「村でみつけた生きる力」に参加して

投稿者: | 1998年6月10日

高橋真理子・北川寿子・相田智行

 

真鍋・鴇田夫妻がばたばたばた、、と部屋に入ってきて、その風貌(失礼!)を見たとき、「こりゃ面白くなりそう」というのが、第一印象。お話も案の定、たいへん面白いものだった。「国道も鉄道もない、リゾート地も、ダムもない、観光地でもない」ないないづくしの村を回ってきたという真鍋・鴇田夫婦。真鍋さんの「田舎暮らし」を見つめた話は、単に自然に親しむとかいった話ではなく、田舎を見つめることが、経済、社会、環境、そして人間個々の生き方の問題へ結びついてゆくことをわかりやすく教えてくれた。

真鍋さんたちが目指した村のなかのむら、そこに住む人々は、自然の生態系を体で知っており、それを利用しながら自分たちの生活をなりたたせている。村の生活だと、お金はさほど必要ではない。村の人々はお互いを知り尽くし、家や学校だけではなく、地域コミュニティーの中で、子供たちは育っていく。自分たちの体をよむ力をもっており、自然の中の生と死をよく見ていることから、死が隠蔽されていない。おそらく日本人として、長い間受け継がれてきたと思われる、生活の知恵。それを都会の人間は、ほとんど失いつつある。単純に言ってしまえば、村の暮らしはとても「人間らしく」見える。それが、都会の人間にとっての田舎の魅力なのだろう。私は学生時代、自転車一人旅をしていたとき、とにかく田舎では「いい人」ばっかりに会った。いきあたりばったりのおうちで、何度お茶やお菓子をもらったり、家に泊めてもらったか知れない。みんなあいさつをして、気持ちがいい。真鍋さんのお話の中に、そういった田舎の人たちの「やさしさ」の裏には、知らない人に警戒する村の監視システムがあるのだ、というのが出てきて、面白い、と思った。
都会の子供たちは、「知らない人としゃべってはいけません」と教えられる。田舎の子供たちは、「知らない人をみたら、話しかけなさい」と教えられる。実におもしろい。 そんな風に考えたことが今までなかった。当然のごとく、田舎がいいことばっかりであるはずがなく、真鍋さんも「よそもんに何がわかる」的な発言をされたことも結構あるそうだ。お話後のディスカッションのときにも、「旅人だからいい風に見えるのでは。」そんな意見もでた。それでも、真鍋さんは「いいものはいいのだ、と言いつづける必要もあると思ってやっている」とおっしゃっていた。
今の社会、都市と田舎、それぞれに両極端の悩みを抱えている。都市には空間にも時間にも余裕がなく、田舎にはお金と人がない。どちらも問題を抱えているのに、なぜかお互いをうらやましいと思っている部分がある。先日の新聞で田舎暮らしブームの記事が載っていた。週末の別荘暮らしから始め、ついには移住する人たち、退職をまたずに田舎に移り住む人々。ちょっと前までは、都会の喧騒から抜け出したい、というむしろ「逃げ」としての田舎暮らしという捕らえ方が多かったのが、最近、「自分の力だけで生きてみたい」「本物志向」という積極的な理由で移住する人たちが増えているとのこと。さらには、都会からのはいって来た人たちが、地域の活性化の中心になったりするともいう。
それが、田舎に都会を取り入れることによる、’活性化’ではなく、都会から見た田舎という(ポジティブな)視点からの活性化であれば、喜ばしいことなのではないか。真鍋さんの講演、執筆活動もそれの一助となっているのかな、と思う。
私自身、田舎に暮らす人々の生きる知恵にあやかりたいと常々思っているのだが、どう自分に取り入れていったらいいのか思案中である。都会と田舎のいい関係を生み出せるようなものができれば、と思う。 【高橋真理子】

 

 

「ニッポンの村を覗こう」という副題のもと、スライドを交えて過疎の村の姿が紹介され、村の「自給自足・リサイクル・環境・コミュニケーション・死生観」などについての検討がなされました。実際に村を訪れて得た具体的なエピソードをもとにしての、村の良き一面を通しての問題意識の提示であり、お話も快活で楽しく、興味深かったです。 村についてのいくつかの指摘の中で、都会では見知らぬ人に無関心で接するが、村では見知らぬ人にこそ進んで声をかける姿勢が浸透している、それは村の’やさしさ’である一方監視網でもあり……云々、という村のコミュニケーションのあり方が、私としては印象的でした。また、サービス業が’己でできること’を侵害している、という指摘がありましたが、都会人として便利さと引き換えに失っているもの(村にはまだある!)についての再検討を、参加者各自に提起しているのではないでしょうか。
スライドに映し出されていた山河自然と共存する村の生活は、いかにも健全で清閑なもので、急速に滅びつつある現状に対し、失いたくないと願わずにはいられません。けれども都会の便利さに浸っている者が、故郷としての村の存続を、村人のみにその不便さとともに押しつけ、過疎廃村を哀惜するだけでは、解決にならないでしょう。

どうしたら一個人の中で、そして一社会として、都会的便利さと村的生活の良さを共有することができるのか。発表者夫妻のような、まず個人レベルでの意識と実践が第一歩となるようです。今日マスコミを賑わしている都会生活の諸問題の解決の糸口は。「村の良さ」と対照してみることからも開けるのではないかと、その意義を認識させてくれた発表でした。
【北川寿子】

 

 

好奇心に満ち溢れ、行く手を阻むものは岩だって打ち砕いて突き進んでしまいそうな生きのいい元気溌刺の真鍋さん。傍らでおおらかに見守りながらさりげなくサポートする鴇田さん。お二人の「村」発見のお話しとスライドは見失っていたものを思い起こさせてくれるようで安らぎを覚え、「村」へ思わず行ってみたくなるような誘惑に駆られさえしました。
何かがおかしい現代生活。ヒトという生物種が地球上で生きていくのに知らなければいけない知恵を忘れてしまった都市生活。何か漠然とした不安と疑問を感じる今の生活を見直す上で「村」に残っている生活(生きるための知恵・生活態度・思想、それ自体一つの文化)は、大いに考えさせてくれるものでした。
山里でも島でも「村」の生活に共通しているのは、その環境に即して長い間培った知恵と努力の結晶体であり、手の届く範囲で自らの力で生き抜く技術を持っているということでしょう。それは持続可能なものとして完結された生活スタイルといえます。食べるものは勿論、生活に必要なものは何でも自給するのが当たり前で、「お金を使うのは恥」という思想が根付いています。現代の「お金さえ出せば」の考えと対照的です。家畜とペットの違いを真鍋さんが話してくれましたが、これなどは現代生活の矛盾を最も端的に表しており、一方村生活がいかに合理的で完成されたものかを示しているように思われました。「何故、牛を飼うのか?」「そりゃあ、肥料をとるためだな」疑う余地すらない自明の理です。犬だって猫だって豚だって、かつては人間の喰い残しを無駄なく処分する存在でした。余計な残飯としてゴミになる必要もなく、豚などそのまま食料として再生産されました。ところが、今や豚には飼料を買い込み金を使い、食べ残されたものはゴミとして多くの労力と費用が掛かる厄介ものになってしまっています。犬、猫にはペットフードが買い与えられ、これまた残飯が残ります。さらには、貧しい国々からペットフードのために安い魚を買い漁り、そこで暮らす人々の生活を脅かすようになっているそうです。(「アジアを食べる日本の猫」)リサイクルの一環としての家畜から消費者としてのペットに変貌してしまったということです。

また、新潟県の秋山郷という所では、昔から二つの姓の家だけで代々30戸の世帯が続いているそうです。これは、この地域では冬になる前にどの家も山から3本の木を切り冬場の燃料にするのですが、30戸90本までがここの自然が再生産し維持できる限度だということを示しています。それだけ環境が厳しいということもできますが、そもそも全ての生物は限られた環境の中では棲息できる数は限定されるのが当然なのです。それを人間だけは別格だと錯覚し、化学技術が進歩すれば自然環境に左右される心配はないと奢り高ぶって異常繁殖した結果が現代の多くの問題(環境食料……等)を引き起こしてしまったように思います。生きる知恵というのはこういった自明の真理を正面から受けとめて生まれてくるように思います。その分過酷な面もあるでしょうが。現代の生活は余りにも便利さに甘え、生きる厳しさを忘れ(その付けを未来の子孫たちに押し付け)ているように思えます。

村の生活は全てが素晴らしく、都会生活は間違いのように書いてきましたが、現代の価値観の中では「村」は不自由で不便な所というのが大半の思いではないでしょうか。拝金主義が蔓延した日本では、村の生活は魅力のないものでしょうし、環境に制限された伝統的生活は排他的にならざるを得ない部分もあります。また、発言力が弱い分だけ都市のしわ寄せを一方的に負わされる所もあります。無駄な公共事業の代表格のダムによって存在を脅かされ、環境が破壊されたりもしています。一方、山奥の牛飼いさえ注射器と抗生物質を持ち、牛が一寸でも病気にでもなれば大量の正露丸と抗生物質を投与しているとのことです。もはや日本中、辺境の村々まで化学物質( or 現代文明)に汚染されてしまっています。過疎化や環境破壊で村の存続も危うくなっている中、その伝統的な文化を伝え、現代都市生活の再生のためにいかに再構築していくかが、緊急の課題として今の私達一人一人に突き付けられている思いがしました。
一寸仰々しい感想になってしまいました。真鍋さんが話してくれた村々は明るく生き生きと活力の感じられるもので、その魅力を書きたいと思ったのですが、「村」に比して「都市」が余りに地に足が付いていないような生活振りに思えて批判めいてしまいました。
【相田智行】

 

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