合もありますが)、敷金礼金のあるアパートを借りるのは大変であると思います。何よりも(国として)経済的なバックアップ体制を十分に取るようにするべきだと思います。(国費留学生は原則としてこのような問題はありませんが、数から言うと私費留学生の方が多い)
次に言葉の問題もあります。授業は多くの場合日本語で行われますが、日本語の学習は大変なので(大体事前に日本語学習コース等を受けているようですが)、授業についていくのは大変であると思います。授業を英語で行うことも考えられますが、現状では多くの場合かなり困難であると思います(教官の英語力の問題)。
11●古い話ですが宇井純先生(東大から琉球大学)で公害原論の開講とたしかイタイイタイ病への関りを持たれた偉い先生と記憶しています。大学人個々としては高い専門性を持って、社会人として社会の問題にたいする問題意識を持つこと、できる限り客観的に問題を考え問題解決への道筋を考え、実行することであると思います。大学としては、産業界への貢献(があるということだけに重点を置く)だけでなく、社会との連携により重点を置くという姿勢をより鮮明にすることが重要であると思います。
12●教養部廃止には色々理由があったと思いますが、私は個人的には、基礎的な科目をちゃんと教えるのに適した専門的な教官が必要であると考えています。例えば、大学の最初の方に習う電磁気はその美しさには感心するものの、内容が頻繁に変わるようなものではなく、多くの場合古典的なものを学ぶわけです。この電磁気はその後の多くの最新の科学を学ぶ上で基礎となるものですから、科学を志すものは一生懸命学習を行うわけです。しかし、基礎的ということと簡単ということは全く異なり、概念をちゃんと理解するのは大変難しく、そのため学習も困難になっています。このような基礎的でかつ難しい科目を学習するためには、つぼを良く心得た専門の先生が必要です。聞く所によると、旧制高校ではそのような名物先生が沢山おられて、物事を良く理解できる学生を輩出したと聞いています。例えば高校の物理の先生を考えてみると、必ずしも研究をする必要はありませんが、教育をより良く行うために学習をすること、より良く教育するためにはどうしたらよいかを「研究」する必要があります。大学でも同じ面はあり、(高校)より高度な教育を行うために教育に熱意を持つ専門的な教官が必要であると思います。一流の研究をしていない人はその分野の教育はできないと言われることが多いですが、そのような場合もあるでしょうし、そうでない場合もあると思います。
教養部が廃止になり、分担の平等性が議論されています。教養部の廃止、その後の4年一貫教育、さらに新たな提案がなされ、今後もなされると思いますが、各々の措置の評価と反省が余りなく、また色々な要素を考慮したバランスの取れた検討なしに「改革」が行われることに嫌悪感を感じます。
結局、学生に取って最も利益が多くなる、実りが多くなる方式が重要であるということです。色々な分野の教官・研究者の講議を聞き、自分の将来の仕事の選択肢を豊富にする、社会人としての常識を養うことも重要でしょうし、それを行うための基礎的な所は「教えるのが本職の」教官に習う方が効率的であると思います。
私がこの問題を考える時に思うことは、皆、教育は研究と同じく重要であると言いますが、多くの人が研究の方が教育より重要であると思っているのではないかということです。研究者としての能力は成果をどの位出したか、論文を何本出したかということで測られる事が多く、近年特に競争的であるため、より多くの時間を研究に割く傾向があります。そのため、教育だけをやる立場になると、研究者としてだめだから教育を行うというふうに見られ、また自分でも考えてしまうということです。これを解決するためには、分担を公平にするという方法が一つですが、もっと大事なことは、本音で教育が重要であることを理解することだと思います。もし、これが心情的に無理なら、研究者の給料を下げ、教育者の給料をあげるというようなコンペンセーションをしてはどうかと思います。
13●私のまわりでは、非常勤講師という場合、その大学に専門家がいない科目や分野の教育を行うために、他の大学で職を持っている人に来てもらって講議をするという場合が多いように思います。
本来は常勤で行うべきところを定員や予算の関係から不安定な立場の非常勤講師を使うのには反対です。現在ポスドクの数が大きく増え、昔のように博士にはなったけれども、職がないという状況は緩和されているように見えます。しかしこれは一般会社が博士課程卒業者を取らないという状況が好転したわけではなく、ただ困難が先延ばしされただけです。ポスドク中の研究態度や成果、能力をよく見極めて、適性のある人を常勤の教員・研究者として採用しようという思惑がありますが、ポスドク自身としてはたまったものでないと思います。ポスドクとして年令が上がれば、ますます企業は取ってくれないわけですから。これでは大学を出て無収入の大学院生活をしてまで学問をしようとする若者の意欲をそぎ、大学院生の数が将来大幅に減ることになると思います。
現在つくられている大量のポスドクはその後、非常勤講師等をしながら、常勤の道をさぐることになると思いますが、その道も厳しいものです。大量の困ったポスドクを作り出すことで、国は1回社会危機状態を作りだし、企業が博士課程卒業者を取らざるを得ない状態をつくろうとしているのではないかと勘ぐるほどです。いずれにせよ、このままではポスドクを多く作って将来の国際競争に勝とうという目論みは、逆に博士課程に行く人を減らすことになるのではないかと予測します。
14●最近名古屋大学学術憲章というものが作られ、学術活動の基本理念がまとめられました。少し長くなりますが、その中のいくつかを拾い出してみます。自発性を重視する教育実践により、論理的思考力と想像力に富んだ勇気ある知識人(知識人という意味は曖昧ですが)を育てる。先端的な学術研究と、国内外で指導的役割を果たしうる人材の要請を通じて、人類の福祉と文化の発展および世界の産業に貢献する。その立地する地域社会の特性を生かし、多面的な学術研究活動を通じて地域の発展に貢献する。人文と社会と自然の諸現象を俯瞰的立場から研究し、現代の諸課題に応え、人間性に立脚した新しい価値観や知識体系を創出するための研究体制を整備充実する。世界の知的伝統の中で培われた知的資産を正しく継承発展させる教育体制を整備し、高度で革新的な教育活動を推進する。
要するに、学問を通して、多面的な真理を客観的かつ組織的、継続的に追求することであると思います。どのような付加価値が得られるのかを具体的にし、社会に理解してもらうことが必要であると思います。
日本の大学は国立大学でも授業料が大変高く(わたしが学生の時は年18000円でしたが、今がそれの25倍にもなろうとしています)、学生や親の負担が大変だと思います。私立はそれよりさらに高いのですが、私としては、教育は無料にするべきであると思います。少なくとも無料で教育を受けることができる大学(国立大学)を数多く配置するべきであると思います。私達が共同研究をしている北欧などの先進国では、教育はすべて(大学院を含んで)無料ですし、米国などの有料の国でも私立大学を除くと、奨学金などにより学生の負担はかなり軽くなっているのが現状です。日本は世界の動向に逆らっているわけです。先日来日したフランス人の研究者の人が、「フランスでは教育は無料である。どうしてかというと憲法に教育は国民の権利であると書いてある」といっていました。(憲法に書いてあるかどうかは調べてありません)。私も「日本国憲法にも書いてあるが、無料とは書いてない」と答えておきました。国民の教育に対する考え方の違いと言ってしまえばそれまでですが、日本が教育で立国してきたことを考えると、教育にこそ国はお金をかけるべきであると思います。(恐らく大学の民営化ではこの点がますますひどくなると思います)
知は力であり、新たなことを学ぶことは喜びでもあると思います。集中的に学ぶ利点もありますが、社会にでて、また家庭で色々な経験を経てからモチベーションを持って学習することは大切なことであると思います。
15●気力の低下の一つの原因としてモチベーションの問題が大きいと思います。これは大学側の指導の体制がしっかりしていないのも一因です。目的もはっきりさせずに訳がわからないまま授業・教育を行うのが一つの原因であると思います。私が参加している理科系の大学・大学院教育改革の会でも、大学に入ってきた段階で広い選択肢を示し、その中からモチベーションを持たせて、それにあったきめ細かいシステマティックな教育指導を行うことが重要であること、それをいかにして実施するかが緊急の問題として検討されています。
また、大学に入る前の中学や高校の教育も問題があるように思います。科目を設けるかどうか、取るか取らないかが、実用性があるか、大学受験で役立つかどうかという判断基準によるところが多いように思います。教育は実用面の他に、人間としての豊かさ情緒や多様な能力をそだてるという重要な面があります。大学の入試科目の極端な減少傾向もこの傾向を助長していると思います(これは科目を多くすることにより、生徒のロードがさらにきつくなるという負の側面もありますが)。
レジャーランド化は、会社が、大学の教育に期待せず、学生が何をどのくらい学んだかよりも、その大学に入る能力を買うというシステムに一つは問題があります。これは今までずーと続いている悪習です。大学を全入にして、卒業を難しくするという欧米方式が良いと思いますが、大学のインフラの貧困さから希望者全員を教育する施設の問題や、少子化を迎えて、大学間での生徒獲得競争が激烈になる中(国立でも一部の学校を除きそういう状態になると思います)、マジョリティーの学生に悪印象を持たれることが確実なこの方式が取れる大学は少ないと思います。
もう一つは、現代の豊かさにも原因があると思います。楽しいこと(サークルや友だちとのつきあい、旅行等々)は色々あり、その中の一つとして大学での勉強があるという感じがします。現代は(自分の職業は学生だから、勉学を最優先にするというのではなく)これらの色々なことを気持ちとしては等分に楽しんでいるように見えます。
16●一般的な啓蒙的な面と、市民の持つ問題(意識)に対する解答やサジェッション等を一緒に考えるという両面があると思います。市民の大学に対するニーズがどこにあるのか、ある問題意識に対しては体系的にあらたな学問として作っていかなければならないものもあるでしょうし、その他のものに対しては今ある学問の応用という面もあると思いますが、それらの要望を取り入れられるインターフェイスが必要であると思います。実際には最初から全部という訳にはゆかないので、身近な問題(環境問題とか食品問題とか)からとっかかって、大学が市民にとりよりアクセスしやすい存在になっていくしかないと思います。

 

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