松原洋子さんによる研究発表 「戦後日本の優生政策」参加者の感想

投稿者: | 1999年3月26日

松原洋子さんによる研究発表

「戦後日本の優生政策」参加者の感想

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第102回の土曜講座では、5月の「生命操作の世紀に向けて」と題した発表に関連する内容として、6月に松原洋子さんに日本における優生政策、優生思想の問題を語っていただきました。これまで積み上げられてこられた史料の調査や分析、障害者団体とのかかわりなどをふまえて、大変緻密で具体的なお話を伺うことができました。参加者が少なかったのが何よりも残念ですが、より多くの人に知っていただきたい内容ですので、今号の「参加者の感想」に引き続いて、次号では、松原さんのお仕事に触れつつ「出生前診断」を論じた文章(上田)を掲載する予定です。なお、松原さんは近々共著で「優生思想」を扱った書物(講談社新書)を著されます。一般向けに読みやすく書かれていると思われますので、そちらの方もご注目ください。(上田)

「戦後日本の優生政策」を聞いて
梶 雅範

日本の優生政策についての興味深い発表だった。戦中から現在まで多岐にわたる話題で3時間あまりにおよんだが、それでも足りなかったと思われるほどさまざまな問題にかかわるテーマだと感じた。参加者が10名足らずと少なかったのがもったいないと思えた。

発表の中からとくに興味を引かれた論点について触れよう。
第1に、1938年に設立された医療・福祉・労働政策を統合する厚生省を通じて優生政策には戦前から戦後への連続性があるという指摘があった。「40年体制」というように戦前と戦後のつながりを強調する考え方があるが、優生政策もその一つであろう。「身体」をひとつの資源だと考え、その質を管理し「向上」させるという優生政策のために厚生省がつくられたと見ることができるという。厚生省の人脈について、さらにその歴史について追ってみたいと松原氏は言っておられた。

第2に、優生政策の法的根拠を与える優生関連法が、まず1940年に国民優生法として成立し、戦後も優生政策自体は反省されることなく、48年に成立した優生保護法でかえって強化されたという点。優生保護法は、戦後の「過剰人口」と「国土荒廃」という厳しい状況下で、「不良の子孫」の出生を防ぎ、「質の高い国民」を基礎に「文化国家」を建設するために制定された。戦後、優生政策は戦前法下よりも強化されたのである。

第3に、「優生」という考え方や言葉がタブー視されるようになったのが、日本においてはごく最近、80年からだという点。そのきっかけは渡辺昇一の『週刊文春』のコラム記事「神聖な義務」であったそうだ。渡辺氏は、50年代にドイツに留学していたときにヒトラーによる「不良分子」の抹殺が戦後のドイツのためによかったと評価するドイツ人に会ったことから説き起こして、「異常者や劣悪者」の強制的断種はよくないとしても、遺伝の可能性があるときに個人の意志で「未然に避けうるものは避けるようにする」のが「理性ある人間としての社会に対する神聖な義務」だと主張した。そうした文脈で渡辺氏は、さらに二人の血友病の子どもをもった作家大西巨人を名指しで批判したのである。当然、大西氏をはじめとして多くの批判が出て論争がなされた。これが日本で、批判すべき概念としての「優生」のイメージの普及のきっかけになったという。優生学者が一番嫌った優生学とヒトラーとの結びつきを日本において決定的にしたのが、渡辺氏のエッセイだったというのである。たしかに70年代から日本でも障害者運動から優生保護法批判がすでにあったが、そのころは一般には「優生」は肯定的ないし中立的にとらえられていた。1966年には兵庫県衛生部が「不幸な子どもが生まれない対策」という言葉を使って優生政策を進めようとしていたそうだし、71年の人口問題審議会の答申には「好ましからざる遺伝的荷重を減少させる方策」と持って回った表現ながら優生政策が堂々とうたわれていたという。71-73年にかけて政府は優生保護法の改正案を提出したが、それは「欠陥」を持つ胎児の中絶を明記したいわゆる「胎児条項」を導入して、同法の優生政策的性格をさらに強めようとするものだった。

第4に、優生保護法が、1996年にその「優生学」的性格の条項が削除され母体保護法と改称されて、廃止されることなく「改正」された事情が興味深い。その年の年明けに、自民党社会部会が急に優生保護法の勉強会を開始して、優生保護法の改訂の検討を始め、6月には改正案が成立してしまった。この改正には、国際関係上の背景が指摘されている。すなわち、1994年にカイロで開かれた国連国際人口開発会議のNGO会議で、日本の優生保護法が障害者の不妊化を正当化するもので先進国としてあるまじき法律だと非難され、外務省をはじめ日本政府関係者をあわてさせた一幕があったことがそれである。しかし、それよりも大きい理由は、厚生省の障害者政策の転換とそれにともなう機構改革であろうと松原氏はいう。つまり1993年に成立した障害者基本法は、いわゆる障害者のノーマライゼーション(地域での生活自立と社会参加)をうたっていて、あきらかに優生保護法の「優生保護」という姿勢とは矛盾していた。それにともないそれまで優生保護法を所管してきた精神保健課は精神保健福祉課となり、優生保護法は同課から母子保健課の所管に移されることになっていた。しかし、母子保健課は、カイロ会議で示されたような評判の悪い法律を、そのまま受け取ることに難色をしめしていた。その移管予定は1996年7月に予定されていたので、改正のタイムスケジュールはそれから逆算されたものではというのである。

私は、たまたま今年の大学院の科学史の講義で、各国の優生学の歴史的な動きの比較検討を取り上げることにしていたので、日本の優生学史を研究していて最近関連の論文を多く発表なさっている松原氏の話を機会があれば聞きたいと思っていた。土曜講座での発表は期待に違わないものであった。今回の発表に前後して産婦人科医佐藤孝道氏の著『出生前診断』(有斐閣、1999年、今年5月の『どよう便り』(第22号)でも紹介されている)を読んだ。佐藤氏は、同書のなかで、「今、優生学は、出生前診断、DNA診断という高度医療を武器として、自己決定という衣をかぶって、新しい潮流となって世界を席巻しようとしているのではないだろうか」と述べ、「新優生学」の登場に危惧を表明していた。松原氏が説明されたように、今回の優生保護法の改正は「優生学」的な考え方への反省や克服の努力の結果ではない。その経緯には、「面倒なもの」からは手を引きたい、「臭い物には蓋をしておこう」と姿勢がありありだ。

優生学は過去の問題ではなく、現在の医療全般にかかわる現代的な問題だろう。たとえば日本でも再開された「臓器移植」にも優生学的な姿勢が感じられる。本来、価値の比較できない個人Aと個人Bを生物学的に比較して、Aは「脳死」になっておりもう価値がないからより価値あるBにAの臓器を移してもよいとするのは、まさに優生学的思考ではなかろうか。
戦前、戦中の日本の優生学関係法案の歴史的研究からはじまった松原氏の研究は、その対象を戦後に広げてますます面白くなっているように思う。さらなる展開に期待したい。

 

 

優生政策と自己決定
薮 玲子

実は6月の土曜講座の「戦後日本の優生政策」というタイトルから私が連想したのは、「ナチス・ドイツの優生思想」や「スウェーデンでの強制不妊手術」、「断種」という言葉の暗く陰湿な響きなどでした。日本でもハンセン病や精神病患者に不妊手術が強制されたことは聞いたことがありました。とにかく「優生政策」とは、そのような何か非常に抑圧されたどろどろとした忌まわしさがつきまとっているものだと思いこんでいたのでした。

ところが、松原洋子さんのお話しを聞いて、現代における「優生政策」とは、出生前診断や生殖医療を意味するのだと知り、目が開かれる思いがしました。なるほど、それらの技術がもたらしたのは「生命の選択」であり、それはまさしく「優生思想」そのものなのですが、「科学技術」とか「自己決定」などというプラスイメージの言葉をまとっていたりして、従来の「優生政策」と言う言葉の陰りさえ感じさせないのでした。全くうかつでしたが、気がつけば、あっけらかんと「優生思想」が社会に容認されつつあった訳です。

女性の社会進出による出産の高齢化、それに伴う子どもの数の減少、あるいは教育ママたちのブランド志向などによってもたらされた「パーフェクト・ベイビー」の需要は、今や巨大な利益を生むビジネスのターゲットとなっています。「五体満足な子どもを産みたい」という親の願いを逆手に取って、「検査を受ければ安心ですよ」と薦められる出生前診断。アメリカなどでは、障害児を生んだ親に「出生前診断を薦めなかった」と言って訴えられかねないので、医師はとにかく出生前診断を薦めておくという事情もあるのだそうです。

もちろんいくら薦められても、「自己決定」が建て前です。しかし「検査を受けるのも受けないのもあなたの自由」だとか、「診断の結果によって、産むのも産まないのもあなたの自由」と言う言葉の裏には、「自分で選んで障害児を産んだのだから、勝手に育てれば?」という冷たい響きさえ感じられます。障害をある子を産んだ母親には「おめでとう」と声をかける人がほとんどないという悲しい現実、障害児への偏見や障害者が生きにくい社会状況、そんな社会の中で障害児を産み育てることへの不安にかられて、心を痛めながらもお金のかかる検査を受ける人も多いのではないでしょうか。そして、それは「異常があれば中絶する」という選択につながっているのです。

いっぽうでは『五体不満足』という本がベストセラーになり、「障害は不便です。だけど、不幸ではありません」と言いきって、電動車椅子でさっそうと社会を走りまわる乙武洋匡くんが、あれほど喝采を浴び、社会に受け入れられているのは、「障害者も生き生きと生活できる社会が望ましい」と思う人が多い証拠でしょう。また、障害児を持った親たちが、社会との偏見と戦い、さまざまな葛藤を経ながらも、子育ての中に大きな喜びを見いだし、障害児を育てたことによって、より意味ある人生になったと感謝するというのも、しばしば聞きます。

「五体満足な子を産みたい」という親の願いも、「障害児を産むのは不安だ」と思う気持ちも、親としての率直な思いでしょう。いっぽう「障害児を育ててよかった」と言う親たちの言葉も、まぎれもない本音であろうと思います。それぞれの状況におかれた親の心情を考えてみた時、果たして出生前診断によって胎児に異常があるかどうかを調べることが、本当に正しい選択と言えるだろうかと大きな疑問を感じざるを得ません。出生前診断によって「生命の選択」が当たり前となった社会では、乙武洋匡くんは生まれて来れなかったかもしれません。そんな社会が幸せと言えるでしょうか。
出生前診断がますます普及しつつある風潮の中で、意味ある自己決定とは、「出生前診断は受けない」という選択だと私は思います。

 

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