千年持続学-21世紀の危機とそれを乗り越える智恵-

投稿者: | 2000年6月10日

高野雅夫

pdf→doyou_environ200006.pdf

★1.はじめに:ナウルの話
最近、気になっているのが、南太平洋の小さな島国、ナウル共和国のことである。
この国は、さしわたし2kmほどの珊瑚礁の島で、人口約8000人、バチカンに続いて世界で2番目に小さな国だ。昨年9月国連にも正式加盟した。http://www.nnet.ne.jp/.finlay/にこじんまりした島の全景写真がある。また、ナウル航空のホームページではその歴史を知ることができる。http://www.airnauru.com.au/nauru.html
この極小島国は、リン鉱石を産出することで有名である。1977年の生産量は、世界12番目で世界的な統計にも顔を出している。このリン鉱石は、海鳥の糞に含まれるりん酸(元は魚の骨)が珊瑚の炭酸カルシウムと反応してできたもので、一般にグアノと呼ばれる。これはリン酸肥料の原料となって、世界の食糧生産において重要な役割を担っている。
一般にナウルの情報は日本ではほとんど手に入らない。
「ともやくんの旅行記」http://www.geocities.co.jp/HeartLand/4157/が実際に行ってみて観察した興味深いレポートをしている。これによると……
1)ナウルの産業はほぼリン鉱業につきる。
2)国民は納税の義務はなく、年金がもらえる。リン鉱業の収入を国民に分配している。
3)食糧はほとんどすべて輸入している。
4)鉱山採掘やサービス業などさまざまな労働は、ソロモンなど周辺の国々からの出稼ぎ労働者が担っている。公務員も出稼ぎや移民が担っている。
5)したがって、ナウル国民は働くという習慣がない。ナウル国民で働いているのは「16人の国会議員のみ」。
6)最近は車が増えた。別に用事があるわけではなく、ただ乗り回しているだけらしい。
7)島の外周道路とその周辺の除くと、ほとんどすべてリン鉱石を採掘し尽くした荒れ地。土壌はなく、作物を育てる場所はない。(肥料の原料はたくさんあったのに、それを投入すべき農地がない。)
8)まもなく(数年のうちに)リン鉱石資源は枯渇する。リン鉱業に代わる収入源を確保する必要がある。
9)そのための対策として以下のようなものが試みられている。
①オーストラリア、メルボルンに52階建ての高層ビルを建て、テナント収入を得る。ただし、テナントはがらがらでうまくいっていない。ただ、「もしナウル本国が掘り尽くされてどうしても人が住めなくなったらナウル国民全員をこのビルに移住せる」という計画があるらしい。
②グアムに高級ホテルを建て、事業収入を得る。これは全日空ホテルらしい。
③国内に産業を興す。魚市場を作った。ただし、島民は「気が向いた時にしか船を出さず」、食糧に困っているわけでもないので、商品が集まらず、うまくいっていない。
このことはNHK「新アジア発見」でも報道された。(1999/8/20放映「楽園の危機を救え-南太平洋・ナウル共和国-」)
http://www.nhk.or.jp/sin-asia/japanese/programs/9908/990829/index.htm
④中華民国の支援で養鶏場をはじめた。
⑤日本資本がヨットハーバー(!)を建設中。
⑥国籍を「売る」。一人あたり25,000USドルでナウル国籍を取得できる。実際に国籍を買った中国人のようすをレポートしている。
さらに、「毎日インタラクティブ」は1999年11月2日付けで「南海の小島で資金洗浄?露マフィア、ネットバンキング悪用」として、以下のニュースを伝えている。(http://www.mainichi.co.jp/digital/netfile/archive/199911/02-4.html)
1)ナウル共和国はインターネットで銀行口座開設を請け負いはじめ、ロシアマフィアがこれを利用して資金洗浄を行っている。「1998年には、約700億ドルがロシア国内の銀行からナウルの口座に流れた」(ロシア中央銀行当局)という推測もある。 1
2)ネット経由での口座開設経費は5,680ドル、毎年の更新費用が4,980ドルで、国家歳入を相当に潤している。
3)個人金融情報は固く保護されている。
ナウルのことが気になるのは、これが「世界の縮図」ではないかと思うからであナウルのことが気になるのは、これが「世界の縮図」ではないかと思うからである。地下資源を掘り出して、それに完全に依存して生活していると、資源が枯渇したとたんに立ち行かなくなる、というきわめて単純明快な論理がここにある。また、ナウルの地下資源「超」依存型の社会は、
1)モノを作って生活するという、人間社会と文化の基本が崩壊する。
2)そのために、金融のグローバリゼーションに依存するという、さらにモノ作りから遠ざかる「麻薬体質」ができてしまう。
ということを教えてくれている。
ひるがえって、日本に住むわれわれの日々の生活はどうだろうか。それは資源の大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄の社会システムに支えられている。しかも、資源は外国の人々に働いてもらって世界からかき集めている。モノを作ることに関しても、日常品の多くが東南アジア製や中国製のものになっている。その過程で長年つちかわれてきた職人の技はすたれ、グローバル化した金融が身近なものになってきた。
この構図は資源が枯渇することによって立ち行かなくなる。「ナウルの話」は、実は21世紀前半の「日本の話」と見分けがつかなくなっているかもしれない。
今、多くの人が、漠然と「このままではいかないだろう」というカタチにならない不安を抱えている。その不安をカタチにし、さらに積極的な将来展望にしない限り、安心して暮らせる21世紀の社会は作れない。以下、そのためのヒントをいくつかお話し、ともに考える出発点としたい。

★2.地下資源は枯渇するか?(前編)
今の社会でもっとも重要な地下資源は石油であろう。石油を代表選手にして、「地下資源は枯渇するか」という問題を考えてみる。
●「油上の楼閣」日本
われわれは日々石油を「着て」、石油を「食べて」暮らしている。例えば、今日の食糧生産に石油はなくてはならない。三大化学肥料の一つである窒素肥料は、石油から水素を取り出して、空気から抽出した窒素と結合させてアンモニアを合成して生産している。その食糧は6割を外国から石油で動く船で運んでくる。国内でも石油で動くトラックで運んで、自家用車に乗って郊外型スーパーマーケットに買い物に行って手に入れる。
1973年の第一次オイルショックの際、スーパーマーケットからトイレットペーパーが消えて社会パニックが起ったのは、現代版の「風が吹けば・・・」ストーリーである。この時、日本社会は高度経済成長の完成期の繁栄に浮かれていた。その姿は「油上の楼閣」と呼ばれた。1979年の第二次オイルショックの時には、街のネオンサインが消えたり、深夜のテレビ放送が自粛されたりした。「省エネルギー」というスローガンが社会の空気になり、そのための技術開発が行われ、次々に実現していった。
1970年代初頭から1980年代半ばまでは、先進国全体で地下資源の限界についての危機意識が芽生え、浸透した時代である。1970年当時、石油の「可採年数」は40年だった。これが10年後の1980年には30年になり、確実に資源が枯渇に向かいつつある実感があったと思われる。このまま行けば、2010年ころ石油は枯渇することになる、と考えられた。
ここで、「可採年数」とは、その年のある地下資源の「確認埋蔵量」をその年の「年間生産量」で割った値である。もし、これ以上その資源が発見されず、かつ年間生産量が一定のままだったら、あと何年もつか、という数字である。したがって、可採年数は減少するだけでなく増加することもある。確認埋蔵量はその年に生産された分だけ減少し、その年に新たに発見された分だけ増加する。年間生産量は景気の善し悪しなど、需要の影響や価格の変動の影響を受けて増減する。
実は、1970年代を通じて石油の確認埋蔵量の世界総和はほとんど変化していない。つまり、生産したのとほぼ同じだけ新たな発見が続いていたのである。一方、需要の伸びによって年間生産量は増加しつづけた。これが「可採年数」が減少した理由である。
●「石油枯渇=オオカミ少年」説
1986年「逆オイルショック」がやってくる。つまり、原油価格が暴落したのである。これは、石油消費国の省エネが進んだこと、OPEC以外の石油産出国の生産が拡大したことによって、原油がだぶついた結果である。これ以降、原油価格は安値安定のまま1999年まで推移する。湾岸危機の時に、一瞬高騰したが、イラク、クウェートの生産減少分をすぐにサウジアラビアやベネズエラ等が補填したので、価格はほとんど影響を受けなかった。日本にとっては、1970年からみると格段に円高が進んだので、1990年代を通じて円建てで見た原油価格は、実は第一次オイルショック前の水準だったのである。また、1980年代後半に中東諸国の確認埋蔵量の上方修正が行われた。これによって、30年にまで減少していた「可採年数」は、これ以降ほぼ40年で推移してきた。
このような状況にあって、石油が枯渇するという危機意識は遠のいた。可採年数が何年たっても40年で変化しないことから、このままずっと変化しないかのような見方が社会の空気になっている。今や石油の枯渇を喧伝することは「オオカミ少年」のそしりを免れない。
しかしながら、注意しなければいけないのは、「オオカミ少年」は最後には本当にオオカミに食べられてしまう、ということである。石油資源とは、海の底にプランクトンの遺骸がたまり、それが地下深くまで埋没して地熱を受けて分解し、液体状になったものがわずかな岩の隙間を流れてたまたま掘り出しやすい適当なところに集まってきたものを指す。石油資源の形成は地質学的な時間をかけてゆっくりと行われる。一方、石油の生産は穴さえほれば基本的には勝手に吹き出してくるので、生産速度はきわめて早い。また、車にのって1リットルのガソリンを消費するのに数分とかからないだろう。地球全体として地下のタンクには一定の量しかなく、掘り出して使った分は確実に減るのである。
では、本当のところはいつ枯渇するのか、どのような過程で枯渇するのか、その時、何がおこるのか。もちろん未来を予測することは難しいが、かといってまるで手がかりがないわけではない。以下、最新のデータで探ってみよう。■(次号に続く)
図1 原油価格と可採年数の推移。原油価格の推移には1973年第1次オイルショック、1979年第2次オイルショックの際の急激な価格上昇と1986年逆オイルショックの際の価格急落が見られる。1991年湾岸危機の際に一瞬価格は上昇したがすぐに元にもどった。1999年から2000年にかけて価格は急上昇した。可採年数は、1970年代は減少した。1985年以降は、約40年を保ちながら推移してきた。

★2.地下資源は枯渇するか(後編)
●地域別原油生産量の変遷および予測
原油生産の今後の展望を考える上では、地域別の資源量をみる必要がある。図2の2000年までの原油生産量の推移は、世界を7地域に分けて、2000年初頭における、地域別可採年数の大きい地域から順に原油生産量を積み重ねたものである。1960年代70年代と指数関数的に原油生産量が増大していることがわかる。また、それ以後の変動は主に中東の生産量の変動によることがわかる。2000年以降について、実線は、各地域の原油生産量が一定のまま、現在の確認埋蔵量の分まで(つまり新たな発見はないと仮定して)掘り尽くして生産が終了すると仮定した時の生産量の積み上げを示している。枯渇するまで各地域の原油生産量が一定であるというのは乱暴な仮定であるが、ひとつの目安と考えていただきたい。
いずれにせよ現在の確認埋蔵量分では、西欧(主に北海油田)、北米はもう10年程度しかもたない。2030年になると、ほとんど中東しか残らないことになる。一方、中東は21世紀末まで生産できる埋蔵量がある。
実線は、今後の発見分を考慮していないため、もっとも厳しい見積と言える。一方、今後、どれくらいの量が発見されるか、という予測がアメリカ地質調査所によって行われている。点線は、この「未発見」量の見積分を現在の確認埋蔵量に加えて、現在の生産速度で何年生産できるかを地域別に積み上げたものである。アメリカ地質調査所の見積は、さまざまにある予測の中でもっとも楽観的なものである。
したがって、おおざっぱなひとつの目安として、現実の原油生産量の今後の展望は、この実線と点線の間を通ると考えられる。そうすると、原油の供給能力は北海と北米が枯渇する2010年から2020年ころにピークを迎え、その後、アジア(主にインドネシア)、旧ソ連・中国、アフリカ、中南米と次々に枯渇するにつれて、減少すると考えられる。もちろん、他地域が枯渇した分を、中東の増産によって賄い、世界全体としては供給能力をピークのまま維持するというシナリオもありうるが、そうするかどうかは、中東産油国のみが決定権を持っている。
図2 地域別原油生産量の変遷および予測。地域別可採年数の大きい地域から順に原油生産量を積み重ねている。一番上の曲線が世界全体の総和をあらわす。
●第三次オイルショック?
もう一つこの図から読み取ることができるのは、1978年の第二次オイルショックによっていったん減少した原油生産量は、

その後、現在に至るまで大きく増大しているということである。これまでずっと、需要が供給能力を上回ったことはなく、したがって、この曲線は基本的には需要で決まっており、潜在的な供給能力は現実の生産量よりも多いはずである。この需要の伸びには、アジア諸国の経済成長とモータリゼーションが大きく貢献していると思われる。一方、北海および北米の油田の枯渇に始まる事態は、供給能力の減少である。そうすると、このまま行けば、2010年から2020年頃までのどこかで、需要が供給能力を上回る可能性が高い。そうなると、原油価格の上昇が起り、場合によっては第三次オイルショックが発生する可能性がある。
図1にみる価格変動曲線は、1999年に急激に価格が上昇していることを示している。この結果、日本国内では石油産業の再編が起った。アメリカではガソリン価格の上昇が政治問題化しつつある。この価格上昇は、地域的な石油の枯渇に伴う、世界の原油供給能力の頭打ちおよび減少という事態に向けたものである可能性を十分考えておく必要があろう。
●地下資源は必ず枯渇する
石油を一つの例として見てきたように、地下資源は必ず枯渇する。問題はどう枯渇するかということである。世界全体で計算した「可採年数」まで一定の供給能力があり、その後、突然枯渇するというわけではない。早く空になるタンクから順番に無くなっていくのである。一方で、中東において石油の最後の一滴まで枯渇するのは、100年後以降であるとも言える。「可採年数」とはそういう数字なのである。
石油についていえば、世界全体の「可採年数」が40年であるにもかかわらず、このまま行けば、おそらく今後10年から20年くらいの間に深刻なオイルショックが来る可能性を否定できない。そのために何らかの努力を行う時間は、実はたいへん限られているのである。

★3.千年持続学とは?
●20世紀型・21世紀型・千年持続型・社会システム
20世紀に、世界は人口も経済も爆発的に成長した。これによって、資源の大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄の社会システムが、全世界的なシステムとして成立した。これは、石油が開発され大規模に利用されるようになってはじめて可能となった。石油は穴さえ掘れば、かってに吹き出してくるので、生産コストが安く(それに対して例えば石炭は人間が地下にもぐって掘らなければならない)、「油水」のように使うことが可能となった。
この社会システムは、持続不可能である。つまり、1)石油をはじめとする地下資源は必ず枯渇する。2)廃棄物が地球にあふれるとこのシステムは機能できなくなり、いずれ必ずそうなる。20世紀の社会はこの二つの限界を感じることなしに、爆発的な成長を遂げた。20世紀は「発展=開発」の時代であった。しかしながら、ここにきて、これらの限界が迫ってきた(図1a)。現在、われわれは、再生不能資源(地下資源)も、再生可能資源(水や生態系の資源)も急速な勢いで消耗しつつあり、このままいけば、資源の枯渇によって食糧や工業生産システムがパニックを起こし、深刻な危機が訪れる可能性が高い。
再生不能資源のうちでも最も重要な石油の生産量予測によると、生産可能量は2010年から2020年でピークを迎え、それから急激に減少する。世界の石油需要は、1979年オイルショックの影響が落ち着いてからこのかた確実に上昇しているので、あと10年から20年の間に需要が供給能力を上回り、激しいオイルショックがやってくる危険性がある。
もっとも、他の化石燃料はまだまだ残っている。この点は重要だ。天然ガスの生産量ピークは石油よりもう少しあとで、2030年とかになり、その後減少すると予測されている。石炭は、もう100年から200年くらいもつであろう。ただ、そのエネルギー供給速度は、21世紀後半を通じて、1980年代のレベルと予測されている(文献1)。
2100年以降、地下資源は完全に枯渇すると思われれる。そうなると、われわれ(の子孫)は、かつての地下資源を掘り出した地上資源(リサイクル資源)と、生態系の資源(再生可能資源)を持続的に使って生きる他はない。このような社会は千年先にも持続可能であると考えられるので、これを「千年持続型社会」と呼ぶ(図1b)。
●千年持続型社会への移行期としての21世紀
社会を支える資源・エネルギーの観点から見た時、「20世紀の開発型社会」から「千年持続型社会」への移行期として「21世紀型社会」をとらえることができる。そうとらえた時に、21世紀は、化石燃料(天然ガス・石炭)がまだ残っていて、余裕のあるうちに、千年持続型社会を準備する時代であるべきだ。「持続可能な開発」とは「千年持続型社会を準備するための技術や社会システムの開発および産業構造の転換」である、ととらえることができる。
この準備は、二段階あって、第一段階は、石油に依存しているものを天然ガス・石炭にスムーズに乗り換える、ということである。われわれは日々、石油を「食べ」、石油を「着て」暮らしている。例えば、あと10年で、石油で動いている船をすべて天然ガスで動くように作りかえる、ということの困難さは想像に難くない。しかし、こういう努力をしないで放置しておくと、メガ・オイルショックをまともにくらって、深刻なパニックが起る危険性がある。一方で、天然ガスによる燃料電池・熱電供給システムなどのような、効率のよい新しい有望な技術も登場している(文献2)。
第二段階は化石燃料依存から脱却し持続可能なエネルギーシステムに移行する、ということだ。ありうるのは、太陽光・風力・水力・地熱・バイオマスエネルギーである。今日、これらのエネルギーは、補完的、補助的な役割しか期待されていないものの、潜在的には主要なエネルギー源になる可能性は十分にある。
他の資源の面でも持続可能なシステムに作り替える必要がある。例えば、20世紀の後半、爆発的な人口増加を支えたのは、大量の化学肥料である。例えばリンは地下資源のリン鉱石を掘って、田畑にばらまいて食糧を作っている。このままいくと、21世紀の半ばから後半にはリン鉱石は枯渇し、深刻な食糧不足がやってくるのは確実である。リンを完全にリサイクルさせる農業・社会システムをつくる必要がある。
今一度注意していただきたいのは、千年持続性を考えるとき、人間のとりくむべき課題は千年先ではなくて、10年先にある、ということだ。これは、次世代の問題ではなくて、われわれの世代の課題である。

★4.グローバリズムVSバイオリージョナリズム
今、不況にあえぐ日本においては、産業構造の転換=新産業の創出が叫ばれている。現時点では、これは、アメリ

カ発のグローバリゼーションの流れに乗り遅れるな、ということの言い換えにすぎない。しかしながら、経済のグローバリゼーションというのは、世界的な「業界標準」をめざす競争であって、それに勝つことのできたごく少数のものが生き残る「ひとりがち」の競争である。他方、グローバリゼーションとは「世界のアメリカ化」である。情報テクノロジーでもバイオテクノロジーでも、日本ですらアメリカにはかなわないと思われる。つまり、グローバリゼーションとはアメリカがしかけた、アメリカ「ひとりがち」の競争であるように見える(文献3)。
では、アメリカが21世紀に本当にひとりがちできるか、というと、私には、そうは思えない。アメリカは石油の枯渇だけでなく、水(化石水という再生されない地下水で、アメリカ農業のかなりの部分はこれに依存している)の枯渇という「油水」爆弾を抱えている。この二つの液体地下資源の枯渇によって、アメリカは21世紀の前半に、深刻な危機にみまわれる危険性がある。
日本は(アメリカ以外の国は)、このままいけば、グローバリゼーションにおいてアメリカに敗北し、資源の枯渇においてアメリカと心中する道をたどっているように思われる。
日本は別の道をたどるべきである。それは、千年持続型社会をめざして、移行期として「持続可能な開発」を行う、という道である。今の日本経済は、石油を利用することに最適化している。これを天然ガスや石炭に置き換えることは、新しい技術と社会システム(インフラ)の導入を必要とする。持続可能な農業を行うにも、持続可能なエネルギーシステムを作り上げることも、たくさんの新しい技術と社会システム(インフラ)を開発することが必要である。これこそが、今求められる真の産業構造の転換であり、新産業の創出であると考えられる。
石油が枯渇すれば、今のように世界のすみずみから物を集め、また配る、という大規模な物流は困難になるだろう。そうすると、グローバリゼーション経済は基本的に立ち行かなくなる。例えば、関東地方とか、中部地方とかくらいの規模で必要な食糧や物資やサービスが調達され、また、必要な雇用もある、という社会にならざるをえないのではないだろうか。また、今の日本ではほとんど見向きもされない森林の資源をはじめ、生態系資源を高度にかつ持続的に利用することが必要になろう。このような社会をめざす思想が「バイオリージョナリズム(生命地域主義)」(文献4)である。
もちろん、バイオリージョナリズム社会が現時点で実現できない強力な理由がある。それは、石油の価格がきわめて安いということである。太陽光発電も、リサイクルも、石油とのコスト競争に勝てない。しかし、今後、石油価格は、枯渇にむけて不安定な乱高下を繰り返しながら、確実に上昇するであろう。それにつれて、コスト的にみあう持続可能技術がでてきて、その瞬間にいっせいにベンチャービジネスが花開く、というシナリオを描くことは、そう無謀なことではないように思われる。それに向けて今から技術やノウハウ、インフラを開発しインキューベート(培養)しておく、ということが必要であり、それが「持続可能な開発」の具体化の一つの姿であろう。

★5.おわりに:里山の森で
私のうちの近くに、江戸時代に造られたため池の周りに、奇跡的に残っている里山の森がある。1950年代までは、薪炭林として利用されていたと思われる森は、今はうっそうと木が生い茂り、昼間でも暗い。わずかに下草が刈られて手入れされているのは、池のほとりの遊歩道の近くである。そこは、気持ちのいい赤松の林が散歩する者の目を楽しませる。
昨年、中国四川省に調査に行って、省内を車で走りまわった。四川省の風景には、山もあり谷もあるものの、木がない。山のてっぺんまで段段畑が延々と連なり、あぜの土手にまで麦が植えられている。四川盆地には、人間と家畜と農作物しか生物はいない、と言ってもそう誇張とは言えない。限界まで自然を利用しつくした社会の姿がここにある。そのためにたくさんの生態系や生物種が消滅したことだろう。
ひるがえって、日本の自然は、実に豊かである。それは、日本の自然を十分に利用することをやめ、エネルギーや食糧すら外国の資源と労働に依存しているからでもある。猫の額ほどの里山の道を歩きながら、ここに豊かな自然とたくさんの資源があるではないか、と思う。山で木を育てエネルギー資源として利用する、「エネルギー林業」を育てたいものである。木から作られたアルコールやガスで、バスが走ったり、集合住宅では燃料電池を使って発電・暖房・給湯が行われる。今使っているコンピュータを動かす電気は、あの山の木からきてるんだ、っということが実感
できる社会は、どんなにか心おだやかな社会なのではなかろうか。そのような暮らしをしてみたいものである。

 

◆参考文献◆
1)化石燃料の将来については、小西誠一『エネルギーのおはなし』日本規格協会、1995年を参照。
2)天然ガス・燃料電池システムの可能性については、赤池学、藤井勲『「温もり」の選択』TBSブリタニカ、1998年を参照。
3)グローバリゼーションの実態とその意味については、トーマス・フリードマン『レクサスとオリーブの木』上・下、草思社、2000年を参照。
4)バイオリージョナリズムについては、赤池学「環業革命の時代:3生命地域主義時代の到来」『世界』1998年8月号参照。

 

 

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