出生前診断 イギリスからのレポート 第3回 Dadaセンターでの熱い議論

投稿者: | 2004年4月25日

出生前診断 イギリスからのレポート
第3回 Dadaセンターでの熱い議論
渡部 麻衣子
doyou82_watanabe.pdf
【訂正】
 前回のレポートの中に重大な間違いがありましたので、訂正しお詫びいたします。新たに検討されている、全妊婦を対象とした出生前スクリーニングの対象を「脳性麻痺」とお伝えしましたが、これは全くの間違いで、正しくは「嚢胞性繊維症」でした。脳性麻痺はCP、嚢胞性繊維症はCFと略されるため、混同してしまいました。
  9月8日、ロンドンはサウスケンジントンにあるDanaセンターで定期的に行われる「Naked Science(むきだしの科学)」と銘打つイベントの会場は熱気に包まれました。それは、その日の議題が、「Gene Screen」だったから。二ヶ月前お伝えしたHGC(Human Genetics Commission)のレポートに関連して企画されたイベントで、司会者と3人のパネル、そして約25人の聴衆の中に、合わせて5人のHGC関係者(現委員長も含む)が参加し、そこで話し合われたことはHGCの最終報告に盛り込まれると最初に伝えられました。議論は、3人のパネルがまずそれぞれの視点を発表し、それに対して会場が質問する形で行われました。
パネルからの発言要旨
1  オペラモトウ教授(HGC諮問委員):出生前スクリーニングは、スクリーニング前、途中、後の十分なサポートがなければならない。そして、全妊婦への提供は差別につながるから、胎児異常の可能性のある妊婦にのみ提供するべき。
2  ハリス教授(マンチェスター大学教授:哲学):優生学には、「できるだけ健康な子孫を残す試み」という正の優生学もある。遺伝性疾患のない卵や胎児を選ぶのは後者の優生学で、両親には、できるだけ正常で健康な子孫を残す選択をする道徳的な理由がある。その結果、その疾患を持つ、今生きている人々の命の価値が否定されることにはならない。
3  ハースト女史(障碍者団体会長。自身も身体障碍者):スクリーニングがなぜ障碍1だけを対象にするのか考えてみてほしい。スクリーニングの結果をどう使うのかを考えてほしい。私たちは障碍者の命の価値がすでに低く見なされている社会に生きている。その社会の価値観に、技術を使う人々が影響されるのは必至ではないか。だから全妊婦を対象にしたスクリーニングは、結局は障害者を排除する負の優生学へと続く。
議論
1)障碍の社会モデル
 会場から最も多く出たのは「障碍とは何か」という質問でした。障碍者団体で働く男性は、「障碍者にとって問題なのは、障碍自体ではなく、社会が障碍者にとって不便にできていることなのだ」、と発言しました。この男性だけでなく「障碍は社会が規定する」という意味の発言がいくつか出されました。「誰が正常・異常を決めるのか?」という質問もその一つです。ハーストさんは、中立性を重んずるカウンセラーでさえ社会にある「正常・異常」の観念にとらわれてしまうのではないかと危惧していました。これらの発言に共通するのは、障碍は、もともと普遍的にあるのではなく、社会の構造上規定されているに過ぎないという考え方です。これは「障碍の社会モデル」という概念で、障碍を「病気」と捉えて障碍者を「患者としての役割」に閉じ込めてしまう従来の医学的考え方に対して、障碍者運動の中から提唱されました。
2)防ぐのか補うのか
 ハリス教授は「障碍は損害だと思うのか?」という質問に、「例えば看護婦が『たった今あなたの子の耳を聞こえなくしてしまった。』と言ったらどうか。損害だと思うのでは? とすれば耳が聞こえないことはやはり損害だ。それを防ぐことは倫理的道理に適う」と答えました。「障碍は防がなくてはいけない」というのが彼の意見です。しかし、これに対し、「障碍の社会モデル」に基づいて、社会での不便を補えばよいではないか、という意見があります。看護士の女性は、「経験上、産後の育て方を検討する上でスクリーニングは有効だと思う」と発言しました。また、ある女性は「必ず中絶に向かうしかないわけじゃない。もっとサポート、ケアという方向で検討ができないのか」と発言。全プロセスを通してのサポートを訴えるオペラモトウさんの意見もここに含まれます。「病気の予防」という医学的発想と、「病気を補って生きる」という社会的発想、意見はこの二つに分かれました。
3)どちらに向かっているのか?
  ダウン症を対象とした出生前スクリーニングは、すでに全妊婦を対象に提供されており、障碍がわかると90%以上の妊婦が中絶するという現実があります。しかし、不思議なことに、このことは最後まで触れられませんでした。知らないのか触れるのを避けているのか、どちらにしても、議論の続く中、社会はすでに医学的発想の方向へと勝手に進んでいる。そのことを見逃してはいけないのではないでしょうか。
4)それでもやっぱり健康な子が欲しい?
  坂井律子氏は、取材先で「あなただって健康な子が欲しいでしょ?」と聞かれた経験を書いていますが2、こう聞かれれば、私も答えに詰まります。その意味では、「健康な子を欲する気持ちに従うことを倫理的道理に適っている」というハリス教授の意見は一見、親、特に女性に優しい意見のようです。しかし、不健康な子を妊娠し、それでも産みたいと思った女性に対しては、この主張は一転して優しさを失います。イベント後、ハリス教授に、「不健康な子でも産むという選択は倫理的道理に適っていないと思うのか?」と質問しました。ハリス教授は、「適っていないと思う。でも、道理に適わない選択をする自由もある。」と答えました。しかし、「道理に適っていない」と言われれば、女性は、負担であっても、その選択肢を避けざるを得ないのではないでしょうか? 次回は女性の経験に関する研究を紹介する予定です。
1この「障碍」という表記は,「障害」という表記に含まれるマイナスイメージを避けるために近年用いられるようになったもの。
2坂井律子、1999、『ルポルタージュ出生前診断̶生命誕生の現場に何が起きているのか? 』NHK出版

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