「アフリカからみた理科教育と国際援助」に参加して

投稿者: | 1998年4月16日

「アフリカからみた理科教育と国際援助」に参加して

山口 京子

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第三世界とひとくくりにはできないけれど、アフリカやアジア、南米のことはとっても心にひっかかる。自分の暮らしと第三世界の関係を考えれば、自分も脛に傷持つ身。無傷ではありえないから。
ひっかかるのだけれど、行ったことはないし、本を読むにしろ、書き手のまなざし(問題意識や価値観、生活感覚などのバックグラウンド)によってずいぶん違う。今回、実際ケニアで生活した方のお話を聞けるとあって興味深く参加させてもらった。

たとえば、「国家」に対する感覚・観念。国家と部族、どっちを第一義的に意識するか。
たとえば、世界銀行のやり方。中等教育には金をださない。貧富の差を推し進めるにはこういう金の出し方(出さないやり方)もあるのですね。
たとえば、普遍的といわれている教育の方法や内容も基盤が違えば成り立ち難いこと。
たとえば、学校で公用語を話し、家庭で部族語を話す際、どういう感覚が生まれるのか。
たとえば、ケニア一国であれ、ひとくくりにするには乱暴すぎること。
たとえば、タンザニアのお話。なぜ工業立国はありえて農業立国はありえないのか。
たとえば、植民地の歴史、宗主国の思惑と関係。

大形さんのおっしゃったことで一番印象に残ったのは――「やっぱりお金が必要だ」――私なりに解釈すると、お金に替えられないこと(教育や生存のための環境の整備)を守ったり、維持継続させるには、やはりお金がいるということ。事実の山積みを見てきた方の気迫・説得力。
お金に替えられないもの、替えてはならないものを、お金に替えることで失われてしまったものの大きさ。お金に替えられないものを守るために、必要なお金が出てこない無念さ。 ますます市場原理のプラグマティズムが跋扈する方向に進んでいる昨今、科学の「領分」(経済競争に科学が侵蝕されない)について考える時期にいると思います。
家に帰ってから地球儀を眺めて、ちょっぴりケニアが近く感じられました。

 

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