社会の中の科学技術と市民の役割

投稿者: | 2010年5月21日

2010年4月17日、私は内閣府&文部科学省主催の科学技術週間シンポジウム「科学技術の力による輝きのある日本の実現に向けて」にパネリストとして参加しました。

昨年末に、科学技術学術審議会・基本計画特別委員会は、第4次科学技術基本計画の策定に向け「我が国の中長期を展望した科学技術の総合戦略に向けて-ポスト第3期科学技術基本計画における重要政策 中間報告」(平成21年度12月25日)を発表し、それに対して一般市民からの意見募集(パブリックコメント)をこの科学技術週間にも行ないました。このシンポジウムはこのパブコメの意見も参考にし、日本の科学技術政策の今後のあり方をできるだけ幅広く俯瞰的に論じようとするもので、パネリストして研究行政にも科学技術論にも詳しい京大総長の松本紘氏や海外での教育経験の豊富な教授や准教授といったアカデミシャンに加えて、産官学を結んでのコンサルティング事業をすすめる方(株式会社「経営共創基盤」代表取締役CEOの冨山氏)や市民と科学技術の関わりをテーマとして活動する者(上田)が含まれているのが特徴だったと思います。扱うテーマがあまりに広いために、議論の焦点が定りにくかったのは残念でしたが、ピンポイント的にいくつかの有効だと思える手立てが見えてきたことは収穫だったと思います。

この原稿は当日の私の短いプレゼンテーション(5分ほど)を大幅に補筆したものです。

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●「社会の中の科学技術」という転回

 科学と技術はその発生も成り立ちももともとは違ったものですが、その端緒から社会的な営みという側面を持っていたと考えられます。しかし、それが社会に巨大な影響を及ぼすようになり、”科学技術”という一体化したとらえ方がなされるようになり、国家の営みとしてしても不可欠の要素になったのは、産業革命以降でしょう。「知的探求の本流」に根ざしたいわば個人的な営みが、「人間の欲望の実現」に寄与するイノベーションの原動力として体制化される(国家事業になる)--その変容が、産業革命以後250年ほどの間にすっかり定着したと言えると思います。しかし20世紀の後半になって、戦争、環境破壊、貧困や格差といった問題が深刻化し、そうした問題発生の基底に、開発と成長を生み支える構造の一部として科学技術があることへの反省の意識が生まれました。それを契機とした科学技術の総体の見直し・とらえ直しを、ここでは”転回”と呼んでいます。「環境」「持続可能性」が新しいイノベーションの対象に位置づけられ、医療や健康の面のみならず多くの分野で規制科学(レギュラトリーサイエンス)が不可欠となっている現状は、その”転回”の端的な反映だと思われます。リテラシーの面からみても、私たち市民科学研究室が提唱していることではありますが、”知る・学ぶ””身につける”段階からさらに踏み込んだ”自身で編集する・活用する””自ら調査する・問題解決につなげる”ことへの展開が期待されるようになってきた、と言えるでしょう。

【図1】

 ”転回”の時期に私たちがいることははっきりしてきたけれど、実際にそれがスムーズにかつ有効になされるには何が必要なのでしょうか。要は、環境・健康・安全……といった価値を優先しながら科学技術の研究開発や産業への応用を適切に方向付けることではあるのですが、ではそれをどう実現するかとなると、議論百出、まとめていくのは相当大変でしょう。

●”転回”を成功させる要件とは

 私がここで述べたいのは、市民の立場からするとどんな条件が満たされねばならないか、です。大まかに言うと、次の4つになるのではないでしょうか。

 【図2】

1)科学技術政策の形成における市民的関与

これは、政策形成過程がオープンであり、度合いは様々だとしても、(政策に関心を持つ)市民や市民の側に立って活動するNPOなどが、その形成に関わっていくことができる、ということを意味します。現行の”パブリックコメント”はそのごくごく初歩的な関与の回路ですが、ここ10年ほどで様々な試みがなされてきた参加型テクノロジーアセスメントの手法など、政策決定に直接関与しなくても、市民の側の意思をまとめあげ、表明していくことで、間接的に政策に影響を与えていく、といったアプローチも含めることができるでしょう。

2)科学リテラシー養成における市民の主体性

端的に言うと、「科学の学びが教室の中だけに留まっていてはいけない」ということです。自身の生活、それを成り立たせている社会のあり方のどこを変えていくべきかを見据えつつ、対象とする問題を理解しその解決を探るために、科学を学び、それを活用する、という姿勢です。これが、初等教育段階から打ち出されないと、将来的に、専門家や専門研究機関が発する情報を、上手に取り込んだり、場合によっては批判を加えたりしながら、自分の意見や判断を形成していく、という民主的な社会には不可欠な知的な対応能力を、市民が持てなくなります。

3)専門家と生活者の対話の促進:ナラティブ的アプローチや媒介者(媒介的仕組み)の活用

教育段階だけがリテラシー養成に関係するわけではありませんし、科学技術の恐ろしく幅の広い様々な分野を教育課程で全部カバーするわけにもいきません。現実に出会う状況や問題ごとに、それぞれに関係した専門家と向き合っていくことの中で、2)の主体性が発揮されなければならないのです。そのために求められるのが、専門知を持つ専門家と、いわば”生活知”を持つ素人を、問題解決に向けた場において、どう有効に交錯させるか(対話させるか)、ということへの配慮や工夫です。専門家や素人のそれぞれの問題の共有の仕方、知識と経験を語る語り方……それらを反省的にとらえ、改善を加えていくことだけでも、大きな前進を生むことがあるのではないでしょうか。

【図3】【図4】にみるように、「よい医療を成り立たせるには、医者と患者の関係はどうあるべきか」ということの分析は、専門家と生活者の間のコミュニケーション全般に対して示唆するとことが多いのです。

【図3】 【図4】

4)社会問題における科学の「不確実性」を「社会の漸進的相互学習をとおしての対応」(を支援・保証する仕組み)で受け止める政策的柔軟性

“トランスサイエンス”という言葉があります。「科学に問うことはできるが、科学(だけ)では答えることのできない」領域や状況を指す言葉ですが、科学技術が関わる社会問題の大半がこうした性格を帯びています。環境や健康のリスクに関わる問題で、ある因子の因果関係や影響の度合いを、調査や研究によってスパッと確定できることは、むしろまれだと言えるでしょう。どうしても残ってしまう”不確実性”に、なんとかうまく社会全体で折り合いをつけて対処していかねばならないわけです。そうした時に大事なのは、「誰も正解を持っていないけれど、皆で話し合いながら納得のいく対応策は決めていけるし、そうする中でより正解に近いものを探してもいける」という漸進的なやり方です。政策を実行する際に、それが仮に予想通りにいかなかった場合にはどう修正を加えていくかという条件をつけること、実行過程での評価的なコメントを広く受け付けて修正のヒントにすること、などは必須となるでしょう。こうした柔軟性は、やはり自然に生まれてくるものではなく、制度的な保証や支援があって得られるものなのだと思います。

●科学技術政策と市民~焦点的な4つの事例から考える

 具体的な問題に即して考えてみます。次の4つの焦点的事例を取り上げてみましょう。

【図5】

1)「事業仕分け」はなぜ科学者にとってショッキングだったのか

 これはひとことで言って、予算という抗いようのない明確な数字を通して、「何のための研究開発か」を世間から問い詰められたからです。まるで自分の縄張りに”部外者”にズカズカと入りこまれたような困惑、あるいは、予算執行機関と同業者の間では当然視されていて問い返す必要もなかった”我が研究の意義”を、窮地に追い込まれそうになりながら、イチから説明して防戦しなければならないことへの苛立ち、を覚えたことでしょう。しかし当然のことながら、研究資金の出所は税金であり、それには納税者への説明責任が伴います。国会で承認された予算枠組みに従い、厳格な審査をも経て、我々は研究費を得ているわけだから……というのはあくまで手続きの話で、これまで、研究費を受ける側から国民に対して直接に「納得してもらうための説明」はなされたことはなかった、と言えるでしょう。もちろん、直接の説明が不可欠だ、と私は言いたいのではありません。国民と研究者の双方がある程度まで納得しあえる、オープンで信頼の置ける予算決定のための何らかの方法やプロセスが必要だと考えるのです。その手がかりのうちには、たとえば次の2点も含まれるでしょう(『市民研通信』郵送版第1号のエッセイでこの2点を提示しています)。

ここでは詳細な議論はできませんが、今後機会をみて、こうした提案を専門家の方々や政策立案に携わる方々にぶつけてみて、より具体性・実効性のあるものを市民の側から提案できるようにしたいと考えています。

(1)分野、領域、課題といった単位で、その研究の社会的意義や他分野との連関を広く見通せ、一般市民や行政との対話や交渉にもあたることのできる、管理のプロを常置する。「研究課題管理者」(プログラムオフィサー/プログラムディレクター)がこれに相当するが、このプロをどう育て、どういう規模でどう全体的に配置するかは、大学や学会や研究機関を交えた協議が必要だろう。

(2)行政の側は、分野や領域ごとの予算の上限枠組み(年次の金額× 年数)だけを提示し、その分野や領域内でどう配分し、どのような成果をもって次につなげるか/つなげないかを決める判断は、研究者コミュニティ内部で決定するようにする。世界的に見て少ない予算枠ながら、その予算を自主運用で徹底活用して大きな成果をあげた、かつての宇宙科学研究所のような例は大いに参考になると思う。  

2)子どもたちは「理科離れ」しているのか

 この点については私は今まで何度も論じてきました。

例えば次のような文章を参照していただければ幸いです。
リビングサイエンス 生活を基点に科学技術を
開かれた理科教育に向けて

 結論を述べると、「日常経験を核にして、日常で遭遇する問題の解決や技術のよりより利用のために、科学知識を活用する」ことができるように、教える内容を再編し教え方を改変する、ことが必要です(【図6】)。

【図6】

 米国や英国で出ている科学の教科書が、日本の教科書と比べて、読みごたえがあり、単に学生だけでなく、一般市民がその学問を学び直すのにもふさわしい作りになっています(【図7】に日本語に翻訳されているもののいくつかを掲げました:ただし『ガリレオの指』は教科書ではなく、科学全般についての教養書としてずば抜けて面白くて教科書としても使えそうだ、という意味で入れました)。

 こうした教科書は、科学を文化として、そして社会の中の営みとしてとらえる視点があり、学問で身を立てようとする者に、「君は何を受け継ぎ何を伝えようとすることになるのか」というセンスを与えます。専門家が自分の研究開発している事柄の社会的意義を社会に向けて語る際に、このセンスが物を言うでしょう。それは、その専門家の語りを聞く側の市民にしても、こうした教科書から与えられる文化・社会的視点を持つと持たないでは、大きな違いが生じるはずです。

【図7】

3)科学技術はお年寄りを幸せにできるか

 これは、問題設定自体が奇妙に見えるかもしれません。でも高齢化がますます進行し、NHKの番組でも話題になった”無縁死社会”の様相を強めていくとすれば、科学技術がそれとは無関係であってよいという考え方そのものが問題視されるようになると、私は感じています。
 そもそも「お年寄り」とは何でしょうか。「加齢していろいろな生物機能が衰退しつつある存在」といったとらえ方は一面的です。この言葉には次のような含意があると思います。

【図8】

これら【図8】に記した共同体や風土といったことは科学技術の埒外と見なされてきましたし、ケアや人々のつながりが科学技術でどう変容してきたかはこれまであまり学問的な検討が加えられてこなかった問題のようにも思えます。今あえて、現在の科学技術がこうした文脈でどう機能しているかをまとめると、【図9】のようになるでしょう。

【図9】

 ここでは、「地域を真に活性化するイノベーションや産業振興か?」「地域の生態系や地域の風土の個性を生かす開発か?」「情報技術は地域のつながりをよりよくしているか?」「医師不足問題や自治体の病院の経営破綻を解決できるか?」「たとえば地域の科学館や博物館は地域に有効な学びと楽しみを提供しているか?」といった”地域”をめぐる問題が、科学技術の社会的活用の様々な面で浮上していることが見てとれます。

 お年寄りを不幸せにしない科学技術のあり方を想像してみるなら、これまでのように生産性・利便性・経済性・競争による成長……を偏重した位置づけではダメで、例えば【図10】に示したような、コミュニティでの共助を生み出すための協働や、それに必要な能力や意欲を醸成していくための学び合い・支え合いのしくみ、といった指向に合致する方向での科学技術が求められるわけです。

【図10】

4)原子力、遺伝子組み換え食品、携帯電話において”安心と安全”を阻むものは

 安心と安全に関わって根深い対立が続く、原子力や遺伝子組み替え食品問題をみるなら、科学技術政策がそれ自身でこうした対立の解消を射程に入れることができるものではなくて、例えば原子力ならエネルギー政策、遺伝子組み換え食品なら農業政策、そして健康や環境リスク面での政策などと相まって問題解決をはかっていくことになるのは明らかです。科学技術はどの省庁にも関係しての横断的な領域になりますから、その今後の方向性を決めるのには、その弊害が繰り返し指摘されてきた「縦割り行政」をどれだけ突き崩して横断的に物事を決めていけるか、が鍵となるはずです。市民科学研究室が取り組んでいる”携帯電話問題”しかりです。「電波のことは総務省の管轄です」ではすまない、電磁波の健康影響を含む複雑な社会問題が生じているのですが、科学技術政策の観点からみると、「この技術がもたらしてる問題をどう社会に認知させるか」「安全性・危険性の検証のための研究をどう組むべきなのか」といったことも視野に入れての政策を立てていく必要があります。

●「開かれた科学技術政策」のために

 政策形成と決定の過程を可能な限りオープンにしていくこと――情報公開の面でも、参加や関与の面でも――は、確かに、寄せられるだろう多種多様な意見をとりまとめ、最終的な決定に何を反映させればよいかで、いろいろな混乱や対立を生み出すかもしれませんが、”国民の目にさらされる”ことで、例えば研究費の無駄遣いといったいろいろなところで自浄作用が働くでしょうし、何より関連の行政府や研究者コミュニティに対する信頼度がアップします。事業仕分けはその意味で、一つの前進です。

 また、政策作りがどちらかというと官僚任せになってしまうのは、科学技術分野にいくらかでも見通しの持てる議員が極めて少ないという事情もありますが、研究者が自身で研究費をとって研究室を運営するようになるまでの段階で、科学技術政策について系統立った把握ができるように教育を受けるということがあまりにも少ない、ということにも起因しているでしょう。また、もし若手研究者が大学院生時代に、例えば『nature』や『science』のような雑誌の科学時事ニュース欄にほとんど目を通さない、というようなことがあるとするなら、やはりまずいだろうと思うのです。自分が携わる研究分野・領域の社会的動向を自分なりに把握しないでは、よりよい政策作りへの主体的な関与は望むべくもありません。さらに、市民の声を的確に受け止めて、政策にそれを反映させていくには、政治の仕組み、専門領域に関わる利害関係者(ステークホルダー)の布陣とその役割、その専門領域の世界的な動向……といったことにある程度精通する組織的な活動が必要とされますが、そうした仕事を担えるNPOなども、まだまだ少ないのが現状です。

【図11】

 いくつもの工夫を重層させて状況の改善に努めなければならないわけですが、例えば、【図12】に示したような、教育という回路からのアプローチもそうした工夫の重要な一角です。修士課程・博士課程の時期に、異分野の院生と「何故私はこの研究に取り組むのか」「この研究の社会的意義は何か」といったことで議論する機会を適当な頻度で持つことができれば、将来の”社会との対話”に向けた下準備として自分を鍛えることになるでしょう。

【図12】

 また、政策への波及と社会的信頼の醸成の両方の点から見て、有効だと思えることの一つに、学会の中にゆるやかな”内部告発制度”みたいなものを設けることがあります。研究開発に携わる大学や企業の研究者は、場合によってはいち早く、「世の中に、この研究の成果が製品化されるなりして出れば、何かやっかいなことや困ったことを引き起こすのではないだろうか」ということに気付く立場にいます。その研究は同業者の専門家にしか判断のつかない中身を含むことが多いでしょう。そこで、自分が所属する学会の担当窓口(社会部門)にその懸念や疑念を匿名で投げかけて、同業者からコメントをもらい、内部で検討する――そんなことができる仕組みを作っておくのがよいのではないか、と思うのです。内部での検討を経て、学会として社会に向けての見解をいち早く発信できれば、それは大いなる社会的貢献となるでしょう。

【図13】

 上に述べたことはあくまで工夫の一例ですが、【図13】にまとめましたように、科学技術に対する市民の支援や信頼を高めていくには、

(1)市民による、科学技術への評価に関わる、雑多で未分化だが自由な意見交換の<場>を、いろいろな形で設けていくこと

(2)それを仕掛け、整理し、対話を促すには、NPOなどの「媒介役」の役目が重要になってくるので、政策的にもそうした媒介役に対する何らかの支援があってもよいのではないか、ということ

(3)研究開発の場から問題点・意義付け・評価の発信ができるようになること、つまり研究を職業とする者が公共的主体としての自覚を深めていけるような機会や教育課程があること

(4)社会的に相当大きな影響力を持つだろう(あるいは現に持っている)技術に対して、市民、研究者コミュニティ、企業、行政などのやりとりをとおして、問題が深刻化する前に、適正な政策への示唆を集約していく、テクノロジーアセスメント的な活動がなし得るようになっていること

が必要だと私は考えています。

 科学技術政策の一角に、(1)~(4)のようなことを実現していくための施策が組まれるように期待したいですし、私たちもあの手この手を使って(1)~(4)のような取り組みを促進していきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。■

上田昌文(市民研・代表)

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