「風育」について

投稿者: | 2008年9月4日

上田昌文
 日本語は「風」の字のつく語が豊富です。そのことには日本の文化の深層の一面が映し出されている、と私は考えています。風土、風水、風物、風景、風情、風味、風習、風格、風流……と並べてみるとき、私たちの物事のとらえ方・感じ方に「風」が何とも微妙にからんでいる様を、誰もが面白いと思うのではないでしょうか。
 「風」の語とつがう相手が「土」であったり「水」であったりするのは、風が大地からの熱によってその生起が決まり、大地の形でその通り道が決まること、そして水と相まって大気の状態と流れ、すなわち”気象”が決まることを思い出させます。また、その相手が「物」であったり「景」であたっりするのは、人が事物や環境を、風がめぐるある固有の時間(例えば季節)と空間(例えば同じ天候を示す場所の広がり)の中でとらえてきたことを示しているのでしょう。「情」や「味」との組み合わせでは、感覚や感情が喚起され、移ろい、消えゆく様が風になぞらえられているわけですが、「物」「景」にみられた時空間のとらえ方とも共通した、現世的で刹那的な「ここで、今この時に」を重んじてきた日本人の価値意識や美意識を反映してはいないでしょうか。
 風は人が感じる大気の流れであり、その流れが生まれるためには、熱と圧力の空間的な分布に不均一が生じていなければなりません。その不均一をもたらすおおもとは太陽の光であり、地球の回転です。どこから来てどこに吹き抜けるのか、時々刻々に変化しとらえどころがないかにみえる風も、貿易風や偏西風といった地球規模の大気の大循環のいわば末裔であり、もし仮に、風の強さと方向を色で塗り分けることができれば、地球全体を覆う色の階調と濃淡の変化のパターンが一年ごとに繰り返す様子が観察できることでしょう。
 風が面白いのは、こうした巨視的な流れでありながら、同時に、人間が皮膚の細やかな感覚でとらえることのできる微視的な変化でもあることです。水は常に流れ循環してはいますが、流域というものを持ちますし、土も徐々に形成され変成しますが、その場は地表に限定されます。それに比べて、完全に密閉された空間でない限り、およそ風の吹かないところありません。生物の組成から言って水は命の源であり、土なしでは陸上植物は繁茂しないことを思えば、土は命の成育の場でしょう。だとすれば、風は地球の息吹であり、生き物が地球との結ぼれを感覚的に把握するよすがとなってきたものだと言えるかもしれません。
 私たちが適度な風を心地よいと感じる感覚は、おそらく陸上に住まうすべての生物に共通の、非常に根源的な感覚であるように思われます。
 人類はこれまで風という物理現象をいろいろな工夫によって手なずけ、利用してきましたが(風鈴、風車、帆船、飛行機、風力発電、うちわ、すだれ、扇風機といった発明品や、防風林、風通しを生かしたりする建築など)、じつはこれらの工夫の歴史はすべて今述べた「風を心地よく感じる感覚」に根ざしています。ですから、どんなに効率がよいと思える風の利用であっても、その心地よさが少しでも損なわれてしまうと、どこかしら違和感を覚えてしまいますし、違和感を覚えるものは見かけとは裏腹にかえって効率が悪かったりするのです。電気エネルギーを著しく消費するエアコンの風を不快に感じる人は少なくありませんし、ジェット機には空を舞う鳥の飛翔の快適さは望むべくもありません。
 「風育」とは、忘れられつつある、この根源的な心地よさの感覚を手がかりに、人間と自然の関係を見直してみる作業でしょう。日本人は、冒頭に紹介した日本語の例からもわかるように、ことのほかその感覚を研ぎ澄まし、風と上手につきあってきた民族であるように思われます。「風育」の可能性の沃野は広いのです。■
(上田昌文/キャリア・マムの連載「地球をもてなそう!」のコラムを改編)

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