[緊急寄稿] 大震災について、いま思うこと by 会員有志

投稿者: | 2011年4月24日

以下は、「大震災について、いま思うこと」というテーマでの原稿募集(3月31日締め切り)に応じてご寄稿くださった、市民科学研究室会員の皆さんからの文章を到着順に掲載したものです。募集の趣旨については、このページをご覧下さい。原稿をお寄せくださった皆様には、心より感謝いたします。
会員の方々でも、書きたい思いはありながら、なかなか文章にまとめきれなかった方が多数いらっしゃるだろうと思います。震災の復興、原発事故の収束には長い時間がかかることを覚悟しなければなりませんので、引き続き、折に触れて、思いを語っていただくことにしようと考えております。その際には、会員以外の方々にもお声がけして、原稿を募集していく所存です。詳細については決まり次第、お知らせメールやこの市民科学研究室ホームページにおいて告知させていただきます。これからもどうかよろしくお願いします。
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山下洵子(3月25日)
被害を最小限に留め一日でも早く安心して過ごせる日々を取り戻す、そのために私自身ができることがほんとうにたいしたことないのがもどかしい、と思っている毎日です。
天災は忘れた頃にやってくる、と昔から言われてきました。でも、この度、「人災は忘れた頃にやってくる」のだ、と分かりました。一見科学にみえる数値さえも、その根拠は、全てを網羅する数値ではないこともあらためて身に沁みこみました。この度の報道でしばしば耳にした弁明(解説?)で一番腹立たしいのが、「想定外のことが起こったので・・・」。想定外のことも想定するのが正しい。想定外のことまで想定できないなら、まだその仕組みは摂りいれてはいけないのです。それなのに、今回の事故で、日本において過去に起こった最大波高は1896年の明治三陸沖地震津波の際の38.2メートルさえも想定していなかった、ということが明らかにされました。言い換えれば、言い訳にもならないことを堂々と口にする体質があるということ。そして、それは、国民の総意に支えられてきていた、ということです。
原発は賛成ではないけれど「必要悪」として容認してきたのは、私たちの総意です。
いま、悪であれば必要であってはならないということを、地球に住む皆の総意として共有することを決意しました! 「今さら昔には戻れない」と、これまで文明をがむしゃらに発展させてきた力を転換し、このレベルダウンした現状を契機に「もう、早くは進まない」とすることにしましょう。
節水も節電も当たり前とする社会づくりが始まりました。無理をして収入を増やす生活より、少し辛抱して支出を抑える道を選択する新生日本国の始まりです。■
●杉野実(3月25日)
 インド留学中にお世話になった先生から、大変あわてた調子のお手紙をいただいて、「世界中が心配している」というのはうそではないのだ、と実感しました。外国からのやさしい視線を感じるとき、やはり混乱のさなかにいるリビアやエジプトの人たちのことも忘れてはいけないのだ、と思います。「忘れない」こと以上に何ができるのか、それはこれからじっくり考えなければなりませんが。■
吉澤剛(3月26日)
想像する力
 災害の被害に遭われたみなさんは、おそらく、今を生きることで精いっぱいだと思います。間接的に影響を受けている私も、食べ物や水、電気についての心配から、あまたの情報に毎日振り回されています。このような状況で、今、どんな言葉を発すればよいのか。自分が専門としてきたことを伝えることと、ひとりの市民として引き受けるべきこと。ただちに誰かに響くものではないかもしれないけれども、これをメッセージに代えたいと思います。
 テクノロジーアセスメントという、技術の社会的な影響を評価する取り組みをここ数年続けてきました。未曾有の大震災が原子力発電所に与えた影響は、人体や環境にとってばかりでなく、エネルギー需給、メディアの報道、政府や電力会社の管理体制、そして私たちの日常生活にまで及んでいます。原子力発電所に何かあったときに社会がどうなるのか、今の混乱を前もって想定しておくことはできなかったのでしょうか。昭和49年5月30日、その1ヶ月前に東京電力福島第二原発1号炉設置許可が下りたことを受け、福島地方区選出の村田秀三議員は国会で次のように質問します。
やはり、何と言っても発電所の安全性がこれからも議論されると思うんですが、福島第二原発、これは第二原発ばかりじゃありませんが、現在建設中のものもそうでございますけれども、私らが非常に不安に思う部分というのは、これは一つの仮想、仮定ということもありましょうが、しかしながら施設でありますから、これは地震とかあるいは津波であるとか、そういう不測の事態によって施設が破壊される、こういう問題を常に念頭から除去することはできないんです。究極安全であるという、そういう保証があるのかないのか、これはどうですか。(参議院商工委員会、昭和49年5月30日)

 これに対して、当時科学技術庁長官であった森山欽司は、火力発電と異なり、原子力発電は放射能が大きな問題であるので、それを事前にアセスメントを行い、二重、三重の防護をやっていると説明します。そして、
そういう意味では、火力発電とは全然違った、要するに技術の発展段階におきましては新しいテクノロジーアセスメントの段階に入ったいわば唯一の科学技術産業であると言って差しつかえないと思うのであります。(同)
 ちなみにこのとき、原子炉は関東大震災の三倍ぐらいの地震にも耐え得る構造と主張していますが、津波については触れていません。森山長官は他の場でもたびたびテクノロジーアセスメントという言葉を持ち出して、原発の安全対策について説明しています。
この原子力発電、原子力の平和利用というものは、戦後に起こったものでございますし、実用段階に入ってまだ二十年足らずでございます。歴史も短いわけでございますし、技術の歴史的発展段階といたしまして、イノベーションからテクノロジーアセスメントと、何か放射能というものがあることは事実でございますから、それには念には念を入れて前もって準備をしておく、気を使っていく、そういうことでございますが、放射能の問題について念には念を入れるからといって、だから原子力発電はあぶないんだということはたいへんな間違いでございますから、念には念を入れるから安全だというふうにお考えを願いたいと思っておる次第でございます。(国会本会議、昭和49年4月11日)

 ここで使われている「テクノロジーアセスメント」と呼ばれている活動の理念について、いくつか誤った認識があることを急いで指摘しておかなければなりません。まず一点目として、この時代によくあることでしたが、「技術評価」や「テクニカルアセスメント」と同義として、技術そのものや、限られた範囲の影響評価だけに目を向けていることが挙げられます。二点目、これと関係しますが、安全というものが技術的に担保されるという通念です。現在でも、今回の震災までは多くの人がそれを唱えてきたと思います。残念ながらアセスメントをすれば大丈夫、安全ということにはなりません。そして三点目、ここで意味するゼロリスクな「安全」は現実にはありえず、どの程度のリスクを許容しうるかによってひとりひとりの「安全」は異なっているということです。本来のテクノロジーアセスメントは、原子力発電がそれぞれの人々にもたらすベネフィットやリスクを整理し、それが社会に与えうるさまざまな影響をなるべく幅広く洗い出すことで、社会はどうしたら良いかということを前もっていくつか提示します。「安全だから受け入れてください」「原子力発電はどのような場合でも進めます」という話だけでは、市民から信頼を得られることはありません。なぜなら、この未来は不確実性に満ちているのに、原子力発電所(および原子力推進政策)だけがどのようにあっても「安全」だということはないと、もう誰もが気づいているからです。
 一人の市民として考えてみます。フランソワ・オーディジエールは、民主主義社会における市民は現代世界に関する知識が求められ、市民はとりわけ社会を批判的に分析する力と、長期的な問題や解決を予期する力が大切であると言います。第一に、批判する力ですが、特にこれまでの市民活動では大きな原動力となってきました。今回の震災も、政府や電力会社や専門家、メディアなど、批判が向けられる対象は多くあるでしょう。ただ、忘れてはならないのは、批判される方々も一面においては市民であり、私たちが批判できる特権をもっているわけでもないということです。相手の立場を慮って、その上で、自分がおかしいと感じる点を論理的に指摘する。批判は非難であってはなりません。第二に、予期する力です。前例のない大きな地震と津波にあって、過去の経験や思い込みを捨て、最悪の事態を予期することで助かった市民も多く見られました。このことは社会に確かな救いと力を与えています。さらに遠い未来はどうでしょうか。今を必死に生きなければならない今だからこそ、将来のことをきちんと考え始めなければなりません。自分のことも他者に対する批判も、《今、ここで》だけに陥りがちです。全員の《今》だけを積み重ねていけばとてもちぐはぐな未来になり、そのひずみはいつかまた、どこかで噴出します。このたびの震災で、海岸のいくつかの街は元の面影をとどめないほどの姿になってしまいました。ここでどんな街づくりを進めていけばよいのでしょうか。避難を続けている方は一刻も早く元のあった場所に自宅を建て直し、元のような生活を再開したいと望みます。それはまったく自然なことだと思います。ただ、堤防を高くすることだけがその街の新しい将来となる前に、その街の住民のひとりひとりが未来を描く力をもって、街づくりに関わることができれば、それは生活を元に戻すこと以上の希望となりえるでしょう。
 批判する力も予期する力も、想像力が求められます。相手を想像すること、未来を想像すること。テクノロジーアセスメントも、最後はどれだけ想像することができるかにかかっています。昭和47年、テクノロジーアセスメントをどのような組織でやろうとするのかという石川次夫議員からの質問が国会であったとき、中曽根康弘科学技術庁長官は次のように答えます。
日本の原子力平和利用三原則の公開、自主、民主ということは、ある意味においてはこれまた同じテクノロジーアセスメントに近いものではないかと思います。結局私は、テクノロジーアセスメントというようなものは開発したものが行なうべきであると思う。(衆議院科学技術振興対策特別委員会、昭和47年9月12日)

 この考えは、日本では、これまで多くの人々の共通理念となってきました。ただし、これに限界があることは、今の政府や原子力関連企業・団体に向けられる視線からも明らかです。誰もが自分のことは甘く評価してしまいます。また、自分のことを良く知っているからこそ見えないものも多いわけです。テクノロジーアセスメントは独立不偏に努めて自分の外にあるものを見ようとします。そこで「想定外」と安易に言うことのないように、技術の及ぼす副次的影響や、それを受けたさまざまな人々の反応も、しっかりした根拠を持ちつつ、それを越えたところまで想像していかなければなりません。私たち市民はどうでしょうか。政府や電力会社を責める傍らで、被災者の困窮を考えず水を買い、電気を使う。自分ひとりが及ぼしている影響は、この世界全体に及ぼす影響だと、教科書で教えられたことがようやく身にしみてきました。ならばまず、ひとりからこの地域の、この国の、この世界の将来を描くことをはじめなければなりません。■
上野哲(3月27日)
栃木の小山高専所属の上野です。
毎日MLで放射性物質ほかに関する情報をご提供いただき感謝申し上げます。
この度の地震で自宅(内壁損壊)、職場(渡廊下損壊、外壁落下、多数のガラス破損など)ともに被害がありましたが、今のところ、家族、同僚、学生は無事です。自動車販売店の屋根が崩壊するなど、栃木でも深刻な被害が出ました。
相変わらず、ガソリンスタンドには長蛇の列ができ、スーパーなどは品薄状態ですが、今週に入ってから、再開する店も多くなりました。
ただ、震度4程度の地震が起こるのには、さすがにまいります。神経がすり減っていくような感じです。
東京に続いて、栃木でも水道水から基準値を超える放射性物質が検出されて、保育園の先生たちが子どもたちのミルク用に、ミネラルウォーターを買いにスーパーに走っていました。僕は買いませんし、水道水で作ったコーヒーをガンガン飲んでますが、「預かっている子どもたちに対する責任がある」という保育士の先生方の気持ちは痛いほどよくわかります。
ここは福島原発から150km強の距離ですが、冷静に対応しています。が、現状では、おそらくここもそう遠くはないうちに「避難区域」に入る可能性は高いと見ています。MLで皆さんがご指摘のとおり、総合的に見て、状況は政府や東電の発表、メディアが報道していることよりも遙かに深刻な状況と見て間違いはありません。
地震で激しく倒れた自宅の本棚を整理していたら、いくつか阪神大震災以後の「災害救援」を扱った新書が出てきました。片付けそっちのけで読み直してしまいました。
こんな時期で気の利いたことも書けないので、これらの本から抜粋したもの添付いたします。このメール本文も含めて「大震災について、いま思うこと」の原稿にさせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
「ヒロシマ」よりも「フクシマ」が世界的に有名になってしまったのは複雑な心境ですね。
被災地やその周辺地区の再起を心より願いつつ・・・。■
 ★添付された抜粋はこちら→ueno_attached.pdf
鈴木綾(3月27日)
東日本大震災後を東京のはじっこで生きる今の私…
 2011.3.11(金)を2週間過ぎた今、私は柳澤桂子さんの本の中で出合った「神と共にいて、神なしに生きる」という言葉(誰の語か、忘れました。言葉自体違っているかも…)をお守りのようにつぶやいています。柳澤さんが全身の原因不明の痛みという病と闘っておられる時に、巡り合った神(宗教体験)を表すにふさわしい言葉だとのこと。今生きて引き受けている苦難を乗り切るには神を仰ぐしかない、しかし神に縋り、助けを求めるのではなく、生きる孤独を引き受けていく…ということでしょうか。神様がいると実感したこともなく、宗教心も薄い私ですが、このような大災害を受け止め、生きていくには、何か納得のいく「お話」が必要に思えるのです。何も「天罰」だなどとほざいた都知事氏の真似をしているのではありません。今、どうやってこの大災害から「フツウの暮らし」に立ち戻るのか、しかし、どういう暮らし方が「フツウ」なのかさえ、問い直さなくてはならない。原発は個人的に反対と思っていたけれど、こんなにも原発による電気に依存して生きていたのかと思い知っています。停電も、私はガマンすることができても、実家で圧迫骨折の予後を一人で暮らす父には電気がなければ暖房も入らない、暗い中、段差だらけの家で、また転んだら…?とドキドキします。施設に暮らす母は一人では何もできません。3階のフロアから降りるエレベータが止まったら…避難する場所も確保できるのだろうか。もっともっと切実に生きるために電気の力の要る人もたくさんいるでしょう。
 そしてこういうことを考えながら、甦るのは、TVで中継されていた大津波の映像です。
 一体これは何が起きているのかと思う画像の中で全てを飲み込んでいく水の波。家が、田んぼが、道路が、空港が泥の中に巻き込まれ、何もかも流されている…。え、この家の人は?どこにいるの?逃げたのよね???
 16年前、阪神大震災の時、神戸の町並みがTVに映り、あちこちで火の手が上がり、燃え広がっていく時に、中継をしていたアナウンサーが絶句していた(記憶違いでなければ…)ことを、改めて思い出しました。そこで起きていることをリアルタイムで見ているのに、何もできないことの恐怖。どうしてこんなに「見える」ところまで科学は進んでいるのに、この事態を止めることは誰にもできないのか。
 大津波の映像の中で、逃げていなかった人が大半であったことが行方不明の人の数でわかる。私たちは望まない死を死んでいった人を、見るつもりではないままに看取ってしまった。そのことを思うと心底いたたまれない気持ちがこみ上げます。その暗さに引き込まれないようにするのは相当な「覚悟」がいるようです。
 老親の今後をどう支えていくのか、わが家族の日々をどう動かしていくのか、考えながら、あの大津波を思い出すと、「神なしに生きる」とつぶやかずにはいられないのです。さらに原発事故がもたらす放射能。
 牛乳がなくても、パンがなくても、お米がなくても、野菜がなくても、水がなくても、パニックにならずに生きて経済を動かさなくてはいけない!フツウの暮らしがどういうものか、考えながら、探りながら、生き続けて、もっと苦しい人に力を分けていかなくては…。
 こうして言葉にして今いるところを確認しあうことはとても大切なことですね。子どもたちには希望も伝えていきたい。楽しく幸せに生きることが、生まれてきた誰の人生にも究極の目的だと思うからです。
 3月21日、実家の父が昨年末から予定していたこまつ座の芝居のチケットを、行くには条件が悪すぎるからと譲ってくれました。文化村コクーンシアターにはたくさんのお客様がありました。心の中でこんな時に…と後ろめたいようであった私は、貧しく厳しい東北の農家の娘が主人公という作中の設定にギョッとしました。しかし、彼女は集団就職で上京後、男どもにもみくちゃにされながら生き抜きます。何があっても前を向いて生きるしたたかな強さを、井上ひさしは女の理想として描いているようでした。この劇自体が、東北へのオマージュなのです。喜劇の力を改めて実感しました。文化はゴハンと共に人間には欠かせないものなのでしょう。あちこちで演劇や芸能公演が中止されていますが、心を支えるために、できるやり方で文化活動もフツウの暮らしの中に位置づけたい。この先はアーティストの存在が何よりも支えになる日々でもあるでしょう。
 毎日、原発事故の収束を、わが身の内にいるだろう見えない神に祈りながら…。■    
箕倉啓二(3月30日)
◎地震被災者の我慢強さと、原発役員の頼りなさ。
3月11日、私は東京代官山のレストランで久しぶりに会った元広告会社の同僚とランチをして別れたあと自由が丘駅前の銀行のATMで暗証番号を入れている時に大きな振動と揺れが突然起き、これ迄に感じたことのない恐怖が全身に走りました。
銀行内も駅周辺も人々の恐怖のざわめきの声が聞こえてきました。銀行のガードマンは外に出ると落下物が落ちるので危険ですから行内にいてくださいと叫んでました。
これはただ事ではない……しばらくして地震が収まったので銀行を出て、近くのバス停まで歩きました。偶然、バスが来たので自宅に帰りました。家の中は本棚の書類、DVD、棚の上からはトロフィーなどが床に重なる様に落ちていました。幸い大きな実害もなくひと安心しました。
テレビをつけ震源地とマグネチュードの大きさを知りました。
そして、その日から、かつて見たこともない信じがたい巨大津波による崩壊した衝撃的で悲惨な多くの町の映像を見ること同時に多くの人の命、人の人生、人の夢、人の努力、人の愛も恋も、美しい自然も押し流してしまう巨大地震の力に対して、改めて人は自然との営みの調和を考え直す知恵が必要だと思いました。
◎科学技術と社会を科学ジャーナリストの課題とは。
地震と同時に起きた原発事故は、想定外の地震による災害であるなら、想定出来ない能力がもたらした人災とも言える。
そして、原発事故後の政府、東電、安全保安委、現場の実態と状況説明や放射線シーベル量や放射能ベクレル力、ヨウ素131の拡散汚染など逐一変わる説明、それを受けて各TV局に出演の大学の先生たちの甘口の解説と反してネット番組では大前研一、広瀬隆、武田邦彦など辛口の解説があり、twitter、個人の口コミ、さらに海外メディアからも各国で日本の製品輸入禁止、原発反対デモなども報道されています。
まさに昔なら知らなくても、知らされる今日の多様化したメディアの発達は悪い事だけを知ろうとする心理的な”情報パニック”のような正しい判断が出来ない放射線に次ぐ3次原発災害かもしれません。
結論を単純に言えば、原発問題解決は海外のエキスパートにも参加していただき任せること。
そして科学ジャーナリストが判りやすく情報をコントロールし、政府と報道は放射線、放射能の注意は正確に知らせることだけです。
今回、科学ジャーナリストは、この原発事故、巨大地震と津波に関して社会や文化と科学技術の中でどんな役割を果たしていましたか? これまでのTVに出演の大学の先生はその役割だったのでしょうか? 池上彰に任せていませんか?
◎本当に、急がなければならないこと。
多くの被災に遭われた人々の具体的な救済支援、経済的生活保証と亡くなられた方たちの弔い埋葬です。
最後になりましたが、被災された方々に心よりお見舞いもうし上げます。■
<箕倉啓二/クリエイティブディレクター>
外資系広告会社で国内外の多くのブランド育成と商品広告、企業広告、政府公報、ACJAPANクリエイティブ委員など担当。現在フリー1988年通産省の依頼で原発促進キャンペーンCM「原子力発電も健康診断篇担当。2005年谷川俊太郎の詩を使用したネスカフェの朝のリレー CM担当。ACCグランプリ、ADCグランプリを受賞、その他受賞多数。
石塚隆記(3月29日)
地震、津波、そして核の危機
2011年3月11日14時46分、マグニチュード9.0の巨大地震が宮城県沖で発生、その後、10mから20mの高さだったと記録される大津波が生じた。この大津波は、東北地方の沿岸域の数多くの集落を飲み込んだ。現在(2011年3月29日)までに、2万7千人が死亡または行方不明になったと確認されている。さらに、地震から2週間以上たった今でも、17万人の方が避難所で生活をしている。
この地震と津波で家族の方を亡くした方に、心からお悔やみ申し上げます。また、この災害でめちゃめちゃになってしまった被災地が、適切に復興への道のりを歩むことを願います。
また、この津波は、福島県でもう一つの悲劇を生んだ。福島第一原子力発電所は、想定外のスケールの大津波に襲われ、冷却機能を完全に失った。政府と東京電力が現在までに多大な努力と犠牲を払ってきたにもかかわらず、原発は制御不能な状態に陥っており、既に大量の放射性物質が、大気環境と海域に放出されている。日本政府は、今回の原発事故の深刻さはスリーマイル島事故と同程度と公表しているものの、いくにんかの科学者は、これまでに福島原発から環境中に放出された放射性物質の量は、むしろチェルノブイリ事故で出た量に近いと見積もっている。
この核の危機に関して、私は楽観主義者になることができない。現在私ができること(あるいはやりたいこと)は、この危機のリスクを把握し、私の周囲の人に対して、そのリスクの程度を定量的に、そして分かりやすい言葉で伝えることだ。科学的な知識、それとコミュニケーション能力が、今求められている。
<以下は筆者ご自身による英文の原稿です>

Nuclear Crisis after Earthquake and Tsunami
Takanori Ishizuka
March 29, 2011

At 2:46 p.m. on March 11, 2011, a massive earthquake with a magnitude 9.0 hit off the coast of Miyagi prefecture, and subsequently triggered a gigantic tsunami which was reported to be more than 10 to 20m in height. The tsunami devastated a large number of towns and villages located along the coastline of the northeastern part of Japan. To date (Mar. 29, 2011), 27,000 people are confirmed to be death or lost, and 0.17 million people are still at evacuation centers.
I would like to express my greatest sympathy to the families of the people who died or were lost in the incident. In addition, I hope that the devastated area will be recovered in an adequate manner.
On the other hand, the tsunami triggered another tragedy in Fukushima. Fukushima Daiichi nuclear power plant was struck by the unexpected scale of the tsunami, and the plant lost its cooling system completely. In spite of extraordinary efforts conducted so far by the Japanese government and Tokyo Electric Power Company (TEPCO), the plant is going out of control, and releasing a huge amount of radioactive substances into the environment, including the atmosphere and seawater. Although the Japanese government announced that the severity of this incident was equivalent to the Three Mile Island accident, some scientists estimated that the total amount of radioactive substances released so far is rather closer to that of Chernobyl.
I cannot be an optimist with respect to the ongoing nuclear crisis. What I can (or want to) do now is to grasp the risk arising from this crisis, and inform the surrounding people of the risk and its background information with understandable vocabulary. Scientific knowledge and good communication skills are needed at this moment.■
横浜市・SS(3月31日)
原発、一次情報が出てこない不思議
 先ずもって、今回の地震・津波で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。阪神淡路大震災後に神戸入りし、民家の屋根を覆って点々と広がったブルーシートが目に焼き付いている身には、シートをかぶせる現場さえない今回の被災地には、言うべき言葉もありません。
 あの時は「オウム真理教事件」という禍々しい騒動が追いかけてきて、世間の耳目を横取りして行ったのだった。天災の怖さはやがて慣れてくるのに対し人災は日ごとに怖さが募る、の例えどおり。そして今回。何という巡りあわせか、またもや人災が追いかけてきた。地震・津波は最初がいちばん怖かったのと対照的に、放射能の怖さは日ごとに募っている。
 私の人生の記憶に残る心象的色彩として、実はもうひとつの「青」がある。茨城県・東海村の施設で見た、使用済み核燃料を沈めた貯蔵プールの、妖しいまでにきれいな青い色。燃料棒がなおも放ちつづける高速中性子が、水中で急減速して発するチェレンコフ光だ。今次の天災・人災では、2つの青が2つながら脳裏によみがえった。
ヨード製剤を買いに走った
 そんな我が家に2011年3月12日、日ごろ無かった物が加わった。液状うがい薬。おもな成分は、ヨードだ。東電福島第一原発で、その前日からの津波被害の事象が発展、ECCS(緊急炉心冷却)系のポンプが動かないまま建屋が破壊したらしい。世間様には申し訳ないが、条件反射的に薬局へ走った。原子力安全・保安院の公表より一足早く、ヨウ化カリ製剤を買おうというわけだ。
 私の住居は低層4棟、43世帯ばかりの小規模マンションだが、最近は世代交代がうまくいって子どもたちの声が行き交っている。大人はともかく幼い子どもたちには、万一の時にせめてヨード剤なりと準備しておこう、との算段だった。
 ところが呆れたことに、ヨード製剤がない。さらに呆れるに、薬剤師が「何ですかそれは?」という応対で、ヨウ化カリのタブレットそのものを知らないとは。選びあぐねて手を出したのがうがい薬だったというわけだ。事情を知った薬剤師が「飲まないようにしてくださいねっ」という声を背中で聞きながら、虚無的な感慨に襲われた。ああ、何と平和で、原発の不安もない日本。原発近くの子どもたちは、ヨード製剤を支給されたのだろうか。
 後に、原発大国フランスの危機管理ぶりをニュースで知った。同国政府は特別機を送って日本在住の自国民へヨード製剤を届け、帰りの便に帰国希望者を乗せたとか。一見同じ原発立国でありながら、最悪のケーススタディと現実の備えを忘れない国と、安全の建前が信仰になってしまった国との違いなのか。
 世間は、地震・津波の被害がなかった地域で水や食料などの買いあさりが起こったのを批判する。私個人でいえば、非常時の備えは水・食料・日用品まで最低限ある。習慣にしてきたマーケットでのまとめ買いが、買いあさり集団と同一視されるのがいやで、大震災以降は足が遠のいている。しかし備えの足りなかった人たちが危機意識に目覚めて買いあさるのを批判する気にはならない。ましてや、食べ盛りが何人か居る家庭では、消費量だって半端ではないはず。批判されるべきは意識的に国民教育を怠り、安全・平和神話を信じさせてきた、専門家を含む指導層ではないのか。
 事故発生から3週間、今なお行く末が見えない原発不安は、こうした指導層の不出来が招いたものだ。今度のような危機的非常時に、政権党の民主は党内さえまとめきれず、長年の運営責任を負うべき自民は非協力どころか政局がらみの姿勢を保ったままである。
マスコミはどこまで役に立っているか
 
 指導者が責任能力を発揮してくれないのなら、われわれ一般人は自己責任で、自分のささやかな知識を手掛かりに事象を評価し、予測を立てて対処するしかない。その際にほとんど唯一頼る外部情報は、マスコミの最新報道だろう。今回CSIJから示されたテーマから、私は「マスコミは適切な情報を伝えてきたか」をいささか詮索してみる。
 このマスコミ評価にあたっての、私なりの基準はこうだ――「専門家の識見を素人に仲立ちできているか」。素人は比較的広範な知識をもとに定性的な判断をする。専門家は狭い領域で高度の定量的な評価に踏み込める。多くの分野の専門家の助けを得て、素人は自分の定性知識を現実の外部情報に加工し、初めて自己責任で行動できる、というイメージである。
石の中から玉を見つけるTV番組の苦労
 いきなりだが、そうした観点からはテレビに基本的弱点を感じている。特に新聞と比べたとき、動くカラー画像というテレビの圧倒的情報力は、津波への甘い概念を根本からひっくり返すパワーが確かにあった。しかし情報源として任意のタイミングで再現しにくいのは、あらためて再認識した大きな弱点だった。確かに機材の進歩で録画はできリプレーも可能だ。だが、まさに怒涛のように押し寄せる番組の中から自分に価値のありそうな画像をとっさに推認し、そのタイミングで録画し、その中から真に価値ある場面だけを編集し、リプレーするという一連の作業を、自分以外のだれがやってくれるのか?
 私は今次の一連の天災・人災で、「これは」と予想した多くの番組を最初から録画し、ざっと編集しながら片端からBDにダビングしている。そうしないと、デッキが搭載する500GBのHDがアッという間に満杯になってしまうからであり、一方そもそもこんなことをしている悠長な毎日ではないのだが。ともかく、その作業を通して感じたことをまとめてみる。
 NHKを情報収集の基本としてウォッチしてきたが、週日21時からの「ニュースナイン」が総まとめとして比較的まし。そこで一番印象的なのは、出てくる大学院教授といった専門家がほとんど現場の状況を知らないことだ。「この場所はこういう構造のはずなんですけど、そこが今どうなっているんでしょうねぇ」といった塩梅。おそらく、現場を踏まえた原子力発電システムでなく高尚な「原子力・学」を講じている専門家であり、さらには原発を推進する理論的支えになって来ていたのかしらん、とまで勘繰りたくなるほどの、戸惑ったような、あるいは奥歯に物が挟まったような口調が多い。
 NHKの人選はえてしてこうした専門家が多く、現場にも通じた人選をして視聴者の役に立てよう、というマスコミのプロ意識が感じられない。局側のコメンテーターと一緒に「建屋が吹き飛んでも、格納容器までは傷んでいないでしょうから」とか「極微量のヨウ素131が検出されましたが、問題ありません」などと、楽観論を振りまいている間に、ついにセシウム137やらプルトニウム239まで放出が確認され、「炉心溶融」を認めざるを得なくなってきて、むしろ痛々しい。マスコミ関係者は、内部構造、計測データなど、真の一次情報を取得し視聴者と共有するという気概で番組を作るのだという矜持を忘れないでほしい。いやいや真の黒幕に、こんな時に表に出てドロをかぶるような正直者は居まい。所詮は無いものねだりか。
 こういう立場の専門家への不信感では、ヨウ素131の放出確認の際に仲間内へ送ったメールの一部をご紹介しよう(下線部)。表現が上品でないのは私の人格の表れで、ご容赦願いたい。
 現に、福島から北へ100kmちょっとはなれた宮城・女川原発の構内で昨13日(日)に 放射線が検出されてひと騒ぎになったとき、福島事故で世論を抑えにかかっていた”専門家”連中は、「女川から出た数値ではなく、福島から風に乗って来たのを観測した可能性がある」なんて言ってましたよ。福島からの放出が100km以上も離れた所まで届くことを認めちゃったわけです。
“放送しない”非科学的論理
 さらにNHKを続ける。何といっても日本の放送のスタンダードで視聴率も高いのだから、風当りは強いと受け止めてほしい。NHKの近年の不祥事に当たり「NHKも良い番組を多く作っている」という主張があった(当CSIJ内にも)。これは論理の誤りである。NHKほどの体制・資金力を以ってすれば優れた番組ができて当たり前であり、問題の本質は「NHKがどんな良い番組を作ったか」ではなく「NHKがどんな番組を作らなかったのか」なのだ。
 今次の原発報道に関しては、私が怒りで体が熱くなった事例がある。タービン建屋内で配線作業をしていた20代と30代の作業員が高線量を被曝したという事故の続報だ。私はかねて放射線環境下の作業が気にかかっていた。被曝管理がきちんとなされているか、まだ子どももいない若者を現場に送り込んでいないか・・・。そんな気がかりがまさに当ってしまっていた。続報によれば、しかも東電側は床に危険な水が溜まっていたのを知りながら、現場への伝達を忘れていたのだという。その結果が、長靴もはかないままでの被曝である。
 当事者には全く気の毒としか言いようのない事故だが、東海村での臨界事故並みのおざなりな管理態勢の帰結であり、国際的信用への打撃は深刻である。
 この続報を私は3月26日付けの朝日新聞夕刊(1面トップ)で知り、急いでNHKテレビをつけたが、ニュースで報道する気配がない。新聞記事の書き方からして、いわゆるトクダネではなく東電が会見で公表したらしい。私は同日昼のTVを見なかったが、すでに一度は放送したからもうしないのか? どうやらそうでもないらしい。というのは、その新聞報道への反論のように、「情報管理のありかたに気をつけたい。何でも公開すれば良いというものではない」といった内容の解説を放送していたのだ。私の勘繰り過ぎでないのなら良いのだが。
 理論に通じ、現場にも明るい超専門家の登場は、むしろ民放に時折登場したように思う。印象論で申し訳ないが、根拠を示せない理由は、録画していないからだ。チャンネルを切り替えているうち「あれ、こんな生々しい話ができる専門家が居るんだ」と急いで録画し始めても、肝心な話は大半が済んでしまっていた、という具合。
 NHKも民放も、こうした一次情報を説明できるコメンテーターを発掘し、ぜひ何度か再放送をしてほしい。深夜でもいい、毎日時間を決め、現場に即した定量的な解説番組を期待したい。本来は、政府が主導権をもって発表すべきことではあるのだが、それを期待できないのは誰かが、どこかに遠慮でもしているのか、こうした報道が無いのも不思議である。
その場でわかる解説を
 紙面という空間情報の新聞に対しテレビは時間とともに過ぎてゆく情報なのだから、瞬間的に理解できるような工夫が一層求められよう。放射性ヨウ素131は半減期8日のペースで減衰して行くので・・・といった解説にしても、ハンゲンキなるものの意味があまり理解されておらず、「じゃ、16日で無くなるんだ」と誤解されがちなのも大いに気がかりである。時間を経るごとに対数減衰率で弱まって行くというイメージは、まさに高校物理から先の世界であり、大方の視聴者には判っていないと考えるべきである。
 テレビは(新聞も同じ)水道水の汚染対策として、「密閉容器で数日間くみ置きを」などと説明している。どうして煮沸でヨウ素をパージできないのか? たしかヨウ素の沸点は百何十度かだったが、とあらためて手元の理科年表をめくったら、出ていた。「元素の蒸気圧」の項目の表では、ヨウ素の蒸気圧が大気圧見合いの760torrになるのは温度185.3℃とある。逆に、100℃のヨウ素の蒸気圧は50torr程度だから大気圧の15分の1だ。水を煮沸しても本格的な蒸発には程遠いのがヨウ素の実体である。こんなことまで解説する必要はない。しかし「水を沸騰させてもヨウ素の多くは残ります。それよりは近づかないように(微弱とはいえ何しろγ線なのだから)くみ置いて自然に減らした方が良いですよ」ていどのことさえ解説していたテレビに出会ったことがない。
基本知識を集約して問題の発掘を
 せっかくの自由社会なのにマスコミがその責任を果たしているか。報道内容についてはまだ多くの不満が残るのだが、最後に2点だけ挙げ、要望としたい。
1.大地震の例にもれず、今回も臨海地域では液状化が顕著だった。必然的に思い浮かべたのが東京・築地からの魚市場移転計画が現実化してきた豊洲埋立地である。実はお膝元の都公害研究所が四半世紀も前に、一般的な液状化の研究をしている。その結果は「埋立地も一度大地震を経験すると地盤が締まる」といったものだ。皮肉にも当該地は関東大震災の瓦礫で埋め立てられた。しかもその後、有毒物質による土壌汚染が明るみに出るに及んで、多くの区画で厚く客土をしてきたので、表土の多くはさらに新しい地盤となっている。地表を舗装する程度で取り繕っただけでは、大地震の際にベンゼンはじめ六価クロム、ヒ素、水銀などなどの劇毒物交じりの地盤が噴出してくる可能性が高いのではないか。
2.地下深く掘り下げた巨大構造物は、自分の重量(下向き)と地盤の支持力(上向き)だけでなく地下水による浮力(上向き)も計算に入れバランスさせる。福島原発も例外ではないはず。今回の地震のあと、陸側の北米プレートは、海岸線付近では数十㎝のオーダーで沈下したという。この結果が示す素人のイメージは、地下水位の上昇→建屋の浮き上がり→屋外とを結ぶ配管類との食い違い→せん断力の発生、といったものだが、この三段論法が杞憂であることを祈りたい。■
山田耕作(3月31日)
原発を推進してきた物理学者の責任は重い
                       
1.はじめに
 私は今から5年前の2006年に京都大学を定年退職した。1961年に大阪大学の物理学科に入学して以来、45年間物理学を専門としてきた。その退職の際、最も強く思ったことは、学生を不幸にしたり、社会に迷惑をかけることなしにどうにか無事定年を迎えたという安堵の気持ちであった。ただ、原発や環境ホルモンなど科学技術のもたらした危険性に対していっそう不安になり、最終講義でそのことをお話し、問題を提起した。
 
 ところが定年後まもなく、世界大恐慌の時代となり、飢餓と貧困を救う経済学を勉強したいと思い、資本論を読み始めた。
2.突然の大震災
 その最中の2011年3月11日、マグニチュード9の大地震と大津波を受け、福島原発が炉心溶融を伴う破局的事故となった。すでにこれまで、女川、志賀、柏崎と耐震設計を超える地震動が現実に観測され、原発の耐震性が破綻していた。耐震設計のもとになっていた大崎の方法に正当性がないことが誰の眼にも明らかになっていたのである。スマトラ地震などから、津波の心配も出されていた。この一連の地震からの警告も無視して、電力各社、政府、原子力安全・保安院は原発の運転を認め運転を継続してきたのである。今回の原発震災は、明らかな原発の耐震性の欠如を無視して、地震動の過小評価を用いて安全性を捏造してきた原発推進派の犯罪といってもよい過失の結果である。これはまぎれもなく人災である。
3.物理学者の責任
 かつて原発は、原子力の平和利用として物理学者が先頭に立って積極的に推進してきたものである。原子力予算の中曽根提案など政治家に協力して、湯川秀樹氏の原子力委員就任、伏見康治氏の原発や核融合推進への協力など原発推進に果たしてきた物理学者の役割は大きい。それ故、私が世話人をしたことのある「物理学者の社会的責任」のシンポジウムで、今は亡き久米三四郎氏や高木仁三郎氏から、物理学者は原子力平和利用三原則を作っただけで、以後の原子力発電の産業への拡大を容認し、座視したことに対してその責任を厳しく問われた。
 まさに今回の事故はさかのぼってみれば物理学者が導いたようなものである。私を含め全ての物理学者の責任は重大であると思う。事故は進行中であるが、1,2,3号炉の圧力容器が炉心溶融によって損傷され、放射性物質を閉じ込められないでいる。事故の規模はすでにスリーマイル島原発事故を越え、チェルノブイリ原発事故に匹敵する被害が出る危険性がある。故郷を追われ、困難な避難所の生活を余儀なくされている人たちがいる。農漁業をも破壊しつつある。これらを含め事故処理に当たっている労働者、消防、警官、自衛隊員等の被曝にも責任を負っている。子供達の将来にも責任がある。物理学者は地震のことを知らずして原発の運転を容認し、座視してきたのである。想定外とはいえない。「原発は地震に耐えられるか」は一貫して住民から提出されてきた疑問だったのである。原発を容認し推進した物理学者は層として解答する責任があった。その疑問を無視したり、誤った解答をして、物理学者は地震学者と共に安全性を「保証」してきたのである。物理学者は、こうして、政府、電力会社に協力して原発を推進し、自らは研究費を獲得し、社会的特権を維持してきた。物理学者の責任は重いと思う。
4.被曝の容認を強制して原子力を推進
 故中川保雄氏が20年前に残した著書「放射線被曝の歴史」は核被害者の立場から被曝の歴史を研究したものである[1]。その結論は国際放射線防護委員会(ICRP)など放射線防護の体制は、実は原子力の推進のために、人々に被曝の被害の容認を迫る原子力推進体制の一部であるということであった。
 この結論のとおり、現在、マスコミに登場する原子力と放射線防護の学者たちは反省するどころか、放射線被曝がたいしたことではないかのような宣伝を一斉に繰り広げている。チェルノブイリ事故もたいしたことではなく、甲状腺がんが少し増えただけであったという宣伝が繰り返されている。しかし、原発事故を警告することに全てをかけた瀬尾健氏の詳細な分析に依れば「70万人を超える生命が、チェルノブイリ4号炉たった1基の原発事故の代償として、支払われることになるのである」。
 自分が原因をつくったのであるから、自らが起こした被害の拡大を防止し、被害の大きさを正しく説明し、罪の深さを謝罪すべきなのに、それをわざと過小に評価し、誤魔化し隠そうとしているのである。撒き散らした放射性物質による内部被曝について意図的に触れず、すぐさま影響がでないと誤魔化している。過去の被曝研究による明確な真理がゆがめられている[3]。それは第一に、被曝線量に閾値はなく、これ以下なら安心とはいえないことである。低線量でも被曝量に比例して被害が出るのである。さらに、細胞分裂が活発な胎児、乳児、幼児はいっそう危険である。第二に自然に存在する放射性物質と人工の放射性物質の生物的影響の違いを無視している。例えばカリウム40のような自然の放射性物質に対して、生物はその進化の中で生体内での代謝を早くし、体内に蓄積しないようにして防御している。一方、植物、動物は未知の人工の放射性物質を生体に必要な物質として非放射性元素と同様に濃縮し、集中的に取り込んでしまう。例えば植物はヨウ素を1千万倍近くも生体濃縮して取り込む。空間線量では低くても、濃縮率(国が低めに決めた濃縮率は260万倍である)を考慮しなければ野菜等の食物の内部被曝の危険性はわからない。自分が毒を盛りながら、「その毒はすぐには効かないから安心しろ」というのは心から反省した人のする親切であろうか。
 かつて、学者の国会といわれた学術会議は原子力、核融合を積極的に推進してきた。一方、地震学者は地震については予知をするという口実のもとに予算の要求はしたが、原発の危険性について真剣な検討をしてこなかった。地震学、建築学、核や原子力の科学者の責任は重い。学問は人々を不幸にするためにあるのではないかとさえ思わせる。このような科学者が原発を造らなければ、人々は放射能の恐怖におびえることなく、自然の中で豊かで穏やかな生活が出来たのではないかと思う。
5.終わりに
 今回の悲劇の犠牲を前にして、私たちせめては科学者の理性と良心を取り戻し、ゆがめられた学問を正し、みんなで助け合う共生社会の実現に向けて進まなければならないと思う。この単純な真理を学ぶにはあまりに大きい犠牲であるが、これがせめてもの犠牲者に対する償いではないだろうか。
 これまで、9電力会社は配電網を独占し、電力独占体制の下に、自己のわがままを貫いてきた。私たちは配送電網の国有化を要求する。スマートグリッドを導入し、地域分散型の自然・再生エネルギー網を拡大発展させる。産官学の支配を排除し、草の根民主主義に基づく民主的な社会をつくることが必要である。大災害の復興の苦労の中で、私たちは、子供達に強いもの勝ちの社会でなく、基本的人権を尊重し、助け合って共に生きる社会を築くよう教育していこう。私達が育った戦後は「青い山脈」の歌のように、貧しくとも明るい未来への希望に満ちた時代であった。■
[1]中川保雄;「放射線被曝の歴史」技術と人間(株)1991年.
[2]瀬尾健;「原発事故…その時、あなたは!」風媒社 1995年
[3]市川定夫;「新環境論」(全3巻)藤原書店 2008年
池澤淳子(3月31日)
日本人について、原発について
 あの大津波の映像に息をのみました。もし、私があそこにいたら・・・と思ってみても、被害にあわれた方たちの恐怖、不安、悲しみ・・・想像もつきませんでした。25日夜、ここ鳥取でも雪が積もりました。東北はどんなに寒いだろう、とは思っても募金より他に何もできない自分に情けなさがつのります。
 そんな中、底冷えのする体育館などでの避難生活の映像とともに伝えられているという「冷静で、秩序を守る日本人」という海外メディアの報道を知りました。最初は、被災された方々への称賛と思われ、正直、誇らしい感じも持ちました。けれどその後、「冷静」という言葉に違和感を覚えました。
 「日本人はこの大災害に暴動も起こさず・・・、これは日本の伝統に基づく・・・」、本当にそうでしょうか。明治維新以後だけでも何人もの首相が暗殺されています。米騒動など暴動も起こっています。ただ、第二次大戦敗戦以後は、徴兵制もなくなって銃などの武器と身近に接する人もほとんどなくなり、戦後復興のためにと経済的豊かさを最優先とし、曲がりなりにも平和な時が過ぎていました。今回の「冷静」と評される対応は、古来の伝統というよりは、65年の平和な経験のなせる技なのではないか、と思えたのです。
 いま暴動や内戦が起きている国でも、人々に少し経済的な余裕があり、平和な時代が半世紀も続いていれば、暴動は起きていなかったのではないでしょうか。今回の震災に遭われた方々の辛抱強さ、穏やかさには敬服の念を抱いています。ただ、その「冷静」さを日本人の特質、日本の伝統として語られると、何かがすり替えられているように感じるのです。
 もうひとつ、原発について、感じたことがあります。
 
 3月19日福島第一原発3号機に放水した後の東京消防庁の会見には、危機感を共有できる説得力がありました。一方、東電の会見は、いつも数字ばかりです。なぜ現場の所長さん(あるいは、その代理となる方)の会見がないのでしょうか。 3月15日、4号機で火災発生、50人を残して他の作業員は退避と発表された際も、その退避判断について説明を求められると、「まだ、情報が・・・」という対応だったと記憶しています。「あの所長の判断に間違いはない」とは言わないまでも、「現場の判断を尊重する」という言葉が出ないのは、退避判断を下した所長さんと本社の緊急時対策室との間に信頼関係が希薄ということかしらと思ってしまいました。
 迅速な情報公開は必要でしょうが、現場のデータからいくら数値のシミュレーションを繰り返しても、仮想現実の世界には臭いも風もないのです。東電本社の方々には、現場の風を肌に感じるプロとしての姿勢を示してほしいのです。東電の対応が後手後手と言われる原因の一つは、この本社と現場との”一体感のなさ”にあるのではないか、と思った次第です。■
土器屋美貴子(3月31日)
 3/14に地元新聞の「読者の声」に投稿した内容(原文)を書かせていただきます。
 悔しい。天災に続き、甚大な人災が起きてしまった。
 関東大震災クラスの巨大地震が来ることは、随分前から言われており、同時に原発は地震に耐えられないことも言われていた。それなのにCO2排出量が少なくクリーンだといい、電化住宅や原発推進策がとられてきたように思う。
 東日本大震災では、放射能が漏れる事態となった。大分まで放射能の影響が及ぶことはないかもしれないが、大分でこのクラスの地震が起きれば、近隣の原発でも同様のことが起こりかねない。3/13の大分合同新聞で「今回の大震災を機に、想定以上の被害を念頭とした対応を行政、地域が一体となって考える必要がある」と、村山元首相も言われている。
 日本人の技術と生活の知恵を合わせれば、電気を始めエネルギー使用を押さえた生活は可能ではないだろうか。まず大分から、原発に頼らないスタイルへ転換しませんか。これも、わたしたちができる復興支援の一つだと思っている。■
榎木英介(サイエンス・サポート・アソシエーション代表 病理医、3月31日)
科学コミュニケーションの「敗北」~何ができたのか、何をすべきか
 2011年3月11日。私は神戸の病院にいました。16年前の阪神大震災で被害を受け、建てなおした免震構造のある病院。
 ゆら~っと、あたかも船に乗っているかのようなゆっくりとした揺れを感じた瞬間、「これは遠くで大地震が起きたに違いない」「おそらく数日前に大きな地震が起き、津波が発生した東北沿岸だろう」と思いました。
 その予想は当たっていました。しかし、その規模は想像を超えるものでした。職場のテレビに次々飛び込んでくる信じられない映像。阪神大震災を経験した同僚たちは、「またあんな思いをする人達が出るのか」と絶句していました。
 地震発生の3月11日午後2時46分。それは、アメリカ同時多発テロの9月11日と、阪神大震災が発生した午前5時46分を合わせたような、象徴的な日時。その日以来、世の中は変わってしまいました。
 孤立する被災地、おびただしい犠牲者、原発事故…そんな過酷な現実を前に、いったい自分に何ができるのか、何をすべきなのか。あの日以来自問自答する日々が続いています。被災地に物資を送るNPOに寄付をしたり、ブログに情報を集めたり…しかし、それだけでいいのか、もっと出来ることはないのか、罪悪感に囚われています。
 こんな中、私が関わってきた科学コミュニケーションに、厳しい目が注がれています。
 CGやフリップなど、状況を分かりやすく解説する資材を作ることもできないではないか。人々の必要な情報を発信するのは科学者自身で、科学コミュニケーターは何もしてないではないか。サイエンスカフェなど楽しい科学ばかり扱って、取り上げるべき問題は避けてきたのではないか。
 こう言われることに、もどかしさを感じます。CGやフリップを作る美術スタッフだって、情報発信する科学者だって、広い意味では「科学コミュニケーター」ではないのか。定義が曖昧なため、不満のはけ口にされているのではないか。「サイエンス・メディア・センター」の活動は、科学コミュニケーションではないのか。そう言いたくなります。
 ある方によれば、今は「クライシスコミュニケーション」を行う時期であり、いわば緊急事態。平時に行う科学コミュニケーションやリスクコミュニケーションの出番がないのも仕方ないといいます。
 しかし、科学コミュニケーションにはもっと出来ることがあったのではないかという思いは消えません。科学コミュニケーションは、社会からの期待に答えられなかった…これは「敗北」なのではないか…科学コミュニケーションはそう言ってもよいくらいの危機にあるのだと思っています。
 しかし、嘆いていても仕方ありません。まだ事態は進行形です。今何が出来るか、これから何をすべきか考えていかなければなりません。
 あるMLを介して知りましたが、被災者が立ち直っていくプロセスには
1.救援ピリオド
2.避難生活ピリオド
3.生活再建ピリオド
4.復興まちづくりピリオド
 の4つがあると言います。1、2では有効なことができなかったと言っても、3、4では何ができることがあるはずです。たとえば、被災した人達に科学書を送ったり、実験道具を送ったり、あるいは進学や教育の支援を行ったりといったことがあるでしょう。
 また、震災によって引き起こされながら、震災とは様相の異なる原発事故に対しては、長期化することが濃厚となった今、出来ること、すべきことがあると思います。
 中長期的なことを考えると、科学コミュニケーションは、科学技術と社会が衝突するような領域をもっと扱うべきだと思います。たとえば博士号取得者が、「市民科学者」として、独立した立場で様々な課題を扱うといったことを、もっと行わなければなりません。そして市民研や原子力資料情報室のようなNPOがもっと増えないといけないと思います。今原発事故に対しては、早野龍五東大教授のような方が、自主的に情報を発信していますが、個人の努力にまかせるのではなく、普段から継続した活動を行う組織が必要のように思います。
 「311後」の世界は、「お上まかせ」ではなく、一人ひとりが行動する時代。「敗北」を噛み締めて行動していくしかない…それが私の「いま思うこと」です。■
権上かおる(3月31日)
マニュアル社会の弊害
 11日の地震直後から(おもにNHKだったが)同じ報道同じ言葉が何回繰り返されたことだろう。
22~23日頃の東京在住の私は水道水汚染は生活そのもの、まして、周辺の子どもの小さい若いお母さんにとっては、不安を一気に増大させた。そこで、対策を市民研HPにもアップいただいたものをお知らせしていた。4月1日朝のNHKニュースで「某市が水道水汚染を防ぐため降り始めの雨は汚染物質を多く含むため、取水しないようにし、除去に効果があるとされる活性炭を使用する」と伝えていた。おそらく放射性物質の混入のマニュアルがないため、ここまで遅い対応なのではと思う。マニュアルに沿えば、感覚はどんどん麻痺する。そこが怖い。■
 追伸;今回ほど、市民研のML、HPが心強かったものはない。多方面の分野の方がおられること、上田さんの迅速な対応の賜物と思う。感謝申し上げます。
中野亜里(4月2日)
「日本の技術で地震を止めることはできないのですか?」
 
ベトナムの高校生からこんな質問を受けたことがある。フエの高校を訪問して、生徒に阪神・淡路大震災から感じた日本社会の問題について話した時のことだ。伝統ある名門校の3年生の、最も優秀な生徒たちの中から出た質問だった。工業国のテクノロジーに対する盲目的な信仰とも言える憧憬を示され、思わずうなってしまった。
2011年3月11日、東日本大震災発生の数時間前、私は内閣の関係者が集まる研究会で、ベトナム情勢について報告していた。日本からの原発輸出にも触れた。
「ベトナムでは国家的な重要プロジェクトが、国会を通さずに共産党のトップだけで決められます。決定過程は不透明、責任の所在も不明確なので、事故があっても誰に文句を言ったらいいのか分からない。権力者の命令が法より有効なので、建設の際の立ち退きや、事故の際の補償なども、どこまで住民の合意があるのか分かりません。独立の市民団体や労働組合もなく、メディアも統制されているので、国家のやる事をチェックするシステムがありません。BRICsに次いで経済発展が期待されている国ですがが、カントリー・リスクは決して少なくないと思います」
そのようなことを話した1時間ほど後に東北地方の海底が崩壊し、福島第1原発が津波をかぶることになった。
ベトナムでは2030年までに14基の原発を建設、稼働させる計画が進んでいる。2020~2021年に2基、2021~2022年にもう2基を稼働させ、計400万キロワットの電力を生産するという。2010年10月、ベトナム共産党指導部は、南部のニントゥアン省に計画しているニントゥアン第2原発の建設を日本企業に発注することを決め、同月ハノイを訪れた菅首相との間で合意が成立した。原発を新たに設置する途上国で、日本が受注する初めてのケースだった。ニントゥアン第1原発は、既にロシア企業が建設を請け負っている。完成すれば東南アジア初の原発となる。
ベトナムはアメリカとの間でも、原子力協定締結に向けた交渉を進めている。この協定には、ベトナム国内でウラン濃縮を可能にし、核燃料を独自に製造することを認める内容が盛り込まれている。しかし、ベトナムはIAEAによる核施設の抜き打ち査察を認める「IAEA追加議定書」を批准しておらず、「核物質防護条約」「原子力安全条約」にも加盟していない(2009年現在)。
 福島第1原発1号機の爆発以後の顛末は、日本の技術に対する途上国側のSFめいた幻想をうち砕くに十分だったはずだ。にもかかわらず、事故発生後もベトナム政府は原発計画を変更しないと表明した。指導部は「安全性が保障されてから建設する」「15メートルの津波に備えた堤防を造る」などと語る。しかし、国会議員からは、この期に至ってようやく、「着工前に計画を説明せよ」という声が出始めた。大部分が共産党系の議員のことだから、今まで何も知らされていなくても不思議ではない。
ベトナムについては、原発の是非以前に考えなければならない問題があると思う。
東日本大震災と福島第1原発事故の発生後、東北地方にいたベトナム人留学生たちが、東京のベトナム大使館に救援を要請したが、大使館は当初何もしなかった。仕方なく留学生たちは独自の情報網を作り、外国のメディアにも窮状を訴えた。イギリスのBBCのベトナム語サイトが、在日ベトナム大使館の無策ぶりを報じたため、大使館はやっと車両を手配して東北の留学生を80人ほど東京に移送した。しかし、ベトナム人僧侶がいる芝公園の寺で彼らを降ろし、後の面倒は何も見なかった。
結局、日本国内の留学生と一部の在留ベトナム人が、自発的に東北地方の留学生の情報収集と救援、大使館への情報提供を担うことになった。駐日ベトナム大使は「自国民保護に努めた」と宣伝したが、実態は上記の通りである。自国民の安全保障や、放射性物質の害を認識しているとはとても思えない。
このような指導者が原発を管理できるのだろうか。地震や津波以前に、人為的ミスで事故が起こらないとも限らない。情報開示、責任の所在、損害賠償など、今の日本で問題になっていることがベトナムでも発生するだろう。国家指導部と市民が原発の問題点をよく知り、建設を中止してほしいと願わざるを得ない。日本側は正しい情報を提供して、テクノロジー神話を修正しなければならない。
ドイツの地方選挙で、原発に反対する緑の党が議席を増やしたことは、福島第1原発事故の「効用」だった。この先、ベトナムをはじめ途上国への原発輸出を止めるならば、それは日本がなし得る最大の「国際貢献」になるかも知れない。
日本に40年住んでいるベトナム人は、「この大災害の中で、日本人はみんな平静で、秩序を守っている。本当に敬服します」と語った。科学技術は自然の力に勝てない。しかし、被災した人々や、それを支援する人々を見ていると、健全な社会と文化は自然災害に克てると信じることができる。まして、人間の意志で始まった戦争や原発を克服できないはずがない。■
桑垣 豊(4月5日)
1.津波
 高校生のときにおとずれた三陸地方が津波に襲われて、ことばもありません。1977年の春休みにわが高校の地理部は、5人で東北地方をめぐりました。釜石では、駅前に新日鉄釜石の巨大な工場があり、町に出るには5分ほど歩かないといけませんでした。その商店街が壊滅的な被害を受けている映像がテレビで流れました。宮古からは船で田老に行き、巨大な津波堤防を見る予定でしたが、海が荒れて欠航したので、宮古周辺海域の遊覧船に乗りました。田老町のパンフレットには、三陸津波の教訓を生かした巨大堤防の大きな写真が載っていたのですが、それを乗りこえる大津波を見ることになるとは思いもよらないことでした。
 今回の地震がおきた時刻、私は静岡県の由比ガ浜付近を在来線に乗って、静岡市に向かう途中でした。緊急停止した列車のアナウンスは、地震がおきたことをつげていました。しばらくすると、すぐ近くの海と列車の間の道路を広報車がとおり、「大津波警報が発令中です。すぐに非難してください。」と放送しています。もし、東海地震だったら、すぐに津波が襲ってきます。車掌は、避難のことを何も言いません。沖に白波が見えたら、車掌を説得してドアをあけてもらうしかない。車掌が納得しなければ、コックをあけて勝手に脱出するしかない。と思った矢先、電車が動き出して、震源は宮城県だという放送がありました。興津駅についた電車はその後、24時間止まったままになるのです。大津波警報が解除になるまで運転再開はないということでした。翌朝8時すぎ、乗り合わせた乗客7人ほどで1時間歩いて清水駅までたどりつき、路線バスを見つけて新幹線の動いている静岡駅に向かいました。途中、巴川を渡りましたが、河田さんは見えませんでした。(ちびまるこちゃんの見すぎ)
2.赤字国債
 今回の地震からの復興には多額の資金が必要です。しかし、政府は財源があるとかないとか、これ以上国債を発行できないなどと論争をしています。でも、こんなときに赤字国債や建設国債を発行しないで、いつ発行するのでしょうか。現在の不況は需要不足が原因ですから、供給量(生産量)に対して需要不足の部分が貯蓄にまわり、不況で投資先がないので、まわりまわって国債に向かっているのです。ですから、赤字国債が発行できないはずはないのです。もちろん、赤字国債を無造作に発行していいはずはありませんが、今回は必要です。日本は幸い、生産力過剰で不況になっているのですから、地震で生産力が落ちてはいるもののその生産力が復興と、日本経済の持続を支えてくれるはずです。
 私が言いたいのはここから先です。以上のことは、実務家の間では常識ですが、経済学が混乱しているため、当たり前の合意ができていません。また、国民を不幸にしてでも財政均衡が大事な財務省は、不況と震災が重なったこの時期に増税と言っています。管首相も自民党の谷垣総裁も、財務大臣就任時に財務官僚に財政均衡至上主義をたたきこまれたようです。
3.電力不足?
 最後にもうひとつ、福島原発事故で電力不足があらわになりました。しかし、疑いがあります。数年前、東京電力はデータ捏造ですべての原発を止めましたが、それほど深刻な電力不足には陥りませんでした。今回の震災で火力発電所も被災したので、その分が不足するのはわかりますが、検証する必要がありそうです。
 なぜなら、原発を推進したい側は、こんな事故になってもやっぱり原発は必要だと思わせたいにちがいありませんから。しかし、今回東京電力の現場の職員は消費者に迷惑をかけないために、必死で働かれていると思います。
 そこで、原発に反対している市民団体だけではなく、環境にかかわる多くの市民の間で「原発がなくても電気は足りるキャンペーン」のようなものをしてはどうでしょうか。その前提として、エネルギー消費を減らす生活や社会の構想を描く必要があります。私も以前、市民科学研究室の商会でエネルギー消費商品の評価を行ないましたが、それが活用できそうです。
この際、細かい節電策だけではなく、いろいろな知恵が必要です。しかし、エネルギー問題に関しては、学者、研究者の間でも混乱があり、大事な要素をまったく議論していない部分もあるのです。文章が長くなりそうなので、箇条書きにしておきます。
・費用がかかる屋上緑化よりも、反射塗料を普及させる。(建築業界)
・エアコンは2003年以後、除湿能力を犠牲にした省エネをしているがやめる。(家電メーカー)
・1995年ころから2002年までに購入したエアコンは買い替えない(家庭)
・夏の前半は地中冷熱を生かすためにエアコンを使わなくても窓は締め切る。(家庭・職場)
・窓はブラインドや断熱シートを使う。(家庭・職場)
・当面は、高いLEDよりも電球型蛍光灯の普及をはかる。(家電販売店)
・10年以上前の冷蔵庫は買い替えて電気消費を数分の1にする。(家庭)
・夏の暑さに慣れて、室温が26度以上でも苦痛でないようにする。(家庭・職場)
・夏の都会の地中蓄熱を減らす研究を進める。(政府、研究者)
・マンションはオール電化をやめる。(住宅業界)
・原発の夜間電力をあてにしたエコキュートはやめる。(家電メーカー)
説明ぬきで申し訳ありません。機会があれば、くわしく説明します。■
上田昌文(3月27日、原稿をお送りくださったある方への返信として)
原稿をお寄せくださり、ほんとにありがとうございました。
津波に飲み込まれ、声もあげられないまま、苦痛の中で死んでいった人たち。
その多くが、いまだにどこにいるのかさえもかもわからない。
生活の基盤のすべてが破壊され、立ち直るすべを、まったく見出せないで、寒さと飢えと不安と悲しみの中に打ちひしがれている、あまりにも多くの人たち。
自分が生きている間に、このような事態に、同じ国に住む人間として遭遇することになろうとは、
今も半ば信じられないような感じを引きずったままで、日々をすごしています。
「自分にできることは何?……」という問に苛まれながら、周りの仲間達と、ようやく、多少地に足をつけた議論を始め、
「まともな復興の実現に少しでも貢献できないようなら、社会活動をしている意味がないではないか」
「しっかり考え、しっかり行動するんだ」
といくらかは自分に言い聞かせて、腹をくくるような感じを持てるようになってきました。
これからもいろいろと励ましあい、知恵を出しあっていきたいと思います。
ほんと、元気を出して生きましょう。■

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