『新彰義隊戦史』および『彰義隊士の手紙』

投稿者: | 2024年7月18日

『新彰義隊戦史』および『彰義隊士の手紙』

 大蔵 八郎(彰義隊子孫の会事務局)

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この2冊の彰義隊の歴史書を、プロの歴史家でもない男が柄にもなく執筆した経緯とその際の人知れぬ苦労、そして著書の紹介を、との願ってもないご下命です。これに従うことは拙老の晩年期の歳月を回顧することになりますので己にとっても意味のあることになります。

 

本を執筆した経緯を語るには、その発端となった彰義隊のシンポジウムから始めなければなりません。そのシンポジウムを始めたのは「彰義隊子孫の会」の発足が端緒となりました。

40年に亘るサラリーマン生活を終え、年金で最低限暮らせるようになり、糊口の道を気にせず、好きなことに時間を割けるようになると、自分はどこから来たのか、ルーツやアイデンティティは何かを探りたくなるものです。毎年、上野彰義隊墓前祭に参集する彰義隊士の子孫、縁故者、研究者、有志者から「子孫の会」を作ってほしいという声があがり、平成29年(2017)の150回忌墓前法要を機に、代々の墓守である小川氏と、小川氏の先代にあたる御母堂と縁のあった拙老が共同で設立準備を始め、翌30年(2018)7月に正式に「彰義隊子孫の会」を会員10数名で立ち上げました(今は80数名)。この年、同時に「柳営会」と「万延元年遣米使節子孫の会」にも加入しました。万延元年(1860)の日本初の遣米使節一行77名の一人が曾祖伯父に当たる先祖で御徒目付を勤める直参の旧幕臣でした。

 

彰義隊シンポジウム

「彰義隊子孫の会」を設立すると今度は組織作り、つまり子孫への呼びかけをどうするかが問題となり、彰義隊の公開シンポジウムによる広報が提案されました。平成30年がちょうど「明治150年」の節目に当たる年であったため、安倍首相の山口県(長州)などで戊辰戦争の勝者に祝賀のスポットをあてることが流行りました。それはおかしい、勝者だけでなく、敗者たちへの顕彰と鎮魂も不可欠ではないか、上野戦争が、恩讐を越えた明治の国家統一と近代化への歩みの先駆けとなった歴史事件として、彰義隊の真実を発掘して日本史に加筆するのが今求められていると考え付き、拙老がこの企画を総合プロデュースすることになりました。話はとんとん拍子で進み、東大の安田講堂を予約でき、著名な小説家、歴史家など8名のパネリストが招聘に応じ、平成30年12月1日の「彰義隊の上野戦争~明治150年に考える」開催に漕ぎつけたわけですが、その途中で有難い奇跡が次々に起き成功に結び付きました。

その一つだけを紹介すると、シンポジウムの冒頭にすえた長唄人間国宝の岡安喜代八師の然諾でした。彰義隊士関弥太郎が箱館まで転戦後、生き延びて、明治になってから岡安喜平治を襲名して活躍するのですが、その流れを汲む喜代八師に、厚顔にも直談判で長唄の独唱をお願いにご自宅に参上しました。するとシンポジウムの趣旨を黙って聴いておられた師の眼の色が次第に変わり、その場で即座に、独唱ではなく、岡安社中を引き連れて、彰義隊からすぐに連想される「楠公」を演奏するというのです。となれば出費は半端ではありません。資金がないので、却ってこちらが辞退すると、何とボランティアだというのです。師は、このエピソードは機密にすることを望まれましたが、翌8月には長逝され、その後6年も経過しましたので、もうこの秘話を公開しても許されるでしょう。シンポジウム当日の冒頭、安田講堂に師のマイクなしの美声が響きわたり、囃し方の好演も加わり、大成功でした。

このシンポジウムは3時間半でしたが、パネリスト一人一人の短講演の前後に長唄と天心流兵法・鍬(くわ)海(うみ)師家の神無太刀(かんなたち)以下5本の演武を盛り込んだため、司会の身として時間のやり繰りに大変苦労しました。様々な組織への後援依頼、メディアへの通知、音響・照明・設備のオペレーション等々に加えての司会業でしたので、当日は目の回る忙しさでした。それでも子孫の会員や友人知人の助力の御蔭で何とか無事に終了することができましたが、一番の苦労は矢張りカネ。1000名の座席は満席にはなりませんでしたが、幸いに講師謝礼その外のコストを賄える入場料収入は得られました。

反響も大きかったのですが、一つだけ「歴女同盟」なるブログに出た意見をご紹介します。実際に視聴しないと書けないコメントで、これが来場者の平均的反応と思われます。

 

“戊辰150年という本年、記念に彰義隊シンポジウムというのに興味も湧きますわね。暖かでとても12月とは思えない。暖冬よね~、今年は。構内は学生ばかりじゃなく家族連れやカップルが大勢で晩秋の休日を楽しんでいる。さて、シンポジウム。

幕開けは彰義隊士関弥太郎が後年長唄の岡安喜平次として活躍したことに因んで、同社中・7世岡安喜代八、8世岡安喜八郎さんによる物語風長唄「楠公」の上演があった。物語風長唄というのは実は初めて。後半の「湊川の合戦」…「三時(みとき)にわたる合戦に 人馬の息を 休めけり」のあとの緩やかな乱調の部分を聴いていると、上野の戦場で、ふと敵の攻撃が止んだエアポケットのような瞬間、われに返って今まだ生きている、という確認と次の戦闘で俺は死ぬ、という予感、その恐ろしいような、醒めた興奮状態(?)というものを思わずにはいられなかった。この曲は明治35年に出来たのだそうな。箱館まで戦い、イバハチや中島三郎助の供養墓を建てた関弥太郎が維新後長唄を生業として、宴席や舞台でこれをやったとしたら、生と死のはざまの一瞬がここで蘇る事はなかったのだろうか。

パネリストは8名。

お一人お一人、素晴らしい方で、持ち時間15分という中で興味深いお話もあった。が。ちょっと、人数多かったかなあ(^-^;

総花的に各立場での参集であるので、どうしても旧幕と新政府軍という話に飛びやすくて、「彰義隊」へのフォーカスが甘くなってゆく気がした… パネルディスカッションまで行かず、残念。

森まゆみ先生が労作「彰義隊遺聞」をしても、彰義隊の編成や調練の模様など、分からないことが多い、はっきりしない、という。

東叡山現龍院前住職浦井正明先生は彰義隊という立場の不憫さをおっしゃった。明治7年どころか45年まで新政府からは許されなかった。将軍はさっさと許されているのに、である。今彰義隊墓所にある碑文も検閲されて、削除の憂き目にあい、というところに彰義隊の彰義隊たる意義もありそうな気がする。

上野に立て籠ったのもそれぞれ違った立場、考えであったのに、そこに居たという事で遭遇する大きな事件、という捉え方を語られたのは先年の映画「合葬」を撮られた小林達夫監督。無自覚、無防備というのが若者ではあるけれども、である。…だから飛び込んでいけるともいえるけれども、変革の波にも、事件にも巻き込まれてゆくことをどう考えるか、というのは今後の世界の動向にもかかわってくるところよね。

慶応4年正月から飛ぶように売れた風刺錦絵に江戸っ子たちがいかに世相を見ていたか、幼い天皇を担ぐ長州と会津が戦をするんだ、と読み取れる、という指摘を森田健司先生がされたのには会場は全く納得、という雰囲気だった。

大村益次郎はイメージ先行であり、きちんと研究がなされて来なかった、靖国神社にある像にみる兵学者ではない地元では教育者としての功績を大事にしたいのだ、というのが山本栄一郎先生である。

上野戦争はなぜ起きたか、避けられなかったのか、と最後に補足として語られた桐野作人先生の話が実は私は今回最初に語られるべきではなかったのかな、という気がする。

徳川家処分がまだ決定を見ていない、これがどれだけ大きな意味を持ってくるのか。これが決定していれば彰義隊も軟化して違った形で終結したかもしれない、でもそうはならなかった。 そして上野の戦争とは何だったのか、彰義隊とは何だったのか、という彰義隊の各論へと繋げて欲しかったような…

豪華キャストで面白いお話もあり、改めて知ることもあり、有意義でした~。…ディスカッションがあればもっと良かったなあ。”

 

『新彰義隊戦史』の刊行

このブログにも書かれたように、シンポジウムでのパネリストの方々は持ち時間が15分であったため、思いのたけを言い尽くすことが出来ませんでした。そのため、次のステップとして、その足りない部分を補い、または必要な修正を施す必要から彰義隊の出版を目指すことになりました。パネリストの発言を再構成し(第4部)、パネリスト発言のまえに、彰義隊の歴史を辿り(第1部)、彰義隊の群像を描き(第2部)、彰義隊の余波として江戸文化との関わり、歌舞伎などのドラマへの影響を、その発言の当然の前提となっている基礎知識として提示し、さらにパネリスト発言のあとに彰義隊残党の箱館戦争を綴りました(第5部)。彰義隊の重要な関連知識を追加して、彰義隊の全貌と実像を分かり易く浮き彫りにしました。パネリストの発言を文字起こししてくれるボランティアが現れたことも大いに幸いしました。

 

出版は初めての経験でしたが、ここでも話は順調に運んだのです。本は原稿が出来れば作れるというものではありません。出版社に頼まなければなりません。知人の伊豆下田での講演会「不平等ではなかった下田条約」で出会った勉誠出版の営業部長が社長を紹介し、社長に本の企画書を示したところ、出版不況の中で、何と引き受けてくれたのです。ただ無名の退職サラリーマンの書いた歴史書を流石に商業ベースでは引き受けません。いわゆる協力出版という奴で、資金だけは協力金の名目で著者が負担する代わりに、それ以外の校正、編集、製本、配本、書店流通、広告・宣伝等の全てを出版社がやってくれる方式です。

結局、ここでも成功したのは、シンポジウムの時と同じような奇跡に近い事がいくつも起きたからですが、紙面の都合から、その一つだけ紹介します。ここでも問題はカネでした。年金生活に入り、わずかな老後資金の虎の子に手を付けるわけにはいきません。クラウドファンディングでも始めようかと考え始めていた時のことです。このエピソードは本の跋文で謝意を書いていますので本稿で公表しても構わないでしょう。

拙老は現役時代、学卒で入った会社で四半世紀過ごしたのち、転職してカナダに駐在し、リコール事件、所得税追徴事件の訴訟を2件とも成功させ、その功を評価してくれた本社のCEOから社長賞を貰ったことがありました。退職後も縁が切れなかったのですが、ある日、久しぶりに訪問して、この企画を退職後の夢として最高顧問となっていた元CEOに打ち明けました。すると、岡安師の時と同じことが起きたのです。拙老の夢に共鳴した最高顧問は「いくら必要なのか?」と問いました。正直に額を申し上げると、即座に「よし、出そう」となったのです。

拙老は多少の企業法務の経験と蓄積がありますが歴史はもとより素人です。しかし法務の実践と歴史の研究とは全くの異分野ですが、互いに密接に関係することに、足かけ六年に亘る素人なりの本格的な彰義隊と幕末維新の研究を重ねることで、気付きました。両者とも複雑な利害関係のなかで関係者がどう行動すべきか、どう行動したかを扱うものであり、調べ、考え、その結果をコトバに表すという知的営みでは共通します。法務が利害関係を現在時点での横の広がりで押さえるとすれば、歴史はこれを過去の時間の縦の流れで捉えます。法務に限りませんが、実務で、取り分け国際訴訟など切った張ったの厳しい現実世界を経験しておくことが、過去の歴史を肌身に感じ、その結果を記すためには不可欠でした。大学卒業後直ちに好きな歴史の途に進まず、企業法務で回り道したことが寧ろ幸いしたのです。

 

『新彰義隊戦史 附・「彰義隊名鑑」「彰義隊文書」』(ISBN:978-4-585-22285-9)は、令和2年(2020)11月に勉誠出版から刊行のB5判・上製 666 頁、定価7,000円の大型本で、大藏八郞編としましたが、正しくは大藏八郞「編著」とすべきでした。初めての出版でしたので、3度も全頁の校正を重ねましたがアチコチにミスが見つかり増刷時には全て正すつもりで、その時には大藏八郞編著となります。というのは、本著は、何人かの彰義隊子孫の会会員にご自分の先祖やよく知る彰義隊士を分担執筆して頂きましたが、それは全体の半分にも満たず、それ以外の記述は拙老によるものだったからです。

 

明治以来、彰義隊を扱った書籍、資料は多いのですが、明治43年に出た山埼有信の『彰義隊戦史』は彰義隊研究の不朽の金字塔とされます。百年余りが経過した令和2年に令和版の『彰義隊戦史』として、『彰義隊戦史』の後継書として、今後百年に亘って読み継がれる史書とすべく子孫、研究者22名の参加を得、新知見を加え、写真、図版200点余を駆使して彰義隊を可視化しました。慶応4年(1868)5月の上野戦争で、江戸の全市民から熱狂的エールを受けながら、わずか一日で敗退した彰義隊は明治期のマスメディアで「幕末の花」と謳われましたが、大正、昭和、平成と下るに従い、日本の正史となった薩長官軍史観によって幕末維新史の彼方に葬り去られてきました。以下が発売時の謳い文句でした。

「彰義隊の歴史、隊士、縁者の人間像、そして映画・演劇・絵画への波及などを幅広く紹介。さらに生存隊士と子孫の証言や一次史料、関連資料を解析し事実と照合。その実態と全貌に迫る待望の書!」

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