【書評】 『私たちの地球は耐えられるのか? 持続可能性への道』

投稿者: | 2009年4月6日

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書評
『私たちの地球は耐えられるのか? 持続可能性への道』

(ジル・イェーガー 著、手塚千史 翻訳、松本聰 解説、中公新書ラクレ2008年12月)

評者 小林一朗
(市民科学研究室・元運営委員、前みどりのテーブル共同代表、現有機農業アルバイト)

はじめに

 この本はEU圏での環境問題入門書としての位置づけで編纂されたという。「責任フォーラム」なる組織が編纂する「持続可能な地球環境」シリーズの導入巻に当たる。帯に「世界の常識が1冊でわかる環境問題入門書」とある。その宣伝は果たして妥当だろうか?一読して、入門書としての役割をしっかり果たしていると思った。地球環境=複雑系の説明から、先進国こそ著しい資源消費の削減が不可避であることを説き、持続可能な社会に向かうためには従来の労働・雇用ではだめなのだと十分なページ数を割き、幸福・価値観にまで踏み込む。なかなかよい構成だ。軽~くだけれど利子問題にも触れている。入門書として学生や方策に悩む方に勧めたいと思う。ただ、エコロジー経済学の巨頭ハーマン・デイリーにヘルマン・ダリーなんて充ててある。ドイツ語から邦訳したからなのだろうけども訳が気になるところもある。

 それにしても著者代表のジル・イェーガーが所属するSERIってどんなシンクタンクなのだろう?どのような立場から本書の提案がなされているのか?先入観を持たないよう、読了後にホームページをチェックした。日本でいうと、IGES(地球環境戦略研究機関)ほど政府系ではなく、JACSES(「環境・持続社会」研究センター)ほどのCSO(Civil Society Organization:市民社会組織)寄りではない感じか。

 SERIにはいちおう事務所はあるようだけど、仕事の仕方はコンサルティング・ファームよろしくプロジェクトベースでチームを組んで進めているらしい。そのやり方もSOHOみたいだ。EU圏で影響力の大きい代表的なシンクタンクといえば、「資源効率10倍に!」の「ファクター10」概念を提示したドイツのヴッパタール研究所が真っ先に思い浮かぶ。ヴッパタールは州所属のシンクタンクなのでれっきとした政府機関。SERIは資金は緑の党系のベル財団をはじめ、財団や政府・企業から得ているようだけど、独立したシンクタンクだ。ちなみにヴッパタール研究所とは組織的・人的交流があるみたい。本書の内容も『地球が生き残るための条件』(ヴッパタール研究所編・家の光協会・2002)と重なるところが多い。

 私たちの経済活動が地球につけた足跡の意味の”エコロジカル・フットプリント”や、各種の財・モノが生産過程でどれだけ環境負荷を背負っているかを示す”エコロジカル・リュックサック”をはじめ、各種の環境マクロ指標が多数開発されている。SERIでもそうした指標の開発や活用方法について研究、提言している。ホームページをみると、世界各国で過去にどれだけ資源を掘り出して来たか等々を色分けして世界地図で表示するサービスもあったりする。
 イェーガーの本書はSOLマガジンなる連帯(Solidarität)とエコロジー(Ökologie)とライフスタイル(Lebensstil)についての雑誌にてサステナビリティの本、ベスト20に選ばれたらしい。というわけで、EU圏でもオススメの本と評価されていると言ってよさそうだ。

サマリーと若干のコメント

 まず1章で地球環境問題をめぐる国際的な交渉の経過から始め、2章で地球環境が複雑系であり、方程式を解けば解決策が出せるような類の問題ではないことを解説。この視点から予防原則の適用や熟議による採るべき方策の合意が導かれるので、2章が後で効いてくる。

 3章では92年のリオの地球サミットを前後して検討されてきた資源・環境のマクロ指標について解説。ここから所謂”技術解”への依存と期待がいかに的はずれであるかがわかる。環境の持続可能性とグローバルかつ世代間の公正を考慮して私たちが使える資源量を試算すれば、効率や技術でなんとかなるというレベルではない。桁違いだから。ゆえにイェーガーも「私たちが何を欲し、何を必要とするかを、可能な限り厳密に定義することから始まる」とし、その上での劇的な環境効率(エコ・エフィシェンシー)の向上を実現するのだ、と説く。つまり、まずは徹底的なスリム化があって、効率化はそれからだよ、ということだと思う。

 そして4章で”価値観”、”幸福”と”経済成長”について触れている。要するに「これ以上経済成長したって幸せにはならないぜ」というミクロ経済学で言うところの限界効用から導いた主張なんだけど、これに十分なページを割いている。日本でも同様の主張はないわけではないけれど、大抵、余談程度に留まる。少なくとも影響力はない。だから一国の首相が非常に複雑な現在の日本なのに「まずは景気だ!」と臆面もない。本書では賃労働・生業とアンペイドワーク、社会参加の時間と労働のあり方問い直しを、人々が参加して持続可能な社会に向かう上で不可欠の策と捉えている。

 5章は政策提言と行動提起。予防原則を大前提に、市場を使って環境負荷の低い社会に漸進しようという策のエコロジー税制改革とライフスタイルの変革を提案している。この章でベーシック・インカム(BI)について提案していることに注目したい。文中、BIとは言わず”マイナスの所得税”としているが同じ意味だ。日本でも非正規労働者やニートに対するバッシングが起き、自立自活を強いる言論が激しくなったが事情はEUでも似ているようだ。イェーガーは、自立への移行は「早く”利潤ゾーン”に入れというプレッシャーの前に屈する」(p.218)、という。これが何を意味するか?該当箇所の書き方では読者の解釈にぶれが生じそうだが本書全体から推察すれば”利益追求の職種に入ることばかりが解じゃないぜ。社会はそれだけじゃ回らない。特にこれからは、ね”と言っていることは明白。EU圏で持続可能性について突っ込んで書いている本にはたいていBIが出てくる。「そもそも雇用の総量に限界がある」という考え方に加えて、BIがあれば労働市場では評価されない領域(仕事)に人が就くことが出来、社会の潤いやセーフティネットが拡充されるという考え方はだいぶ広がってきているように思う。翻って日本での論争は???

EUはどこまで考えている?

 本書の裏表紙にある宣伝文。
 「日本は環境問題先進国」は大間違い。
 ヨーロッパは、もうここまで考えていた!
 最新の研究成果をもとに、”持続可能な地球”をわが子へ残すために
 今すぐすべき経済的・政治的諸策を提言。

 この宣伝文句、誇大とは言えないと思う。昨今日本では環境問題の解決や社会正義を目指す活動をターゲットとしたバッシングが盛んだ。それらの批判というよりバッシングは、部分的には賛同できるところもあるけれど、大局的には的はずれ。その手の批判の仕方とEUスタンダードを目指して書かれた本書の彼我の違いを感じて欲しい。

 ちなみにEUもWTOの交渉ではダブル・スタンダードを採っている。典型的なダブル・スタンダードは農産物の輸出補助金と資源開発と投資分野だ。国内の農業を守るために余剰作物に補助金をつけて輸出し、特にアフリカの農業社会を壊滅させてきた。そもそも人件費では比べものにならないEUとアフリカ諸国でアフリカの農産物が負ける。いったいどれだけの輸出補助金をつければそうなるのか。またイェーガーも指摘するように「ヨーロッパは国際貿易システムのおかげで、ヨーロッパ圏内の環境の質を改善し、同時に自分たちの消費習慣から来る環境負荷を世界の他の地域にシフトさせることに成功した」(p.156)。これはもちろん批判的な文脈で書かれている。EU政府がダブル・スタンダードを採っているということと、こうしたシンクタンクの提言には相当なずれがある。政府の態度をもってして”EU陰謀論”をぶつことがいかに短絡的か言うまでもないね。

環境容量と指標化の効用、あれこれ

 本書でも十分な紙面を割いて論じられている”環境容量”。文中では”環境空間”とされているが、”環境容量”の方がぼくはしっくりくるので以下ではそうさせていただきます。それにしても、どのような経過を辿ってヨーロッパで環境容量を持ちだして世界を引っ張るようになったのか、若干の補足をしてみたい。
環境容量関連の指標化は92年の地球サミットに合わせ先鞭をつけたのが「地球の友オランダ」だった。いったいどれだけの資源を私たちは使えるのか具体的な数値で示し、アクションプランに結びつける狙いがあった。その際に、オランダでは一人あたりCO2を2030年までに85%減らさなければならない、アルミニウムでは2010年までに80%削減等の具体的な数値とそれでやっていけるインフラの提案などがなされた。こうした問題提起をきっかけとして、93年にはサステナブル・ヨーロッパ・プロジェクトが立ち上がり、指標の更なる精緻化、利用しやすい方法の検討がなされるとともに、変化に伴う社会へのダメージを最小にしながらサステナビリティを追求していくという流れが生まれた。SERIはそうした研究の延長にあるということは覚えておこう。そして現在、EU諸国の州政府・地方自治体でエコロジカル・フットプリントを使って各地での生活・経済が生じさせている環境負荷を評価していこうという段階に入っている。

 こうした”環境マクロ指標”にはもちろん難もある。すべての要素をもれなく加えて試算することはできないし、データの不確実性も残る。しかし、現在先進諸国が減らさなければいけない環境負荷は桁違いに大きい上に、そうした負荷低減をライフサイクルの全般、特に資源採掘国や国際的な物流過程などのバックグラウンドにより配慮しなければならない。越境すれば、最終製品・サービスの便益を主に受けるのが先進諸国であっても、負荷は途上国や資源採掘国の責任になってしまう。ゆえにマクロ指標で大枠をつかんで先進国で採るべき方向性を打ち出すことには大いに意義がある。
 
 日本では?相変わらず原単位の改善で走ろうという経済界の圧力に政治が屈し続けている。ここでは詳しいことは説明しきれないけれど、途上国でも発展した地域では先進国と同様の環境負荷を発生させている今日では、日本政府が提案している”セクター別アプローチ”に賛同できる面もある。だが、過去から今日まで地球につけられた足跡(フットプリント)は、先進国によってつけられたことを考慮すれば、私たちこそが先んじて減らさなければいけない。総量の削減なのだよ。
科学的な根拠に基づく論立てと、社会的公正への配慮。それこそが国際会議の場で事を優位に運ぶために不可欠な姿勢だ。EUの提案には常に自分たちに都合のよい面が散見するけれども、本書を読めば明らかなように、既に到達した地点も、提案の背景の深淵さも、既に日本の追いつけないところに行ってしまった感がある。

価値観は禁断の領域 拡大しない資本主義の将来は?

 SERIは、ホームページによれば、多元主義の立場と世代間・グローバルな公正を重視する立場を取るという。故に、と言ってよいのかわからないけども、近代経済学が暗黙の前提としている功利主義に批判的なトーンが全体を貫いている。でも、論理的にはその立場を”貫く”と股割きに合う。その辺りは逃げているのか、ぼくの論評に問題があるのかどっちだろう。

 イェーガーもヴッパタールの種々の政策集も脱物質化、すなわち資源消費を伴わないか劇的に減らせるようモノからサービス経済への移行を説くわけだけど、現代の経済・金融システム上は限界までモノの消費を減らしたとしてもGDPの成長を強いる仕組みになっている。これはすべての経済活動が借金からスタートし、常に殖して返すことを強いられるからであって、その大元に中央銀行が発券し市中銀行を通じて貨幣が供給され、それに常に利子がくっつき、さらに信用創造と金融工学によるレバレッジがマネーの膨張を招き、さらにさらに、それらの殖えたマネーに常に利子がくっつき「この利子が企業に、絶えずより多く製造し、成長することを強いるのである」(p.148)。だから経済の絶対規模の縮小は資本主義を破壊するに等しいこと。現状、SERIのようなシンクタンクに助成している財団だって、北欧の環境・福祉先進国の年金だって、その財源はすべて経済の成長がなければ安定的には生み出されない。つまり成長とシンクタンクやNGOの活動、公的年金は一蓮托生になっている。だから社会保障の財源を資産運用に依ってはいけないとぼくは五月蠅く主張してきた。え? アフリカやBRICsにはまだ成長の余地があるからそっちに投資すればよいって? ん~、地球は有限!とだけ言って沈黙させていただきます。

 サービス化を進めればGDP成長を続けることは可能という通説に対し、ヴッパタールでは一定程度認めつつも批判的な立場も採っている(SERIとヴッパタールは似たスタンスなのでまとめて論評する)。「脱物質化には限界がある。物質やエネルギーを使わずに財やサービスを生産することは永久に不可能だからである」(『地球が生き残る条件』p.202)。

 システムは成長を強いる、現実は定常か縮小に移行する。ここに矛盾した状況が生まれる。人々の価値観が変化し、功利主義的な立場を捨て、GDP拡大への寄与をやめてしまうことは資本主義にとって危険極まりないことなのだ。だけど、その点については何ら言及していない。シルビオ・ゲゼルの理論や、”お金”とりわけ”利子”に根源的批判をした童晩年のミヒャエル・エンデと経済学者のヴィンス・バンガーとのやり取りを全く知らないということもないだろうに。かつてフランス緑の党が綱領に信用創造の規制を拡大再生産をやめさせるにはそれが不可欠との認識から入れたことがあるそうだけど、そうした議論は本書ではまったく出てこない。ヴッパタールの初代所長だったワイツゼッカーはSPD(社民党)からドイツ連邦議会議員になったことからもわかるように環境危機やグローバルかつ世代間の公正は問うけれども資本主義そのものを問うラディカルさはない。

 一番の根っこは金融システム、GDPの成長と再分配の財源を切り離すことにある。エコロジー税制改革もキャップ&トレードのような総量規制+市場の活用も予防原則もどれも必要だけれど、それらはすべて表面的な改革なんだ。良書だとは思うけど、そう言えよ、とぼくはどうしても思ってしまう。

 なんでわずか200年程度でこれほどまでに爆発的に世界経済は拡大できたのか?その理由は安価に掘り出せる豊富な地下資源、フロンティア(市場)の登場、科学技術による生産性の向上、伝統的戒律から離れ物欲の開放などの理由が複合的かつ相互補完的に作用した結果なのだけれど、大元は”拡大しないと壊れちゃう”仕組みを作ったからだとぼくは断じている。経済学者の都留重人氏は資本主義は「成長が止まると壊れてしまうエンジン」と言っていたけれどそれでおしまい。こうした言い方をしたのは都留さんだけではないし、自覚しているのか無自覚なのかもわからないけれどどうしても避けてしまうようだ。それを自覚してしまうとその先に見えてくるのは??? 議会政治で変えられることなのか否か? 答えがでるのはいつの日になるのだろうね。■

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