【連載】美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第10回 アミノ酸の科学者、赤堀四郎(2)しょうゆの匂い

投稿者: | 2024年10月12日

【連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史  第10回

アミノ酸の科学者、赤堀四郎(2) しょうゆの匂い

瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&アーカイブ研究会世話人)

【これまでの連載】
第1回 美味しさと健康(1) 池田菊苗の談
第2回 美味しさと健康(2) 食べられる「食品」の品質
第3回 「感覚」の科学研究と「味覚」
第4回 わが美味を求めん
第5回 「食事のシーン」を描くことができるか
第6回 新しい「味」の先に起きていく出来事
第7回 「調理」を作っていくのは誰か
第8回 家庭料理をつくる人が伝えること 
第9回 アミノ酸の科学者、赤堀四郎(1)「偉人」と「恩義」

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怪しげな「しょうゆ」の匂い

東京小名木川と尼崎工場の大煙突からは雲かと計り黒煙たぎり立ち、日醤製醤油が大手を振つて市場に現はれ出した。偖も不思議、この醤油味が少し何うも妙であつた。夫れでも刺身にかけたり香の物につけて之れは結構と世間では舌を鳴らしたものもあつたが、そうかうする内に何処からともなく奇怪な噂が傳はつた……小名木川の水が醤油臭いぞ、川の水が黄色に變ると云うのである。(時事新報社経済部編「醤油の話」『商売打明話:家庭の経済知識』1929年[1]

 

近代日本の産業の機械化を押し進めた「発明王」の一人である鈴木藤三郎は、製糖業から「しょうゆ」へと手を広げて、通常は1年かかるのを3ヶ月で「しょうゆ」ができるというふれこみで、同業者だけでなく社会的にも大きな衝撃を与えた。

3ヶ月で「しょうゆ」ができるという発明は、当時の人々の欲を刺激し、経済的に大きな価値があるように思わせた。いうなれば、お金の匂いがする「しょうゆ」だったわけである。それだけ早くつくることができる「しょうゆ」が独占してしまえば、従来の製法では太刀打ちできなくなるはずである。日本の人々にとって「必需品たる醤油の独占−其利益は大したものであらう。イヤ大變な發明をしたものだと慾の深い亡者共は大騒ぎをするに至つた」。しかも、明治の元老の一人、井上馨が資金集めのために「先に立つて太鼓を叩き廻った」という。それはなぜかというに、鈴木藤三郎は「日露戦争の時に醤油エキスを發明し、満州軍は為めに非常な便利を得た事があるので、それ以来雷は、藤三郎は偉い男だとスッかり信任して了つた」のだという(「雷」とは井上馨のこと)。そのような元老や軍隊の噂まで匂わせる「しょうゆ」に多額の資金が集まった。鈴木藤三郎は、1907(明治40)年、当時の製造業では最高の創業資本金1000万円で日本醤油醸造株式会社を設立し、東京深川の小名木川の近くに第一工場、尼崎に第二工場を建設した[2]

 

 

日本醤油醸造東京第一工場

明治になって、しょうゆの醸造組合ができた銚子や野田などの産地には、試験場があった。一方、大蔵省の醸造試験所にはお酒とともにしょうゆの部門があった[3]。それによって、しょうゆの醸造についての知識の共有が始まり、科学的な計測方法や化学的な分析が導入されるようになっていたが、しょうゆの消費量も増加し、明治末から大正初期の頃には、しょうゆの工場が乱立するようになっていた。鈴木藤三郎の日本醤油の工場は、独自に開発した巨大な「麹製造装置と醤油醸造機」が立ち並んでおり、1908(明治41)年の春から2ヶ月60日速成のしょうゆを製造・販売し、年間54,000kl(30万石)の生産をめざしていた[4]

しかし、日本醤油の工場の近くの川や海で「しょうゆ」の匂いがするという噂によって、尼崎の工場に近い大阪府警察本部が動いて分析試験をした結果、日本醤油の「しょうゆ」からサッカリン(当時、使用禁止)とホルマリンが検出された。日本醤油の「しょうゆ」には、長く保存すると大量に腐敗させてしまう問題があり、多量の薬品を使ったが解決できず、腐敗した「しょうゆ」を海に廃棄していたことが判明したのである。「府警察本部の通告で全国に賣り擴められた日本醤油は片ツ端から差し押へられ、工場に漲りあふれて居つた幾十萬石の醤油は投棄を命ぜられた」。日本醤油の株は暴落し、尼崎工場が火災で焼失、1910(明治43)年に日本醤油は倒産した[5]

ちょうど時を同じくして1908(明治41)年に池田菊苗によって発明された「味の素」の製造・販売を目論んでいた鈴木商店も、日本醤油の「しょうゆ」の失敗に巻き込まれていた。この早造りの「しょうゆ」の味を整えるために、新しい発明品の「味の素」も使われていたのである。実は、「味の素」のユーザーとして最初に見込まれていたのは、この日本醤油醸造であり、その「しょうゆ」を口にする人々だった[6]

 

困った「しょうゆ」の匂い

日本醤油醸造の「早造り」の事業は失敗に終わったが、その後も「しょうゆ」と「味の素」の関係は続いた[7]。「しょうゆ」の研究は、有機化学、農学、発酵食品の関係者をつなぐことになり、鈴木商店の研究部門は、「味の素」の製造技術や池田菊苗の化学研究だけでなく、農学の研究者、醸造試験所、醤油醸造会社とも関わり、「味の素」を越えた「アミノ酸」研究の組織になっていくのである。

1925(大正14)年3月に東北帝国大学理学部の化学科を卒業して「味の素」を製造する鈴木商店の社員となって、そのまま大学院に進んでいた赤堀四郎は、有機化学の指導を受けていた真島利行教授から「しょうゆ」の香気成分についての研究をするように「命令」された。

 

実のところ私は、困ったことになったと思った。醤油の香気成分には、特定の花の香気成分とは異なって、醗酵中にできる非常に多くの成分が含まれているだろう。それらの微量成分を、一つ一つ見つけて固定してゆくことは、恐ろしく困難な仕事と思われたからである。しかし、先生の命令は拒むわけにはゆかない。しぶしぶながら、まず文献を調査した。醤油は醗酵製品だから、糖やアミノ酸からの醗酵過程でできるようなものに見当をつけてみようと思って、醗酵化学の勉強をしている間に、しだいに醗酵化学そのものに興味を持つようになった[8]

 

赤堀としては、真島教授から命令された「しょうゆ」の香気成分の研究は、正直に言えば困ってしまうようなものだったが、結果的には「発酵」の化学に興味を持つきっかけになり、後年の回想では「味の素会社でも『味液』をつくっていた関係から、よい醤油の香気成分ができたら、それを用いて『味液』からよい醤油をつくりたいという希望をもっていたと思われる。故真島利行先生も、それを察知しておられたのか」と、味の素の「味液」を利用した「しょうゆ」の思惑がその背景にあったのかもしれないと推測している[9]

「味液」は、「味の素」の製造過程で出てくる残液を利用したもので、一般的には「アミノ酸液」と言われていた。当時の「味の素」の原料である小麦粉や大豆を煮沸して、塩酸でタンパク質をアミノ酸に加水分解し、「味の素」に利用するグルタミン酸塩酸塩を抽出した後に残液が出るが、これにもアミノ酸が含まれている。この「アミノ酸液」を利用して「しょうゆ」になんらか使えるように、1933(昭和8)年に鈴木商店で商品化したのが「味液」である[10]

 

味の素「アミノ酸液」の樽出し

赤堀によると「ある程度脱臭して『味液』という名で醤油の原料として市場に出していた」が、「その味液は香がどうしても発酵醤油に比して劣っているので、醤油香気をつけて良質の醤油として出したいという会社の希望もあった」という。鈴木商店は、「アミノ酸液」の良くない匂いをできるだけ脱臭して、できるなら「しょうゆ」の香りの成分を付加する独自の技術によって、そのまま「しょうゆ」として売れるだけの品質にしたかったのである[11]

池田菊苗は、「味の素」を発明したとき、すでにこの残液を「しょうゆ」の代用品として使用することを特許明細書にも書いており、最初は化学的な「しょうゆ」の事業化を目論んでいたのではないかと言われることもあった。実際に、池田菊苗は「創業の頃味の素の残液を真空蒸発して乾固し、時にはこれを繰り返して臭気を去り、これを水に溶解し、適当量の食塩を加えて醤油とした見本」を鈴木商店に届けていた。しかし、池田菊苗の化学的な「しょうゆ」は、「何分脱臭が十分でなかったので商品化するには至らなかった」[12]

大正時代になっても商品化には至らなかったが、池田菊苗の研究室と「味の素」の川崎工場で、どうも匂いがおかしい「しょうゆ」の研究が続けられていた。それは、「味の素」の生産量が増えれば増えるほど、この多量の残液を処理する方法が問題になっていたからである。とにかく「中和して河中に放棄するの止むなき状態にあり、これがため下流の方面から苦情を持ち込まれたこともあった。勢い残液利用の研究には寧日もないまでの努力が傾けられた」。第一次大戦の後、社長の鈴木三郎助や技術開発担当の鈴木忠治は、池田菊苗と同じように、残液を原料とする「化学醤油」に関心を持ち、「味液」と名付けて、川崎工場の研究室で「アミノ酸液」の研究に着手した[13]

社史によると、大正末期における「アミノ酸液開発のための研究目標は、醸造醤油と同様直接消費者用の製品をめざし、執拗な臭気を除去し、特有の暗褐色を改良して醸造醤油に似た香りと色を出すことにあった」。まず黒い色の原因が鉄分であることは突き止められた。しかし、「しょうゆ」と言えるようにするには、やはり「アミノ酸液」の匂いは大きな壁となった。川崎工場での研究では、「伝統的な方法として黴の力を利用することを思いつき、醤油醪(もろみ)から酵母や菌を分離して、このなかの香気をつかさどる物質を塩酸塩分離液に注入してみた。しかし、結局は思わしい製品を得ることができなかった」[14]

昭和初期になると、鈴木商店は「昭和3、4年には、最初の意図を改め、醸造醤油の増石用として醸造業者に販売することとし、それに適した製造技術を開発するよう研究方針を転換した」[15]。しょうゆ醸造業者の方も「アミノ酸液」の利用に関心を持つようになっていた。それは、池田菊苗の「味の素」の特許が切れるのを睨んでのことでもあったようである。1929(昭和4)年7月、しょうゆ醸造業者の間では「念願の味の素の特許が切れて塩酸分解のアミノ酸が大流行」し、大蔵省の醸造試験所でしょうゆ醸造業者向けに「アミノ酸醤油」の研修が始められた[16]。1930(昭和5)年から、しょうゆ醸造業者は不況に陥っており、従来の伝統的な醸造が疑問視されるようになり、経営の合理化が考えられていた[17]。もし、しょうゆ醸造業者による「アミノ酸液」が成功して、しょうゆ醸造業者が自前で「アミノ酸液」を使うようになれば、鈴木商店は「残液」を処理する問題で困ったことになるところであった。

 

発酵と残液−「化学」

1925(大正14)年に、赤堀が「しょうゆ」の香気成分の研究を始めたときは、メイラード反応や「糖やアミノ酸の発酵過程で、当然できると予想されるようなもの」についての報告があるのみで、「何人かの農芸化学者が研究しておられ、それぞれ何かの香気物質を分離していたが、誰も『これが醤油の香の本体である』というような物質は取り出すことはできていなかった」という[18]

[1] 時事新報社経済部編「日本醤油の破産」『商売打明話 : 家庭の経済知識』宝文社、1929年、102〜103ページ。

[2] 遠藤楼外楼「毒薬と記者と一枚のドアと(藤三郎は其處でハハハと笑った)」『銀行罪悪史 : 吾輩の最新銀行論』日本評論社出版部、1922年、40〜52ページ。

[3] 1904(明治37)年に醸造試験所は、試験と講習を行う大蔵省の施設として創設された。1926(大正15)年に廃止されたが、醸造業者には「醤油税」の納税義務があった。

[4] 小栗朋之「醤油製造技術の系統的調査」『国立科学博物館技術の系統化調査報告』第10号、国立科学博物館、2008年、143〜154ページ。

[5] 遠藤楼外楼、前掲書、43〜48ページ。

[6] 池田菊苗は、「味の素」を製造販売することになった鈴木三郎助よりも前に、日本醤油醸造の鈴木藤三郎に自分が発明した「味精」の事業化を働きかけていた(この2人の鈴木の間には全く関係がない)。1909年に鈴木商店が「味の素」の発売を開始するにあたって、鈴木藤三郎から特許を譲渡してくれないかという申し入れを受けた。「鈴木商店ではこの申し入れを断ったが、同社向けの製品の供給には、もとより喜んで応じたので『味の素』の発売開始後の最初の出荷は、もっぱら同社に向けられることになったのである」。『味の素株式会社社史1』1971年、47、52ページ。しかし、全国のしょうゆ醸造業者の反対運動で妨げられ、売れ行きは伸びず、翌月には返品されるようになったという。この失敗から、鈴木商店は家庭への販売戦略にシフトすることになった。

[7] 日本醤油の失敗の直後、創業初期には、「醤素」という商品名で、完全に精製していない褐色がかったグルタミン酸ナトリウムの粉末を、醤油・ソースの醸造業者に売っていたこともある。

[8] 赤針四郎、「アミノ酸随想」『味の素株式会社社史2』1972年、7ページ。

[9] 同書、同ページ。赤堀四郎「醤油の香気成分研究の思い出」『日本釀造協會雜誌』72 巻 3 号、1977年、194ページには、「ありがたくない問題」だと思った、と書かれている。

[10] 「味の素」の製造からの残液は、「グルタミン酸塩酸塩分離液」の他に、その後の石灰で中和する工程で出る「グルタミン酸石灰塩分離液」もあったが、これはさらに異臭が強烈で、「味液」には使われなかった。『味の素株式会社社史1』、316ページ。また、塩酸塩分離液にはアミノ酸の他に多量の窒素が入っており、「肥料」の商品化も進められた。

[11] 赤堀四郎「醤油の香気成分研究の思い出」『日本釀造協會雜誌』72 巻 3 号、1977年、194ページ。

[12] 『味の素沿革史』1951年、792ページ。

[13] 同書、同ページ。『味の素株式会社社史1』、285ページ。

[14] 『味の素株式会社社史1』、317ページ。

[15] 同書、同ページ。

[16] 大崎真次「私の醸造技術史」『日本釀造協會雜誌』78巻8号、1983年、618ページ。

[17] 『味の素株式会社社史1』、285ページ。

[18] 赤針四郎「アミノ酸随想」『味の素株式会社社史2』1972年、7ページ。赤堀四郎「醤油の香気成分研究の思い出」『日本釀造協會雜誌』72 巻 3 号、1977年、194ページ。

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