【書評】 『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』

投稿者: | 2008年3月5日

写図表あり
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【書評】
多田富雄(著)
『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』
青土社,2007年
評者:山本 栄美子
(東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化専攻宗教学宗教史学博士課程)
本書は,2006年度に行われた,政府による診療報酬改定に端を発した,リハビリテーション医療打ち切りに対する反対を掲げた闘争の記録を綴った,免疫学の世界的権威である多田富雄氏の論説を収録したものである。構成は,「はじめに」における総括と,闘争の経緯がわかるように発表順に収録された12の論文から成っている。リハビリを続けなければ,社会から脱落するもの,生命の危険さえあるものにたいして,医療を打ち切るというむごい制度改悪に著者は怒った。「文章を書いて抵抗することが,一障害者の私にできる唯一の抵抗であった。本にまとめておきさえすれば,この医療史上の一大汚点は,実名とともに後世に残る。私にはそれを書き残す義務がある」との思いが,不自由な体に鞭打ってキーボードに向かわせた。生命と人権を軽視した政策がまかり通る社会は,弱者を平気で犠牲にする社会,戦争に突き進んでしまう社会に直結するという危機感も原動力になったという。人の十倍はかかる,左手一本の困難な執筆で,「非人間的な制度改定から一年あまりの間,命がけで新聞や雑誌に論文を書き続けてきた」と著者は語る。その執筆作業そのものが実は,リハビリ訓練で可能になった身体機能であった。
著者は,2001年5月に脳梗塞の発作に襲われ,右半身麻痺に加えて,重度の嚥下障害と構音障害という後遺症が残った。悪くすると寝たきり老人になるところであったが,「リハビリの力で救われたようなものだ」という。この間の苦しみと絶望を思うと,今でも涙が出るそうだが,それでも生きてこられたのは,常に力づけ機能維持に励んだ理学療法士のおかげであったと著者は語っている。2006年度の改定では,病気や障害の多様性,患者の個別性などを無視して,一律に日数で制限しようとした。それまでは必要に応じて保険診療ができたリハビリが,一部の疾患を除き原則として発症から最大180日に制限されることになった。しかも患者にはこの打ち切りが行われることは,実施の1週間位前まで知らされず,リハビリを最後の希望として訓練に励んできた患者たち,医療現場は混乱に陥った。決して楽な訓練ではないが,それが命綱と思って,雨の日も雪の日も病院に通ったリハビリが受けられなくなるのは,著者にとって死活問題である。リハビリは息の長い訓練治療によってようやく目的が達成できる医療である。紙の上でお役人が,いつ治療を打ち切るかなど,判断できるはずはないのである-。そこで,朝日新聞の「私の視点」という欄に「心療報酬改定 リハビリ中止は死の宣告」という投書をしたのが,著者のリハビリ闘争の始まりであった。この投書は,患者ばかりでなく広く国民の共感を呼び,リハビリ打ち切り反対の署名運動に発展した。二ヶ月という短期間に,48万という反対署名が集まったにもかかわらず,その後しばらく厚労省は公式には何の反応も示さなかった。ようやく腰を上げたかと思いきや,日数制限を緩和した除外規定を拡大したかのような記事を故意にメディアに流し,実際はより厳しい締め付けを実施し,制度のほうは少しも見直しせず,リハビリ医療を必要とする患者を介護保険に丸投げしようとした等,本書では闘争の経過と共に,次々と国民を欺く厚労省の実態が綴られている。これを見ると,厚労省の体質とやり方のズルさがわかる。社会的弱者にとって誰との闘争なのか? 実は,国民の健康を守ることが役割のはずの厚生労働省をはじめとした弱者切り捨て社会への移行に加担する人たちとの闘争なのである。著者は,この闘争で明らかになった厚労省の体質として,一度決めたことはどんなに間違いが明らかになっても変更しないという,官僚の不謬性への固執をあげている。反省したら負けとばかりに何とか文言を取り繕い,平気で国民に嘘をついてはばからない。組織として大きくなり過ぎた厚労省には国民のニーズに沿ったきめの細かい政策などできるはずもなく,「解体するしか救いようがあるまい」と厳しく批判し,「人間の血の通った役所を設計し直すべきであろう」と著者は提言している。
実際,介護保険に無理やり移行させた,リハビリを必要とする患者の70%以上が介護保険の不満足なリハビリに耐えかねて,治療を中止してしまったという事実がすでに生じている。さらに,新たにリハビリ治療に成果方式を導入し患者がどの程度回復したかを診療費決定に反映させ,機能の維持・機能の低下予防・患者のQOL改善への努力を評価しないように仕向けることによって,新たな患者選別が起こり,維持期の患者はますます診療が受けられないという事態が加速された。それらは,リハビリ医療の現場を知らずに行った施策の失敗例である,大金を使って実施した「介護予防事業」の失敗に学んでいない失策の現れであり,「国民皆保険以来始めての,医療保険からの患者切り捨てである」と著者は糾弾する。世界が羨む国民皆保険を達成した日本の,医療制度の根幹を揺るがす問題であり,リハビリという一部の人だけが直接関心を持つ医療問題ではない。今回の改定では,老人や中途障害者という一番抵抗の弱そうな人を対象としたリハビリ医療が狙い打ちされたが,その背後にある,弱者の権利を侵害してまで医療費を削減しようという厚労省の目論見に気づかなければならない。このまま医療制限が続けば,早晩公的医療保険は崩壊する。この国の医療と福祉の未来,ひいては弱者の生存権までかかった,重要な問題なのだと著者は警鐘を鳴らしている。
さらに,批判の矛先はリハビリ打ち切りに対する専門家の集団としての学会の態度の曖昧さにも向けられている。長年,日本免疫学会の運営に会長や理事として携わってきた著者は,もし専門領域で社会問題が生じたら学会は真っ先に意見を出すというのが専門学会としての務めと認識してきた。しかし,リハビリ学会は長い間沈黙を守って公式に見解すら表明しなかった。専門医にアンケートを行えば,上限日数設定を妥当とする回答はわずか7%に過ぎなかったにもかかわらず,厚労省がリハビリ打ち切り策を続行する姿勢に何も抗議していない。日本医師会も同様であった。そうした医師たちに対し著者は,「医師は常に自己の良心に従い,患者の最善の利益のために行動すべきであるが,患者の自律と公正な処遇を保障するためにも同等の努力を払うべきである。(中略)法律や行政,あるいはその他の機関や組織が患者の権利を否定する際には,医師はその権利の保証あるいは回復のため必要な手段を講じねばならない」等とうたった世界医師会が採択したリスボン宣言を守る義務を日本医師会は自ら放棄するのだろうか,と「医の倫理」にも触れた糾弾をしている。改善がはっきりしない患者のほうこそ,生命を守る最低限の機能維持のためのリハビリを必要としているのであって,「リハビリは単なる機能回復ではない。社会復帰を含めた,人間の尊厳の回復である。話すことも直立二足歩行も基本的人権に属する。それを奪う改定は,人間の尊厳を踏みにじることになる。そのことに気づいて欲しい」と切実に訴え,一番弱い障害者に「死ね」といわんばかりの制度をつくる国が,どうして「福祉国家」と言えるのであろうかと迫る著者の悲痛な叫びが印象深い。さらに,「切り捨ての効果は,すぐには表れない。真綿で首を締めるように,じわじわと生活機能を奪っていく。日本はいつからこんな冷たい国になってしまったのか」と問う,多田氏の言葉が突き刺さり,「基本的な動作さえままならない方たちから機能を維持し,生き延びる希望まで奪おうというのか,私はそういう社会の一員であるのか」といった怒りが読んでいる自身の中からこみ上げてきた。急性期,回復期を経た維持期のリハビリは,寝たきりになるのを防ぎ,筋力を維持することに重点が置かれる。障害者の身体機能の維持は,寝たきり老人を防ぎ,医療費を抑制する予防医学にもなっているにもかかわらず,その重要性は考慮されないままで,リハビリの対象となる患者には多様性,個別性があるにもかかわらず,臓器別にひとからげにして上限を決める施策は,時代に逆行する。平和な社会とは,個別性・多様性を尊重できる社会ではなかったのか。そのビジョンが正しいとしたら,現在までの医療政策は明らかに平和な時代に遠ざかっており,人間の規格化・画一化を進めている気がしてならない。著者は,弱者切り捨ての政策の背後に,「巨大な医療資本の影を見る」とし,医療における格差社会への突入という背筋の凍る筋書きを示唆している。患者の個別性を対象にするリハビリ医療は,個別的,全人的医療を施しているという自覚がなくてはできない,NBM(narrative-based Medicine愁訴に基づいた個別性の医療)の典型であり,リハビリ医療こそ,数値だけの冷たい医療ではなく,個別性を大事にする暖かい,全人的な本来の医療であることを強調したいと著者は訴える。近代医学が金科玉条としてきた普遍性を追求する科学では通用しない,マニュアル的医療では済まない,EBM(evidence-based Medicine数値的根拠に基づいた医療)の概念もあまりそぐわないような領域であるともいう。ポスト近代医学の,今後発展すべき分野の最たるものがリハビリ医療の領域なのかもしれない。
使命感と,不正義への怒りから発せられた基礎医学という分野の専門家にして患者という当事者の視点からの糾弾は,著者のおかれた立場と,著者が不自由な身体に鞭打って左手のキーボード打ちで一語一語言葉を紡ぎ出している姿を我々が見る活字の背後に思い浮かべる時,より強力な説得力をもって読者に迫ってくる。リハビリ打ち切りの恐怖という真綿でじわじわと締めつけられるような痛みを「あなたは他人事として看過できるのか」と問いかけられる。プロフェッションとしての責任とミッションを保ち続けて,「医学研究者として,この不正義に黙っているわけにはいかない」と立ち上がり,新たにリハビリ問題の当事者兼専門家としての自己の能力を最大限に発揮し続けている著者は,決して社会の最弱者なんかではない。身体がいかなる不自由な立場におかれようとも,自己の使命を見いだし人間としての尊厳を保って「生ききること」を身をもって示してくれている,人生の先輩なのである。特に,医療従事者はその姿を目に焼きつけるべきだ。自身も保健師という医療従事者の端くれとして,そう思った。
この本を通して,この国と医療と福祉の未来について,専門家という存在について改めて考えさせられた。道路や敵の姿が見えぬテロ対策と称する国防にお金を費やすよりも,我々の目の前にいる,己の運命に苦しみながらも懸命に生き延びようと戦っている弱者のいのちを優先して大切にできない社会は,自分たちの未来も大切にできないのではないか…といった不安を感じさせる。まして,その弱者とされる人たちは,本来は「孝」の対象とすべき,我々が現在のように生活できる基盤を作ってくれた先輩たちなのである。我々もいずれは老い逝く。誰もが弱者となる可能性を抱えているのだ。目に見えてその効果がわかりにくい,当事者たちにしかわかりにくい価値だとしても尊重すること,当事者の声に耳を傾けて,そのニーズを汲み取ることを重んじ,潜在する可能性を信じ,相互に支えていく社会を構築してゆくことができるかが,今後の我々に課された課題なのかもしれない。■

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