書評:『日中未来遺産―中国「改革開放」の中の“草の根”日中開発協力の「記憶」』(岡田実・著、日本僑報社、2019)
日中未来遺産にかかわる市民技術者の記憶を発掘した貴重な書
山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者)
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本書は、中国「改革開放」の中の“草の根”日中開発協力における市民技術者を扱っている書である。
「はじめに」では、本書の著者の問題意識が書かれている。
十分に研究されてこなかった改革・開放のなかの日中開発協力の「記憶化・記念化」はどのような役割を果たしうるのかという著者の問題意識である。
「改革開放の40年の記憶は「戦争の記憶」と「日中開発協力の記憶」は、日中関係の歴史において「戦争の記憶」と断絶しているわけではない。
むしろ「戦争の記憶」と「日中開発協力の記憶」は有機的に絡み合い、実質的に日中戦後和解プロセスの一部を形作っているのではないか。」(11頁)
と著者は注意を促す。
著者は、記憶に関し小関隆編『記憶のかたちコメモレーションの文化史』(1999)に依拠し「記憶とは、ほとんどあらゆる人々が、過去に対して抱いた知や思いのアンサンブルである。こうした記憶の営みは、いずれも表象行為である。すなわち数知れぬ過去の出来事の中から現在の想像力に基づいて特定の出来事を選択し、呼び起こす行為、表象を媒介した再構成の行為である」と定義する。
そして次のようにも言う。
「記憶とは過去の出来事の単なる貯蔵庫ではなく、現在の状況に合わせて特定の出来事を想起し、意味を与える行為として理解しなければならない。記憶はそれゆえ、その担い手である現在に生きる人間、そしてその人間が所属する様々な集団のアイデンティティと本質的に絡み合っている」
「雑多な記憶のうち、当該の共同体の共同性を有効に保証する過去の認識として広く認知されたものが「公共の記憶」である」(11頁)
「記憶化とは無数の忘却に抵抗し、特定の出来事を選択し、想起し、意味を与える共同体の積極的な行為にほかならないであろう」と著者は書く(11頁)。
この議論を踏まえ本書においては、「記憶化・記念化」を公共の記憶を保持する一環として行われる「ある歴史的出来事を記念・顕彰する行為」=「コメモレーション」として論じている。
次にこれまで必ずしも十分に研究が進んでこなかった第二の課題として、改革開放における「民間ベースでの“草の根”日中開発協力」がある。そうした先行研究は、見当たらない。
そして「こうした草の根活動に対し、中国政府は、中央、部門、地方の各レベルで表彰を行っているが、そうした活動を詳細に跡付け、分析した本格的な研究は極めて少なく、個別の評伝や事例紹介にとどまっているものが多い」と指摘する。
本書は、これらから一歩踏み込んで「記憶のコメモレーション」の視点から四つの事例が紹介されている。そのうち三つの事例が日中“草の根”開発協力における市民技術者といえる人物にあたる。
『市民科学通信』において本書を紹介するのは、そのためである。日中の“草の根”開発協力において重要な仕事をした市民技術者といってよい人間が、本書で紹介されているからに他ならない。
いずれも日中共同で記憶されるに値する市民技術者である。
第一章は「藤原長作、五千人の遺骨が「日本人公墓」に眠る方正県で、寒冷地での稲作技術を中国に伝えた日本人のコメモレーション」と題されている。
「戦争のコメモレーション」「国際人道主義のコメモレーション」「開発協力のコメモレーション」の三つのコメモレーションが共存する記憶の場として黒龍省方正県での藤原長作の寒冷地稲作技術協力を紹介している。
中国側の「戦争のコメモレーション」の事例としては、植民地統治期における「抵抗と被害のコメモレーション」そして1994年8月から江沢民らによって開始される「愛国主義」のコメモレーションに言及される。中国側のコメモレーションのほとんどは、これらによって占められているという。
しかし、ここではこれらとは別の異彩を放つコメモレーションとして「国際人道主義のコメモレーション」「開発協力のコメモレーション」について紹介されている。
「国際人道主義のコメモレーション」の事例としてあげられるのは、方正県における日本人公墓の事例である。方正県と聞いてもなじみの少ない人が多いと思うが、黒竜江省の一地域で1963年に5000人近い日本人の公墓が、周恩来の指示によって建設されたことで知られる。
1932年に「満州国」が建国されると方正県もその支配下に入り、方正県には、四つの日本人開拓団が入植する。開拓民たちは、松花江沿いの地域を中心に23の村を建設し、2133人が、入植したという。
もともと中国の土地であった旧満州に国策として入り込んだ開拓民は、1945年の夏、ソ連軍の旧満州への侵攻、それに続く敗戦の知らせと同時に祖国を目指して逃げ惑い、難民、流浪の民と化した。人々は、零下40度という厳冬の酷寒にさらされ、飢えと栄養失調、発疹チフスなどによってこの方正の地で息絶えていった。
方正県にいけば日本軍(関東軍)がいるという思いで方正県にやって来た開拓民たちは、関東軍が、すでに自分たちを見捨て、逃げ去ったことを知ることになった。関東軍は「満州国」の居留民の生命、財産を守らず、逃げていたのだった。
方正県は、ハルピン・ジャムスをつなぐ要衝の地であったため、ここに押し寄せた避難民は、15000人はいたという。そのうち5000人は、日本に帰国することができたが、5000人は亡くなり、ほかの5000人は、方正県に残ったという。
数千人いた日本人女性や子供は、中国人の家庭に引き取られていた。
一方、方正県で死んだ人たちの遺体は、1946年2月、三日三晩かけて焼かれたという。
その17年後の1963年当時、飢饉で中国人民は、苦しい生活を強いられていた。このような中で植民者である日本人の遺骨の埋葬し、公墓を建設するというのは、異例のことであった。この背景にあったのは、民衆と軍国主義者を区別する軍民二元論であった。
戦争の責任は一部の軍国主義者にあるのであって、民衆にあるのではないという考え方である。この二元論を背景として方正県の邦人残留者が、中国人家庭に受け入れられ、日本人公墓が建設されることになった。この出来事は、日本人側にとっては、中国の「国際人道主義」の発露と感じられるものであった。
藤原長作という人物が、この方正県を訪問するのは、改革開放の始まった1980年のことだった。藤原長作の経歴は、現地にある藤原の記念碑に書かれている以下の文章からもうかがうことができる。それは以下のようなものであった。
「藤原長作(1912年12月2日-1998年8月7日)日本国岩手県沢内村出身。
1981年から1998年まで、古希の年をもって中日友好事業に身をささげ、前後6回、自分から望んで、自費で方正に来訪し、無償で寒地水稲乾育栽培技術を伝授し、方正権と日本国との科技交流の成功モデルとなった。
その後、沢内村村長太田祖電の推薦を経て、佐々木寛、有馬富雄が、方正で水稲超稀植試験を進め、藤原長作水稲栽培技術をさらに豊富に発展させた。藤原長作には「方正県栄誉公民」が授与され、黒龍江省科技貢献奨、中国国際合作奨を獲得した。」(25頁)
ここでは「自分から望んで、自費で方正に来訪し、無償で寒地水稲乾育栽培技術を伝授し」というところが、ポイントであろう。1981年から無償で稲作技術を伝授しに行っていたこういう日本人がいたのである。中国東北部の黒竜江省はもともとはトウモロコシや高粱などの穀物の栽培が主流であって稲作は、ほとんどなされていなかったというのが、実際のところである。朝鮮人が、稲作を伝えてはいたが、まだ寒さに弱いという弱点をもった稲作だった。それを克服する試みが1981年から日本人の手で始まったということには日中民間交流史上、大きな意味を持つものであろう。
さらにこのことを裏付ける以下のようなエピソードを岡田氏は、紹介している。
「1981 年 4 月に藤原が最初に方正県に着任した際、県政府が準備したのは県の招待所であった。これに対し藤原は、「私のことを気遣って大事にしていただくのは、とてもありがたいけれども、わたしは百姓をしにきたのです。泥まみれになりにきたのです。こんな立派な招待所に入っていては、百姓はできない。だから、生産大隊の誰かの家に、泊まり込めるようにしていただきたい」と申し出たという。
最初は戸惑った県政府であったが、藤原の決意が固いことから宿舎探しを始める。白羽の矢があたったのは、杜萌武氏であった。1980 年代は農村の大部分は藁ぶきの家であり、当時富余村の最もよい三間の家は杜萌武の家であった。日本人を「日本鬼子」とみていた彼は最初は拒絶したが、政府が状況を説明したことによりようやく藤原を受け入れたのである。」(郭相声他『藤原長作先生在方正』21 頁)
招待所が立派すぎるので、普通の中国民衆の家に泊めてほしいというような人はまれであろうし、上から目線でない本当の意味での日中民間交流とは、こういうものではないだろうか。藤原長作は、小学校卒の学歴の東北農民である。その経歴は異彩を放っている。
中国側もその藤原氏の決意に打たれたのか、藤原氏を受け入れていくことになる。
そして藤原長作の稲作技術の伝授は、「漸進主義」のやり方で次第に広がっていく。
岡田氏はそのことについてこう書いている。
「中国における改革の進め方の特徴として、まず「試点」を作り、そこでの成功体験を徐々に広めていくという「漸進主義」が挙げられるが、藤原の技術協力展開においてもこの方式が採られていた。
藤原を受け入れるにあたって、現地の農民が最も懸念したことは、試験が失敗した場合の損失であった。県の科技委は、もし試験に失敗したら、同等の水稲の産量を賠償すると約束することによって、ようやく農民との合意を得ることができていた。」
しかし、藤原長作の試験は失敗することはなく計画は進展していく。
さらに 1984 年の新春になると、3年間で成果を確認する計画を立て体制を整えていく。
そして、藤原氏は、自ら方正県以外で稲作技術協力を積極的に展開することはなかった。
しかし、方正県の増産成功により、同技術の成功経験を他の地域へ普及することは、自ずと方正県の重要な任務となっていったという。
方正県委、県政府は、藤原の成果を全国に普及することを決定し、1984 年から1993 年まで、方正県は毎年百名余りの水稲技術員を県外に派遣し、技術を伝えていく。
方正県の水稲技術員が短期間で藤原の技術を吸収し、全国の貧困地区に赴いて藤原から伝授された技術を着実に普及していったことを岡田氏は、特筆すべきものとみている。
著者によれば郭相声他『藤原長作先生在方正』の白眉は、藤原長作が、1980年に訪問団に一員として方正県を訪れ、日本人公墓で犠牲者の追悼後、農業科学技術交流会の場で技術協力を申し出た場面であるとされる。藤原はベチューイン(抗日戦争に参加し、殉職したカナダの医師)と重ね合わせて、自らは日中戦争に参加はしていないが、農業技術をもって侵略戦争の償いをしたいと率直に述べたのだった。このことが中国側を動かし、翌年から藤原長作は、中国滞在し稲作技術を広めていくことを認められるようになるのである。
「コメモレーションが、戦争一色となり「国際人道主義」「開発協力」とのバランスヲ著しく欠くことは、健全な日中関係の発展にとって望ましいことではないからである」(49頁)と著者は考えているが、方正県は周恩来による日本人公墓建設、藤原長作による稲作技術の導入という戦争・国際人道主義・開発協力のコメモレーションの「共存空間」が成立した特別な空間となっている。こうした「共存空間」を通じ、戦争から国際人道主義、さらに開発協力へと連なる「公共の記憶」が醸成されることが著者の見立てである。
第二章は「原正市―中国全土の米増産に貢献し、「洋財神(外国から来て懐を豊かにしてくれた神様)」と呼ばれた日本人のコメモレーション」と題されている。
ここでは中国で活躍したもう一人稲作の農業技術者の原正市氏の例が紹介されている。
原正市氏の経歴は、中国湖南市長沙にある記念碑にある以下の文章から読み取ることができる。
「原正市先生、水稲専門家、日本北道岩見沢の人、1917年8月27日生まれ、1938年北海道帝国大学農学科卒業。岩見沢水稲試験場所長、北海道庁首席専門技術委員。1982年から原正市先生は、黒龍江省のなどの北部省で水稲畑作移植栽培技術を伝授。1991年湖南省、劉陽市の試験栽培に成功し、当該技術は、長江を渡り、中国の南方に迅速に普及していった。およそ16年間、原正市先生は年齢を顧みず、その足跡は、26省、160あまりの市県、中国での仕事をした日数は、累計1600日に及び、中国の水稲増産と中日友好のために重要な貢献をし、中華人民共和国国務院総理栄誉奨、農業奨および国家科技国際合作奨を獲得した。特に銅像をつくり、以って志を記念する。」(57頁)
中国側の出版物による原の紹介では、原は戦争時、河北の日本病院で仕事をしており、もう少しで侵略日本軍として中国の抗日武装勢力によって捕獲・殺害されるところであったが、身分がわかり釈放されるという経緯が紹介されているという。
また、原にとって戦後最初の中国との接触の機会は、1978年の中国農学会との約束に基づき、「完全機械化北海道農業プロジェクト計画」を中国側に説明すし、その設置を説明するのが、訪中の目的であった。
訪中団の一団員であった原は、その後、積極的に農業ボランティアを行うようになっていくがそのきっかけとなったのは、遼寧省鉄嶺訪問時に原の足元で湯を張り、足をタオルで洗ってくれた40代の中国人の存在だったという。
藤原が、方正県の稲作増産に貢献したのに対し、原正市は、北方の稲作増産に貢献しつつ、徐々に南方での稲作増産に貢献していったというところにその特徴がある。
コメモレーションとしては、1996年に中国側が、長沙市の中心部にある暁園公園に原正市の胸像を設置したことがその事例にあたる。もうひとつの原のコメモレーションの例としては、河北省降化県河東村村に建設された石碑も紹介されている。
また原と親しかった中国人の次のような言葉も紹介されている。
「最初出会った際、原先生が私に言いました。あなた方が私に招待するのに準備する料理は豪華すぎます。一回の食事に一時間半以上も時間をかけている。こうしたことに私は慣れていません。私は日本ではお酒を飲まず、食事は長くても20分か30分ぐらいですませるんですけど」(68頁)
これは藤原長作の言葉と似ている。
第三章は「森田欣一-スイカに刻まれた日中協力の「記憶」 北京市に人気の「京欣一号」を育種した日本人のコメモレーション」と題されている。
この章は、農業技術者の森田欣一の仕事を扱った章である。
森田氏の経歴は以下の中国側が作成した以下の文章からうかがい知ることができる。
「中国のスイカ・メロン事業のために卓越した貢献をされた著名なスイカ・メロン育種家、日本の友人の森田欣一先生が、2008年3月10日深夜1時10分に日本で死去。享年91歳。
森田欣一先生は、1916年5月16日、千葉県で生まれ、1944年に日本で徳の高い育種専門家であった。1985年当時、農業部科技司のプロジェクトで森田先生を外国専門家として招聘し、中国で研究協力と指導を進めた。中国滞在3年の間に、北京市農業科学院野菜研究中心、中国農業科学院鄭州果樹研究所、江蘇省農業科学院野菜研究所と協力。
北京市農業科学院で、早熟、品質が優れ、生産性が高く、抵抗力の強い優良雑交スイカを育成し、協力の成功を記念するため、京欣一号と命名された。当該品種は、我が国スイカ育種と栽培史上、重要な地位を占めている。
森田先生の傑出した貢献に鑑み、1991年農業部は、「中国農業金奨」1992年に国家外国専門局は、「国際合作友好奨」1993年に北京市大興県は、「大興県栄誉公民」の称号を授与し、1998年に江沢民が、訪日した際に接見した。
森田欣一先生は、中国に対して厚く深い気持ちを持ち、ご臨終の前に、北京オリンピックの前に、北京オリンピックが終わった後に、再び北京の古い友人を訪ねたいこと、自分の骨を示されていた。我々は、彼の仕事の精神を敬う精神を学び、仕事に努力し、さらに多くの良いスイカやメロンの品種を育て、もって彼らの霊を慰めたい。森田欣一先生は。永遠に中国人民の中で生きている。
中国園芸学会スイカ・メロン専業委員会
国家野菜交流センター
≪中国瓜菜≫編集部」(88頁)
この森田欣一の功績を日本の『暮らしの手帖』に最初に発信したのは、北京在住のライター小林さゆりであったという。北京の郊外にある大興区というところに中国スイカ博物館があり、この博物館のなかに森田欣一のことが紹介されているのを小林さゆりは発見している。
スイカは、中国語で西瓜と書く。すなわち西から伝わってきた瓜ということだ。
スイカの原産地は南アフリカで10世紀ごろに中国に伝わってきたらしい。
1916年に千葉県で生まれ、1939年に東京農業大学農学部育種科を卒業し、坂田種苗、みかど育種農業株式会社などで育種事業に従事していた。仕事の面で中国との接点はなかったが、戦争で招集され満州に渡航している。森田のコメモレーションは、スイカに森田の名前の欣と北京の京をとって京欣一号というスイカの名前になっていることをあげることができるであろう。
第四章では一村一品の大分県知事の平松守彦の事例が取り上げられているが、直接は市民科学には関係しないのでここでは割愛する。
ここで取り上げられた市民技術者ともいうべき三人を掘り出された著者には感謝したい。そしてこの三人に共通しているのは、農業技術の実務専門家であり、民間交流を重視している技術者という点である。
彼らの仕事の意味を中国側も理解し、「記憶化・記念化」しようとしていることが本書では示された。従来ではそれぞれの事例研究が、断片的にとらえられていたのに対して、本書ではコメモレーションの視点から一歩、学問的に踏み込んで記述されているところに大きな意義があるといえる。一読をお勧めしたいと思う。
なお評者が、著者の岡田実氏にお会いしたのは、2007年の北京であったと記憶する。当時、岡田氏は、JICAの北京事務所所長だった。
2008年に私が立ち上げた北京日本人学術交流会の三周年記念を「日中関係とODA」というテーマで話してもらおうと私が、岡田氏に企画をもちかけたのは、2011年2月ごろのことであった。すでに岡田氏には、『日中関係とODA-対中ODAをめぐる政治外交史入門』(日本僑報社,2008)という本があったためである。交渉を重ね、企画が、ほぼ、まとまりかけていた2011年3月11日、突如として東日本大震災が、東北地方を襲った。3月9日の夜まで仙台に滞在し、3月10日夜に北京に戻ってきていた私は、北京のテレビで仙台の町が津波に飲み込まれる映像をなすすべもなく茫然と眺めるほかなかった。仙台は、私と岡田氏にとっては、青春を過ごした都市であり、2011年3月は、3周年記念の行事を行うどころではなくなり、それは先に延期せざるを得なかった。
実際に北京日本人学術交流会三周年記念が「日中関係と ODA~なぜ日本は対中政府開発援助を開始したのか?」というテーマで、開催したのは、第37回目にあたる2011年6月25日のことであった。岡田氏の三周年記念の講演は、ODAの歴史を丹念にたどりなおすもので興味深いものだったが、さらにそこから一歩踏み出すものであった。
だから、私は、岡田氏の講演のことを北京の日本人向けフリーペーパー『TOKOTOKO』にこう書いた。
「この報告のなかで私にとって特に印象深かったのは、岡田氏が、ODA を経済や貿易の問題から説き起こしながら、さらに日中両国の戦後処理の問題として悲しみや癒しの共有、戦争の記憶化、記念化といったところまで踏み込んでいたところであった。」
2011年の時点ですでに岡田氏は、コメモレーションの問題を考えていたことがうかがえる。
岡田氏は、それから6年たったあともこの言葉を覚えてくれており、『星火方正』25号(2017年12月)に投稿した「平和の時代のベチューイン」藤原長作と「旅日僑郷」方正県を訪ねて」という論考のなかで岡田氏は私のこの文章を引用してくれていた。
私が、藤原長作という稲作技術者のことを本格的に知ることになるのは、この論考においてである。
では、なぜ、岡田氏は、稲作技術者の藤原長作のことを述べるのに私の言葉を引用してくれたのだろうか。
それは「「感謝する、しない」のレべルで水掛け論に陥っていた対中援助の問題を、戦後処理、日中和解プロセスの角度からも考えるべき」というのが岡田氏のメッセ―ジの一つだったから」であろう。岡田氏は、その戦後処理、日中和解プロセスの文脈で藤原長作という稲作技術者を取り上げていたのだ。
こうした重要な仕事を遺した藤原長作に関する日本語文献は、本書が刊行される前は、日本で出版された及川和男『米に生きた男 日中友好水稲王=藤原長作』、そしてこの本をベースとした大類善啓「水稲王 藤原長作物語 中国の大地に根づいた日中友好の絆」『風雪に耐えた『中国の日本人公墓』ハルビン市方正県物語』など数点あるだけだった。
また 1995年1月に藤原長作のことは、日中合作で『北の米』でテレビドラマ化され放送されたことがあるぐらいであり、日本のマスメディアが、本格的に取り上げたことがあるわけではない。だから、おそらく藤原長作について知る日本人は、非常に少ないだろう。
岡田氏には、北京日本人学術交流会で東京でも北京でも藤原長作のことについて話してもらったが、多くの人に知ってもらう必要を感じて私は、岡田氏を中国国際放送に推薦した。
中国国際放送のアナウンサーの王小燕氏からはすぐ返事があってインタビューが決まった。
その模様は、「稲作技術者、藤原長作氏が、中国に残したもの」というタイトルで中国国際放送のHPから聞くことができる。
岡田氏は、この事例からシェアリング経済ならぬシェアリングメモリー、享受記憶すなわち日中間記憶の共有の重要性を強調していた。もちろん日本人の記憶の在り方と中国人の記憶の在り方が、大きく異なっているため記憶の共有には、大きな困難が伴う。また、歴史修正主義者という記憶の暗殺者が日中双方にいることも事態を困難にしている。しかし記憶の暗殺者に抗した歴史家の出番はここにこそあると考えられる。
日中友好協会会長の丹羽宇一郎氏は、著書『戦争の大問題』において大使時代に方正県を訪問したときのことを藤原長作氏のことも含めて言及している。私は、このことに気が付いていたので、このラジオ放送のことを伝えたら「山口直樹さん、300回記念北京日本人学術交流会ご報告ありがとうございます。方正や藤原長作さんのことなど一瞬に様々瞼に蘇りました。いまの日本人にこれらの事実を伝えていく責任を痛感しております。現実の生活に追われ人は歴史を忘れるのが常です。何度もお話しする機会を我々は作っていかねばなりません。交流会のひきつづくご活躍を心より願っております。ありがとう。丹羽」という返事がすぐに来た。
おそらく丹羽氏は、日中の記憶の共有という問題の重要性を分かっている人なのだろう。
なお、『星火方正』(28号)を読んで知ったことだが、藤原長作の義理の娘、藤原敏子によれば、藤原長作は、岩手県では、周囲から変わり者で頑固者だと思われていたという。中国政府の招待で方正にいってみると藤原長作が、大きな業績を残して顕彰されており驚いたという。しばしば、藤原長作のような人は、日本社会では、「変わり者」で「がんこ者」となってしまう。
そして、それによれば、藤原敏子は、2015年8月20日岩手日報に以下のような文章を投稿しているという。
「私の記憶が間違いでなければ、安倍首相は「美しい日本をつくります」と宣言されました。安全保障関連法案を成立させることが、美しい日本づくりになるのでしょうか。
私の義父は、藤原長作といいます。
稲作日本一となったあとに中国にわたり、黒竜江省で稲作指導をしました。なぜか。償いのためでした。一度、黒竜江省に足を運んでください。
日本人墓地があります。当時の毛沢東主席と周恩来首相が「戦争は一部の政治家の誤った考えによるもので日本人も被害者です。」として日本人墓地の建立を許された場所です。
そこには5千人以上の魂が眠っています。なんと戦争は悲惨なものでしょうか。
戦後70年の今も管理維持されています。一国の首相はお礼の言葉を言わなければなりません。お聞きします。これ以上若者を減少させるつもりですか。誰が税金を納めますか。
二度と同じ過ちを繰り返さないように、若者たちが希望をもって生きていける日本にしてください。
総理の総理による総理のための政治になりませんことを、心を込めてお願いします。」(62頁)
この文章が投稿されてからすでに10年の年月が経過した。
すでに安倍晋三は、この世の人ではなく、ついに安倍晋三が、方正県を訪問することはなかった。
だが、日中で記憶し未来に伝えていかなくてはならない歴史は、ここに書かれたもの以外でもたくさんあるだろう。それは本書のタイトル日中未来遺産と呼ぶべきものである。
今後も日中未来遺産の掘り起こし作業は続いていくだろう。