書評 『ワークショップ:住民主体のまちづくりへの方法論』

投稿者: | 2007年9月7日

写図表あり
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書評
木下勇『ワークショップ:住民主体のまちづくりへの方法論』
(学芸出版社 2007年1月)
評者:角田季美枝(千葉大学大学院生)
 本書は市民参加のまちづくりに興味のある人、参加型ワークショップに関心のある人には必読書である。
 著者の木下勇氏(千葉大学園芸学部教授)は約30年間、大学院時代から市民参加のまちづくりにかかわっている。東京都世田谷区太子堂・三宿地区のまちづくり、松戸市の『小金わくわく探検隊』、佐倉市の『ミニさくら』、『子どもがつくるまち主催者サミット』など、かかわっている事例をいえば、「あの人か」と思い当たる方もいるだろう。市民参加のまちづくりを進めるために、ワークショップの立案やファシリテーションを実践している。いわば、「ワークショップの達人」が、昨今の「ワークショップ」の使われ方に対する、以下の危機感から数年間かけて執筆されたのが本書なのである。
「『ワークショップ』という言葉が日本で使われ始めて、すでに四半世紀以上になる。 ・・・・・・普及につれて混乱も生じ、批判にもさらされている。大きな混乱は、『ワークショップをすれば住民参加』というように受け止められて、ワークショップが住民参加の免罪符のように使われるという問題である。その場に参加した住民は盛り上がり、大いに期待したものの、その後の展開がなく、より失望感を大きくするというような混乱である。なぜ、このようなことが起こるのか。ワークショップそのものへの理解に欠け、適した利用法がなされていない、という点につきる。道具の使い方次第で良くも悪くもなるというように、ワークショップは道具であり、道具の特性を知ることが大事である。」(まえがき、pp.3-4)
 主な目次を別表に示すが、本書は日本における市民参加のまちづくりのワークショップ導入期(1970年代)から現在までをふりかえるだけではなく、ワークショップが必要とされてきた時代背景、ワークショップという手法の根幹にある諸理論といった理論的側面だけではなく、自身の経験をもとにした事例紹介、キーワード解説、ワークショップのライフサイクル全般(企画立案から改善まで)のQ&Aなどの実践的側面について、丁寧に説き起こしている。とくに日本におけるワークショップの導入や事例紹介は、著者がリアルタイムで経験したものを語っているので、非常に臨場感がある筆の運びになっている。また、理論や方法に関する体系的な解題は、評者が日本語の類書や大学図書館の雑誌記事検索データベースCiNiを調べたかぎりは初めての試みであるように思われる。アメリカの市民参加のまちづくりの歴史解説も併せて、なぜまちづくりに市民参加が必須なのか、ことに現在、ネオリベラリズムの風潮にある、また、「目立ちたくない」を基準に行動する大学生が多くなっている日本で、ワークショップが正しく理解されたうえで活用されることを筆者が強く望んでいることがよく理解できる。
『ワークショップ』の主な目次
まえがき
1章 ワークショップとは何か
2章 なぜ今、ワークショップか
3章 まちづくりにおけるワークショップの広がりと危機
4章 ワークショップを考える重要なキーワード
5章 まちづくりにおけるワークショップの事例
   ワークショップのQ&A
6章 ワークショップの理論と方法
7章 ワークショップの危機を乗り越えるために
注釈
図版出典
あとがき
 たとえば、以下はすべて間違いである。
・ワークショップは日本由来の手法ではなく日本になじまない
・ワークショップは合意形成の道具である
・参加型ワークショップを用いれば住民参加が実現する
 ワークショップはあくまでも市民参加の契機を誘発する道具にすぎない。ワークショップを行えば住民参加が成功できるというのは幻想である。最初はワークショップに好意的であっても、まちづくりのプロセスのなかで逆の感触をもたれることもある(もちろん、その逆もある)。まちづくりにかかわる多様な人間関係の中で、参加者の主体性を引き出す手法が、まちづくりのプロセスでマイナスに働く場合もあるのである。
 筆者は強調する。「ワークショップが人を変えるのではなく、人が人を変える」(p.33)。
 競争原理ではなく協働原理に立つ組織につかわれてこそのワークショップなのである。
 また、ワークショップという言葉から外来文化と感じられるが、共同作業の場での創造という点では、農山漁村の共同作業(結、講、祭りなど)も類似であるとする。個々人の発想を活かしながら集団的な価値や行動の創造につなげる手法は、歴史的かつ普遍的な人類の智慧でもある。ワークショップをこのように解釈するのも筆者独自の観点で、他の類書ではたいがい「海外で活用されている新しい手法」というように紹介されている。このような紹介は、「日本は劣っているので、世界に学ぶべきだ」という価値観にもとづくのではないだろうか。律令制度導入以来の日本の歴史を考えればそのほうが普及させやすいのは確かなのではあるが、また、現在も外圧に弱い日本なのではあるが、これでは日本になかなか誇りをもつことはできないだろう。
 しかし、それゆえに、ファシリテーターの資質や力量がワークショップの鍵であるという点は疑いがない。この点については、本書では決して十分に掘り下げられているように思われない。本書の続編にあたる新たな書き下ろしを望む次第である。
 最後に、評者にとって意外(な歓び)だった点を紹介させていただきたい。それは、日本の農村生活改良普及員、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレ、そしてKJ法の提唱者川喜田二郎が、ワークショップの理論の源流とされるクルト・レヴィン、ローレンス・ハルプリンらと並べて紹介されている点である。評者も参加型ワークショップのファシリテーターを務めた経験があり、最近では参加型学習をすすめるERIC国際理解センターの活動にも運営委員として参加している。しかし、これらの制度や論客とワークショップを結びつけて考えたことはなかった。川喜田二郎が大学紛争で大学の職を辞して移動大学を提唱したことや「参画」という言葉を再発見して広めた人であることを、本書で初めて知った(*1)。また、農村生活改良普及員がワークショップを研修方法としてすでに1960年代に使っていたことも初めて知ったうえ、農村生活改良普及員制度について調べ直してみると、現在、国際協力の現場においてそのファシリテーション手法が注目されていることも発見して驚きだった(*2)。農村生活改良普及員の手法「点検地図づくり」をハルプリン流の手法と統合したワークショップを契機に、山形県飯豊町椿地区の住民が10年かけて一筆一筆土地利用計画を土地所有者と対話しながら作成していった事例は、ワークショップが都市型手法という世間の思い込みを木っ端微塵に砕いてくれるだろう。フレイレは20数年前に熱心に読んでいたので、今回これをきっかけに再読できて、その時にない発見の連続があり、非常に楽しかった(*3)。評者にとっては本書の内容はもちろん、本書を読むことで研究がまさにre-searchであることを強く実感できたのである。■
                          
*1 川喜田二郎(1997)『移動大学の実験:川喜田二郎著作集 第8巻』岩波書店
*2 太田美帆(2004)『生活改良普及員に学ぶファシリテーターのあり方:戦後日本の経験からの教訓』国際協力機構国際協力総合研修所
*3 パウロ・フレイレ(1979)『被抑圧者の教育学』亜紀書房
――――(1982)『伝達か対話か:関係変革の教育学』亜紀書房

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