春の連続講座 「お金と楽しく付き合うために」 第4回 やっています! Happy Money / Happy Work ワーカーズ・コレクティブ「パンの家」の試み

投稿者: | 2000年4月15日

春の連続講座 「お金と楽しく付き合うために」

第4回 やっています! Happy Money / Happy Work
ワーカーズ・コレクティブ「パンの家」の試み

報告:薮 玲子

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●アンペイドワーク
4月8日の土曜講座の帰り、その日の講師を務められた向田映子さんと、日の暮れた道を歩いて新宿駅まで出た。向田さんは、長い間、横浜で生活クラブ生協の活動に関わり、その後、神奈川ネットから出馬して市政、県政に携わって、今は女性・市民信用組合(WCC)の設立に奔走されている。いわば女性たちの社会貢献活動の旗振り役だ。その日は向田さんも私もそれぞれに用があって、講座の後の懇親会には参加せずに帰るところだった。二人並んで歩きながら、まだ講座の熱気が冷めやらず、話しは主婦のアンペイドワークのことになった。
私は以前に読んだ本の話しを持ち出して、ドイツの家の中が常に整然としているのは、地下に巨大な収納スペースがあるからで、収納スペースが少ない日本の住居では、部屋は物で溢れかえり、それゆえ主婦はこまねずみのようにあくせくと片付けまわることになる、と話した。
そうね、という風に、向田さんはうなづかれた。「私は以前ドイツの家庭にしばらく滞在したことがあるけれど、むこうの主婦は調理といえば物を刻む作業が大半で、台所がほとんど汚れない。日本では、焼く、煮る、揚げる、蒸す、という具合に調理に手をかけるし、その分、台所も汚れるわけよね」
なるほど、と今度は私がうなずいた。

●地域の中でペイドワークを掘り起こす
主婦が外に出てペイドワークをする前提には、毎日のアンペイドワークをこなすというハードルが控えている。それが女性の就労を厳しくさせ、資産の蓄積をさまたげているのだと向田さんは力説された。ハードルを跳んで、めでたくペイドワークにありついたとしても、パートの労働力として産業セクターに取り込まれることが多い。家庭でのアンペイドワークを必死にこなし、手に入れた時間と労力を「企業に売る」。これでは、ますます産業セクターを肥大化させるばかりだ。そういう方向ではなく、主婦が自分達の労働力を、生活の自治や、地域の自治につながる方向に使えないだろうか。快適な生活を維持する為のアンペイドワークであるように、地域を豊かにする為のペイドワークを掘り起こしてゆこう、という理念のもとに生まれたのがワーカーズ・コレクティブの運動だ。地域に必要な事業を、自分達で出資して立ちあげ、そこで働きながら、経営してゆく。主婦の新しい労働形態として、これはちょっとおもしろそう、という思いと、でも、きっと大変だろうなという思いが、交錯していた。

●「パンの家」に取材に出かける
そんな訳で、ワーカーズ・コレクティブ「パンの家・ぐれいぷ」の取材は、心待ちにしていた。
主婦たちが立ちあげて、すでに13年も続いているパン屋さんと聞いて、どういう訳か私は、ひと昔前の日本の、働き者のお母さんの姿を思い浮かべた。どんなに寒い冬でも、朝早く起きて、洗い立ての白い割烹着をしゃきっと着て、トントントンとみそ汁の実を刻む、そんな主婦のイメージだ。
ゴールデンウィーク明けの、まるで一挙に夏が来たみたいに晴れ上がった暑い日、上田昌文さんと田代良憲さんと私の3人は、西武池袋線の保谷駅で待ち合わせて、取材に出かけた。駅から続く、バス通りにしてはやや狭い道路の両側には、店舗や家が建ち並んでいる。酒屋さん、八百屋さん、「かけはぎ」と看板のかかったお店、パン屋さんも何軒かあった。保谷の町は、なんとなくなつかしい感じがする。人々の暮らしの音や匂いが感じられるような、いかにも働き者で堅実な主婦が住んでいそうな、そんな町だ。
駅から8分ほど歩いたところに、ワーカーズ・コレクティブ「パンの家・ぐれいぷ」はあった。赤い小さな看板が出ている。明るくて可愛いお店だ。店の脇を通って裏にまわり、粉の袋が積み上げられた細い通路を通って中に入ると、そこが小じんまりしたパン工場になっていた。女性が5人ほど、しっかりとした生なりの割烹着に三角巾をして、もくもくと手を動かしている。私のイメージにかなり近い人たち!
田代さんが大きなバックから、ビデオの機材を取り出し撮影の準備を始めると、たちまち辺りにプロっぽい雰囲気が醸し出される。なんだかくすぐったい。まるでテレビ局の取材班みたいだ。インタビュアーの上田さんのうしろで、私は神妙な顔つきでテープレコーダーを掲げ持ってスタンバイした。

●ワーカーズをやろう!
「パンの家・ぐれいぷ」が誕生したのは1987年11月、生活クラブ生協からの呼びかけがきっかけだった。主婦たちがこぞって外にパートに出かけ、昼間の住宅地は家も地域も「も抜けの殻」になっていた。「同じ働くなら、自分達の住んでいる地域に目を向け、そこの中で必要としている事業を自分達で創り出し、運営してゆきませんか」この呼びかけに、手を挙げた主婦たちがいた。ワーカーズ・コレクティブなんて、ほとんどの人が知らなかった頃だ。
「子供にお金が係ってくる。手は離れてゆく。何かしたいと思っていた時期ではあったんです」設立メンバーの一人である町田和代さんは、いかにもきびきびと家事をこなしそうな、ちょっと昔の体操選手みたいな雰囲気の方だ。
「生活クラブの業務委託の仕事をやりながら資金をため、委託の期限が切れた時に、じゃあ自分達でワーカーズ・コレクティブをやろうということになって、でも、最初からパン屋をやるとは決めていなかったんです」。
豆腐屋やラーメン屋という話しも出たらしい。それが、パン屋に落ちついたのは、生活クラブ生協の職員でパン屋に3年間修行に行っていた男性に、「私達でもパン出来ますか?」と聞いたら、「出来るんじゃない?」と言われたこと。当時、生活クラブの取り組み商品にパンが入っていなかったので、パンの要求が強かったこと。そこで3000枚ほどのアンケートを取ったら、「少々高くても安全なパンなら買う」という結果がでたこと。そもそも保谷は生活クラブの組合員の組織率が都内でも高い地域として知られていた。共同購入をしてもらえるならやっていける、と踏んだ。

●涙ぐましい開店準備
パン屋をやろうと決めて開店するまでの1年間の悪戦苦闘ぶりは、なんとも涙ぐましい。とりわけ苦労したのは資金繰りだった。出資金は一人30万円で、最終的に10人の出資者が集まり300万円。あとの足りない分は借り入れするほかなかった。都庁、商工会、銀行とまわったものの全部だめ。「主婦にはお金を貸しません」とはっきりと言われた。覚悟はしていたとはいえ、主婦の社会的地位の低さを思い知らされて、愕然とした。
生活クラブ生協の理事の方と一緒に、事業計画書を持って、三鷹の金融公庫に行き、ワーカーズ・コレクティブの説明をし、ひざづめ談判を繰り返し、甘いと指摘されたところは検討し直した。なにせ「減価償却」のことも分からなかった。出資者への配当など考えも及ばなかった。
「人件費の赤字は?」
「時給を下げて頑張ります」
「日商10万円はほんとうにやりきれるんですか?」
「やりきります」
強気の一点張りで押し通した。
日参したあげく、ようやく最後に連帯保証人を3人立てることで書類の提出ができると言われた。連帯保証人は、生活クラブ生協の理事の方が一人と、あとの二人はメンバーの夫を説き伏せた。
こうしてついに融資を取り付けることができた。
運良く店舗は掘り出し物の貸店舗が見つかった。後は勢いに乗って突き進んだ。店と工場のレイアウトはどうするのか。オーブンや冷凍冷蔵庫、ホイロなどの備品は新品にするのか中古にするのか、それともリースにするのか。オーブンはガスにするのか電気にするのか。お店のイメージはどうするのか。広報はどうするのか。生活クラブ生協との共同購入についてはどうするのか。パン作りの技術習得はどうするのか。
普通の主婦には、どれもかなり高いハードルだったが、次々とそれらを跳び越えて行った。それが出来たのは、主婦たちの知恵と根気と結束力。そして、生活クラブ生協のバックアップがあったからだ。

●食べ支える?
とにかくパン屋は開店した。1400万円もの借金を背負いこんでのスタートだ。自分達でパンを作り、宣伝し、販売して、その借金を返していかなくてはならない。
「はじめの頃は、パン作りの技術不足で、ずいぶんひどいパンを出していたと思うのですが、それでも生活クラブ生協の組合員の方たちが、「自分達のワーカーズのお店」が出来たと言って応援してくださって、ずいぶん食べ支えていただきました」
食べ支える? そんな言葉があるのを始めて知った。
主婦たちが自分達だけでパン屋をやり始めたのだもの、「多少まずくても、堅くても、焦げてても、なま焼けでも」いえ、そんなパンだからこそ、「私達が買わなくて、誰が買うの!?」
と思った人達が大勢いたなんて、実に感動的な話しだ。
「ワーカーズでなかったら、とっくに潰れていたでしょうねえ」
と、町田さんは苦笑された。

●天然酵母・国産小麦をめざして
天然酵母や国産小麦のパンを作りたいという思いが募ってきたのは、ようやくパンの技術が身についてきた頃だった。もちろん、そういう思いは最初からあったのだけれど、とにかく「パンを焼く」だけでもパニック状態に近かったし、とてもそれどころではなかった。
パンは生きものだから、相性や扱い方がむつかしくて、しかも奥が深い。週に一度の定休日が貴重な実験の日となり、毎週のように試作は続けられた。今日こそはと、祈るような思いでオーブンから取り出すのだけれど、レンガみたいなコチコチの食パンが、がんとして現れた。残骸を入れて持ち帰る袋の重かったこと!
商品化するなんて、夢みたいな話だった。
それでも、とにかく、あきらめなかった。電話をかけ、手紙を出し、資料を集めまわった。講師を招いて勉強会を開き、他のパン屋に修行に行き、北海道まで研修に出かけ、そこで江別製粉の「ハルユタカ」という国産小麦粉と巡りあった。
とにかく生地をさわって、どんどんさわってゆくうちに、自分の肌と目の感覚が少しずつ養われて、いつのまにか扱えるようになっていた。決してマニュアル通りにはいかなかったけれど、手をかけて手をかけて、根気よく仕込んで、とうとう手なずけてしまった。まさにパンは生きもの!

●広がる輪
こうして天然酵母・国産小麦は、「パンの家」にとって、「水戸黄門の印篭」みたいになった。アレルギーの子供を抱えるお母さんたちが買いに来るようになり、学校や保育園や病院の給食にも入れさせてもらった。
近くの農家の方が、「空いている畑を使っていいよ」と言ってくださって、保谷の畑で自分達で小麦を作った。それを北海道に送って、粉にしてもらって、その粉で焼いたパンは、「国産小麦」ならぬ「保谷産小麦」使用と銘打って売っている。
食にこだわる人たちも増えてきて、こういうパンが欲しいというお客様の声には、できるだけ応えるように自分達で開発して商品化していく。
そういえば、フジテレビの「笑っていいとも」にも出演し、「パンのデザインを考えるコーナー」で、タモリさん達に「こんなパンがあったらいいな」とアイディアを出してもらった。採用されたのは、「キムチ入りパン」と「タクアン入りパン」を合体させた「キムタクぱん」!(さすがにこれは商品化はされていない)それまで、なんとなくオバサンのパン屋を敬遠していた若い男の子たちも、それ以来、「テレビに出ていた店だぜ」と買いに来てくれるようになったそうな。
「パンの家」は、もう「食べ支えの店」ではない。パン屋を開きたいという人達が、「修行したい」と頼みにくるような店になった。そればかりか、他のパン屋さんからの問い合わせや、時には変装しての偵察も、結構あるらしい。

●後継者
「パンの家」から生まれたものはパンだけではない。
「パンの家・ぐれいぷ」で培った技術と経験を元手に、メンバーたちが独立して、5年目に東久留米で「プチフール」、6年目には三鷹で「ワーカーズ・コレクティブけやき」、という2軒のパン屋さんを開店させた。天然酵母・国産小麦のパンの技術と、主婦たちが自分達で事業を立ちあげるノウハウは、しっかりと受け継がれている。
10年目をめどに、「パンの家・ぐれいぷ」の立ちあげから10年間の貴重な記録や資料は、1冊の「白書」にまとめられた。その編集には4年を費やしたそうだ。
自分達がどういう仕事をしてきたのか、今後どうしていきたいのかを見直すために作られた白書ではあるけれど、それにもまして、これからワーカーズ・コレクティブを作ろうとしている人達や、パン屋を開きたい人達の為に、先に歩いた者としてなんらかの道しるべを残しておきたい、という強い思いがあったのだろう。
膨大な記録に目を通すと、「パンの家」の歩いてきた道が、手に取るようによく分かる。どこで曲がりくねり、どれほどの山坂があったか、道の小さなデコボコや、咲いていた草や花のことも・・・。
資料に至ってはあきれるばかり!なにしろパンのレシピまで載せているんだから。釜マニュアル、粉の配分表、原材料の取り寄せ先、ミキシングの工程表、酵母の作り方、人員の配置表、事業高の推移、すべての規約や規定の類い「ここまで書くぅ?」
ともあれ、役に立つことこの上ない。
さっきから私はこの原稿を書きながら、何度「白書」をめくったか知れない。取材だけでは足りない所も、「白書」で調べて、まるで「見て来たように」書いたりしている。

●対価
人に雇われない新しい形態の労働の場を、地域の中に作るのが目的で、「パン屋」は手段にすぎなかった。手段とはいえ、「パン屋」をやっていくためには、パン作りの技術獲得が目的となった。それにかけた情熱や努力は、並大抵ではなかったし、素晴らしい成果をもたらし、自信もついた。これで、めでたし、めでたしといけば、苦労はない。問題は次々と顔を現す。パンの技術獲得という目的をひとまず達成した今、問題は店舗経営の中身に移ってきた。
私達の取材の中で上田さんが、「ちょっと厳しい質問ですが・・・」と前置きして、次のような質問をしている。
「これまでやってこられて、みなさんは自分が働いた分の対価は得ていると感じていらっしゃいますか?」
創立以来のメンバーである町田さんは、即座に首を横に振られた。
「いやあ、得てないと思います。この不況の時期ですし、売上げは落ちています。そうなると自分達の時給を減らすしかありません。もちろん経営者ですから、それはしかたないことなんですけれど・・・。それ相当の対価を得ているとは、みんな思っていないと思いますよ」
上田さんはたぶん、その答えでは不十分だと思われたに違いなくて、すぐに追加の質問をした。
「でも、それに替わる何か満足みたいなものが、いっぽうではあるんでしょうか?」
「あるんでしょうねえ、それは。普通の会社だったら、自分の意見がすぐに実行というわけにはいかないでしょうが、ここではみんなが思っていることをどんどん言い合って、とにかくやってみようということになりますから、それが、出来たときの達成感はすごいです。たぶん主婦でいたら、出来ないようなことだと思うんですね」
最後の言葉が、私には気にかかった。

●主婦だからできるワーコレ?
ワーカーズ・コレクティブの中には、利益から月々の返済を払って、家賃や必要経費を払ったら、自分達の時給は300円なんてこともあるらしい。それでも、自分達で事業を起こして、自分達で働いて、自分達で借金を返して、「主婦でいたら出来ないことをしている」という満足感や達成感を得られれば、「ま、それで、いいか」ということか?
でも、考えてみれば、300円の時給でも「ま、いいか」って言えるのは、夫の収入という経済基盤があるからだろう。それに、「主婦がパン屋をやっている」というだけで、珍しがられたり、ちやほやされたり、大目に見られているところもある。つまり、事業をやっているのが「主婦」だという点で評価され、そこに集中的に意義を見いだそうとしている。私達が「パンの家」に取材に行ったのだって、そもそもは「主婦がパン屋をやっていて」すごいと思った訳だし。
これがもし、自分一人の収入で生活していかなければならない人や、ましてや家族の生活費まで稼がなければならない人だったらどうだろう。そういう人が「パン屋をやる」場合、パンを作って、売って、その収入で一家が生活してゆかなくてはならないのだ。毎朝4時に起きて、パン焼いて、人も雇って、それで一家の生活費を稼ぐのは、どれほど厳しいことだろうか。
ワーカーズ・コレクティブというのは、主婦の能力とか立場が、ちょうどぴったりと納まるように作られた箱みたいな気がする。生活費を稼ぐ必要のない「主婦だから出来る」のがワーコレであり、言い変えれば、収入がなくても生活してゆける「主婦にしかできない」のがワーコレだとも言える。普通の「主婦だったらできない」ことも、ワーコレの箱の中では、主婦は底力をみなぎらせて、実現させてしまう。

●主婦ではなく、プロとして勝負する
これからは、「主婦が事業を起こす」ことがちっとも珍しくない時代がくるだろう。いろんなバックアップ体制も以前より整ってきているし、13年前の「パンの家」の設立メンバーほどには悪戦苦闘しなくても、事業が立ち上がるにちがいない。しかし、今、もし「パンの家」みたいな「主婦たちのパン屋さん」を始めたとして、果たして13年前みたいに、「多少まずくても、堅くても、焦げてても、なま焼けでも」食べ支えてくれる人たちはどれくらいいるだろうか。簡単に事業が立ち上がってしまう分、世間の風あたりは強くなってくるに違いない。しかも、この不況のご時世だ。ただ「主婦だから」というだけで、ちやほやされたり、大目にみられたりする時代は、もうそろそろ終わりを告げるだろう。
パン屋はパンで勝負しよう! 主婦としてではなく、プロのパン屋として、同じ土俵の上で実力で勝負しよう。これからは、どんな個性や得意技を持っているかが問われる時代だ。
その点、「パンの家」はよく健闘している。天然酵母・国産小麦を扱いこなすという、他ではまだ真似できない素晴らしい得意技を身につけた。これは、何と言っても強みだ。原材料にこだわるので価格が多少高くつく分は、安全性と味で十分カバーできている。
5月27日の土曜講座で、私は「パンの家」の取材報告をしたのだが、その後の懇親会には、「パンの家」から買ってきたいろんな種類のパンを出して、食卓を賑わわせた。
「このパン、美味しい!」
「うん、これはイケルね」
ワインによく合う、しっかりとした天然酵母・国産小麦のフランスパン。くるみがいっぱい入った素朴な味のくるみパン。北海道の小豆を煮て作ったあんパン・・・。テーブルの上に十数種類ものパンが並ぶと、香ばしい香りが立ちこめて、なんかちょっとピクニックみたいで、心が弾んだ。

●問題の解決に向けて
「パンの家」の10周年に発行された「白書」を読んで、特に興味深い問題点を2点、最後に少しまとめておきたい。これは「パンの家」だけの問題ではなく、たぶん、どのワーカーズ・コレクティブにも共通する問題だと思うから。
ひとつは、リーダーシップの取り方のむつかしさである。ワーカーズ・コレクティブはワーカーズたち全員が同じように出資者であり、労働者であり、同時に経営者でもある。つまり10人のワーカーズがいれば、社長も10人いることになる。責任もリスクも全員が同じように負う。しかし、全員が同じと言っても、それぞれの能力は異なるのだし、適性もある。全員の意見が揃うことは難しい。仕事の分担、責任の分担がはっきりしないことは、ストレスのもとになる。経営者より労働者の立場を取りがちなのであまくなる。「失敗は仕方ない」と、つい「おばさん的発想」をしてしまう。経営者としての意識がなかなか育たない。
もうひとつは、メンバーの高齢化の問題である。物忘れが多くなる。会議で決まったことをすぐ忘れる。新しいことが覚えられない。機械が使えない。動作や計算が遅くなる。とっさの判断が鈍くなる。重いものが持てない。連日は働けない。視力や聴力が落ちる。がんこになる。人の意見に耳が傾けられない。集中力がなくなる。お茶の時間が待ち遠しい。
これらの問題に直面した時、「パンの家」のメンバー達は、時間を取って全員でワークショップを行っている。
まず、問題を明確にさせるための客観的な資料を作って、ワークショップに望む。ファシリテーターの指導のもと、数人のグループに分かれて問題点を整理し、対策を考えて、発表する。このワークショップは、実に効果的に思える。

第1の、リーダーシップの問題については、責任の所在をはっきりさせるために任期制で工場長を立てる。月当番を決めて、修理、卸し、受注、会議などを分担する。経営の勉強をしてゆく。事業の展望を話し合う。などの対策が取り入れられた。
第2の、高齢化の問題については、重労働ができないので軽労働部門を作る。長時間労働にならないように、一人分の時間帯を分けて働く。仕事の内容を限定する。外でのPR、後継者の育成、新人教育係、マニュアル作り、若いスタッフのハンディを助ける(早朝の出勤や子供のケアなど)、以上のような、年配者の長所や経験を生かした仕事の場を作っていく。また、本当は個人差があるのだが、年齢で区切って賃金を下げることや、請負制にすることなどを考えてゆく。などが解決策として挙げられた。
ワークショップを行うにあたって、その設計と実施は他の編集ワーカーズの方に依頼している。こうしたワーカーズ・コレクティブ同志の交流や連携は、閉息的、盲目的になりがちな集団に風を通してくれる。また、それぞれのワーカーズの能力や職種を組み合わせ、結集させ、ネットワーク化させることで、より総合的なプロジェクトとしての事業展開ができるだろう。
1つのワーカーズの問題をみんなで共有し、助け合って、一緒に解決してゆくことが、ワーカーズ・コレクティブの運動を広げる鍵になるような気がしている。

 

 

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