化学物質問題の基本を問う

投稿者: | 1998年11月5日

上田昌文

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土曜講座での「環境ホルモン」の発表をふまえて、化学物質をめぐるいろいろな問題にどう対処していけばよいのか、その根本を考えてみたい。ちょうど最近、環境ホルモンを論じた『環境ホルモンとは何か? 日本列島の汚染をつかむ』 (綿貫礼子編 藤原書店1998)が発刊され、その中の第10章「化学物質安全管理 の思想を越えて」で松崎早苗氏が重要な問題提起をしているので、それも手がかりにしながら、現代社会において確立されるべき「化学物質をめぐる諸原則」について考察してみよう。

環境ホルモン問題の出現によって私たちは、これまでなんとなく大丈夫(安 全)だろうと思い込んでいた身の回りの化学物質が、実は生殖異変などをとおして将来に大きな悪影響を及ぼす恐れがあるらしいことが見えてきて、にわかに身 のすくむような思いをしている、というのが現状だろう。今までの常識として、残留農薬や食品添加物、あるいは大気や水の中の汚染物資などを日常的に取り込 むことで、私たちの身体に悪影響が出るだろうことは誰もが心得ていることだったといえる。
しかし、たとえば胎児にとっては、従来さして危険視されていなかった物質も含めて、現行の「基準値」や「許容量」とは比較にならないくらいの 微量でホルモン作用が撹乱され、しかもその時期に被った影響はずっと後になって深刻な被害として現れることがある、という可能性が示唆された以上、「では いったい何が安全といえるのか」「これからの世代に現れてくる被害にいったいどう対処していけばいいのか」という疑問と不安が吹き出してくるのは、当然といえば当然の話だ。
この疑問と不安を解消すべく、従来の化学物質の安全性評価と管理について大きな転換がもたらされ、身の回りから危険性のある化学物質が激減していくという方向にすすめばよいのだが、残念ながらそう簡単にはいきそうにない。化学物 質の問題は、純粋に物質の危険性を論じれば片がつく問題ではなく、私たち消費する側が化学物質というものの’恩恵’を受けてきたそのあり方にかかわることであり、またことにこの日本の企業や行政が戦後の高度経済成長期以来社会の 隅々にまで浸透させてしまった生産拡大・利益優先の体質とかかわることであるからだ。
不名誉なことだが、日本は世界に冠たる’化学物質被害大国’である。古くは足 尾鉱毒事件(じつはいまだに汚染土壌の入れ替え作業が完了していない)や、水 俣病やイタイイタイ病(これもカドミウム汚染米が今でも生産・保管され、一部合板接着剤原料として使用されている)、四日市ぜん息などの大型「公害」やカ ネミ油症事件、森永砒素ミルク事件、日本化学六価クロム事件などを経験しているし、違った範疇に属するが化学物質ということでは共通している「薬害」で も、サリドマイド薬禍やスモン病から薬害エイズにいたるまでその被害者は夥しい数に上る。

そして今もっとも注目を集めているダイオキシン問題。じつはゴミ 焼却にともなって猛毒のダイオキシンが発生することは15年も前から知られていたのだが、日本政府の無策が続いた結果、もうほとんど取り返しがつかないと思えるような、世界でも類を見ない母乳や土壌の高濃度汚染を招いてしまった。
こうした事例に共通しているのは、行政や企業側に「たとえ被害事実や汚染データ が明らかになってきても、因果関係が裁判で明確に示されない限り、その責任を 認めることは拒否し続ける」「加害を裏付けるおそれのある情報に関しては可能 な限り隠蔽する」「被害が出るかもしれないと予測できたとしても、予測がある だけでは必要な予防策を講じるということを決してしない」といった姿勢である。
こうした姿勢が続く限り、たとえ巨額の「環境ホルモン対策費」が計上されようと(今年の補正予算額で183億2000万円)、それが本当に私たちのために使 われるという保証はどこにもない。確かに、環境ホルモンについては、疑わしい物質を割り出し白黒をはっきりさせること――毒性検出・評価方法も同時に開発 しながら――からしか事態は進展しないとみなされていて、米国や日本では巨費 を投じて環境中での濃度を測定するモニタリングや環境ホルモン作用物質を特定 するためのスクリーニングが行われつつある。

しかし、膨大な数に上る化学物質 の1つ1つについて本当に白黒を明確にできるのか、複合作用はどう扱うのか、得られたデータをどう利用して具体的なリスク削減につなげるのか、今のところ はきりしないと言わざるをえないのだ。 一方私たちの化学物質受容の姿勢もおおいに問題だといえる。日本が世界でも飛び抜けて医薬品の使用量が多いことはよく知られている。薬価差益の問題など 「使わせる」側の構造的な要因が大きいとはいえ、私たちの側に安易な専門家(医者)依存と「病気は薬で直すもの」という思いこみがあって、それが薬害を 生む土壌になっていることは否めない。
翻って目を自分の身の回りに存在する数限りない製品や食品に転じると、それらにいかなる人工化学物質が含まれていていかなる問題が引き起こされるおそれがあるかを、どのくらい意識しながら使用 したり摂取したりしているだろうか?たとえばあまりにも卑近な例だが「プラスティックしゃもじ」を取り上げてみよう。それが塩化ビニル製品かもしれないと考えてみたか? なぜあなたはそれを使うのか?(木製で十分ではないか?)炊き 立てのご飯をそれでよそおう時、熱のためにその成分が溶け出すことを想像して みたことはあるか? それが環境ホルモンに相当する可塑剤フタル酸エステルだったらだったらどうする?廃棄した場合、それが燃やされてダイオキシンを出すことはないという保証はどこにある?……「便利」さを求めてつい気軽に買ってしまったこんな些細な品でさえ、よく考えてみると自分一人ではどうにも解決しようのない問題の渦の中にただよっているのだとわかってくる。
本来なくてもどうということのないような製品(新規の化学物質を含んだもの) を、石油化学をはじめとする諸工業が協力して安価に大量生産する。その製品に ささやかな”便利さ”が加われば、それを喜んで購入し消費する私たちがいる。その「私たち」がもうささやかとは言えない数に達する時、その製品は”必需 品”と言われるようになる……。
おそらくこのようなサイクルを無限に繰り返 し、現在の化学物質氾濫社会が築かれた。今私たちどうやら、どうすればそのサイクルから逃れられるのかを個々のケースに応じて真剣に考えてみなければなら ない地点に立たされてしまったらしい。 その見直しに際して基本となる考え方は何だろう。それは人間の生存にとって何 が必須の物質であり何が従属的(付加的)なのかを明確に弁別する価値観だろう。

清浄な水や大気、汚染されていない自然(およびそこから収穫できる食糧)によって、ヒトはこれまできわめて長い期間育まれてきた(化学物質が溢れかえるようになったのは、1人の人間の平均寿命分の時間にも満たないここ40年くらいのことだ)。
この条件をくずしてしまったらどうなるのか、長期的な明確な見 通しを誰も持ち得ない以上、これを汚染するおそれのある物質(自然の中で安全 に循環し分解することが確証された物質以外の物質)は、本来なら”動物実験に よってヒトに対する危険性を計量する”以前に、自然にとっての”異物”――そ の異物がヒトにどう跳ね返ってくるのか予想しがたいほど複雑な自然の網目の中 での異物――であるという理由によって基本的に生産や使用を禁じたり控えたりする対象とみなされなければならないはずだ。

端的に言って「よけいなモノを人間の浅知恵でつくるのはやめなさい」という 思想であり、より正確に言うと、”よけいなモノ”とは自然界にとって受け入れ 難い化学物質を指し、”人間の浅知恵”とは科学技術を指す。この思想はあまり に抽象論であり現在の化学物質氾濫社会ではとても通用しない、などと言うなかれ。現に松崎氏が紹介しているウイングスプレッド会議――『奪われし未来』の 著者コルボーン博士らが組織した学際的な集まり――の最新宣言「事前警戒原則 (予防原則)の必要性」( 1998年1月28日)によれば、「化学物質を売ろうとする者は、事前にそれが環境と人の健康に無害であるということを証明しなければ ならない」、そしてすでに使われている物質については「危険が懸念される疑い がある場合には引き上げる」という原則を適用することが打ち出されているのだ (上掲書228頁)。

化学物質との取り組みのポイントは、こうした基本原則に可能な限り立ちかえりつつ、実現可能な具体的な施策を展開していくことにあるだろう。たとえば、ある物質のヒトに対する毒性が十分に明確にならない段階であっても、その物質が 自然界で長く残留し濃縮される可能性があるとわかった時点で、生産や使用を控 えていくという決定が下されるべきなのではないか。
またたとえば、有害性がある程度まで示された既存物質に関しては、従来のように「基準値」を定めて濃度 規制で対応しようとするだけでなく、「総量」を段階的に削減し(たとえば課税を重くしながら)ゼロ生産にまで持ち込むプログラムが用意されねばならないだ ろう。
そのプログラムには、既存特定産業の計画的縮小・転換、そして当該の化 学物質を含む製品の市場からの回収・処分という難しい課題が盛り込まれることになるが、たとえば過渡的な施策として、よりリスクの少ない代替品開発や回収 物の再利用に公的支援を与えるなどして、プログラム実施に伴う社会的な軋轢を できるだけ少なくする配慮も必要だろう。
こうしたプログラムが社会の合意を得るために前提となるのが、化学物質に関する情報公開だ。考えてもみてほしい、あなたが使っている製品にどんな化学物質 がどれくらい使用されていてその危険性はいかほどのものなのか、という情報をすぐに知り得ないとしたら変ではないか。

あなたの隣の工場でどんな化学物質が どれくらい使用され、それらが環境にどう影響を与えるのかを全く知り得ないと したら、おかしいではないか。前者については、製品ごとの化学物質情報を一般市民がいつでも入手できるようにするシステムの構築が是非必要だ(今のところ 市民は、食品添加物として何が入っているのか、くらいしかわからない)。
後者につては現在、海外での先例にならって日本でもPRTR(環境汚染物質排出・移動 登録)という制度の導入が検討されている。それが本当に市民にとって有用な情 報提供シス
テムになるのかどうかしっかり注目する必要がある。

松崎氏は「日本 では毒性試験技術と環境測定技術はかなり進んでいるが、データベースとモデリ ングが欧米に比べて大変遅れている」と指摘しているが(同221頁)、PRTPで得られる情報をどうデータベース化して活用するのか、化学物質の環境中での複雑な挙動とその影響をどうモデル化してとらえ評価していくのか、が手薄になって しまっては、情報を有効利用することはできないだろう。新規物質の開発に携わる化学者の何分の1かでも、こうした仕事に取り組むようし向けることはできな いものだろうか。
最後に、「環境ホルモン」が科学者に突きつけている、おそらく一番の難問だと思われる問題にふれておこう。松崎氏は、極低濃度のトリブチルスズで生じた 雌イボニシの雄化をとりあげて「もっと低濃度でそこまで至らない変化が、組織内、細胞内で起こっていることが予想される。

一体そういうものを検出すること は可能なのであろうか?”1pptの何分の1ならば影響がない”ということを言うためには、どのような研究をすればよいのであろうか?」(同224頁)と率直 に疑問を投げかけている。さて、あなたはどう考えるか?従来の方法論の限界を どう乗り越えればいいのか?できれば、あなたなりの意見を聞かせて欲しい。

 

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