小石川植物園音声ガイド

2023年春から放送が開始されたNHKの「朝ドラ」の『らんまん』。ドラマの主人公である牧野富太郎は「日本の植物学の父」と言われる人物ですが、この番組をみて、「牧野が在籍することとなった東京帝国大学の植物学教室ってどんなところだったの?」「(そこに所属する)小石川植物園って、どんな特徴をもった植物園なの?」といった興味を持つようになった人も少なくないのではないでしょうか。

小石川植物園を知る一つの新しい手段として、「スマホから音声が流れ、それを聴きながら園を巡る」という音声ガイドを(株)THDが開発しました。市民科学研究室はこの開発に協力し、例えば2022年の「小石川植物祭」でも共同で出展し、この音声ガイドを来場者に披露し、体験していただきました。

現在、小石川植物園では、以下のサイトに示した音声ガイドを、園内で体験することができます。多くの方にぜひ、実際に訪れてみて音声ガイドを体験してみていただければと思います。音声で解説をしてくださっているのは、元園長の邑田仁先生です。

 

小石川植物園音声ガイド

【牧野富太郎と小石川植物園のこと】(上田昌文・NPO法人市民科学研究室)

日本の植物学の父と言われる、牧野富太郎。

牧野富太郎は94歳で亡くなる直前まで、日本に生息する植物の観察と採集、作画と同定・分類を続け、40万点を超える植物標本を作りました。発見・命名した植物の品種も1500 種以上あります。

日本全国を駆け巡った牧野ですが、彼が22歳の頃から30年間、ここ小石川植物園を活動の拠点としていたことをご存知でしょうか。

小石川植物園の正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」と言いますが、じつは、東京大学よりもずっと古い歴史を持っています。そして、日本の他の多くの植物園とは違って、研究教育を主目的とする植物園になっています。日本の近代植物学の初期の歴史はこの植物園で作られてきた、と言えるのです。

小石川植物園の歴史は約300年前にできた徳川幕府の「小石川薬園」にまで遡ります。薬用植物がたくさん栽培され、研究のためにも活用され、また、それらから作った薬を施すなどして病人の療養がなされました。いわば、薬草の研究機関、製薬工場、そして医療保健施設をかねた場所だったのです。

江戸幕府から、東京府そして明治政府へ、そしてさらに東京大学へ、という具合に所管が変わるのに応じて、薬草の栽培や生薬の製造、施術など医療保健の施設から、近代植物学の研究機関へと次第に姿を変えていったのです。

牧野富太郎が上京して東京帝国大学の植物学教室の門戸を叩いた時は、まさに、ここ小石川植物園を主要な舞台として日本の近代植物学が築かれていく時期にあたっていたのです。それは、この植物園の初代の主管であり、日本で近代植物学の最初の講座を担当した初代教授の矢田部良吉、そして矢田部の弟子であり、この後に植物園の初代園長となり第二代の教授となっていく松村任三らが、日本にも近代的な植物学を、つまり植物分類学、植物形態学、古植物学、植物生理学、植物遺伝学などを打ち立てようと情熱を燃やしていた時期だったのです。学歴も入学資格もないのに、まったく破格のことなのですが、牧野は彼らに暖かく迎えられ、植物学教室への出入りが許されることになりました。牧野は土佐の地で少年期から植物の採集と標本づくり、植物画の作成に明け暮れてきました。そして「日本に生息する植物の新種の学名を自分の手で決定して、日本の全部の植物を網羅した植物誌を作りたい」との野心を持つに至ったわけですが、その野心と実力が、日本において標本を用いいたしっかりした植物の分類学的研究を打ち立てようと腐心していた矢田部や松村らを動かした、と言えるでしょう。牧野は1884年から1915年までの30年間を、東京大学を活動の拠点とすることとなったのです。

小石川植物園は300年の歴史に支えられて落ちついた植生をもっており、一般の公園や庭園とちがった植生が維持されています。温室などの施設も含めて、約4,000種の植物が生息しています。園の入口から坂道の坂を上った左手に本館の建物がありますが、そこには理学部所蔵の植物標本のうち約半数の70万余点と植物学関連図書2万冊ほどが収蔵されています。