鉄道はいかに行き止まり、延伸してきたか 都営三田線「西高島平」(瀬野豪志)

投稿者: | 2026年3月1日

鉄道はいかに行き止まり、延伸してきたか 都営三田線「西高島平」

「まち歩き」→「インフラ」を調べる=新しい「アーカイブズ」への試み

 

瀬野豪志(市民科学研究室・アーカイブ研究会世話人)

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あれなにこれ

「行き止まり」は、そこが目的地でなければ「なんだよ」となるものだが、まち歩きではそこまで感情的にはならず「あれっ」というくらいになる。そこで「しまった」と思わず、「なにこれ」と突っ込んでみたくなる。柵や金網や門があるだけなら、「ここは何だろう」、「なるほど」と向こう側を確認しようとする。遮蔽するような塀や壁や崖であっても、向こうやら上やら下やら観察すれば、行く手を阻むものが何であるのか、いつこうなったのか、などが気になってくる。

そこが「行き止まり」であるとき、物理的にも「歩いていけない」し、社会的にも「歩いてはいけない」ということが、道路に示されている。舗装されていた道が、砂利道になる。入ってみると、どうやら誰かの何かの敷地のようだ。どこからなんなのかわからない曖昧な「行き止まり」というのもある。あるいは、バッサリと金網で道が途切れている。この先も「まっすぐ」道路の工事をする計画があるようだ。あるいは、道が築堤で突き当たりになっていたり、通行者用のトンネルが掘られていたり、線路に沿って曲がっていて結局「行き止まり」にはまってしまうということもある。そういう意味でも線路沿いを歩くのは行先がどうなっているのか不安なものである。鉄道が道路のあとに、もしくはその逆のように、つくられたときの前後関係が見える。地形も関係しているようだが、多くの場合、「行き止まり」は、強引にも見える人工的な何かが匂うかたちをしている。

道路を突っ切っていく鉄道も、まっすぐ果てしなく伸びていくように見えて、ネットワークの内側ではグルグルと繋がっているのだろうが、どこかでは「行き止まり」がある。線路が続かないということで考えれば、路線の「起点」、「終点」、一般向けの路線図にはない「枝葉末節」の「行き止まり」がある。

 

終点ではないような「行き止まり」

都営三田線の西高島平駅は、乗り継ぎも乗り入れもない、「行き止まり」になっている。この「行き止まり」の終点に近づくにつれて、乗客は少なくなっていく。用もないのにここまで来ることは滅多にない。列車はここで折り返して運行されているのであるが、その線路の「行き止まり」を見ると、伸ばそうとすれば工事が続けられるようなかたちをしている(写真1〜4)[1]

写真1(注1)

写真2(注1)

写真3(注1)

写真4(注1)

このように孤絶している「終点」の駅は、路線の「上り下り」とは別に、住民や利用者にとってはその地域からの「起点」でもあるだろう。そのように位置付けられているのであれば、規模の大小はあっても、ホームや駅前が「玄関口」のような駅になるものである。港湾、通勤通学、住宅地、遊園地などのためにつくられた駅であれば、あるいは、かつての工事や資材運搬のためにつくられた路線であれば、その「行き止まり」は、歴史や社会的な意味での「起点」として考えられる。ところが、西高島平駅はどう見ても、「途中」にあるような駅で、プッツリと線路が途絶えている。トンネルの駅であればそうは見えないのであろうが、高架橋がバッサリと切れている。まちの景観もへったくれもなく、延伸する工事の可能性を残しているような、その先の計画が匂うかたちをしている。

そこで、気になってくるのは、その「行き止まり」が匂わせている計画は、過去・現在・未来において「どうなっているのか」ということである。

図1(注2)

開業時の路線図を見ると、この西高島平駅はない。そのひとつ前の新高島平駅もない。さらにもうひとつ前の高島平駅が、「志村」という名前で「終点」だったことがわかる。確かに高島平駅に行ってみると、高層団地の中心にあって、列車が発着する「起点」に相応しいような立派なホームがある(広い島式の2面4線)。元「行き止まり」の高島平駅の方が、現「行き止まり」の西高島平駅よりも、終点らしく見える。つまり、路線図の変化から、西高島平駅は、少し延伸していった「行き止まり」であることが、まず確かめられる[2]

「現在」の路線図には、孤絶した「終点」がいくつも描かれているが、その現地を歩いてみなければわからない「行き止まり」の様子がある。そのような「終点」には用がなければ(何かの間違いがなければ)行くこともないだろうが、「過去」の路線図の「終点」と見比べてみると、鉄道の計画がいかに変わるものかということが見えてくる。路線図に見える鉄道計画の変遷については、公共工事や観光などいろんなアプローチから関心を持たれているようで、すでに一般向けの書籍や文献がある。一次資料のレベルでも、計画、工事、開業後、それぞれの段階で使われている路線図があり、今後も様々な要因で書き換えられていくはずである。

都営三田線の計画が二転三転してきたことは、東京の都市計画と鉄道事業者による地下鉄計画の推移からよく紹介されている。いつ頃からか「悲劇の路線」とも言われているらしい[3]。これまで、「鉄道」の計画ルートがどのように変えられてきたかについての文献で資料として使われてきた路線図、運輸省(大臣の諮問機関)「都市交通審議会答申」などの資料は、ネットでも閲覧できるようになってきているが、それに加えて、「鉄道」というインフラは、国や鉄道事業者の計画だけでなく、地域の住民による要望や反対運動も引き起こし、個人的な思い出や趣味の対象にもなっている。これまで図書館やアーカイブなどで扱われてこなかった冊子やミニコミ、チラシ、ネットの投稿記事などにも、鉄道についての言説や報告がたくさんある。それらの資料も「鉄道」が変わってきた要因を知る上で参考になるものと考えて、ここでは、まち歩きで気になる「行き止まり」から出発し、都営三田線の北端にある「行き止まり」の終点に着目して、その経緯をまとめてみよう。

 

都市計画の「終点」

現在の都営三田線の巣鴨から北の終点までのルートには、1966年まで都電の「志村線(第41系統)」が走っていた。行き止まりの終点である「志村」は、都電の頃からあったわけである。この「志村」という地域は、中山道沿いの埼玉県との県境になっている荒川の手前にあって、巣鴨から続いている武蔵野台地のへりの「坂上」と「坂下」がある。中山道は、江戸時代からある「志村一里塚」から坂を下り、荒川を渡る(現在は戸田橋、かつては戸田の渡し)。都電は、中山道を南北に走り、終点が「志村(現在の志村坂上駅)」、1955年には坂下(旧中山道より国道17号はゆるい坂を下る)の「志村橋」まで延伸していた。都営三田線は、この志村の坂のある台地のへりの崖から高架線に出て、中山道沿いの志村のあたりからは西にそれて、荒川沿いの沖積低地を東西に走り、高層の団地がある「高島平」の地域で行き止まりになる。都電の行き止まりだった「志村」は、高島平よりも東の中山道にあって、地域名の「志村」に合っていたと思われる[4]

この沿線の中山道でまち歩きをしている方から、都電の記憶について聞いてみると、懐かしい思い出として語られると同時に、「今とは違って」当時の道路はあまり良いものとは感じていなかったような話し方も聞かれる。東京の人口と自動車が急激に増加して道路の交通が社会問題となっていたために、都電が走っていた巣鴨から「志村」までの中山道の区間は、東京都によって(実験的に?)都電をどかして新しい「高速」の地下鉄を建設するのが受け入れやすい側面もあったのかもしれない。

巣鴨から北への地下鉄は、1956年の「都市交通審議会答申第1号」で、都市計画第5号線(現在の東西線)の支線として、大手町から北に分岐して巣鴨を通り東武東上線の下板橋に至るルートが計画されていた[5]。東京の「交通難」解決のために、1960年3月に都議会で「地下鉄道建設促進に関する意見書」が可決して、東京都は都営の地下鉄網を拡充しようとしていた。都は「当時唯一の未着手路線であった5号線東陽町–中野・下板橋間の路線を都に建設担当せしめる方途を講ずるよう強く要望し、これを内閣総理大臣・運輸・自治の各大臣あて提出した」。そして、「都電の経路と殆んど同一である分岐線(大手町–下板橋間)については、都が建設担当すべしとの気運が醸成されてきた」。都の意向が反映されて、1962年1月に(内閣総理大臣が任命する)首都圏整備委員会、建設省、運輸省とのトップ会談で、この5号線の分岐線(大手町–下板橋間)は都が建設することになる[6]

1962年の都市交通審議会答申第6号で、都が建設することになったこの地下鉄のルートは「第6号線」として独立した計画となり、建設省告示第2187号で、都市計画で定められた路線となる。巣鴨から北は「志村」まで伸ばして終点とし、板橋区役所あたりから東武東上線の上板橋へ接続する支線、そして、大手町から南は三田、泉岳寺、西馬込に至るルート(現在の都営浅草線の一部)の地下鉄が計画された[7]。先に建設が始まっていた都営の第1号線(都営浅草線)と泉岳寺で接続して、西馬込で車庫を共有し、線路幅の軌間も(乗り入れる京成、京急とも)合わせて1435mmにするなど、この段階では、都営独自の地下鉄の路線図が描かれている。この路線図は都電のルートの輸送力を補強・代替する地下鉄であることを示している。

しかし、戦後の東京の地下鉄計画は、戦時統制から存続していた独占的な帝都高速度交通「営団」、都心の地下鉄を建設したい東京都、自社のターミナル駅から都心へと延伸したい私鉄、その三者の「交通整理」をするべく、運輸省が間に入って調整し、都営の建設、私鉄の乗り入れを認可しながら進められている。現在、都営とメトロの路線があることや、かえって私鉄の乗り入れが複雑になっているところがあるのは、東京の都心の地下鉄計画という領域において、常に三方を調整するように路線図を描いた結果であろう。

東京都の第6号線の計画は、1963年から東武と東急が乗り入れを要望したことによって、さらに変更されていく。都に対して第6号線の線路幅の軌間を東武と東急の1067mmで建設して欲しいとの申し入れがあり、乗り入れの協議は平行線になった。ここで、運輸省が入り、1963年10月3日に3社への行政指導として、都の1号線(1435mm)と車庫を共有したいという主張については「泉岳寺−西馬込間は都が1435mmで建設して(6号線ではなく)1号線とすること」、「志村−泉岳寺間は、運輸省の方針通り、東武・東急が乗り入れ可能なように都が1067mmで建設する」、「東武と東急は乗り入れ接続の支線の費用を負担する」、「相互乗り入れ区間、運行計画および工事計画について協議して取りまとめて運輸省に提出」というのが、その大要であった。その後に続けられた協議で、東武は上板橋駅からではなく、「大和町(やまとまち、現在の和光市)」駅から分岐して「志村」から乗り入れる計画に変更し、「その前後18回」に及ぶ協議でようやく運輸省の了解も得るところとなり、1964年1月10日付けで「6号線建設および相互直通運転についての覚書」を運輸省へ提出し、免許の手続きに入った。したがって、巣鴨から北の「終点」は、「志村」から東上線の大和町駅まで伸ばして東武と相互乗り入れするという計画になり、「志村」からの先の区間は、東武が建設する免許を持った。この段階の計画で、1965年12月に第6号線の建設が着工した[8]

図2(注8)

「志村」から先の「大和町」では、東武による用地買収が始まり、1965年には町と議会などによる「六号線建設促進同盟」が組織され、翌1966年春に東武が現地説明会を開催し、1968年には「予定地の地主70名のうち3名を除いて買収を終えた」。1968年12月27日に巣鴨から「志村」まで第6号線が開業したが、翌1969年になっても、東武は工事を開始せず、大和町側から理由を求められても「未買収の土地問題が解決しない限り着工しないが、巣鴨・大手町間開通までに延伸を完成させたい。未買収の土地は強制収容に訴えることも考えている」という回答であったという[9]

「志村」からの工事をしない間に、東武の乗り入れの思惑は変わっていた。1972年には東武は第8号線(現在の有楽町線)に乗り入れる計画に変更することを理由にして、「志村」から先の建設の認可を取り下げ、埼玉県知事を間に入れて、白紙撤回を地元に申し入れた。

結果的に、このときの「未買収の土地」は(その行き止まりがその後どうなったのかはわからないが)、東武が計画を変更するまで「志村」を行き止まりのままにして、鉄道を変えたということにもなる。

図3(注10)

 

定まらなかった終点の「志村」

東京都交通局が第6号線の建設工事を検討する過程においても、終点の「志村」がどこになるかは定まっていなかった。1962年に都市計画の路線になったとき、都電の「志村橋」のあたりを終点の「志村」とする案(❶)が検討されたが、荒川に近い沖積低地は地盤が弱く中山道の下にトンネルを建設するのは技術的に困難であるために、現在のように高架線で地上に出て、中山道の西に直角的にS字に曲がって終点の「志村」とする計画に変更している。この段階では、現在の「高島平」の団地はなく、先に日本住宅公団の団地が建設されていた現在の蓮根駅の先、蓮根橋付近(現在の高島平駅より東、❷)を想定していた。また次の計画でも、「志村」は西へ移動していく。現在、そのあたりには「志村車両検修場」という車庫があるが、当初は少し南に計画されており、車庫への支線が西へ分岐していくことになっていた。これが現在の西へ向かっていく本線のルートとなる。建設を進めていく間に、1965年頃から西の公団団地建設による「板橋土地区画整理事業」計画に結びつくことで、終点の「志村」の位置は西へと中山道の地域からそれていった。公団は「志村」へのルートを曲げてほしいとまでは言わなかったというが、「枝線」の要望を都に対してしていたようである。また、東武は「志村−大和町」ルートへの変更を都に申し出たとき、「志村」駅の半分中心から西の免許を求めており、「高島平」となる「板橋土地計画整理地区」西半分の開発に絡むことを目論んでいた。都は「板橋土地計画整理地区」へのルートを本線とすることに同意して、終点の「志村」を現在の高島平駅(❸)の位置に変更した[10]

1968年12月27日、都営の地下鉄6号線の巣鴨から志村までの区間が開業したとき、終点の「志村」という駅名はおかしいのではないかという問い合わせが多くあったといわれている。地下鉄計画からの路線図には、終点の名前としての「志村」が残っていたのである。開業直後に乗車した人の記憶によると、終点の「志村」の周りは何もないような景色であった。高島平団地の建設が着工したのは、6号線が開業してから1年後の1969年12月で、団地の工事が始まる前の風景のなかで、1969年3月に、高島平(1丁目〜9丁目)という町名が生まれている。1969年8月1日に「志村」駅は「高島平」駅に改称された[11]

団地やニュータウンにつくられた終点の「行き止まり」は、地形や技術的な理由だけでなく、地元の誘致や配慮などの様々な要望を生み出すものであることも示している。特に、「行き止まり」の向こう側から、終点を「こっち」まで延伸してほしいという要望が出てくるのである。

 

「行き止まり」の向こうから 埼玉側の延伸計画

1972年の都市交通審議会答申第15号で、都営地下鉄6号線の北端の「行き止まり」の先は、東武東上線への接続ではなく、「大宮市西部…浦和市西部-戸田市西部-高島平」のルートで延伸する計画に変更された[12]。大宮まで「中山道」に沿うように北へ延伸するルートに変わったのは、東武の乗り入れ接続がなくなり、終点の「高島平」の先に想定されていた延伸の計画が白紙になったことと、今度は、大宮から都内への東北本線の沿線で問題になっていた国鉄の計画が関わっていた。大宮からの区間も人口が増加しており輸送力の増強が必要になっていた。

在来線の輸送力を増強する問題について、1971年2月24日の衆議院予算委員会で、その翌年から20年間にもわたって埼玉県知事に在職した畑和衆議院議員が、「運輸省当局と国鉄と鉄建公団に、それぞれ埼玉県の交通の問題について」次のような質問をしている[13]

 

畑「六号線のほうは志村のほうから大和町のほうへ延ばして、大和町から東部東上に乗り入れて、相互乗り入れしようというような考えのようであります。この前そういう機会がありましたので、私これを質問したのですが、結局われわれの考えとしては、ぜひ六号線を志村あたりから川を渡って、いまの十七号国道がありますけれども、それに沿ったような形の延伸ができないか、分岐をしてそういうことができないかということなんです。それで、いま志村の高島平ですか、その辺まではできておるのですが、それから先の大和町までの間の工事がまださっぱり進捗しておらぬようでありまして、これを取りやめるわけにもいかぬでしょうが、これを志村のほうから分岐してもらって、十七号国道近辺の混雑の緩和をはかってもらいたい。(中略)用地の関係等につきましても、ここには建設省呼んでないけれども、どうしてもなかなか取得がむずかしいということであれば、十七号よりも荒川寄りのほうにいま新大宮バイパスというのがある。それがまん中があいているわけです。(中略)そこのまん中のあき地を使えないか(中略)ただ大和町のほうについては、何か八号線——この図面を私この間いただいたのですが、八号線が分岐して成増へ行くような図面になっておるのです。そうすると、東武東上に、成増へ八号線も行くし、それからいま言った六号線も行くということでございまして、乗り入れするとすれば二つとも乗り入れるということになる。したがって六号線を志村から分岐させる、あるいは大和町のほうを、これもひとしく埼玉県ですからやめるわけにもいかぬだろうが、これを分岐でもさしてやっていただくことができないかという考えです。この考えについてひとつ御批判願って、いろいろ専門的な御意見もあろうと思いますが、こういうことでなかなか解決困難なんだといったような問題等もありましたら指摘していただいて、ひとつ御意見を述べていただきたい」

 

(運輸省鉄道監督局長)山口真弘「地下鉄六号線の問題でございますが(中略)同線に接続いたします大和町−高島平間は、一応東武鉄道がこれを建設するということで計画をしております(中略)都市交通審議会の場におきましていろいろな意見が戦わされまして、その上で決定をされるということに相なるかと思います。それに対しまして若干御説明申し上げますと、確かに先生御指摘のように、現在の六号線の先のほうでございますが、高島平から埼玉県方面はちょうど鉄道のブランク地帯でございまして、この地帯に延びていくということもまた十分考慮しなければならぬ問題じゃないかということで、小委員会でもその点は十分議論をするということになっております」

 

東武が「志村」から先の大和町への延伸の工事を進めなかった間に、埼玉県側の計画から都営地下鉄6号線の終点がどのように見えるようになっていたか。それが畑の質問でわかる。この後、1972年1月に東武が変更を申し出る形で埼玉県に「間に入ってもらう」というアクションを起こしたことが、おそらく公開されている記録では、この東武の延伸計画の変更が明らかになった最初になるのであろう。

それに加えて、大宮から都内への区間としてのルートは、東北・上越新幹線の建設計画も絡んでいた。東北・上越新幹線は、1971年の4月に整備計画が決まり、10月1日に運輸省から建設が認可され、11月28日に着工した。当初は、新幹線は大宮から戸田のあたりまで地下のトンネルで建設することが計画されていた。上野発着の特急・急行などの長距離列車を廃止すると、この区間を停車する在来線の輸送力を増やすこともできる。

しかし、当時、山陽新幹線の延伸区間や1974年の名古屋での裁判などで、新幹線の騒音の問題が知られるようになり、市街地が多い埼玉県の沿線でも新幹線建設の反対運動が起きた。最初は、トンネルから出て高架橋になる計画だった戸田から東京都北区のあたりから反対運動が起きていたといわれている。1973年には、埼玉県内で地盤沈下が進んでいた問題を理由として、地下トンネルではなく高架線の計画に変更されることになり、大宮から戸田までの沿線の自治体も反対するようになった[14]

図4(注14)

図5(注14)

図6(注14)

図7(注14)

騒音の懸念が強かった高架線への変更には、新幹線に沿って高架で並走する在来線の「通勤新線」も建設するという、いわゆる「見返り」路線の計画が含まれていた。建設計画の高架化によって反対していた沿線の自治体が、新幹線の騒音対策と「通勤新線」の計画を受け入れていくことで、同時にこの区間の輸送力を増強するための、都営地下鉄6号線の「行き止まり」から大宮への延伸計画は立ち消えになった[15]

1972年に高島平団地の入居が始まり、1973年に東京都は、終点の「高島平」から現在の「西高島平(東武の計画では三園町)」までの区間の免許を東武から譲渡されて着工し、1976年に開業した。そのときのかたちが、今の「西高島平」という行き止まりである[16]

その後も、「西高島平」駅の「行き止まり」は、埼玉県側の延伸計画につなげられることが続いている。埼玉県は、2000年の運輸政策審議会の答申に都営三田線の延伸を含めるよう要望しており、埼玉県まで鉄道を延伸する「あと数マイル・プロジェクト」を2019年の選挙の公約に掲げていた大野元裕知事は、三田線の延伸計画もそれに含めていたが、就任してからはとんと消えているようである[17]

 

「未来」の路線図 「鉄道の計画」と「まちで見えること」

中山道の「志村一里塚」から坂を下ると、環状八号線と交差する。今、ここに新たな「エイトライナー」が通るという計画がある。「エイトライナー」は、地下鉄なのか軌道なのか定まっていないようだが、赤羽駅から田園調布駅までの環状八号線に沿っていく路線の計画で、赤羽駅で東側の環状七号線に沿っていく「メトロセブン」と接続する計画になっている[18]

1986年に大田区、世田谷区、杉並区で始められた「新交通システム等研究会」に、練馬区、板橋区、北区が参画して、1993年に「エイトライナー構想」が発表されており、東京圏の鉄道整備計画についての2000年の運輸政策審議会答申第18号で、「エイトライナー」と「メトロセブン」は「区部周辺部環状公共交通の新設」として入ったが、そのときの計画段階のランクは「今後整備について検討すべき路線」として最も低い「B」であった[19]。2030年頃までの目標として出されている2016年の交通政策審議会答申第198号にも「地域の成長に応じた鉄道ネットワークの充実に資するプロジェクト」として「エイトライナー」と「メトロセブン」は入っている。ただし、「総事業費12,400(億円)、累積資金収支黒字転換年41年」とされおり、課題として「事業性に課題があるため、関係地方公共団体において、事業計画について十分な検討が行われることを期待」「また、高額な事業費が課題となると考えられることから、需要等も見極めつつ中量軌道等の導入や整備効果の高い区間の優先整備など整備方策について、検討が行われることを期待」となっている[20]

「エイトライナー」は20年以上も前から(「メトロセブン」は1972年の答申にある)、国土交通省の鉄道整備の計画にリストアップされている。およそ15年ごとに大臣への答申として出されているこのリストだけを見れば、「西高島平」駅からの延伸は1972年の答申を最後に挙げられていないので、現在は「エイトライナー」の方が計画の路線図として描かれているといえるが、1兆円を超えるとされる事業費、開業後の需要の見込みが立たないことから「整備について検討すべき」段階からあまり進んでいないようである。

「エイトライナー促進協議会」のウェブサイトを見ると、2016年の交通政策審議会答申に向けて「協議会加盟の9区長連名で要望書を太田昭宏国土交通大臣と舛添要一東京都知事に提出しました」とあり、要望書のPDFと提出している様子の写真が掲載されている。最近の活動報告を見ると、地下鉄だけでなく軌道方式も含めて比較するなど、先の答申で指摘されていた事業費の縮減を検討しているようである[21]

2030年頃になると、次の答申に合わせて路線図と要望書がまたつくられるはずである。計画段階には、いろんな定まらない行き止まりがある。その行き止まりについて、国交大臣の諮問審議会の答申、路線図だけでなく、どのような地元の活動があり、その資料があり、お互いにアクセスできるようになっているだろうか。

本稿は、あくまでも一例として、これくらいならできる、自分で調べてみようと思っていただければ、という試みだったのであるが、自分でもこれをきっかけにして、これまでの鉄道関連の文献も含めて、いろんな資料にあたってみたい。

計画なくして今の鉄道はない。鉄道の計画は変わっていくものではあるが、計画であるがゆえに見えないことが多いという構造がある。そういう意味で、社会的な行き止まりの向こうに計画がある。たとえば、用地買収や住民の立ち退きという問題で初めて見えてくるときには、それは一度でも大変なことだが、人生の間に何度も「計画」にいきなり直面してしまうということもありうる。

鉄道の計画と実際の現場との間のギャップについては、データや資料があっても公開されていないか、語られていないか、ある特定の条件を外してしまうと検証されていないことも多いと思われる。2001年に神戸市営地下鉄海岸線が開業したときに、駅のデザインの評価について開業前と開業後を見学したことがあったが、震災の復興事業でもあり、とにかく新しい路線が開業したということの前に、いろんなことが歩く者から見えていても素通りされているように感じたのが実際のところであった。鉄道については、インフラとしての「ストック」といわれるように、新しい路線だけでなく、開業後の改善や、バリアフリーのような利用のデザイン、老朽化やメンテナンスということも大事になるだろう。身近なところから気になる路線の現在・過去・未来の計画をできるだけ確認して、まちを歩く者として見えること、聞くこと、起きていること、予想されることを突き合わせることができれば、計画変更、計画中止、工事前、工事中、工事中断、工事中止、開業、延伸、廃止などの理由が、より詳しく具体的にわかるはずである。

「鉄道」の定まらぬところの問題についての資料が、新しい「アーカイブズ」として集まれば、鉄道への要望のあり方も変わり、住民からも「行き止まり」の先がもっと見えるのではないか。

 

[1] 写真1〜4、都営三田線「西高島平」駅、2026年2月15日撮影。写真3、4でわかるように、西高島平駅の行き止まりの前を横切る「首都高5号線」の高架橋は高くつくられていて、その下を鉄道がくぐっていけるようにも見える(西への延伸ルート)。また、この高速道路は、1977年に開通した首都高速5号池袋線の行き止まりだった「高島平出入口」から1990年に埼玉県の「戸田南出入口」まで延伸したときに建設されたが、1972年から1985年まで、この道路の建設予定地が都営三田線の北への延伸ルートとして考えられていた。

[2] 図1は、都営地下鉄6号線が開業して間もない1969年当時配布されていたと思われる東京の「地下鉄路線図」。

[3] 「都営三田線~欲望と裏切りに翻弄された悲劇の路線」東京史楽、2012年。https://tokyosigaku.jugem.jp/?eid=24

[4] 「すこしだけくわしく~都電志村線と中山道の沿革~」都電志村線から50年〜はっぴいえんどを聴きながら〜 https://tokyotram41shimura.blogspot.com/2016/09/blog-post_63.html

[5] 都市交通審議会答申第1号(昭和31年8月14日)「東京及びその周辺における都市交通に関する第一次答申」『都市交通審議会答申集』運輸省鉄道監督局、1956年。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2531257

「東京都区部高速鉄道路線図」(1956年)https://dl.ndl.go.jp/pid/2531257/1/27

[6] 『東京都交通局60年史』東京都交通局、1972年、381〜385ページ。https://dl.ndl.go.jp/pid/12063664/1/194

『東京都交通局80年史』東京都交通局、1992年、104ページ。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/13173991

[7] 「都市交通審議会の答申第六号」『運輸』12(8)、運輸故資更生協会、1962年、1〜4ページ。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2275117

「地下高速鉄道網図」(1962年)https://dl.ndl.go.jp/pid/2275117/1/3

建設省告示第2187号は、『都営地下鉄建設史 : 1号線』東京都交通局都営地下鉄1号線建設史編纂委員会、1971年、141〜142ページ。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12703930/1/74

建設省告示第2187号「東京都市計画高速鉄道網図」(1962年)https://dl.ndl.go.jp/pid/3002380/1/334『東京都政概要』昭和38年版、東京都、1963年、661ページ。国立国会図書館デジタルコレクション

[8] 図2は第6号線建設工事中の路線図。『東京都行政資料集録(昭和43年度版)』東京都、1969年、216ページ。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9634295 東京都交通局の資料によると、中山道の下の区間はトンネル工事の調整や都電の代替バス運行の措置などが必要だったため、「志村」の高架橋の方から先に工事が始められた。建設工事の経緯については『東京都交通局60年史』東京都交通局、1972年、381〜385ページ。https://dl.ndl.go.jp/pid/12063664/1/194

[9] 『東武鉄道百年史』東武鉄道、1998年。事業者の社史の他に、東上線沿線からの地域資料、公共図書館などにある地域新聞として「沿線歴史点描⑤ 幻に終わった東上線の都営三田線乗り入れ 山下龍男」東上沿線物語(東上沿線新聞)2019年。https://www.tojoshinbun.com/rekishitenbyo5/ こうした地域情報のミニコミ誌やネット資料も「鉄道工事と住民」の関係を検証するための地域資料・アーカイブズとして収集していきたい。

[10] 図3のように、計画から建設の段階で、終点の「志村」は①、②、③と西へ移動した。およその位置であるが、本文の参考のために筆者が作成した。西野保行「高島平という街と都営三田線–田園からの大化け–」『鉄道ピクトリアル』(No.625、1996年8月号)、42〜47ページ。都交通局への聞き取りをしているこの記事によると、「都市交通審議会の答申路線網上に示された終点である「志村」という名前を尊重して(中略)いずれこの新開発区域には、別の地名が付されることを見越して、変える必要もないという判断もあった」とある。

[11] 「地下鉄開通の頃」都電志村線から50年〜はっぴいえんどを聴きながら〜 https://tokyotram41shimura.blogspot.com/2018/12/201812.html

[12] 「東京及びその周辺における高速鉄道を中心とする交通網の整備増強に関する基本計画(昭47.3.1) 」『都市開発』10(108)、都市開発研究会、1972年、98〜102ページ。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1399750/1/51

[13] 第65回国会衆議院予算委員会第五分科会第5号(昭和46年2月24日)

国会会議録検索システム

https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=106505267X00519710224

[14] 図4〜7は1977年頃の東京の鉄道工事に反対する住民運動の冊子から一部抜粋。「第1回関東住民運動移動交流集会」関東運動住民連絡会、1977年。都営6号線では、高架駅に対する防音壁の要望などはあったものの中山道沿いで反対する住民運動の資料は少ないようであるが、7号線(南北線)、8号線(有楽町線)では住民運動が起きた記録がある。『幻の地下鉄車庫・引込線 住民運動勝利への道程』地下鉄七号線車庫及び引込線建設反対連合会、1996年12月。東武が延伸区間を建設しなかったことや、7号線のように埼玉への延伸が建設されたらどうなっていたか、行き止まりの先はわからないことだらけである。

[15] 「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について 答申第7号」1985年。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/13321960

都営地下鉄6号線の大宮西部までの延伸ルートは1985年の運輸政策審議会答申第7号には挙げられていない。行き止まりになっている鉄道計画には、事業者と住民の他に、調停者がいるということがあるように思われる。「通勤新線」の計画と「見返り」の効果も含めて、埼玉県と歴代の知事らによる、運輸省、各自治体への働きかけ、「川を渡る」延伸計画の、埼玉における政治的な効果についての資料、アーカイブズも、「県境インフラ」の成り立ちを検証する上で重要になるだろう。

[16] 2000年に南端の終点を目黒まで延伸して東急の乗り入れが始まるまで、都営三田線は私鉄の乗り入れがない路線であった。

[17] 埼玉県「あと数マイル・プロジェクトの取組について」

https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/saitama-railway-planning/index.html

埼玉県「あと数マイル・プロジェクト」推進検討会議 https://www.pref.saitama.lg.jp/a0109/saitama-railway-planning/new-conference.html

「『都営三田線を大宮へ』国鉄も乗り気だった”埼玉延伸構想”とは 時代に翻弄された越境の夢」乗りものニュース、2023年2月1日。https://trafficnews.jp/post/123930/3

[18] エイトライナー促進協議会のウェブサイト http://www.8liner-kyogikai.jp/index.html

[19] 運輸政策審議会答申第18号「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(答申)」国土交通省、2000年。https://www.mlit.go.jp/kisha/oldmot/kisha00/koho00/tosin/kotumo/mokuji_.htm

[20] 交通政策審議会答申第198号「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について(答申)」45ページ。https://www.mlit.go.jp/common/001138591.pdf

国土交通省「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等に関する小委員会」「鉄道ネットワークについての検討結果」(平成28年7月15日)24ページ。

https://www.mlit.go.jp/common/001138590.pdf

国土交通省ウェブサイト「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について」https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/tetsudo01_sg_000261.html

国土交通省「東京圏における今後の地下鉄ネットワークのあり方等に関する小委員会」(2021年)https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/s304_tokyochikatetsunetwork.html

 

[21] 「要請活動」エイトライナー促進協議会ウェブサイト http://www.8liner-kyogikai.jp/progress.html

「活動報告」令和6年度活動報告及び今後の進め方(令和7年7月25日エイトライナー促進協議会第32回総会)http://www.8liner-kyogikai.jp/pdf/32sokai_katsudo.pdf

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