長崎原爆 投下の経過を再構成する

投稿者: | 2009年11月6日

近未来生活研究所 桑垣 豊
pdfはcsij-journal027_kuwagaki.pdf
1.1945年8月9日
長崎原爆投下当日1945年8月9日、アメリカ陸軍航空軍第509混成群団の行った原爆投下の経過をくわしく再現してみよう。表1に投下の経過を分刻みであらわした。時刻は日本時間で表示しているが、テニアン時間はこれよりも1時間早いので日本時間に1時間プラスした時刻となる。発進をテニアン時間、投下を日本時間と、混乱した文章が多い。
以下、表1に従って説明する。時刻はいずれも日本時間である。
1)テニアン発進 2:47
原爆搭載機は、予定より13分早くテニアン北飛行場を発進した。飛び立ったのは、3機のB29、投下機「ボックスカー」(機長 チャールズ・スウィーニー)、観測機「グレート・アーティスト号」(機長 ボック)、撮影機(機長 ホプキンス:機体の愛称なし)である。これに先立つ1時間ほど前に、2機の気象観測機がテニアンを発進している。第1目標「小倉」、第2目標「長崎」の気象状況、特に、雲の量を調べることが任務である。
当初、小倉・長崎への原爆投下予定は、8月11日であった。気象予報でこの日の天候が悪くなると予想し、8月9日に変更した。ソビエトの対日参戦が8月9日であったことを思うと、この2日の違いが投下するかしないかの境目であった可能性は高い。ところが、8月9日になってみると、台風が硫黄島付近にあり、3機の会合地点を硫黄島から屋久島に変更することになる。
表1 広島・長崎比較経過表 分刻み
2)屋久島上空 8:15
ボックス・カーは8時15分に屋久島上空に到達し、グレート・アーティスト号もまもなく会合するが、ホプキンス機とは会合できず35分後の8時50分に小倉に向けて飛行を始める。ホプキンスは科学者として原爆投下部隊に所属していたので、それほど操縦はうまくなかったようである。スウィーニーは、著書で、ホプキンスが長崎の投下チームに加わると聞いて信じられなかった、と書いている。
3)姫島IP(爆撃航程開始点) 小倉から東南東70キロ 9:44
2機のB29は、予定より40分遅れの9時44分に大分県姫島上空の爆撃航程開始点(イニシャルポイント:IP)に到達した。イニシャルポイントから、秒速約90メートル(時速約320キロ)、高度1万メートルの直線水平飛行をすることになっているので、小倉まで約13分かかる。投下3分ほどまえには、操縦を機長から爆撃手に交替することになっている。予定どおりとすると、9時54分である。
爆撃手は、ノルデン照準器のスコープの十字線を、目視で投下目標地点にあわせ、自動投下装置のボタンを押すと、自動操縦装置につながった照準器の誘導で自動的に航路が決まる。ちょうど目標地点に落ちるように投下のタイミングを割り出し、爆弾を投下するようになっている。これが、ノルデン照準器(自動操縦投下装置)による原爆投下の手順である。
図1 九州北部 小倉から長崎へ
4)小倉 9:54
原爆は、B29から投下したときの飛行機の速度で前に飛び続けながら、重力で落下するので、放物線を描く。原爆は、投下43秒後に時限信管が作動して炸裂するので、秒速90メートルで進み続けるとすると、投下地点から約3900メートルほど先で爆発する。
目標は小倉造兵工廠、陸軍の兵器工場であったが、小倉城の南側の地区である。4キロ西南西、小倉の西側の山の上あたり(門司区青葉台付近)で投下する予定だったことになる。3回挑戦したが、いずれも目標が肉眼で見えなかったため、投下をあきらめた。3回ということは、姫島と小倉の間を2往復半したことになる。小倉から姫島に戻るときは時速450キロの巡航速度としても、10分かかる。合計56分。現実には45分しか小倉付近に滞在しなかったので、2回目3回目は姫島まで戻らずに再挑戦したことになる。
ところで、小倉の目標が見えなかったのは雲のせいだということになっていたが、前日8月8日の八幡空襲の煙が翌日朝まで残っていて、西に流れたために目標をおおいかくしたという説が今は有力である。最近、煙幕説も登場したが、2機のB29が来襲することは事前に察知できていなかったことや、煙幕がそれほど効果的であるとも思えないので、完全に否定はできないが可能性は極めて低い。具体的な証言や記録が出てくれば、信憑性は高まるが、可能性があったというにとどまる。
小倉への投下をあきらめた理由は、日本軍の高射砲弾の照準が正確になりつつあったことと、迎撃戦闘機の接近してきたことである。小倉には、射程が1万メートルを超える12センチ高射砲(宮田陣地:八幡東区九州国際大学付属高校の東)を配備していたので、撃墜の可能性はあった。当時、日本軍が配備していた標準的な高射砲は、75ミリと88ミリだったので、1万メートルには届かなかった。12センチ高射砲でも、上空に届くまでに時間がかかることと1万メートル付近では放物線のカーブがきいてきて、ねらいを定めるはむずかしかった。高度1万メートルのB29を狙い撃ちできる15センチ高射砲は、東京都杉並区久我山にのみ配備していた。ただし、高射砲弾は直撃しなくても、近くで炸裂すると破片が機体を貫通し、撃墜することできた。そのため、空襲に際して、B29の搭乗員は日本上空に差しかかったあたりで、全員防弾チョッキを着用することになっていた。
一方、迎撃戦闘機のほうは、50機の日本軍戦闘機が近づいていたという記録がある。このようにたくさんの可動機があったとは思えない。おそらく15機のまちがいだろう。それでもかなりの機数である。私は、fifteenとfiftyのまちがいだと見ている。数字を見てまちがうことはあまりないので、耳で聴いてまちがえたのだろう。レーダー担当者の報告を聴いたアッシュワーズの聞き間違いの可能性が高い。では、どこの基地から発進した戦闘機であろうか。
北九州地区に来襲したB29を多数迎え撃ち、アメリカ軍に警戒されていたのは、陸軍の山口県小月(おづき)飛行場(現海上自衛隊航空基地)のB29迎撃専門部隊である。小月飛行場は、今年9月末、自衛隊のYS11がオーバーラン事故をおこした飛行場である。訓練の行き届いた搭乗員が操る迎撃戦闘機「屠龍」は、小倉や八幡に来襲するB29を高射砲との連携で50機以上撃墜している。最近、始まったテレビドラマ「不毛地帯」の第1回、主人公が東京から満州に渡るのに利用したのがこの戦闘機である。2人乗りであったので夜間飛行ができ、辛うじて1万メートルまで上昇も可能。B29を撃墜できる武装も備えていた。
8月9日当時、この部隊は朝鮮半島大邱(テグ)に退避していたので、小倉、長崎からの距離は500キロ以上で間に合わなかった。警戒のために発進したが、すでに遠く長崎原爆のきのこ雲を見ることになる。小月は広島にも近いが、このときも大邱から発進したものの、すでにきのこ雲があがっていた。
残る可能性は、福岡県芦屋飛行場(現航空自衛隊芦屋基地)であるが、まだ調べることができていない。今後の課題である。この飛行場は、北九州市のすぐ西、遠賀川河口左岸に位置していた。迎撃に向かった搭乗員には、まだ健在の方もおられるだろう。証言記録も残っているかも知れない。
5)長崎到達 10:50
10時29分に小倉から長崎に向かったB29は、21分後の10時50分に長崎上空に着いた。小倉-長崎間の直線距離は150キロであるので、時速450キロの巡航速度で飛んだことになる。小倉で45分間も空気のうすい高度1万メートルで飛行したため、テニアンに帰る燃料はなかった。もっとも近いアメリカ軍の飛行場は沖縄の北飛行場(読谷村)で、そこでさえ、ぎりぎりたどりつけるかどうか怪しかった。
そこで、スウィーニーは危険をあえておかし、直線コースで長崎をめざすことにした。直線コースで飛べば、日本海軍の大村航空基地の真上を飛ぶことになる。大村基地は、アメリカ軍戦闘機と互角に戦える「紫電改」を配備していることをアメリカ軍は知っていた。ただし、屠龍ならともかく、紫電改でB29を落とすのはかなり難しかったらしい。アメリカ軍の公式記録には、小倉から大分県佐賀関に行き、そこから長崎に向かったとあるが、時間的に無理である。直線コースをたどれば、ちょうど佐賀市があるので、そのまちがいであろう。
一方、大村基地の近くの山で休息していた紫電改の名パイロット本田稔は、頭の上を通過する2機のB29を11時前ごろに見ている。その後、長崎方面にきのこ雲を目撃する。本田は、前日8日の空中戦でアメリカ軍戦闘機と渡り合い、9日は天候が悪かったこともあり、休息していた。広島原爆のことは聞いていたので、体当たりしてでも原爆搭載機を撃墜する心持ちであった。後に長崎の人々から、大村基地は何をしていたのかと非難されたという。
スウィーニーは、高度を少しずつ落としながら飛ぶことで、位置エネルギーを徐々に運動エネルギーに変え、燃料を節約することにした。しかし、長崎で原爆を投下するには時限信管が43秒後に作動するのに1万メートルに上昇する必要があったので、小倉-長崎間でこの方法を使ったとは思えない。もうひとつの可能性は、時限信管が投下後43秒で作動することをあてにせず、地上600メートルで作動する近接信管に期待して、高度をやや低い9000メートル程度から投下したことである。万が一、近接信管が作動しなくても地上に激突したときに作動する接触信管がある。長崎原爆は、この3つの信管によって不発に終わることをなるべく避けようとしていた。
原爆投下直後から、きのこ雲があがるまでを、撮影した「悪魔の火球」という映像がある。この映像から、撮影したボックス・カーの高度を求めることができれば、高度の謎も解ける。雲の種類とその一般的な高度の知識や、見えている背景の山の高さなどから、結構面倒な計算をすれば求めることができるかもしれないが、未着手である。何しろ、「悪魔の火球」の映像は2分半しかないのであるが、15のシーンにわかれていて、その順番がまちがって編集してあって、それをようやく何日もかかって直したばかりである。
ボックス・カーが、長崎上空に着いてから投下まで11分間ある。ボックス・カーの記録によると投下は10時58分であるので8分間となるが、11時1分に投下したことは日本側の記録からまちがいがない。ボックス・カー側の時計が遅れていたとすると、長崎到着が10時47分となる。10時58分は、機長から爆撃手に操縦を交替した時間である可能性もある。爆撃手が操縦をまかされた後は、直線飛行になるので、それまでの時間は5分か8分。時速450キロのB29が、5分間で飛行できる距離は37.5キロ、8分間で飛行できる距離は60キロ。
後で述べるようにボックス・カーは長崎市の南20キロ地点から北に向かったと思える。北から長崎市に接近したボックス・カーは上空を旋回したようなので、1周半旋回したことになる。上記の5分間の場合、半径4キロ程度となり小さすぎる。8分間とすると半径7キロ程度で常識的な半径である。きれいに円を描いて旋回してはいないかもしれないが、8分間とするのが妥当であることはわかる。とすると、長崎到着は10時50分、原爆投下は11時1分でまちがいないであろう。
図2 長崎市への接近
6)長崎原爆投下 11:01
小倉では爆撃開始点が姫島だったように、長崎の場合は熊本県三隅半島の南側のつけねあたりであった。位置関係も姫島と同じく、東南東70キロ。前述のように直線コースであったことを考えると、予定通り爆撃開始点から爆撃航程に入ったとは考えられない。半径7キロ程度で1周半旋回し、南から近づいたのであろう。南から接近した証拠は、チンノックが搭乗員からインタビューした内容や、地上からの目撃証言である。
映像「悪魔の火球」を時間順に再編集すると、冒頭火球が膨らむシーンの背景の地形と火球の影の方向から、真南からやや東よりから東に向かって飛行しながら撮影したことがわかる。長崎と標準時の明石との時差約20分を考えに入れると、方向がわかる。地図を参照してほしい。ボックスカーは、投下直後の退避行動として、「左旋回150度、急降下加速」という指示を受けていたので、これを逆算すると南から接近したことになる。
ところで、当初の投下目標は、長崎県庁の東の中島川にかかる賑橋(にぎわいばし)付近であった。現実の爆心地は、そこから北々西3.4キロの松山町である。なぜ、これだけずれたのか。従来の説では、雲がかかっていて目標が見えなかったが、一瞬雲の晴れ間から三菱の兵器工場が見えたので落としたということになっている。1999年夏、朝日新聞がボックス・カーに同乗していたアッシュワーズの証言として「雲の晴れ間があったとは思えない。命令違反を恐れた爆撃手が、晴れ間があったことにした可能性が高く、ほかの乗員も申しわあせるでもなく、それを肯定した。」という記事を載せた。
ノルデン照準器のしくみから考えても、急に晴れ間が見えたからと言って、すぐに投下ボタンを推しても投下ポイントを通りすぎてしまう可能性が高く、無理がある。アッシュワーズは、禁止されていたレーダーにうつった映像に基づいて、投下したはずだと証言している。B29の構造を確かめると、一番機首にある爆撃手の位置からレーダースコープは見えない。レーダースコープを見ている乗員と声をかけあって、投下したはずである。B29のレーダー映像は、海が黒いままで、山があると緑が強く光り、平地が弱く光る。平地と海の境がうまく見分けられず、賑橋のある平地と松山町のある平地とは、まわりの山ぎわの配置が似ているので、取り違えたのではないか。
ボックスカーの退避行動は、左旋回150度であった。43秒間後に炸裂するとすると秒速約90メートルの原子爆弾は3.9キロ進むことなる。ここから簡単な幾何の問題を解くと、B29の旋回半径がちょうど1キロであることがわかる。半径1キロの円周を150度たどり、あとは炸裂予定地点を真後ろに一目散で加速しながら逃げると、7、8キロの距離まで離れることができる。そこから左に直角に曲がり、きのこ雲を左手に見ながらボックス・カーは旋回をした。
図3 ボックス・カーの回避行動と旋回
7)原爆炸裂 11:02
「悪魔の火球」は、きのこ雲の真南の少し東側から、一番北の地点までを映像に収めている。映像の最後にきのこ雲の向こう遠くに、長崎半島の野母岬が見えている。旋回半径が8キロほどとして、B29の巡航速度時速450キロで4、5分。そのうちの2分半を撮影していることになる。映像の途中で右(前)に翼が見えるので、撮影したのは翼より後ろの左側の窓である。この位置に窓は一つしかないので、撮影した個所は正確にわかる。撮影者はパッピー・デハートだという。この映像とほぼ同じ方向から撮影した静止写真があり、画像の外側の焼き込みにボックス・カーを表すコールサインの番号がある。「悪魔の火球」は、原爆を投下したボックス・カーからのものであることの証拠である。
一方、原爆の電磁波を測定する観測装置をパラシュートつきで放出したグレート・アーティスト号は、右旋回150度を指示されていたので、ボックス・カーとは交差する形で回避している。回避後の旋回は、そのまま時計回りでボックス・カーとは反対側だったのか、ボックス・カーと同行の反時計回りであったかはわからない。少なくとも、ボックス・カーとグレート・アーティスト号がともに沖縄をめざして、11時5分頃、長崎を後にしたことはまちがいない。
では、屋久島で集合できなかったホプキンス機は、どこで会合したのか。沖縄では一緒に着陸したことはわかっている。投下前に長崎で会合したとすると、きのこ雲を撮影する任務があったはずであるが、何も記録がないということはそうではない証拠ではないか。おそらく、きのこ雲を見て合流したのではないであろうか。
9日11時から、長崎県知事は幹部を県の防空壕(長崎県防空本部:立山2丁目)に集めて、重要な会議を始めたところであった。長崎市民を郊外に事前避難させる決定をする計画が議題であった。広島への原爆投下から、空襲をあまり受けていない都市が攻撃対象になるのではないかということで、長崎が狙われると考えたのである。同じ考えは新潟にもあり、8月10日新潟県知事は幹部を集めて新潟市民の退避を決めた。実際に新潟市民の多くは12日までに郊外に避難している。当初の予定通り11日に投下していれば、長崎市民はその前に避難ができたかもしれない。9日のソビエト参戦を考えれば、長崎への原爆投下も中止になっていた可能性も高い。
長崎県の防空壕は、現在の長崎市役所の近く、長崎歴史文化博物館の北側にあった。爆心地とは山をはさんだ反対側だったが、入口の扉は爆風で壊れてしまった。
写真 長崎県防空本部跡入口
8)沖縄北飛行場着陸 12:51
3機のB29は、燃料を節約することで何とか沖縄北飛行場までたどりついた。この北飛行場は、現在、読谷村に飛行場跡として残っている。少し前まで、アメリカ軍のアンテナが並ぶ通称「像のおり」があった場所で、地主への返還が問題となった場所である。日本軍の使っていた飛行場を、アメリカ軍が1945年4月に上陸して利用していた。
戦闘機用の飛行場であったので、3機が接近したとき、アメリカ軍の戦闘機がさかんに発着している状態であった。ボックス・カーが基地に通信を試みたがうまく連絡が取れず、緊急着陸の信号弾を発射したがそれも通じなかった。最後の手段として、残る信号弾をすべて一度に発射するとようやく気づき、滑走路をあけてくれた。
ボックス・カーは着地することができたが、滑走路上でエンジン1基が停止。左右のバランスがくずれて滑走路からはずれるところを、反対側のプロペラを反転させてバランスをとり、滑走路端ぎりぎりで止まることができた。原爆投下部隊のB29は、特殊改造をほどこしてプロペラを反転できるようになっていたために命拾いをした。燃料はわずか0.1%の7ガロンしか残っていなかった。
原爆投下用改造機のB29は、このほか、尾部砲塔以外の武装を撤去して、5トンほどある原爆を運べるように重量を減らしていたが、武装が貧弱で丸腰同然であった。
9)テニアン帰還 21:45
燃料を補給した3機は再び16時6分に離陸し、テニアンに向かった。テニアンには21時45分着。広島に初の原爆を投下したエノラ・ゲイの帰還時のような歓迎はなかったが、数々の命令違反やトラブルは、投下の成功を前に問われることはなかった。
広島原爆のように予定どおりの模範的な経過に対して、長崎攻撃はもともと天候や補助燃料タンクが使えないなどのトラブルが事前にあり、投下を延期するのが現実的だったのではないだろうか。重い原爆を持って帰るには燃料が足りなければ、海中投棄するのが事前の了解であったはずである。
長崎原爆の成功を受けて、この日深夜0時に2機のB29がアメリカ本土に向かった。3発目と4発目の原爆に使うプルトニウムを取りに行くのが任務だったことが、ほぼ判明している。戦争が終わらなければ、候補都市であった小倉、新潟に落とされたのであろうか。それとも、有力候補でありながらリストからはずされた京都が狙われたのであろうか。
10)補足 「悪魔の火球」のまちがった左右反転映像
2008年の夏「悪魔の火球」を再編集しているころ、NHKのテレビ番組「その時歴史は動いた」で、原爆模擬爆弾「パンプキン爆弾」を取り上げていた。長崎原爆のきのこ雲の映像が流れたが、何か変である。ビデオにとっていたので、もう一度見てみると、左右が反対である。NHKにメールで知らせるとすぐ返事があり、まちがいであったので再放送では直すということであった。NHKは、指摘するまで左右反転した映像を流し続けていた可能性がある。再放送では確かに直っていたので、安心していると、今年2009年のNHKのある番組ではまた左右反転していた。民放も正しい映像と反転が両方あり、混乱している。
昨年2008年秋に長崎の原爆資料館を訪れた。入り口付近の大きな映像は左右が正しかったが、原爆被害を説明する長崎市の模型をとりまく数台のモニター映像は左右反転していた。学芸員にそのことを説明すると確かめながら映像をつくっっているから、まちがっていないはずだという。もう一度、確かめてほしいと言ったが、要領を得ない答えだった。長崎の原爆資料館がこの状態では、テレビがまちがった映像を流しても仕方がない。学芸員に会った翌日にもう一度、原爆資料館を訪れたがあい変わらず反転映像を流していた。資料館を訪れる前に別件でメールをやりとりしていたので、まだ直っていないことをメールで指摘したが、その後返事はない。
このように小さなことでも、原爆投下にまつわる情報は固定化している。新しい情報が得られれば常に、それをおりこんで再構成するべきであるが、そのような考え方をする人は少ない。原爆投下にまつわる神話化の事実を指摘したい。
2.B29生存搭乗員への質問状
2回の原爆投下に加わったのべ6基のB29の存命の搭乗員に、投下の経緯について質問状を送ることを考えています。まだ、形式は整っていませんが、項目だけをあげておきます。
質問状
8月9日の動き
航跡、特に小倉→長崎
悪魔の火球の撮影者
3機目(ホプキンス機)との再開はどこで(長崎か)
8月6日の動き
退避行動の航跡
日本軍に捕まったときの対応
アグニュー映像の撮影はどの時点
改造B29の特徴
ノルデン照準器 使い方、精度
レーダー映像の映り方、精度
<参考文献>
[1]子供たちに世界に!被爆の記録を贈る会「悪魔の火球」(ビデオ)1980年
[2]渡辺洋二『双発戦闘機「屠龍」 一撃必殺の重爆キラー』文春文庫 2008年
[3]米陸軍航空隊『B29操縦マニュアル』光人社 1999年
[4]奥住喜重、工藤洋三、桂哲男『米軍資料 原爆投下報告書』東方出版 1993年
[5]奥住喜重、工藤洋三『米軍資料 原爆投下の経緯 ウェンドーヴァーから広島・長崎まで』東方出版 1996年
[6]新潟歴史双書2『戦場としての新潟』新潟市 1998年
[7]スウィーニー,W.チャールズ『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』原書房 2000年
[8]本田稔、岡野充俊『本田稔空戦記』光人社NF文庫 2005年
[9]土門周平ほか『本土決戦』光人社NF文庫 2001年
[10]渡辺洋二『死闘の本土上空 B-29対日本空軍』文春文庫 2001年
[11]マーシャル,チェスター『B-29 日本爆撃30回の実録』ネコ・パブリッシング 2001年
[12]チンノック,フランク著、小山内宏訳『ナガサキ 忘れられた原爆』新人物往来社 1971年
[13]秋吉美也子『横から見た原爆投下作戦』元就出版社 2006年

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