市民研緊急ワークショップ「震災後の世界で何をするか」

投稿者: | 2011年10月31日

開催報告
市民研緊急ワークショップ「震災後の世界で何をするか」

報告:横山雅俊(市民科学研究室・理事)

 

[趣旨]

2011 年3月 11 日以降、未曾有の規模の被害と影響をもたらした東日本大震災。

東北地方から関東地方にかけての沿岸部を中心に、地震と津波のため多くの人的及び物的な被害が発生し、実に1万人以上の尊い人命が失われました。そして、その影響により、東北から北関東にかけての多くの基幹産業が打撃を受けた影響で、日本全国はおろか世界の経済活動にも悪影響が生じることになり、農業、食品加工、医薬品製造、自動車及び鉄道部品の供給に重大な支障が生じています。

更に、それに加えて、福島第一原子力発電所の津波被害に端を発する一連の大事故の動は、世界が固唾をのんでその動向をいま見守っているところです。先日、その事故の評価は NIES(国際原子力放射線事象評価尺度)のレベル7にまで引き上げられ、その影響の大きさは旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所に次ぐものとなっています。

そんななか、第3期科学技術基本計画の策定以後、徐々にその存在や活動が認知されるようになってきた科学コミュニケーションは、3月 11 日以降今に至るまで、何が出来たでしょうか? 科学・技術と市民社会の橋渡し、或いはある分野の専門家と非専門家の橋渡しをするべき存在としての科学コミュニケータは、何をしてきたのか、或いはこれから何をして行くべきなのか。そのことが、科学コミュニケーションの内部で喧しい議論の種になっており、またこの事で社会からも大小の批判が出ています。

科学コミュニケーションそのものは、本来は平時のそれを想定したものであり、今回のような緊急時のそれは危機コミュニケーションとして区別すべきと云う論調もあります。一理あると思いますが、科学と社会の接点に於ける危機的状況のみの専門家が科学コミュニケーションと全くの独立別個のものと、果たして云えるのでしょうか。両者を分けて考えることの意義は理解出来るものの、その関係(相違点や類似点を含む)を理解し整理した上で、両者の相互乗り入れを図ることも重要だと考えられます。

他方で、これから被災地の復興や社会不安の除去、原発問題の解決などのために、科学技術の専門家や、橋渡し役としての科学コミュニケータに出来ることは、多々あると思われます。それぞれの専門とする仕事に従事することも勿論重要ですが、その上でどんな積み増しが出来て、それにどう云った意義があるのかを考えることには、大きな意義があると考えられます。

そうした意義に関して、今回は科学技術政策ウォッチャーとしてご活躍で、病理医としても日々ご奮闘の榎木英介さん(サイエンス・サポート・アソシエーション代表)をお迎えして、ワークショップ形式で科学技術の専門家や橋渡し役としての科学コミュニケータの、緊急時や復興時に置ける社会貢献のあるべき姿に関して議論する場を持つことにしました。

では、当日の内容を記録がてら、お知らせしておきたい。

毎度のサイエンスアゴラ「本音で語る○○」と同様、前半はトークセッション、後半はワークセッションという形式にした。

・[前半]榎木さんの講演〈概要〉

あくまで今回の話は問題提起。一市民として、本業の医師としても、科学コミュニケータとしても、迷いの多い日々を送っている。そんな中、先般「博士漂流時代」を執筆し出版。これで学位取得者の社会貢献について言及し、それが高く評価されて科学ジャーナリスト賞を受賞した。

3/11 の当日は神戸に滞在。16 年前の阪神大震災の時は横浜にいた。横浜にいても神戸にいても、「地震を避けてるね」といわれ、苦しんだ。

東日本大震災の当日以降やったこととしては、twitter での発言は減らし、メールマガジン(SSA 科学コミュニケーションニュース:こちら参照)の内容も極力減らした。他、寄付をして、震災復興のアルバムを購入。被災地に科学本を送るプロジェクトも立ち上げた。震災直後は、医療で言う急性期。『やらない』ことを敢えて選んだ面もある。

他方で、科学コミュニケーションの関係者や業界に対する批判も、浴びてきた。一部をあげると、「一流科学者を見ていれば、科学コミュニケータは不要」、「一流のフリップや CG を作れないのは無能」、「この非常時に沈黙するのは最低。科学コミュニケーションを自任する人達は、人々の命を守るために何をしたのか?」、「今この時期に活躍できない科学コミュニケータ(笑)なんていらないよねw」、他多数。

こうした批判で溢れ帰り、科学コミュニケーションは袋叩き状態。でも、本当の科学コミュニケーションはもっと多義的で、理科離れ対策や純粋科学の社会からの支持、科学技術に関連した社会の問題を扱うなど、守備範囲は広い。ただ、危機的状況下で科学コミュニケーションが何をするかは、これまでは想定外だった。

実際には、自認しているか否かはともかく、震災直後から動いていた科学コミュニケータや研究者は存在し、成果や実績を上げている。ただ、組織的な動きには至っていないのが現状。日本では、欧米と異なり、科学と社会の接点の問題を扱う分や横断的な組織が存在しない。それでも、「研究という基本的権利を個々人が自ら行使しようとしたら、世の中変わるかも知れない」(米本昌平)」。ここに市民科学者の存在意義、民主主義の成熟の芽がある。

・[後半]グループワーク

3つの島が出来て、それぞれ違うテーマで討論をやってもらった。余り凝った仕掛けはせず、自然発生的な気付きや盛り上がりを期待した(この点に関しては後述)。それぞれの島での討議内容を、テーマを記した上でメモ程度にまとめておく。

島その1:科学コミュニティと科学技術政策に関するいろいろ(演者・榎木さんを囲んで)

5つくらいの話題が出た。第1に、不確実な状況を前提として、ではどういうふうに専門家は判断するのか。また、非専門家をどうサポートするのか? また、状況判断をどうするのか?…という話。第2に、不確実性とリスクの問題を社会的にどう認識していくのか?…という話。メディアの批判能力と深く関連している。第3に、危機コミュニケーション(リスクコミュニケーション)と科学コミュニケーションの違いに関する話。第4に、体制の問題。出世を諦めれば活動出来る…という立場の人は良いけれど、業績中心主義と流動性の問題との兼合いで、批判的な科学者は生きていけるのか?…という話。第5に、メディアと市民との関係の問題。

質疑2件。

[問1]津波の学会では、日本人の知りえないノウハウはどう共有されたのか?
→[答1]貧富の差と災害の大きさが結びついていることもあり、社会構造と結びつけて理解し行動することが大事。

[問2]批判的な科学者は食えないという話で、憂慮する科学者同盟とかあるけど、日本では無理なのか?
→[答2]前向きな議論は出なかった。現状では難しいかな…。会員数の差も大きい。

島その2:科学コミュニケーションとは何だろうか?

そもそも、”科学技術コミュニケーション”って何だろうか?という話から始めて、区分けをせずにコミュニケーションの在り方をひろく考え、整理した。

科学者側、行動する側、その中間という流れがあって、その中央が科学コミュニケーション。そのうち、科学者側はムラ社会。何が起こっているかを伝えられない。今でもナイーブ。実際に原発の設計や運用に携わった人達の出番を作る必要があるが、それが出来なかったのは科学コミュニケーションの問題。科学者側の若手や、弱い立場の人達の声を表に出していくのが、科学コミュニケーションの役割と言える。そのためには、科学コミュニケーションのシンパに有名人を使うのも一手かも知れない。

行動する側の問題として、ICRP(国際放射線防護委員会)で決まったこと(具体的には、こちらを参照。pdf 形式につき、閲覧注意;具体的には、年間許容被曝量を 1 ~ 20 mSv に…という話)を伝えるという役割に囚われて行動出来なかったかな、と。原子力関連の政策では、寄せられた政策提言を分析する力が求められる。それを読み解くのも、科学コミュニケーションの役割。

質疑2件。

[問1]危機的な状況の中で、原子力の広い領域をどう押さえていくのか。
→[答1]なかなか難しいが、今後キチンと議論していかなければいけない。
→[答1の補足]医療関係者など、被爆リスクを伝えるべき、又は伝えうる立場の人は沢山いる。しかし、今回の福島の件で、医師がかなり逃げたらしい。

[問2]科学コミュニケーションの専門性って何?
→[答2]それを捉え直すことが大事かな、と。例えば、理科の先生も科学コミュニケータの一種(関連して、埼玉県で放射線量計を使って放射線強度を測っている理科の先生の話も)。
→[答2の関連議論]科学コミュニケーションと理科教育の”仲が悪い”という構造的な話もある。科学コミュニケーションのイベントでその楽しみを仕込まれると、理科教育の現場での積み上げを大事にする立場と両立しない(…こともある)。ただ、対立や批判をきっかけにして、議論が出ることは大事。「教育も、先端研究とともに大事」という認識を、どうやって広げていくかが課題だ。

島その3:科学コミュニケータが世の中を動かしていくには?

これまで接してきた科学コミュニケーションの関係者は、立場の弱い人が多い。そうした立場の人達を擁護する必要性を感じる一方で、擁護するだけで良いのか?という問題も。彼等彼女らの社会的立場を向上させることも大事。

そこで、例えば『サンダーバード計画』。危機的な状況下で、科学技術の専門家と科学コミュニケータの、フットワークの軽い行動組織をオープンソースで作れないか。実際、今回の震災で、自衛隊を中心とする 10 万人規模の組織が非営利で出来て、実際に動いた。日本の科学コミュニケーションはまだまだ若い業界だから、今、しがらみの対して存在しない条件下で、連帯して色々やるには良い状況と言える。他方で、科学コミュニケーションを担う人材が、有事の際に危機的な状況下で何が出来るかを、議論する能力があるのか。その際に、具体的なシナリオを作れるのか。それをやってみるのは良いと思う。

今、JST の READ(研究開発支援総合ディレクトリ)と ResearchMap(研究者向け SNS)の統合作業が進んでいる。そこで分野横断型の自律的なコミュニティをどう作るかというのが課題になっている。ただ、SNS は問題解決型のコミュニティーとしては、余り機能していないという実態もある。

質疑1件。

[問1]『サンダーバード計画』の構想規模は? 資金や労力は誰が出すのか?
→[答1]弱い紐帯の組織を作ることが大事で、有事の際だけ強靱な決定力を持てれば良い。官庁の末端組織ではなく、『地球防衛軍』的な高いレベルに置くべき。
→[答1の派生]最貧国のレベルで、震災時の通信インフラ構築モデルを作る。こうした計画立案を複数行うことが、科学コミュニケーションには出来ないだろうか?

最後に、司会から締めの一言を言って、お開きにした。

終了後は、会場近くのオープンな雰囲気のバーで懇親会を。そこでも少し話に花が咲いた。

末尾の一言として、主催者としての振り返りと、寄せられた意見に対してのコメントを少しだけ。

当日の twitter 生中継は、色々と反響を呼んだ。好意的でない発言や当てつけも目立ったが、それもまた反響の証。震災直後の混乱する言論界の最中にあって、「参考になった」「行けず残念」と言う声を多く戴けてのは、小さな誇りだ。

当日の感想で、「ただ話し合って終わりで物足りない」と言うご意見も。これは、ワークショップの当座の進行をどうするかという考え方で参加者の心証が左右されるのと、そもそもワークショップがどういうものなのか似対する理解度の高低〈端的に理解度の低さ〉の問題に集約されると思う。

僕個人としては、何かモノ作りになったりモノと戯れたりする作業をしてナンボと言う考え方には与しない。演劇のワークショップなんて、何も使わずに何かを産みだしてナンボではないか。「ただ話し合う」云々に関しては、KJ法によるワークショップを採用したという当方の設定と、この方法論に対する理解がなかったということだろう(必ずしも、理解「出来なかった」から『(出来なかった方が)悪い』と言うわけではない。念のため)。当座の出席者の中には、議論を先導出来そうな人が幸いにして多く居たので、島毎の討論(を含むワークの部分〉を任せることが出来たため、その意味では進行はラクだった。

これから、震災関連で色々と動きがあり、有志による活動の成果発表や、討論会、シンポジウムなどの類が多くあるだろう。それらを、これから冷静に見つめていきたいと思う。その中で、今回の緊急ワークショップが何を生み出せたのかを、〈それはあったとしても極めて小さなものだとは思うけど〉併せて見つめていきたいと今は思っている。■

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