子どもたちの生殖機能に関する疫学研究の動向

投稿者: | 2002年2月5日

上田昌文
pdf版はrisk_003.pdf
以下に掲載するのはまた、『どうなってるの? 子どもたちのからだ 健康と環境に関する中学生・高校生の調査』坂下栄・編著(市民セクター政策機構2002年、600円)所収の上田の論文「子どもたちの生殖機能に関する疫学研究の動向」を一部改訂したものです。この冊子は、2001年初頭に実施された1都10県、約2800人の中学生・高校生へのアンケート調査の結果をまとめ、考察したものです。生殖機能を中心にした子どもたちの心と身体の実態を把握するための基礎資料を作るという、全国でも初めての試みです。次号『どよう便り』で特集する「疫学入門」の序論の一つとして、ご覧いただければ幸いです。(上田)
◆今回の調査の意義
子どもたちの心と身体に様々な異変が生じていることがしばしば話題になる。アトピー性皮膚炎を患う子どもは今やめずらしくない。化学物質過敏症の子どもの増加とシックハウスやシックスクールとの関係が取りざたされている。「すぐにキレる」子どもたちが目立ってきたのは環境ホルモンの影響か、などとも論じられている。ファーストフードを好んで食べ、ファミコンに熱中し、携帯電話が心の支えになっている子どもたち。そんな子供たちの姿を目にしながら、今ある人工的な環境の影響がこの先どう関連しあって子どもたちに何がもたらされることになるのかを、大人たちはつかみきれないでいる。
異変の実態をできるだけ科学的に正確に把握することが大切なのだが、残念ながら、子供たちの置かれた環境と健康状態との関係を総合的にとらえる疫学調査がなされたという話は、2001年に開始された米国の”社会的責任のための医師の会”のプログラム(★注1)以外は、ほとんど聞かない。ことに今回のように生殖機能に着目した調査は、様々な環境影響を推しはかる上で有力な指標となるものだが、日本に限らず世界的に見ても、詳細で標本数の大きいアンケート調査は、ほとんどなされてこなかったものと思われる。
生殖に関する異変を探る疫学研究は、大人の場合でも、子宮内膜症の増加がしばしば語られ、また精子数の減少がいくつかの調査で示されているにもかかわらず、本格化しているとは思えない。疫学で明確な因果関係を引き出すためには、着目する疾患や異変について、ケース(症例群)とコントロール(対象群)を定め、それぞれの中で、原因と想定される暴露要因に関して、「暴露群」と「非暴露群」を正確に割り出していかねばならないのだが、何よりも肝心である症例群の把握が充分になされていないのだ。
例えば子宮内膜症に関しては、個人クリニック単位や患者会単位の「アンケート調査」はいくつか存在するが、散発的であり、系統的とはいえない。また、たとえば喫煙と月経の関係のように比較的探りやすい指標の場合でも、それなりに長期に渡って月経状態の聞き取り調査をすすめることが難しいせいか、調査規模はかなり小さいものに留まっている(★注2)。子どもたちの生殖異変に関しては、学校保健関係のいくつかのアンケート調査は存在するが、これも系統的でなく、疫学的分析にまで持ち込まれてはいない(★注3)。
したがって、今回の坂下栄博士が主宰(生活クラブ連合が共催)した「環境と健康に関する調査」は、その規模(約3000名)から言っても、またプライバシーにかかわるため踏み込むことが難しかった調査項目を含んでいることから言っても、今後必要とされる疫学調査のための基礎的な判断材料を与えるものとして、重要な意味を持つと考えられる。
◆環境ホルモンと疫学
環境ホルモンなどの生殖機能への影響に関しても、スクリーニング試験と作用メカニズムの研究はさかんだが、疫学研究は数が少ない。
そのような中で注目されるのは、精子数の減少を指摘する研究である。最近の50年間で精液の質が低下している(精子濃度の有意な低下など)という報告(Carlsen1992)、出生年が最近になるにつれて男性の生殖機能低下のリスクが高くなっていることを示す報告(Skakkebak他1993)以来、精子濃度の低下や停留精巣・尿道下裂の増加、精巣癌の増加などを示す報告が相次いでいる。日本でも、帝京大学の梅田隆教授により「精液中の精子運動率が全般的に低下し、精子濃度は東京地区、九州地区、松山地区で低く、ことに20歳代で低い」ことなどが報告されている。現在もさらに規模の大きい調査が進行中であり、平均的な精子数の減少が統計的に有意に示される可能性がある。ただし疫学研究としては、その先の「では何が精子の減少をもたらしているか」という原因特定に向けての調査が必要となる。
発がん作用のみならず強い生殖障害をもたらすことで知られるダイオキシンについては、疫学調査を進めることで「許容量」の見直しに迫ることができかもしれない。動物実験によって種々の毒性が計量され、「許容量」の算出に使われているのだが、人体での直接の影響を疫学的に広範囲に見ることにより、その「許容量」が妥当なものであるかどうかを判定し得るかもしれないからだ。その意味では、ベトナム戦争時に大量に投下された枯葉剤の影響やイタリアのセベソの化学工場爆発事故で大量に飛散したダイオキシンの影響を探る研究は注目されるし(★注4)、またダイオキシン人体汚染データをもとに現在進められている国立環境研究所による研究も、基礎的な方法論を確立する上で重要になるものと思われる(★注5)。
◆男女出生性比に着目した疫学研究
生殖障害を直接にターゲットにしたものではないが、1970年代より日本では男子出生比率が低下し始め、同様の傾向が多くの先進諸国で観察されていることから、環境異変の総体的な影響を示唆するものとして、出生性比に着目する研究が現われ始めている。疫学的解析によって、ある特定地域に生じた男女出所比の”異常”とその地域に特異的な環境要因とを関連付け、因果関係を割り出すことができる可能性がある(★注6)。また、胎児の死産の性比の分析から、ここ20年で急激に子宮内での男児の脆弱性が高まってきていることが明らかになったが(★注7)、このことと男子に生じている生殖障害との関係も今後検討に値する課題だと思われる。
◆化学物質以外の環境要因について
今回実施したアンケートのような、基礎データを収集する段階では、子どもたちの生活の中で心と身体に異変をもたらす恐れのある環境要因をできるだけ幅広くとらえておくことが大切である。彼ら・彼女らが大気、水、食物、医薬品や嗜好品、化粧品、タバコ……などをとおして体内に取り込むことになる人工化学物質に注目するだけでなく、騒音環境(今回調査では「幹線道路の車の騒音」が項目に入っている)、生活リズム、運動の量、長時間のテレビゲームによる目の酷使、携帯電話からの電磁波の被曝など、様々な要因が思いがけない組み合わせで健康に影響してくる可能性があるからだ。その意味では、生活の総体的な傾向を探るために今回子どもたちに尋ねた事項(「関心のある項目」や「快・不愉快感情」)は、分析は難しいが、通り一遍でない新しい視角から「環境と健康との相関」をみる手がかりを与えてくれるかもしれない。
今回の調査項目に含まれていないが、今後例えば、「携帯電話の使用頻度・時間」などを調べていくことは必須になってくるものと思われる。英国では国立放射線防護委員会(NRPB)が呼びかけて組織された「携帯電話に関する独立した専門家グループ」が、2000年4月に報告書をまとめ、「16歳以下の子どもが携帯電話を使用することは控えるべきである」との勧告を行なっている(★注8)。最近、超低周波(家電に使われる50Hz、60Hzの商用周波数)が発がん性を持つ可能性があることが疫学結果に基づいて公式に認定されたが(★注9、10)、携帯電話で使用されている高周波についても疫学調査が強く望まれる。
こうした様々な要因を含みこんだ詳細な健康調査をできるだけ大きな規模で行なうことは、それにかかるコストと必要な協力体制を考えると、民間の一機関の手に余る作業である。この度のアンケートが一つのきっかけになって、行政の何らかのサポートを得て、調査を継続的に拡大し、疫学的な分析が可能なレベルにまで研究を深めていきたいものだ。
★注1:この調査は、神経の発達と環境中の化学物質との相関に的を絞ったもので、「医学専門家のための教育プログラム:子どもの発育に対する有害物質の脅威」と題されている。T.Steinらによると、12万人の子どもたちの調査で、5~10%が学習および行動異常、3~5%がADHD(注意欠陥多動症)、12%が自閉症であり、そしてカリフォルニアでは1987年~98年の10年で自閉症が210%にまで増加した。またH.Needlemanは鉛と注意散漫、依存症、多動症などとの関連を調べ、血中や歯中の鉛濃度が高いとこうした病的症状の割合が高くなることを明らかにしている。
★注2:「喫煙は月経に影響を与えるか?」(米国国立環境保健科学研究所Epidemiology 9:193-198 ,1998)では、542人に対して6か月間の月経に関する記録を求め、さらに358人について聞き取り調査を行いデータを得ている。 7
★注3:平成9年度に発足した日本産科婦人科学会の生殖・内分泌委員会の「思春期における続発無月経の病態と治療に関する小委員会」では、8歳~18歳の女子の続発無月経の取り扱いについて、一定の指針を設けることを目的として、アンケート調査を実施した(「思春期の続発性無月経」日本産婦人科学会雑誌第52巻第1号(平成12年1月)大分大学産婦人科助教授楢原久司・同教授宮川勇生)。
★注4:綿貫礼子「セベソ住民の生殖健康影響(1)ダイオキシン事故から24年」『科学』2000年(第70巻)5月号、綿貫礼子「セベソ住民の生殖健康影響(2)ダイオキシン研究の新たな視点のもとで」同6月号参照。
★注5:「ダイオキシン,環境ホルモン等の健康影響評価に係わる疫学研究の方法論に関する基礎研究」(兜真徳・曽根秀子・米元純三、平成10~12年度)が、大阪および埼玉で高度ダイオキシン汚染に関して、それぞれの地域の作業員及び地域住民の血液サンプルや母乳中ダイオキシン検査結果をもとに何らか報告がなされるはずである。
★注6:水野玲子「霞ヶ関流域と利根川河口地域における男児出生比率の低下 出生に関わる諸問題の考察」『科学』第70巻2000年2月号、「父親のダイオキシン被曝が男児の誕生を減少させている」同8月号「科学時事」、東賢一「環境汚染で出生性比が変わった?」『技術と人間』2000年10月号、松崎早苗「日本の環境汚染から一般住民への環境ホルモンの影響を見出す試み 出生性比の地域差および掲示変化の解析」『環境ホルモン 文明・社会・生命』第1巻2001年を参照。
★注7:水野玲子「死産性比と出生性比の変化 人口動態統計の分析より」『環境ホルモン 文明・社会・生命』第1巻2001年を参照。
★注8:”Mobile Phones and health”Independent Expert Group on Mobile Phones 2000年4月
★注9:WHO (世界保健機関)の下部機関であるIARC (国際がん研究機関)は2001年6月27日に50~60ヘルツの極低周波磁場を「発ガンランク2B」の「人体への発ガンの可能性あり(発ガンをもたらすかもしれない)」に全会一致で正式にランク付けをする発表を行った。この結論は、送電線、家庭内配線や電気器具から放射されるELF(極低周波)では、0.4μT(マイクロテスラ= 4ミリガウス)以上の磁場で小児白血病のリスクがおよそ2倍になる、との疫学的証拠に基づくものである。
★注10:現在、環境省・国立環境研究所と厚生労働省・国立がんセンター研究所を中核機関として、日本では最も大きい規模(ケース数1000以上)で、電磁波の人体影響を探るための小児白血病の疫学調査が進行中であり、2002年の夏ごろにその結果が発表される。
(どよう便り 52号 2002年2月・3月)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA