科学は市民のものか
松久寛(縮小社会研究会)
◆筆者プロフィール◆
松久寛:1947年に大阪に生まれる。1966年に京都大学に入学し、2012年に退職するまで、おもに振動工学に従事した。その間、専門の仕事以外に、1973年に京都大学安全センター、2008年に縮小社会研究会を設立した。現在は一般社団法人縮小社会研究会の代表理事、NPO法人市民環境研究所の理事などをしている。著書は「縮小社会への道」(日刊工業新聞社)がある。
市民科学研究室という言葉を聞くと、京都大学安全センターを連想する。戦後、日本の工業は大いに発展した。その過程で、公害と労働災害が多発した。被害住民や被災労働者は行政や加害企業を告発したが、原告側に実証を求められ、科学的手段を持たない被害者は泣き寝入りを強いられてきた。
1960年代までの職場では、けがと弁当は自分持ちといわれ、労働災害被災者数は年間170万人に達し、職業病の罹患者数はそれ以上ともいわれていた。専門家や学識経験者というのも、公害同様に大半は経営者の味方であり、労働者に協力する専門家は皆無に近かった。たとえば、鉄道の保線作業では、枕木の下の砕石(バラスト)をかき混ぜているが、粉塵がもうもうと立ち上がる。これをトンネルのなかで行うと前が見えないぐらいになる。このときに、多くの粉塵が肺に入り、塵肺につながる。しかし、ガーゼマスクのメッシュはミクロン単位の粉塵に比べて大きすぎて何の役にも立たないのは自明であるにもかかわらず当局(国鉄)は普通のガーゼマスクを配布しているだけである。また、黒鉛を焼結して電池の陽極棒を作っている会社があり、そこでは多くの社員が肺を侵されていた。しかし、会社は高温で焼結して作るので消毒されているし、イモリの黒焼きと同じで炭素の黒焼きは薬である、と言っていた。このような状況で裁判になっても、専門家(医者や学者)が登場して、経営者の肩を持つのである。1960年に水俣病の有機水銀原因説をはぐらかすために、日本化学工業協会が日本医学会会長を委員長として多くの大学教授などを集めて水俣病研究懇談会を組織した。これによって水俣病の原因があいまいにされたために、単に加害企業の責任逃れだけではなく、水銀の放出が続き被害は拡大したのと同じ構造である。今も、原子力村に多くの専門家がいるが。
そこで、学外で公害や労災・職業病にかかわっていた学生たちが京都大学安全センターを1973年に設立した。大学の教員は被害者側にも協力し、大学が持つ知識や設備を市民に開放せよという運動である。一部教員もこれに協力し、1974年に大学が部屋を与えた。その後、安全センターが核となり、労災などの被害者を支援してきた。また、京大で実験廃液を下水に垂れ流していたのを告発した。その対策として、大学は学外業者への丸投げによる廃棄物処理を計画していたが、安全センターの廃棄にも研究者自らが責任を持つという思想のもと、処理施設を化学系建物の中庭に設置し、研究者自らが処理をするようになった。また、御用学者の糾弾もした。なお、京大安全センターは現在も存続している。
科学にもいろいろある。調理の科学、健康の科学などは市民のものであろう。しかし、原発の科学となると、大多数の科学者は市民の側には立っていない。裁判で市民の側に立っての証言を依頼すると、ほとんどが多忙であるとか専門でないとか言って断るが、同じことを行政や企業が依頼すると、ホイホイと引き受けるであろう。基本的に大学の学者は御用学者である。誰から給料をもらっているかを考えると自明である。御用学者とは、もともとは江戸時代に幕府に雇われて歴史などの研究をしていた人を指していた。私が子どもの頃のチャンバラ映画では、十手を持った役人が「御用だ、御用だ、お上の御用だ」と走り回っていた。いまでも京都の町には、「宮内庁御用達」という店がたくさんある。要はお上の下僕である。一方、学者という言葉には、迎合せず真理を探究するというニュアンスがあるがこれは幻想である。そこで、ドイツのNPOなどでは、研究所を持ち、研究者を雇っている。その分、会費は何万円もするが、多くの市民はそれを負担している。