【書評】『「核」論 鉄腕アトムと原発事故の間』

投稿者: | 2008年8月18日

書評 『「核」論 鉄腕アトムと原発事故の間』

武田徹 著(勁草書房2002年、2000円)

 「兵器としての核」「平和利用の核」という核の二面性は、ことに日本では特異な相貌を示している。ヒロシマ・ナガサキの被爆経験を語り継ぎ、核兵器廃絶を訴える真摯な世論を抱える一方で、冷戦後終結後もテロの危険を口実に核報復をちらつかせる米国に最も協力的な国の一つである。JCO臨界事故や東京電力のトラブル隠しなど、推進体制の深刻な構造的欠陥を指摘されながらも、核燃料サイクル計画を軸に据えた硬直したエネルギー政策を自ら転換できずにいる国でもある。核依存と核拒絶が、国際外交から地方政治まで、人類滅亡の脅威からバラ色未来を築く「無限のエネルギー源」まで、戦後の歴史において幾重にも縒り合わされてきた。推進と反対の立場が膠着している現状は、その縒り合わせをうまく解きほぐすことで脱することができるのだろうが、それは容易な作業ではない。
 
 著者は、戦後の主要な政治的節目となる事象を追いながら(講和条約、中曽根・原子力予算、電源三法交付金、安保、チェルノブイリやJCO事故)、象徴的な意味を持つ人物を論じ(オッペンハイマー、清水幾太郎、高木仁三郎、フォン・ノイマン)、関連する大衆文化的話題の意味を考察する(ゴジラ、「ウラン爺」、鉄腕アトム、大阪万博)。多様なテーマの「迂回的・螺旋的前進を経た構造的な把握」によって今の世界での核の在りようを見定めようとする。脈絡を見出しにくいテーマ群をこの意図と方法によって繋ぎとめていく様は、とても刺激的だ。最重要の社会問題でありながら、そのことがかえって心性史的なアプローチを阻んでいたかに思える「核」の領域に、敢えて踏み込んだことの勇気を称えたい。「技術を巡る政治を制御するメタ技術を、個の欲望と公共の社会制度と調和させる方法」を見出すために、確かにこうしたアプローチは重要だし、著者が「スイシン派」「ハンタイ派」にそれぞれ突きつけている指摘にも頷けるものが少なくない。

 しかし議論をすすめるために恣意的な枠組みをこしらえていると思える部分もある。ゴジラ映画第一作はヒロシマ・ナガサキと第五福竜丸の「被爆の事実を曖昧にしてアメリカの核の傘の中に入る選択をした日本の情勢に対しても一石を投じる」ものだったが、以後次第に「政治の問題を回避し、歴史の現実から離れた絵空事になってゆく」き、その軌跡を「日本戦後史の軌跡と一種の平行関係にある」と著者は考える。しかしその後のゴジラも、スクリーンの上での自衛隊や大都市の破壊を通して、戦後の秩序への反逆を示した存在でもあるだろう。また、高木仁三郎は原子力問題において民間からの専門的批判の組織化を高い水準で実現したが、その事実をふまえてなお「科学の論理を手放し、運動の論理に突き進んでいった」と批判するなら、”科学”と”運動”の論理はどのように統合できるというのか。脱原子力の運動は、エネルギー政策全般の転換を見据えた政策提言や産官学のもたれあいの体制への批判など、より高い公共性の実現を求める社会改革としての広がりを持っていることを見落としてはならないだろう。■
(上田昌文、『週刊読書人』所収)

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