Sex, Age and Caste: The Ultimate Macrohistories? 「性・年齢・カースト:究極のマクロヒストリー?」(上)

投稿者: | 2004年3月29日

Sex, Age and Caste: The Ultimate Macrohistories?

ラリー・トーブ Larry Taub  (フリーランス翻訳者,アメリカ合衆国)
翻訳:住田朋久

「性・年齢・カースト:究極のマクロヒストリー?」(上)

doyou78_larry.pdf

◆今年9月の土曜講座は、日本在住のアメリカ人未来学者、ラリー・トーブ氏がお話ししていただきます。その前に、トーブさんの論文の翻訳を2回にわけて掲載します。

トーブさんのホームページ: < h t t p : / / l a r r y t a u b . t r i p o d . c

マクロヒストリー(大歴史)を分類する方法はさまざまだが、二つのタイプに明確に区別できる。ひとつは、歴史の全体または一部において繰り返されているパターンを描くもの。そしてもうひとつは、歴史が、その全体を覆う、繰り返すことのない大きな広い一方向の段階の連なりにおいて、一度だけ起こるものとして描く、というものである。前者は、旧約聖書のコヘレトの書(伝道の書)の
「太陽の下、新しいものは何ひとつない。」という言葉を思い起こさせる。一方後者は、すべての瞬間が、初めてでほかにはないできごとである、ということになる。” ひとつめのタイプに分類されるマクロヒストリーは、トインビーToynbee、P. R. サーカーSarkar、伝統的ヒンドゥー教、さまざまな経済学者の景気の浮き沈みの説明などにみられる。そしてタイプ2のマクロ・ヒストリーには、コントComt、マルクスMarx とエンゲルスEngels、アルヴィン・トフラーAlvin Toffler、ケン・ウィルバーKen Wilber、フェミニスト大歴史家のシュラミス・ファイアストーンShulamith Firestone とリアン・アイスラーRiane Eisler、そして西洋の宗教的伝統(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)などがある。これから私が述べる3つのマクロヒストリーはタイプ2に属するものである。

マクロヒストリーに基づいて未来の活動を見据えることは、未来研究の多くの考えが西洋偏重・欧米中心の世界観を反映しているという広く聞かれる批判について、しっかり論じることになるので非常に重要である。意味のあるマクロヒストリーは、西洋(もしくは非西洋)の著名な学者や思想家の考えだけでなく、非西洋・非近代文化における無名の深い伝統の知恵にも多く見られるものなのである。

この稿で扱う三つのマクロヒストリー(またはモデル)は、半西洋の非学者である私の精神のフィルターを経ることで変容しているが、無名の伝統の知恵(三つの文化のうち二つは東洋のもの)に由来している。そのことは、尊重しようとする気持ちの表れだと言っておきたい。もしもこれらのモデルに対して、未来の西洋人が「ニュー・エイジ」の東洋主義だと非難し、また未来の東洋人が欧米中心的だと非難するとしたら、私はこの目標は成功したと考えるだろう。

十分な意義と有用な正確さを備えた、具体的な未来の方向性をマクロヒストリーは予測できるのだろうか? ああ、できるよ、といえる――もしそのマクロヒストリーが歴史の十分深い構造のレベルまで扱ってさえいれば。そうでなければ、マクロヒストリー研究者よりも近所の占い師に聞いたほうがいい。しかし、わたしはそれを試みてみよう。

P r e d e t e r m i n e d
あらかじめ決められている。

歴史の深いレベルは、あらかじめ決められており、わたしたちは与えられた変数が認める範囲で自由意志をもつことができる。

「未来は予測不可能である」。こんな言葉をよく聞くだろう。しかしこの「自明の理」は、まったく真実とは違う。なぜなら、歴史は、6時のニュースや新聞の朝刊で目にするような事件や動向といった「表層」を持っているが、同時に、「深層」deepstructure、すなわちプログラムされた根底となる基本的な動向も持っているのである。一度それらが何なのかということを理解できれば、予測をすることは簡単だし、それによって表層の動向についても多くを予測することができるようになる。

歴史とは直接のつながりはないが、深層の二つの実例によってこれは明らかになるだろう。すなわち、人間の身体と生涯である。 基本的には、人々が身体(あるいは精神)をどう扱うかということは予言できない。しかしほとんどすべての人が「予測可能な」同じ身体を持っている。そして人が生まれる前にも、わたしたちはあらかじめ以下のことを予言できる。彼または彼女は、女性か男性かの体で、二つの目、二つの耳、一つの頭をもち、しっぽはもっていない、などと。

生涯というのもまた深層である。わたしたちは以下のように予言できる。すべての人は、はじめに生まれ、幼児、子ども、成人、・・・と、この順に成長していく、ということを。人類の歴史のなかで、子ども時代の前に大人になった人はいないのである。例外があるとしたら、わたしのことかな?しかし、人々がこれらそれぞれの段階で何をするのかということは、もちろん予測不可能なのである。

これらと同じように、歴史も深層構造をもっているのである。これから三つのモデルについて議論していく。年齢モデル、性モデル、そしてカースト・モデルである。

わたしはこれらのモデル、つまりこれらのマクロヒストリーに偶然気づき、そしてわたしたちがよく知る歴史に当てはめてみた。すると自然にそれらのモデルから未来の予測が導かれた。しかし、1975 年の段階ではそうした予測は非常におかしなものに感じられて、わたしは「こんなことが起こるはずがない」とつぶやき、そしてこうした考えを葬り去ったのだ。

しかしその後、まさにこれらのモデルに沿った、驚くべき事件が起こっていったのだ。イランでの宗教革命、アンワル・サダト〔エジプト大統領〕のイスラエル訪問、アメリカとヨルダンの激しい貿易摩擦、などなど。そこでわたしは、これらのモデルについての自分の直観をとことん追求することにし、そして『性・年齢・最後のカースト』(1996)を書くにいたったのである。

これらのモデルは、ほかのマクロヒストリーに比べて、より簡明に単純に整然とそして説得力をもって、歴史を説明しているようだ。またそれだけではなく、これまで2 6 年間(2001 年のこの稿まで)のできごとから判断すると、正しく予測ができているものであろう。

この稿では、三つのうち最も興味深いカースト・モデルに重点をおくが、それでもこれらのモデルの概要のみしか書くことができない。そのため予測のいくつかは、こじつけだとか、これらのモデルからは導かれないもののように感じられるかもしれないことをご了解いただきたい。The Age Model年齢モデルGrowing Up成長 「年齢モデル」は、人類全体の移り変わりが、個人の人生と同じように進化する、という考えである。すなわち、歴史を個人の一生に対応させ、人類の意識の成長過程における少なくとも六つの段階に分けることができる。

第一段階は、「無中心段階」N o -Center-Yet stage と呼ぼう。約25万年前までの初期の人類である。人類はまだ自然の一部であった。この段階は、一個人としての意識をもっていない、新生児に対応する。

第二の段階は、25 万年前から紀元前約1 万年の、アニミズムや「自然崇拝」といった魔術的な先史時代、「自己中心段階」Self-is-the-Centerstage である。それぞれの部族が自らを世界の中心と考えていた。これは、赤ん坊が自分を世界の中心とする自己中心の時期、幼児に対応する。

第三の段階、「母性中心段階」Mother-is-the-Center stage は、農耕と偉大な地母神信仰に基づいて初期の文明が生まれた時期である。これは紀元前約1 万年から前2000 年まで続いた。人生では、子どもが母親を世界の中心とみる、初期の幼年にあたる。

第四段階は、「父性中心段階」Father-is-the-Center stage である。信仰の対象が、神、天の父、男性神、救い主、あるいは日本の天皇のような聖なる王へと移行する。これは紀元前約2000 年からヨーロッパのルネサンスや16、17 世紀の啓蒙の時代まで続いた。ちょうど子どもが父親を人生の中心とみなす後期幼年期や10 代初期に対応する。

第五段階は、「父なる神の拒絶」therejection of God-the-Father、すなわち革命や民主主義、共産主義、そしてその他のイデオロギーの時代である。これはおよそ1650 年から始まり現代にも続いている。人生では、父親や一般的な権力に対して反抗する、10 代半ばから後半に対応する。いわば、「中心発散段階」the Uncenteredstage である。The Future of Religion and theQuestion of Survival宗教の未来と生存の疑問

それが、現在約19 歳のわたしたちが歴史的に存在する位置なのである。では、何がわたしたちを未来へと導くのだろうか。 次なる第六の段階は、深い自己/自我deeper Self としての神、「内なる神への信仰」the Worship ofGod-Within である。これは成人に対応する。自身が自身の権威、よりどころ、自律なのである。これを「中心化自己段階」Centered Self stage と呼ぼう。

人類が1 9 歳である、というのは、これが強力な指導的国々-アメリカ、ロシア、西欧-の年齢に相当するということを意味している。ほかのほとんどの国々よりはそれより「若く」、それ以上なのはいくつかの国々、社会的に先進的なオランダや北欧である。これらは2 3 歳から2 5歳である。

さて、このモデルによってわたしたちはどんなことが予言できるだろう。

ひとつは、未来の宗教について。わたしたちは信仰の対象を、自然、母性神、あるいは天の父へと変え、さらには世俗主義や共産主義、資本主義、物質主義を通じてこれらに対抗している。つまり、児童期、思春期のいくつかの「宗教」(イデオロギー)から「大人の宗教」adult religionへと移行しようとしているのである。つまり、自己のなかに内なる神を探す、内なる声に耳を傾ける、ということである。

もうひとつ、核や環境破壊、人口過密に直面している人類の生存の見込みを予言することができる。それらは一般的な青年が思春期の波乱や葛藤を通じて克服し大人へと成長しなければならないという見込みと同じである。わたしは1 – 2%だけはそれを達成できないと思う。しかしほとんどの国々がいまだ「青年」なのだから、多くの破壊と葛藤がこの先に待ち受けている。悪くなったそのあとには、よいものが待っているのである。The Sex Model 性モデルThe War Between the Sexes性のあいだの闘争 ―――陰と陽の区別は、すべての文化、歴史、経済、そして自然そのものに、あまねく見られる。近代西洋型の性の区別は単に最近の一つの層を形作っているにすぎない。シュラミス・ファイアストーンどよう便り78 号(2004年7月)9Shulamith Firestone(フェミニズムの創始者)、『性の弁証法』 The Dialectic of Sex このモデルは簡単に言うと、人類は女性から男性へ、そして両性(中性)Androgynous へむかう、性の弁証法(対立の統一)によって進化しているというものである。

すべてのものは、女性原理である「陰」と男性原理である「陽」との均衡であるとする中国の思想に基づき、このモデルによって人類が歴史を三つの時代を通して進化していることがわかる。より明確にするため、自著で示したように詳しく述べなければならないが、紙幅の都合で簡潔に述べざるをえない。

第一の時代は、「陰」、あるいは「女性の時代」である。これは、人類が伝統的に女性の原理と結びついた世界観に基づいて生きていた、先史の時代に対応する。それは、自然、環境、集団に、調和し親密/主観的/エゴや個人主義、自己主張が弱い/自己犠牲的/完全に生きているものとしての世界を感じる/ホーリスティック/感覚や感情移入によって世界と関わる/心である。

次に来るのが、「陽」、「男性の時代」である。これは、歴史の始まりの家父長革命Patriarchal Revolution(紀元前2000 年)から現代までの、有史の時代に対応する。すなわち、男性優位の階級社会である。人類は男性の原理の特徴を発展させてきた。環境や自然からの離脱/客観的/エゴや個人主義、自己主張が強い/機械的な法則にしたがい部分に分かれた無生物としての世界を感じる/原理的、科学的に思考/精神的かつ知的/自然、環境、他人に対して、支配し搾取し変化しようとする/理性が大切となる/といった特性を持つ。Sexual Division of the Worldinto East and West世界を東洋と西洋への性的な分断 歴史の黎明期、陽の時代が始まるころに、世界は東洋と西洋に性的に分断された。陽の世界観は東洋よりも西洋で発展した。その頂点は西洋科学・技術である。

西洋の宗教と文化の――特に非常に男性的なユダヤ教、キリスト教、イスラム教の――中心であるエルサレムは、世界の陽―男性の極となった。他方、東洋世界の宗教と文化の――いっそう女性的なヒンドゥー教や仏教の――中心であるヴァーラーナシー(ベナレス、〔ヒンドゥー教の聖地〕)が、世界の陰―女性の極となった。すなわち、東洋の文化は人類の先史の「陰」の起こりに近いままで、十分「陽」にいたっていないが、西洋の文化はその女性的な起源の大部分を抑圧し、「陽」になったのである。Our Androgynous Future我々の両性(中性)の未来 この性モデルは、未来についてどのようなことを示すだろうか。将来は、「陰」と「陽」が統合し均衡もとれた、第三の「両性(中性)の時代」である。「陽」を排除せずに「陰」が復活するのである。これによって、これまで過度に「陽」だったり「陰」だったりしたものが、性的に均衡することになる。

これを反映する最近の動向や流れは今後も続いていくだろう。西洋は、主観性、感覚、直感への信頼、そして直観の復興を続けるだろう。すなわち、ホーリズム、自然との調和、エコロジー、動物の権利/あらゆる肉食の過剰からの脱却/スポーツ・ハンティングや残酷なスポーツの終焉/性による役割分担や性による不平等、階級構造の消滅/ただの分析ではなく、大局を見て、総合的に扱う;競争や対決を減らし、協同を重視する/同性愛の受容/などである。もちろん東洋においては、こうした流れは、関連する領域においてより「陽」の方向へと向かうだろう。

新しい両性は、特に政治や社会での女性の役割や男女の性愛の関係に対して影響を与えるだろう。

近い将来、すなわち両性の時代初期は、国家元首や高い政治階層で女性の数が男性をしのぐだろう(特にもっとも「陽」であるイスラムの国々では顕著だろう)。これは、「陽」の時代に長く男性が政治を支配してきたことに対する正当な反応である。しかし、長い目で見れば、男女両方がほぼ平等に高い政治的地位につくことになるだろう。No Longer Too Yang To Really BeIn Love � Peace Between theSexes At Last?本当の愛は過度に「陽」ではならない――最終的な男女の平和?

性や好意、愛について、私たちは「陽」の時代に男性と女性が正反対の性のスタイルを発展させたことがわかる。これまで男性は性的に執着しないd e t a c h e d 傾向にあった。強く「愛し合った」あとでも、ほかの多くの女性を魅惑しもし機会があれば愛し合う。逆に女性は、男性とのセックスのあとは、たとえ本当に愛し合っていなかったとしても、その彼と感情的に結びついて、ほかの男性とのセックスを避ける傾向にあった。 こうした正反対の傾向は、基本的な「陰」と「陽」の違いを反映している。「陽」よりも「陰」である女性は、周りの環境(この場合は男性)に結びつき、「陽」の傾向の強い男性は、周りの環境(何人もの女性)にそれほど執着しない。ゲイの社会では、より「陽」だったり、より「陰」のパートナーが、それぞれ男女と同じような傾向を反映している。

しかし、今後男性と女性がより両性(中性)になると、これら二つのスタイルが混合するだろう。どちらの性も、性的多様性を性的パートナー性に結びつける。すなわち、複数の相手との愛を深い愛情関係に混合させるのである。「陽」の時代の末期に生きる私たちには、これはなかなか想像しにくいものだ。しかし私たちの両性的な孫の代は、これを簡単にやってのけるだろう。(次号、後半の「カースト・モデル」につづく。)

<出典>

J o u r n a l o f F u t u r e S t u d i e s ,
November 2001, 6(2): 139-154

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