補聴器の歴史から見えてくること

投稿者: | 2010年12月10日

瀬野豪志(東京大学先端科学技術研究センター協力研究員)
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「福祉」のための当然のテクノロジー?

「補聴器(hearing aid)」といえば、多くの人は、耳につけられる小さな電子機器を思い浮かべるのではないだろうか。いつか聞こえなくなったときには自分も補聴器のお世話になるのではないかと考える人も少なくないだろう。それぐらい、聞こえる人にとっては、補聴器というテクノロジーは、世の中にあって当然のようにみえる。それは「福祉」のためのテクノロジーというものが社会的に認識されているからであろう。補聴器は、よく聞こえるようにするための機器であり、耳の不自由な人の「福祉」のためのテクノロジーであるから、その目的については疑う余地はないと思われるのではないだろうか。
しかし、補聴器は、多くのユーザーから抵抗を受けてきた。その結果、補聴器の専門家と一部の聴覚障害者との間には、いまでも根深い対立関係が残ってしまっている。聞こえる人々にとっては意外なことかもしれないが、補聴器を身につけて生きることは、聴覚障害者にとっては簡単な
ことではなく、必ずしも当然ではないのである。
それは補聴器の性能の問題ではないのか。あるいは、適切に処方されていないからではないか。そう思われるかもしれない。けれども、これまでの補聴器の歴史をみれば、一部の聴覚障害者にとって補聴器が当然ではない理由は、そのような技術的な問題だけではないことがわかるだろう。
ここで、補聴器の「当然のようで当然ではなかった」ことをあげてみよう。
(1)「電話=補聴器」という可能性
(2)誰が補聴器を使うのか
(3)「小型化」の意味
(1)から見えてくることは、「補聴器」というテクノロジーは、その性能による当然さからではなく、電話というものを政治的・文化的・教育的な手段としてとらえる観点から当然のように考えられてきた、ということである。いいかえれば、新しいテクノロジーによる「不確かな可能性」にもとづく福祉の考え方が先行してきたということである。
(2)は、補聴器の専門家にとっては明らかなようだが、想定されていたユーザーからの抵抗があり、補聴器の専門家とユーザーの関係は当然にはならなかった。そのため、「福祉」のためのテクノロジーとはいえ、補聴器を使う生活がどのような意味において好ましいのかについては、専門家でも説明することは難しく、聴覚障害者の間でも見解が分かれているのである。
(3)は、専門家とユーザーが関わることによって、結果的に形成されてきた流れである。福祉のテクノロジーに関してしばしば指摘されるように、個々のユーザーの特性とテクノロジーの性能が適切に合わせられるようにすることは重要であるが、適切に使えるユーザーは、想定されている使い方を考えていないかもしれない。専門家とユーザーの関係が社会的に広がっていくと、様々なユーザーが利用するようになり、そのテクノロジーのあり方が変わっていく可能性があるのである。
以下、補聴器の「当然のようで当然ではなかったこと」について、詳しく見ていこう。
何が「電話=補聴器」を当然にしたのか

「補聴器」と呼ばれている小さな機器は、1876年に発明された電話から発展してきたものである。小さい「送話器」が音声入力の部品で、「回線」でつながれた「受話器」をイヤフォンとして使っているように、少々乱暴な言い方をすれば、電話の形を変えて「補聴器」といっているようなものである。新しい電話(電気通信)の技術が開発されると、補聴器も新しくなる。「電話=補聴器」の技術的な部分だけをみるならば、補聴器の歴史はこれでおしまいでもいいかもしれない。
少し技術的な観点の視野をひろげて、「電話=補聴器」の背景をみるなら、すでに使われていた他の補聴器具からのアナロジーがあったといえるかもしれない。19世紀は、金属製のラッパのような器具が数多く作られていた時代であった。それは、「イヤー・トランペット(ear trumpet)」と呼ばれ、耳に差し込んで使う。大きさや形にも様々な種類があり、晩年のベートーベンが使用していたとされる補聴器具もこのタイプのものである。その他に、耳に入れる器具としては、聾学校などで使用されていた聴診器のようなチューブ式のものがあった。
しかし、補聴器具には大きな扇で集音するタイプのものや、歯に振動を伝える骨伝導式の器具などもあり、そもそも、耳の後ろに手をかざすだけでも、それなりの効果は得られる。ようするに、少し聞こえないぐらいであれば、聞こえやすくするための手段は、バッテリーの交換が必要な「電話=補聴器」に頼らなくとも、技術的には多様にありうるのである。
それでは、「電話=補聴器」という発想を当然にしたのは何なのか。それは「音声言語が話せない」ことを克服させようとする考えであった。それは、聞こえる人による「福祉」の考えであり、19世紀後半からの「口話主義」といわれる聾教育者が掲げていた教育方針であった。その運動の中心的人物が、電話の発明者として有名なアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)なのである。
ベルの電話の発明と事業化に出資していた実業家、ガーディナー・グリーン・ハバード(Gardiner Green Hubbard)は、ボストンにおける口話主義を押し進めた人物であった。ハバードは、娘のメイベル(Mabel Hubbard)が4歳の時にしょう紅熱で聴力を失ったときに、聾学校の幹部たちから、メイベルが英語を話せるようになることは難しいといわれ、手話の習得を勧められたという。しかし、聞こえる人であり、父親であるハバードは、自分の娘が英語を話さなくなるのが不満だった。彼は、ドイツの口話法をアメリカで普及させようとしていた聾教育家サミュエル・ハウ(Samuel Gridley Howe)と関わり、マサチューセッツ州の支援による口話主義の聾学校をボストンに設立することを画策した。そして、ハバードは、ボストンで視話法の普及活動を始めていたベルのもとにメイベルを預けた。のちに、ベルの妻となったのは、このメイベルである。
ベルが音声(雄弁術や発声法)の専門家だったことや、彼の妻が耳の不自由な人だったということはよく語られるところであるが、それだけでは「電話=補聴器」という発想は広がらなかったはずである。ベル自身が個人的に「電話=補聴器」を構想していたかのように語られがちであるが、実際のところ、聾教育の専門家の間で口話主義の考え方が支配的になり、それによって電話を使うことによる効果が期待されるようになったのである。
聾教育史において「ミラノ会議」としてよく知られている第二回聾教育国際会議(1880年)で、口話主義の教育方針は支配的となった。この会議で「聾唖者を社会へ復帰させるため、また言語の完全な知識を与えるためには、口話法は手話法よりもはるかに優れている」、「スピーチと併せて手話を使うことは、スピーチ、読話、正しい思考にとって妨げになる。ゆえに、[スピーチだけによる]純粋口話法こそ望ましいものである」という宣言が決議されている 。この決議からも見えるように、口話主義は、手話を問題視していた。ベルは、手話の使用が聾者同士で交流しやすい傾向をもたらしていることを根拠にして、1883年に「米国において聾者という人類の変種が形成されつつある」という優生学的な議論もしていた。ベルの狙いは、聾者同士の交流・結婚を禁じるほどのものではないが、「聞こえる人々との生活(統合)」をうながす方策を提案することにあったといえる。たとえば、ベルは、寄宿制が多かった聾教育施設を通学制へ変更する案をあげている。この案は、寄宿制の聾学校で行われていた手話によるコミュニケーションを制限し、家庭の健常者と「話をさせる」ことを意図している 。
また、「訓練によって話せるようになる」と考える口話主義は、活用できる「残存聴力」をクローズアップした。ベルは、「電位・オーディオメーター(electrometer-audiometer) 」を考案し、聾児にも残存する聴力があることを明らかにしようとした。そして、1884年に、ベルは通常学級の児童の聴力も測定している。このような「聴力」測定は、聾者と健常者の「聴力」が連続することを認めさせ、「電話=補聴器」の効果を信じる根拠になる。たとえば、ベルの検査を受けたある聾者は、オーディオメーターの音を聞いてから数日の間、それまで聞こえていなかった母音が聞き取れるようになった、と報告した。「この検査機器は、聴覚神経に効果を及ぼすことができるのだろうか。おそらく、やがて、聾唖者を教育する問題は、音声を聞き分けるようにさせるこうした機器によって解決されるだろう 」。実際の効果は、わからない。しかし、効果が信じられるようになるのである。
1922年のベルの死後、「電話=補聴器」に対する信仰は、伝説的なものとなる。1925年にAT&Tの技術部門とその子会社ウェスタンエレクトリック社の研究開発部門が「ベル電話研究所」として統合された後、ベル電話研究所の音響研究者は「電話=補聴器」をベルの遺志を受け継ぐものとして宣伝した。1925年のアメリカ難聴者連盟(The American Federation of Organizations of the Hard of Hearing)の会合で、ベル電話研究所の音響研究のボスであったハーヴェイ・フレッチャー(Harvey Fletcher)は、真空管を用いた補聴器の効果を実演し、マイクロフォンを通して参加者の耳に向かって、次のように話した。
「皆さんは、今、この音響装置でよく聞こえていると思います、なぜなら、皆さんはとてもよい状況にあるからです。私は今、マイクロフォンに近づけて話していますし、大きな増幅器が音を強めているからです。おそらく、皆さんはどうやってこのような良い結果が得られるのか、不思議に思うでしょう。(中略)皆さんのなかには多少なりともご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、時間があれば、電話の発明にさかのぼってみるのは実に興味深いことだと思います。なぜなら、それは、この[難聴者のための]組織と実に興味深い重要な関係を持っているからです。ご存知のとおり、アレクサンダー・グラハム・ベル博士は、電話の発明者でした。彼の発明は、主に話し方を教えることと聞くことができるようにする、難聴者を助けるための仕事を研究する熱望と熱意によっていました。彼がつまずいた[難聴のための]研究においても―それは、よく計画された研究だったので、つまずいたと言うべきではありませんが、彼が、その後に電話をもたらした機器の組み合わせを得たのは全くの偶然でした。電話は、聾の教育者から発明されたのです。長い年月の後に、電話会社は、ついに、ベル氏がもともと難聴者を助けるためにやろうとしていたことに戻り、発展させようと決心しました(会場内拍手) 」。
ベル電話研究所の研究者は、研究所の外の人々と関わり、「音響技術」の効果をアピールしていた。フレッチャーは、「電話=補聴器」の効果を見せて聞かせる活動を展開したのである。
誰が補聴器を使うのか ~聴力検査による選別

フレッチャーは、アメリカ難聴者連盟との関わりを持ち続け、一時は会長を務めている。難聴者連盟は、聴力の保護・予防のための運動が始まったことによる組織である。軍人や産業労働者の間で聴力を失う人が増加していたことを受け、1916年、ニューヨーク、ボストン、シカゴで、聴力の保護、聴力の損失の問題に対処するための地方組織が設立され、次第に全国的な規模となり、1918年には、アメリカ医学会の会長、ウェンデル・フィリップスによって、アメリカ難聴者連盟が組織された。
聴力の損失に対する関心が高まっていたこの時期に、聴力損失を持つ児童の発見が重要視されるようになり、新しい聴力検査の方法が必要とされた。アメリカ難聴者連盟は、ニューヨーク市の公立小学校の校長や教育委員会の代表者と、学校での聴力検査の方法についての会議を重ね、1924年に開かれた第一回難聴児委員会で、聴力検査機器の開発をフレッチャーに依頼することになった。
フレッチャーは、公立学校での聴力検査のためのオーディオメーター(ウェスタンエレクトリック4-A)を開発した。4-Aは、電気蓄音機で使われていたバネ式のターンテーブル、マイクロフォン(電磁送話器)、そして8つの受話器から成っていた。受話器を片側の耳にあてて、両耳それぞれの聴力を検査できるようになっていた。4-Aをいくつか使うことによって、学級別に40人程度の生徒を一度に検査することができた 。
フレッチャーのオーディオメーターには、ベル電話研究所で使われていた「デシベル」という単位が「聴力損失」を示す尺度として応用されている。4Aは「3デシベルずつ」音声が小さくなるように録音されたレコードを再生する。女性と男性の声が単純な数字を話すようになっており、生徒は聞き取った数字を記録用紙に書き留めるように指示された。間違った数字を答えたときの提示音のデシベルの平均値が聴力損失の値として記録された。
1926年4月に、フレッチャーは、4-Aによる検査結果をまとめ、「300万人の聴力損失を持つ生徒(Three Million Deafened School Children)」という題名で発表した 。4-Aの開発と調査報告を受けて、1926年にアメリカ医学会と耳科学に関連する組織は、公立学校での聴力検査を実施することを決め、ローラ・スペルマン・ロックフェラー・メモリアル財団は、公立学校の生徒の聴力検査のための機関に資金の助成を行った。そして、アメリカ医学会の指揮のもとで、耳科学会、聾教師協会、アメリカ難聴組織連盟の合同による、聾児に関する調査委員会が組織された。この委員会は、オーディオメーターを紹介し、聴力検査を行うための人の養成と機器の開発に努めた。1928年から1929年にかけて、4-Aを使った聴力検査が全国的な規模で実施され、アメリカの公立小学校に在籍する約22万5千人の生徒がテストされた 。
各地で聴力検査が行われたが、フレッチャーが「聴力損失を持つ生徒」の数として発表していた「300万」というセンセーショナルな数字は議論を呼ぶようになった。この「300万」という数字は、「9デシベル」以上の聴力損失があった生徒の数を推定したものだった。フレッチャーは、検査をした4112人の生徒のうちの「14.4パーセント」にあたる595人が9デシベル以上の聴力損失があったという結果に基づき、全米の公立学校の全生徒の約2400万人のうちの「12.5パーセント」にあたる300万人以上の聴力損失を持つ生徒がいると概算していた 。しかし、1928年に行われた検査だけでみても、9デシベル以上の聴力損失を持つ生徒の割合は、テキサス州フォート・ワースで行われた検査の結果では「21.16パーセント」、ニューヨーク州ロチェスターで行われた検査の結果では「1.27パーセント」と大きくかけ離れていた。このような結果について、1940年に、公衆衛生局による聴力検査の調査報告をしたベアズリーは、次のように述べている。「過去12年間、全米の都市部と地方において、何百万もの子どもたちがこの機器(蓄音機型オーディオメーター)で検査されている。(中略)異なる集団で得られた聴力損失者の割合には大きな開きがみられるので、その理由を説明するための分析が続けられているが、実際の[聴力損失者の割合の]問題に関係のある要因によるものと、検査における変動要因によるものとを見分ける方法はない 」。フレッチャーは、300万人という数字について「ある部分では、学校関係者の間にこの問題への関心を喚起させ、教室にいる聴力損失を持つ生徒に手を差し伸べる動きを起こそうという宣伝の目的で、我々がそういった表現を選んだのは確かである」と述べている 。
聴力損失の値についてのフレッチャーの考えは、補聴器の増幅能力に合わせたユーザーのカテゴリー分けに関わっていた。国家研究評議会の人類学と心理学の部門による聾の問題についての会議で、補聴器の性能と補聴器の処方に関する方法を調査する委員会に招集されたフレッチャーは、1928年1月に、補聴器のタイプに関連付けながら、聴力損失者を次のように分ける方法を提案した。
(1) 普通の会話が可能で、聴力損失が30デシベルよりも小さい人
(2) 聴力損失が30デシベルから60デシベルの人
(3) 聴力損失が60デシベルから80デシベルの人
(4) 聴力損失が80デシベル以上の人
フレッチャーは、電気的な増幅が理想的になされ、歪みがないことを仮定した上で、初めの(1)から(3)までの三つのカテゴリーに入る人々は、30デシベル増幅できる機器(音の物理的強さにして千倍の増幅が可能なもの)か、50デシベル増幅できる機器(音の物理的強さにして10万倍の増幅が可能なもの)の使用に適していると提案した。(4)のカテゴリーに入る人々のための補聴器は、聾学校や、会議場、劇場などに備え付けるような集団用の形態のものになるとした 。大雑把な話ではあるが、こうして補聴器を処方される人々─「難聴」者─が特定される、と専門家は考えられるようになる。
しかし、「難聴」は、聴力損失の値や、補聴器の増幅の程度だけで決まらなかった。たとえば、難聴者連盟の会議に出席していたある女性は、補聴器を使って話を聞いていたひとりの少女を会議でみかけたが「彼女は話者が話す言葉を全く理解していなかった。この少女は、口話訓練を受けておらず、『聾』として育てられていて、会議に出席するまで一度も補聴器を使ったことがなかった」。しかし、この少女自身は話者の声質の特徴を聞き分けることに熱心だった。彼女は、使ったことのない補聴器をつけて、みずから難聴者連盟の会議に出かけ、話の内容が分からないのにもかかわらず、話者の声質を楽しみ、補聴器のユーザーとして、すなわち「難聴」者として、出席していたのである 。また、ある聾学校の校長は、「難聴」と「聾」をどのようにして分けるのかという質問に対して、「もし、生徒がすでに家庭において話すことを習得しているなら、たとえ聴力損失が45デシベルあったとしてもその生徒を難聴児とみなします。もし、生徒が話すことができないのなら、たとえ聴力損失が35デシベルだったとしてもその生徒を聾児とみなします」と答えた。そして、この校長は口話訓練のために導入した集団用の補聴器が備え付けられた教室をこの質問者に見せて自慢した 。フレッチャーが述べたように、重度の聴力損失を持つ聾児は、大型の補聴器を聾学校での訓練で使用するようになっていた。口話主義の聾教育者たちは、聴力損失の度合いに関わらず、大型の補聴器によって聴取と口話の訓練を受けている児童を「難聴」者として扱っていくのである。
また、聴力損失を持たないのにもかかわらず、難聴者になろうとする者がいた。いわゆる「仮病」の難聴である。難聴者の数のばらつきが報告されるにつれて、仮病の難聴者の存在が疑われるようになった。聴覚研究者のハロウェル・デイヴィス(Hallowell Davis)は、聴力検査における仮病の可能性について次のように述べている。「聴力検査についての議論の中では、(中略)すべて患者側の完全な協力を考えていた。新生児や年長の自閉児の例については、われわれは無関心を装っていた。しかし、積極的に欺くことがあるとは考えていなかった。経済的な利益、『顔を立てる』、または危険から逃れることが問題になるようなとき、また、きこえに関する傷害、または兵役からの解雇における補償のようなときには、われわれは逆の動機付けに出会うかもしれない。被検者はきく努力をしないどころか、まったくきこえないふりをするか、彼が実際にきこえるよりもずっと悪くきこえるふりをするであろう 」。仮病の患者は、多くの場合、兵役逃れや補償目当ての目的で「難聴」を装っていたとされる。
補聴器を処方する専門家は、抵抗する患者を説得することに悩まされていた。ある耳科医は、あまりにも多くの患者が補聴器の使用を嫌がったため、「補聴器を使おうとしない患者の心理的な側面を解決することが補聴器の普及において最も重要であり、耳科医はその患者の心理にも通じなくてはいけない」ということを述べている 。他の耳科医も次のように述べている。「補聴器の効果に疑いの余地はない。我々が直面している問題は、処方した後も補聴器を着けるよう患者に促すことだ。彼らは、身体的障害の印になるものを身に着けたがらない」。アメリカ難聴者連盟でオーディオメーターと補聴器の宣伝活動を行っていたウェンデル・フィリップスとロウウェルは、次のように述べている。「聴力損失を持つ者に補聴器の使用を説得することほどうまくいかないことはない。彼らや彼らの家族は、補聴器が価値のあるものというよりは、それによって社会的なハンディキャップが明らかになることを恐れるので、補聴器を使いたがらないのである。結果的に、なんらかの方法を彼らに吹き込む詐欺師の手に落ちてしまう。また、ある難聴者たちは無関心になっていき、実際のところ、ほとんどは心理的なスランプに入ってしまう。このような理由から、彼らは、きくことの疲れや、心理的な抵抗ゆえに、彼らは補聴器を使おうと思わない。またある難聴者は、補聴器で聴覚がよくなるはずはない、と自分自身を欺き、補聴器で得られることを認識できない 」。
ユーザーの抵抗は、補聴器の専門家にとっては、消極的態度にしか見えなかった。しかし、事態は、抵抗運動によって聴覚障害者のなかで「聾」と「難聴」の分離が生じていたのである。1930年代から口話主義に反対する聾者たちは、口話主義の聾学校の校長を更迭する運動を展開していた。特に、ジョージア州の聾学校での聾者の運動は激しく、彼らは口話主義者の校長を更迭するのに成功し、1939年には、この聾学校の生徒は、授業で手話を使うことができるようになった。彼らは、補聴器に対する不満というだけでなく、聴力損失の度合いにかかわらず、みずからの判断で口話主義の成功者としての「難聴」者になることに抵抗し始めていたのである。補聴器によって「難聴」者になることを強要されたことへの抵抗という動機から、手話の使用を基盤にする聾(Deaf)の社会が確立されていくのである 。
「小型化」 専門家とユーザーの関係の結果として

19世紀のイヤー・トランペットを見てみると、腕の長さぐらいの大きなものもあるが、目立たないように椅子の肘掛についていたり、ステッキの先にあったり、帽子の中に入っていたりする。この頃から「隠して使いたい」という要求があったようである。
初期の補聴器では、「携帯できる」小型のものが開発されている。しかし、ユーザーが満足できるものではなかったようである。たとえば、1900年にウィーンの有名な耳科医ポリツァー(Adam Politzer)の助手だったファーディナンド・アルト(Ferdinand Alt)が開発した小型補聴器は、60センチ以上離れてしまうと効果がないとアルト自身が説明しており、軽度の少し聞こえないぐらいの人が会話で役立つ効果があるぐらいのものだった。「隠して使いたい」というニーズがあったためか、通信販売などのいかがわしい詐欺療法にも、粗悪な小型補聴器が存在した。この頃の小型補聴器は、隠すためのデザインとしてはよくても、その性能についてはよくわからない。
1920年代になるとウエスタンエレクトリック(ベル電話研究所)で真空管補聴器が開発されるが、その「増幅」の性能は革新的であったものの、高性能にすれば大型になってしまうものであった。そのために、デスクや部屋に備え付ける大型の補聴器が開発されている。口話主義の聾学校では、音声言語を習得するための訓練を行うための機器として、大型の真空管補聴器が教室に備え付けられた。
一方、ベル電話研究所の研究者は、持ち運びができるボックス型の真空管増幅器を研究所の外に持ち出していた。たとえば、演説のための拡声機器や、電話回線のメンテナンスのための機器などのような、屋外で使うことができる「ポータブル」の機器である。病院や小学校で使うためのオーディオメーターもそのひとつであった。このような「ポータブル」の機器として、片手で持てるぐらいの大きさのボックス型の真空管増幅器をつないだ補聴器も開発されている。しかしながら、持ち運びができるとはいえ、この「ポータブル」タイプの真空管補聴器は、のちに「ラジオ受信機」にカムフラージュしているデザインで出回るようになる。持ち運びながら使うのではなく、出先でも使うぐらいの使い方だろうか。
したがって、1920年代の段階では、補聴器にはいくつかの異なる用途が考えられていたことになる。
1920年代    隠して使いたい(携帯できるカーボン・マイクロフォン小型補聴器)
           「ポータブル」?(手持ち型の真空管補聴器)
           デスク用、聾学校の訓練用(大型の真空管補聴器)
1930年代後半 「個人用(individual)」(携帯できる真空管補聴器)
いくつかのタイプの補聴器があるなかで、1930年代後半に、携帯できるぐらいの小型の真空管補聴器が開発される。これは、真空管の小型化や、バッテリーを身体に「隠して」装着する方法などがその技術的な理由としてあるが、この頃から「個人用」補聴器という考え方が検討されている。その考えによれば、こどもが装用できるぐらい小型の補聴器でも効果があるならば、個人的な生活において使用されつづけるようになり、「聞こえ」以上の効果が期待できるというのである。たとえば、アメリカの国家研究評議会の聴力損失(deafness)の問題に関する委員会(1940~1944年)では、フレッチャーを含む委員らによって、小型の「個人用」補聴器を使用している児童の追跡調査が行われ、ユーザーの「パーソナリティ」の変化との関係に注目した報告が作成されている。口話主義の聾教育者にとってみれば、小型の真空管補聴器は「隠して使える」以上のものであり、このときの「小型化」は、幼少の頃から個人的な友人関係や家庭のなかで音声言語に習熟でき、聾児のパーソナリティや生活の質が向上する、ということを意味している。
しかし、携帯できる小型補聴器のユーザーは、聾学校の児童だけでなく、聴力検査という場から生まれるようになる。一般的な場所で聴力検査が実施されるようになり、聾教育とは異なるところから、いろいろな「難聴」者があらわれてきたのである。第二次世界大戦の後、米軍のリハビリテーションセンターから小型の真空管補聴器が支給されるようになり、AT&Tは万国博覧会(1939年、1940年)などで一般向けに聴力検査を実演している。社会のいたるところで、誰しもが「聴力」の健康状態を知るようになり、自分の聞こえがどの程度なのかという関心が高まってくる。「聴力」は加齢を示すものにもなり、20世紀後半の先進諸国における高齢化は、聾学校には関係しない難聴者のグループの成立に大きな影響を与えるようになった。
難聴者のグループの成立によって起こったのは、もともと音声で話せる人々が「ほどほど」の性能の小型補聴器を使うようになったということである。難聴者のグループには、聾教育を受けている人々だけでなく、退役軍人や、高齢者、軽度の聴力損失を持つ人などの「中途失聴」の人々が多く含まれるようになった。彼らは、聾学校で音声言語を習得するための訓練を行うのではなく、これまでの生活のコミュニケーションを維持するために、みずから補聴器を選択して「ほどほど」の性能のものを使い続けようとする。
「小型化」しながらも性能が上がってきたことは否定しないが、福祉においても先端技術の目的とは異なる用途にスピンオフして普及するケースがあるということは、これからの開発者にとっても重要なことであろう。
これまでの補聴器、これからの人工内耳
~科学技術と生活者の関係を考えるためのモデルケースとして

補聴器は、生活のなかでのコミュニケーションのあり方にかかわるテクノロジーであるため、科学技術と生活者の関係を考えるうえでひとつのモデルケースとして多くの示唆を与えるだろう。
補聴器の専門家とユーザーの関係について、これまでの流れを整理してその特徴をまとめてみよう。
① 電話による可能性=「話せるようになる補聴器」が考案される
② しかし、ユーザー(聾者)にとっては、やはり音声言語の習得は難しかった
③ ユーザーの抵抗が知られるようになる
④ 適切な処方の方法(「聴力」検査)やデザイン(「個人用補聴器」)が考慮される
⑤ 「ほどほど」の性能で十分なユーザー(話せる中途失聴者)が利用するようになる
補聴器は、高性能の増幅技術による未知なる可能性が信じられていたことから出発しながらも、ユーザーにとって「ほどほど」の性能のものに落ち着いてきたテクノロジーとしてみることができる。
その一方で、現在の「人工内耳」というテクノロジーは、かつての「電話=補聴器」と同じように、きこえない児童に音声言語を習得させるためのものとして考えられている。つまり、新しいテクノロジーの可能性を根拠にしてきた口話主義の考えが、ふたたびあらわれているわけである。見方によっては、人工内耳を装用している聾児のほとんどが音声言語を習得できるようになれば、音声言語を話すことができない「聾」はなくなってしまうはずだと考えられるかもしれない。本当にそのような結果になったとき、それは口話主義の最終的なゴールを意味するだろう。
しかし、そうはならないように思える。なぜなら、「電話=補聴器」が開発されて以来、かえって「聾文化」のアイデンティティとしての手話の重要性が再認識されてきたからである。これは、文化的な対立になっている。補聴器や人工内耳は、「聴力」の損失を補うだけでなく、むしろ「聾」の人々のコミュニケーションのあり方を変えようとする目的をもっているがゆえに、手話をアイデンティティとする聾者による「文化的な抵抗」を受けているのである。手話という言語にもとづく「聾文化」が社会的に認識されている今日では、聾教育の現場においても、手話と音声を併用する「バイリンガル」や「バイカルチュラル」を目指すのが現実的であろう。その結果、聾者のコミュニケーションにおける手話と音声の割合には個人差があるだろうし、最終的には、言語は彼らが選ぶものである。手話にもとづく文化が存在する以上、人工内耳のあり方は、手話とは異なる「もうひとつの言語」を習得する可能性を支援することにとどまるように思われる。
したがって、今後も、「難聴」と「聾」を選択できる社会的状況は続いていくであろう。場合によっては、その選択の判断が難しいケースもあるかもしれない。重度の聴力損失の検査結果に直面したとき、生き方を左右するような判断が求められるときがあるかもしれない。たとえば、自分のこどもが幼少時に聴力損失があることが判明したとき、親である自分はどのように判断するべきか。現在では、音声言語の習得の観点から、新生児聴覚スクリーニング(聴力損失の早期発見)が重要とされており、日本でも、0歳児から補聴器を装用させることが推奨され、人工内耳を頭部に埋め込む施術は1歳半以上であれば可能とされている(日本耳鼻咽喉科学会「小児人工内耳適応基準」2006年)。それゆえ、聴力検査や補聴器・人工内耳の装用は、本人の判断ではなく、専門家や両親などの周囲の人間の判断によることが多いのである。北欧諸国などの一部の国々では、ほとんどの聾児に対して無償で人工内耳の装用がなされている。ハバードの娘であり、ベルの妻だった彼女は、もし今の時代に生きていたら、当然、人工内耳を装用しているのだろうか。それとも、みずから人工内耳に対して判断することがあるだろうか。
補聴器は、専門家や健常者が使っていることばを「話せるようになるため」に勧められてきたが、それに対して、補聴器を勧められたユーザーは、専門家や周囲の人々とのやりとりを重ねながら、どのようなコミュニケーションを望み、どのような文化的生活を築いていくのかを考える。このような個人的な考えに深くかかわるために、補聴器は「聴力損失」があるだけでは当然のテクノロジーとはならないのである。
福祉のテクノロジーに関してしばしば指摘されるように、個々のユーザーの特性とテクノロジーの性能が適切に合わせられるようになることは重要であるが、適切に使えるユーザーは想定されている使い方を必要としないかもしれない。このような専門家とユーザーのダイナミックな関係が社会的に広がっていくと、様々なユーザーが異なる目的から利用するようになり、そのテクノロジーの目的や姿かたちも変わっていくのである。■

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