連載 第1回 市民はどこから大学を変えていけるか

投稿者: | 2000年9月10日

上田昌文

●はじめに:なぜ大学を問題にするのか
土曜講座では、今年3月の「市民がすすめる大学改革」のシンポジウム、そしてそれを機に実施された「大学問題アンケート」以来、大学は社会の中でどのような機能を担うべきなのかという問題について、”市民に開かれた大学”という観点から考察しようとしてきました。
大学自体は1990年代に入って、いわゆる「大学改革」を進め(カリキュラム改革、教養部廃止、大学院重点化、産学協同推進など)、今現在は国立大学の「独立行政法人化」という制度上の大きな改革の途上にあります。私は、それらの推移を様々な情報を集め関係者の声を聞きながら、それなりに注意を払って見守ってきましたが、今ひとつそうした改革の中心的な理念は何なのか、大学は自身をどう変えたいと望んでいるのか(あるいは文部官僚を中心とした「国」が推し進める施策に、どう賛成もしくは反対し、社会の潮流に自らを位置付けようとしているのか)が見えてこないことに、いくらか苛立ちを覚えています。社会の様々な領域において「市民参画」が進み、また科学技術のあり方に対しても次第に市民の立場からの新しいニーズが生まれ、新しい展望が示されつつあるのに、どうも大学はそれにまともに向き合おうとしていないのではないか、という気がしているのです。

確かに、大学という巨大で複雑な組織を広範に論じ、その改革の見通しを打ち出すことは、その内部にいる者にとってもなかなか困難なことでしょうし、ましてや教員や事務職員そして管理職の連携・連帯が希薄な環境にあるとすれば、実効性のある改革を着実に押し進めていくことは(これまでのちょっとした慣例を変更するというだけでも)、実際は困難を極めるのでしょう。大学の外部にいる一般の市民には、直接の利害関係もなく非常にわかりにくい「大学改革」の問題などは、関心の埒外にあるのかもしれません。しかしだからといって、全体としてこれほどまでに大きな影響を社会に及ぼしている組織のあり方に、市民が口をつぐんでよい、ということにはなりません。市民の税金がそこに注ぎ込まれているという前提的な話を無視するわけにはいかないのは当然にしても、良くも悪くも大学は今後の社会を知的に先導していくという役割を担っていることには変わりがないと思われるからです。”知的に先導”していくのは何も大学に限った話ではなく、しかもそのことでの大学の比重は低下してきているのかもしれませんが、それでも現在の社会でシステムとして「知的センター」の役割を担っている最大の存在は、なんと言っても大学でしょう。そのシステムが機能不全に陥っていたり、そもそも私たちが望んでいるのとは別の方向に作動していたりするなら、これを見逃すわけにはいかのいのです。大学は、大半の市民にとっては、個々人が体験するいわゆる「学歴」の最終通過点に過ぎないのでしょうが、見方を広げて、大学が社会にどう貢献できるのか、そのためには何にどう取り組んでいくことが必要か、という問いかけを、市民が自分の問題として行っていくことが大切なのです。

この連載では、適時具体的な事例にふれながら、市民が大学に対してどういうリクエストを突きつけていけるのか、そしてそれが単に理想論をぶつということに終わらずに、実際に大学関係者と連携を作り、よりよい改革を進めていための現実的なステップとなり得るような形でどう提起できるのか、を探ってみたいと思います。主に二次的な情報を手がかりに、場合によっては重要だと思われる文献の紹介も行いながら、仲間との議論をふまえたアイデアを皆さんに示してみたいと思います。いたらない点や未熟な見解も多々含まれるでしょうが、どうか厳しいご指摘・ご批判をお願いします。1年か2年をかけた長期連載になるかもしれません。読者の方々の反応も取り込みながら、建設的な議論を展開できればと思っています。

●教育改革の方向性
大学のあり方を論じる前に、現状をふまえて私が思い描いている、これからの教育のあるべき姿をまとめておきます。ことに科学技術と関連した教育に的を絞って、「初等・中等教育」「高等教育」「一般人のかかわる社会教育」で分けて考えると、次のような方向を目指すべきだと思っています。(報告書『科学技術と社会・国民との在り方に関する調査』(平成12年度、政策科学研究所)の自筆担当部分をもとに一部修正して記述しています。)

1●初等・中等段階の理科教育
まず初等・中等教育においては、広く自然と触れあい、社会生活と関連づけて科学技術を理解することのできる、幅の広い体験的学習の機会が提供されるべきでしょう。
これまで小学校から高等学校までで行われてきた理科・科学教育は、専門家のための基礎教育という色彩が強く、それが故に数多くの科学的事実や原理・法則などをすばやく覚えこませることに力を注いできました。将来科学技術の専門家になる一部の者を除いて、それらの教育が本当に、今国民に必要とされている科学技術全体への理解や関心を育成することに貢献してきたのか、大いに疑問が持たれるところです。科学技術が生活のあらゆる面に入りこんできている状況において、非専門家である生活者が社会の一員として責任ある生き方をまっとうするには、高度な専門性が障壁として立ちはだかるように思える科学技術という領域の問題に対しても、自らの判断を下し、必要な行動を提起していけるだけの主体性・能動性が求められます。そうした科学技術に対する態度や積極性の形成に資することが、理科教育の大きな目的であると認識されねばならないのです。
そのためには生活や社会、言語に関連した基礎的な技能や素養の育成を基礎にしながら、できるだけ早い時期から自然との自由な触れあいを体験し、実際の社会生活との関連のもとで具体的な実感を通して科学技術を把握していく方向が重視されるべきでしょう。すなわち、これまで「理科」という枠組みで括られていた教科内容を、情報化の進展や科学技術と社会との相互関連の高まりに応じて、より広い文脈に位置づけ、より主体的な学習が可能となるように豊富化をはかり再編集することが求められると思われます。授業の中にうまく実験・観察や体験型の学習を取り込んでいくことはもちろん、メディアの活用、博物館・科学館など学外の教育施設・教育プログラムの活用、そして環境教育などにおける専門NPOとの連携や地元地域に在住する専門技能職人を呼び込んだ学習の機会など、さまざまな試みが奨励されるべきでしょう。

2●高等教育としての「科学技術/社会」問題
次に、高校、大学を含む高等教育においては、主体的な判断形成につながる「科学技術と関連した社会問題」を学ぶ必要があります。
高等教育においては、自然科学系の専門分野の学習・研究に専念する以前の段階でも、あるいは、大学院のような専門専攻課程でも、自然科学研究や技術開発を社会的歴史的文脈で幅広くとらえることのできる、いわば人文科学・社会科学的な教養は不可欠です。科学技術の社会的役割が鋭く問い返され、持続可能な社会の形成が求められる時代にあっては、文系理系融合型の問題認識能力が非常に重要になってきているのです。はじめから文系理系の両者が切り離された専門教育偏重の教育や、専門教育で得られる知見や認識、専門家としての心性に何ら影響を及ぼすことのない付属品としての人文社会的教養教育は、時代の要請に応えた高等教育とはいえません。文理どちらのコースにおいても、自然科学という認識活動の特質や科学技術の社会的意味合いなどを含む「科学技術/社会」問題について、現実の問題をとおして認識を深め、自らの意見を形成し、社会への主体的参画を促すような、能動性・実践性のある教育が展開されねばならないでしょう。衰退しつつある一般教養教育を、このような観点から適切に再編し組み込んでいく必要があるのです。
一方、専門職に必要とされる技量を修得するための専門教育が我が国で十分に行われていないことはしばしば指摘されています。問題解決のための科学技術の活用、ことに科学技術がもたらすリスクへの十全な対応の必要を考えたとき、このことは重大な問題です。大学での科学技術専門家育成が、どのような水準を保ち、適切な社会貢献が行えるようにどう営まれねばならないか、まずは幅広い層で議論することから始めねばなりません。「専門家」をどう作るかを「非専門家」を交えて検討することが必要なのです。

3●社会教育としての「科学技術/社会」問題
さらに、「市民参加」が社会のさまざまな面において進展していることに応じた、市民自身による学習の必要性の高まりを認識し、科学技術の領域で市民の学習を支援できる「社会教育」が追求されねばなりません。
科学技術が深く社会に浸透している現在、市民参加型の政策形成をすすめるプロセスで、市民自らが科学技術にかかわる社会問題を学習し、検討し、議論を重ねなければならない機会が増大しています。市民の側からの学習の必要性に応じるべく、科学技術の専門に関わる事柄を的確に解説し、情報提供できるようにするために、既存の教育システム、NPOなどの民間活動、そしてジャーナリズムやマスメディアなどが生かされねばならないのです。そこでは、市民の側からのニーズに応え、その中で市民自らが学習を深めていくことのできる、科学技術に関する教育・情報環境が整備できるかどうかが、1つの鍵になります。ただしこれらは、固定されたカリキュラムをこなすことで達成できる従来の「学習」のイメージを大きくはみ出ていて、具体的現実的な問題解決に向けて多様なアクターが相互の議論や情報交換をすすめる中で自ずと形成されてくる学習プロセスとしてとらえるべきでしょう。そのような自律的な学習プロセスを支援し、補助し、活性化するという点に市民に対する「社会教育」が果たすべき役割があると考えるべきでしょう。
ことに今後、科学技術の非常に多くの領域において、問題となる技術が社会的に適正なものかどうかを問いかけるテクノロジーアセスメントの必要性が高まり、市民の社会参加の度合いが大きくなるにつれて、市民と専門家の双方向的なコミュニケーションがますます必要になってくると想定されます。その際に、公的な教育機関が必要な学習・情報収集の機会や手段を提供したり、NPOやジャーナリズムが「解説者」としての機能を果たしたりすることなどが、市民の側から強く求められることになります。こうした要請に応えることができるように、開かれた学習システムを教育機関の中に作り出していかねばなりませんし、メディアの賢明な利用をはかるために「メディアリテラシー」が市民に根付いていく必要もあります。また、情報へのアクセスが充分にはかれない人々に対しても格差を生じることのないように、社会的な配慮と支援が用意されねばならないでしょう。

●議論のアウトライン
では、こうした文脈において、大学をどう変えていくべきか。それがこの連載の課題ですが、まず今回は議論のアウトラインを示します。問題の広がりをおさえておいて、個々の論点が他のものとどう関係付けられるのかが見えるようにしておかないと、複雑な問題は扱えないからです。
まず、大学を次の8つの切り口から眺めていくことにしたいと思います。
①情報公開
②財政・運営管理システム
③評価(外部評価、内部評価)
④人事(主としてその公平性、流動性)
⑤研究と教育
⑥社会サービス(主として地域の知的センター機能)
⑦公開度の一事例としての「図書館の開放」
⑧構造的欠陥の一事例としての「非常勤講師問題」
もちろんこれ以外の切り口もありますし、これらの切り口のすべて関連してくる、大学と行政府との関係性(独立性)の問題、すなわち文教政策や科学技術政策や産業政策が大学をどう規定しているのかという根底的な問題があります。政策を実質的に仕切っている中央の官僚と大学側の管理・運営陣とがどういう関係にあるのかは、私たちにはもっと見えにくい部分の一つですが、そこのところの現実を知らないままでは、どうもいろいろなことが見通せないという感触を私は持っています。ただしこの問題は、それ自体を独立して扱うというより、個別の8つの切り口に応じて、見え隠れするその顔を適時つかみ出してみることにします。
まず、今の時点で私が実現してみたいステップ、獲得してみたい目標を、列記してみます。私が構想する「市民の立場からの改革」のイメージをつかんでいただくためのものです。次回からは、ここに記したアイデアをもとに、具体的なデータや実現手法を検討しながら、より詳細に論じることになります。

1●情報公開
(1)研究予算の使われ方、人事面に関する情報公開をすすめること
文部省・科学技術庁に科研費情報などHPで一覧できるようにできないだろうか? また各大学でもHPなどで同様の情報公開を行っていくべきであろう。あるいは『大学白書』のようなものを発行し、組織別、プロジェクト別、研究者別の金の流れを把握できるように予算情報を統括・整理・分析することも必要か。情報公開がすすめば、内部の硬直的な”変わらなさ”にも社会の目が向けられることになり、自浄作用が働く。
(2)大学の方針自体の公開と市民の意見交換の場の設定
市民も意見を発信し、大学人と適時相互にネットで議論できるような環境がほしい。また時には、「大学評価」とからんで、市民と直接対話できる場があればよい。大学の方針は、受験生向けのパンフで述べられているような形だけでなく、一般市民に大学の存在をアピールし、実際に何が行われているかが伝わるような文書で示されるのがよい。
(3)学者個々人の審議会など行政セクター、産学連携における企業セクターへのかかわりや発言内容を公開
これは、行政の責任で行うべきこと。審議会や委員会などの政策の意思決定の場で、誰がどのような発言をしたのかが明瞭に社会に伝わることが、手続き的な正当性と内容的な妥当性を高める上で不可欠。「評価」のための重要な判断材料にもなる。
(3)理事会、教授会の審議内容で社会性の高いものについては原則として公開
大学が社会にどう貢献しようとしていいるのか、という点について内部の重要な議論を公開することは、大学自身の活性化につながるのではないか。

2●財政・運営管理システム
(1)高等教育財政をわかりやすく示すこと
情報公開と関連するが、大学など高等教育の財政が大変複雑でわかりにくい。前記『大学白書』などにおいて明示すべき。
(2)財政源の多様化(民間資金投入、財団法人方式、寄付、受託研究など)とそれに応じた税制優遇措置
米国などの財政システム、大学の資金運営のしくみを参照しながら、適切な「税金+自営収入」の組み合わせ方式を探る必要がある。社会に「開かれている」ことと「多様な財政支援ルート」が確保できていることは表裏の関係にあるのではないか。「金は出させるが、口は出させない」という面と「使った金についてはきちんと説明する」という面とがうまくバランスをとって両立できてこそ”大学の自治”が確立するものと思われる。基本的にはうまく競争原理を導入することが必要だが、競争になじまない分野も大学には多々あるので、この「金は出させる」方式で、短期的な”見返り”を相手に期待させずにどこまで個々の学問研究の意義をきちんとアピールできるかがポイント。
(3)諸々の多様な収入源を確保すること
大学の授業の「切り売り」制度(聞きたい人はその授業を金を出していつでも聞ける)を発足させてはどうか。また、地方自治税に「大学税」を組み込み、大学から地域へ向けての種々のサービスを無償化するやり方も検討に値する。さらに、産学連携によって経済的インセンティブを作り、実際の収益をうまく還元できる方法を確立することも検討の余地がある。

3●評価(外部評価、内部評価)
(1)大学評価の適切な手法を確立する
第三者公的機関である「評価委員会」(「大学オンブズマン」のようなもの)による評価監査システムを適切に導入し配置することはできないだろうか。公正で客観的な評価の方法・システムを作ることは大変難しいので、多様なアクター(行政、市民、企業、大学関係者など)を交えて評価手法を検討する共同研究会を発足させる必要がありそう。その際に、「業績」「教育活動」「社会貢献」の3者を関連付けての評価できるシステムを考案することが大事。教育内容の公開(市民向けの発信)や地域や市民の活動のサポートなど評価対象にできるようにしたい。従来低く評価されてきた「教育業績」に対して、給与を増額するなど、評価を高める工夫が必要。
(2)大学や国立研究機関関連の科学技術プロジェクトにかかわる情報をつかみ、適正に評価すること
科学技術予算の複雑な流れの全体を誰がどう把握すべきか、そして多額の費用を使う多くの研究プロジェクトは、いかに評価がなされ、その評価に応じてコントロールされるべきか、という問題は、市民の立場からみて非常に取り組みにくい、しかし重要な問題である。市民、ジャーナリスト、民間企業研究者らも加わって、何らかの方法で情報をつかみ、評価を下していくことが求められている。

4●人事(公正性、流動性)
(1)公募制の大幅導入、人事面での不明朗さを極力排除する方法を検討する
すべて情報公開することが前提であり、上記の「評価委員会」が何らかの形で選考過程・人事決定をチェックできるようにすることが必要だろう。教員の採用、評価、異動などの処遇において十分に競争原理が働いていないこと、講座制による非流動性や閉鎖性、あるいは外国人の採用幅が狭いことなど、多くの問題が指摘されている。これらの背後には、組織運営や研究企画・評価など行う専門的人材の育成やキャリア体制がないという事態があるのかもしれない。

5●研究と教育
(1)大学教員の事務的負担の軽減、やみくもな競争原理に
取り込まれないような”安定性・余裕”の確保が重要
事務職員の増員・充実して、教員が研究や教育に集中できる環境を作らない限り、「改革」はますます教員を追い詰めることになりかねない。この”雑事に追われる”状況を、何らかの国際比較を行うことで、その構造的原因を解明する必要があるのではないか。
(2)失われつつある「教養的教育」の担い手を、専任教員以外の学外者にも広げる工夫をする
大学での教育の目標を、「社会において解決を求められている課題を、学生が自己の生き方にどう反映させることができるかを意識しながら、認識できること」におくべきだ。社会とふれあう体験的側面をもっと重視して、「現場」で問題を感じ、自らの思考を発動させるという方向を強く打ち出すのがよい。そのためには、豊富な経験をもつ、大学以外の様々な人事に目をつけ、学生に刺激を与えるリベラルアーツ的な教育を、より広い層で担っていくようにする。
(3)国際的に比較した場合に立ち遅れている研究体制・環境の不備の諸問題を整理し、構造的原因を探る
研究の組織的な目的・目標が明確でない、横断的な研究が弱い、研究をマネジメントする発想や仕組みが欠落している、研究による社会貢献の意識が希薄、博士号取得者の就職口の少なさ、劣悪な建物・設備……など研究をめぐる問題の指摘には事欠かない。これらには共通した構造的原因がありそう。その原因と「大学が市民に開かれていないこと」とはどこかでつながっているのではないか。

6●社会サービス(地域の知的センター機能)
(1)多様なアクターで共同運営する市民のニーズに応じた講座を開講し、市民事業を支えるシステムを作る
米国などで普及してきている、地域の問題解決のためのCBR(Community Based Research)のような活動を「市民研究事業」として位置付け、大学を一つの拠点にしながら展開できるようにしたい。公的な支援も必要だろう。地域コミュニティも参画しての教育も目指す。地域の人々とともにカリキュラムを共同で検討できる。様々な分野で今後生育が求められるだろう「市民が参画した事業、地域ビジネス」の担い手を養成する、という役割を大学は担うべきだろう。多様な専門家を呼び込んだ専門社会教育システムを作ることが大切。

7●公開度の一事例としての「図書館の開放」
(1)多様な利用法を発見・開拓する
共通入館証、臨時入館証、書誌データベース公開、地域図書館と大学図書館の連携、低額な入館手続き費用を徴収しながら利用サービスの向上をはかる等々。現在の図書館公開度を対象に「評価」を実施してみる。大学図書館、博物館を市民との交流の1つの「窓口」として機能させるための新機軸を考案する。

8●構造的欠陥の一事例としての「非常勤講師問題」
(1)組合などによる組織的取り組みの必要、法制度改革
基本的に「専任」体制だけにする、つまり非常勤という位置付けを廃止する。上記6とも関連して、「多様なアクターが大学教育へ共同参画する構想」とリンクさせて解決を模索する方向もあると思われる。

以上のような8つの切り口から見た大学の問題に、市民の立場からどうアプローチすべきか、あるいはどうアプローチできるのかを、具体的に論じていきます。

 

 

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