【連載】日中学術交流の現場から 第19 回
市民科学と臣民科学―西光万吉の科学観を中心に(1)
山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)
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はじめに
この連載において日本においては、戦前においても「民衆のための科学」というながれがかすかにではあるが、存在したことを見た。
その担い手は、欧米に留学した科学者たち、すなわち生物学者の神田左京氏、のちに満鉄中央試験所の所長となる九州帝国大学工学部応用化学教授だった丸沢常哉氏であった。ほかにも九州帝国大学医学部教授の宮入慶之助氏、九州帝国大学工学部地質学科教授の河村幹雄氏らが協力者として存在していた。他には、佐藤定吉という東北帝国大学工学部応用化学科の教授も協力者であった。神田左京は1920年代の大正デモクラシーといわれる時代のなかで官立の理化学研究所に対抗し、民衆立研究所を設立し、新しいタイプの科学者を養成しようと提唱して丸沢氏、宮入氏、河村氏、佐藤氏はそれに賛同した。
ところが、丸沢氏の万有還銀術のスキャンダルの影響で民衆立研究所の設立は、流れてしまう。そればかりか1930年代から1940年代にかけて天皇制国家が、彼らを包摂し、神田左京以外は、市民ではなく臣民を主体にした科学を提唱していくことになった。
臣民科学とは筆者の造語であるが、こうした事態をとらえる必要を感じてつくったものである。
この関連で見ておきたいのが、西光万吉という人物である。
西光万吉は、日本の被差別部落出身で1922年の水平社宣言の起草者として知られている。
部落解放運動史のなかで外すことのできない人物である。
西光は、科学者ではないが、部落解放運動関係者の中では突出して自然科学には強い関心を持っており自然科学について多く発言していた。
この側面は、ほとんど知られておらず、先行研究も皆無だが、ここでは西光万吉の科学観に焦点をあててみたいと考える。その前に西光の生い立ちと社会思想、水平社宣言の問題点などについて述べる。
水平社宣言は、日本における最初の人権宣言だと称賛されることが多いが、実のところ天皇制や植民地支配を否定しないところから書かれた宣言である。
とりわけ日本の市民科学者は、このことに自覚的でなければならない。
1.西光万吉の生い立ち
水平社の創設者の一人、西光万吉は、1895 年 4 月 17 日に父、清原道隆、母コノエの長男として生まれている。本名を清原一隆といった。父親は橿原市の善光寺で 1850 年に生まれ明治維新のころには西光寺に入寺していたという。
西光は、1905 年の 3 月に小学校を卒業し、御所高等小学校に進学したが、そのころから西光は、部落差別を強く意識するようになったようである。
奈良県畝傍中学校(現・県立畝傍高校)に入学するが、露骨な部落差別があったようである。
西光は、部落差別に悩み、1910 年 6 月 23 日に畝傍中学校を中退する。
翌年の四月には京都の西本願寺に近い私立平安中学(現・平安高校)の二年に転入した。
だが、そこでも部落差別のため登校拒否に陥り、依願退学をし、1913 年には、上京し太平洋画会においては洋画を、日本美術学院では日本画を習っていた。だが、そこの下宿でも部落出身が、ばれそうになり言葉を失う経験をしている。兵役検査のために 1915 年に一時帰郷しただけで西光は再び上京する。
「この間、絵画の練習は次第に消極的となり、読書が主となり、親鸞の信仰を伝えた『歎異鈔』からマルクスの『共産党宣言』にいたる種々なる書物を濫読した。」「略歴」と述べている。西光は、文学、宗教、芸術、歴史、自然科学など幅広く読書していたようだ。やがて 1918 年秋、失意のうちに阪本清一郎と故郷に帰っている。
1914 年にヨーロッパで始まった第一次世界大戦と 1917 年ロシアで起こった革命が世界に与えた影響は、決定的といってよいほど大きなものだった。
1919 年は、日本の植民地支配からの解放を求めるアジアの民族自決運動すなわち朝鮮民衆による 3・1 運動や中国民衆による 5・4 運動が、高揚していた。だが、西光らは、この民族自決運動に関心は示さず、それらに応答しようとした形跡は、ほとんどみあたらない。日本の知識人でもこの民族自決運動に応答したものは極めて少なかった。[1]
日本国内では、大正デモクラシーの影響のもと社会運動や労働運動や農民運動がおこり「普通選挙制」実現のため社会問題への関心が高まっていた。
1919 年夏に西光ら四人は、キリスト教伝道師の賀川豊彦[2]宅を訪問し、消費組合に教示を受けていた。
1920 年には日本社会主義同盟会に参加し、堺利彦や山川均ら日本の社会主義者とも交流した。
しかし、1921 年には、西光は、出口を見いだせず絶望し、自殺こそ最高の文化だと述べるようになっており、僧侶の三浦大我を心配させた。その年の 7 月西光は、佐野学の「特殊部落解放論」に出会い直ちに上京し、早稲田大学に佐野学を訪ねている。
ここで西光は、佐野の論文で融和主義の限界を悟り、被差別部落民自身による解放運動を起こさなければならないと考えるようになる。
それが水平社創設へとつながるわけだが、この水平社という名前は阪本清一郎によって発案されたという。阪本は、「私は前に満州にわたるとき、黄海の上で果てしない水平線上から上がる太陽を眺めたときのイメージがあった。」と述べている。[3]水平社創設メンバーの中では、阪本だけが満州渡航を二度経験していた。1910 年の勘当されたときと 1916 年夏の「満州工業視察」のとき(『明治の光』(1916 年 12 月号))であった。[4]
2.水平社宣言と西光万吉の社会思想
1922 年 3 月 3 日に京都岡崎公会堂で宣言された水平社宣言は、「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」ではじまり「われわれがエタであることを誇りうる時がきたのだ。」と述べていた。
当時、ただ被差別部落に生まれたというだけで就職や結婚のとき差別される、そのような理不尽な状況におかれた日本の被差別部落民衆が、行政の同情によってではなく被抑圧者自らの力で解放を勝ち取ろうとすることは、大きな前進を意味していた。
「エタ」という部分には点が打ってあった。これはおそらく西光万吉によってであろうが、
「エタ」という差別語を逆手にとって「われわれがエタであることを誇りうる時がきたのだ。」と書いたところにこの宣言の意義が凝縮されている。ここには弁証法がある。解放とは被差別部落民が、一般市民と同じになるということなのではないと宣言しているのだ。
この意味でたしかに日本の部落解放運動にとって水平社宣言は、第一の転換点であった。
しかし、水平社宣言を無条件に人類の人権宣言と肯定することには問題があるだろう。
水平社宣言で「男らしき産業的殉教者」といった女性が含まれていないかのような言葉が、使われていること、さらには日本が植民地にしていた地域の民衆のことが視野に入っておらず、植民地支配を当然の前提として宣言が書かれていたことを問題点としてあげることができよう。
金静美は、『水平運動史研究―民族差別批判』(現代企画室、1994)において水平社宣言が被差別者自身の手によって解放を勝ち取ろうとしたことを前進と評価しつつも「「宣言」は冒頭部に 1848年に発表された『共産党宣言』の末部の「全ての地域のプロレタリアよ団結せよ!」の語句をかえた「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ」と言う言葉が置かれ、「長い間いじめられてきた兄弟よ、過去半世紀間に……」がつづき「人の世に熱あれ、光あれ」という言葉で終わっているが、どこにも「過去半世紀」の日本の植民地支配に対する批判が書かれていない。この「宣言」の「人間」には日本人に支配され、虐待されてきた植民地の民衆は含まれていなかった。「宣言」には「吾々の祖先は自由、平等の渇信者であり実行者であった。」という言葉があるが、この「吾々」は日本に支配されている植民地の民衆の苦しみとたたかいにたいする共感も日本民衆としての自責の感情ももっていなかった。」[5]と述べている。
この金静美『水平運動史研究―民族差別批判』(現代企画室、1994)は、1990 年代において部落解放運動史の研究のなかでもっとも衝撃的な仕事の一つであった。
金静美は、この書において全面的な日中戦争開始以後、全国水平社指導部が、被差別部落民に天皇制を支持させ被差別部落民衆をアジア侵略戦争に扇動し、皇民運動とともに日本ファシズムの民衆支配を推進する役割を果たしていたことを膨大な資料によって実証的に明らかにし、民衆の解放の意味そのものを問うていた。
なぜ、日本の部落解放運動の担い手たちは、1919 年の朝鮮民衆の 3.1 運動や中国民衆の 5.4 運動などのアジアの民族自決運動には応答せず、いとも簡単にアジアへの侵略戦争に「勝利」することによって被差別部落民の「解放」を勝ち取ろうとするようになっていったのだろうか。
[1] 渡辺一民『他者としての朝鮮―文学的考察』(岩波書店 2003),7 頁。
[2] 賀川豊彦もまた「満州国」に日本の被差別部落民衆を送り込むことに「貢献」するようになる。たとえば、加藤陽子、佐高信『戦争と日本人』(角川選書,2011 年)138-139 頁。
[3] 『荊冠』(1972 年、第 66 号)
[4] 宮橋国臣『至高の人西光万吉』(人文書院 2000 年),102 頁.
このこと自体、水平社が植民地支配を前提にしていたことをあらわしているように思われる。満州工業化のための中心的な試験研究機関、満鉄中央試験所に関して拙稿「満鉄中央試験所の歴史から考えること」『善隣』(善隣協会 2015)を参照。
[5] 金静美『水平運動史研究―民族差別批判』(現代企画室、1994 年),47 頁。
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