連載「生命へのまなざしと科学」(6)番外編:架空インタビュー テロリズムをめぐる「二つの絶望」

投稿者: | 2001年12月14日

生命へのまなざしと科学 
上田昌文(聞き手:アキ、語り手:フミ)

●自爆テロの衝撃

アキ:君はこの連載で、現代の科学技術が私たちの命をめぐる見方・考え方にどう影響し、どのような新しい問題を生み出しているのかを探っているわけだが、米国を襲った自爆テロリズムとそれへの報復戦争を、こうした角度からどのようにとらえることができるのだろうか?

フミ:ニューヨークの世界貿易センタービルへの航空機の激突と巨大ビルの崩壊の映像は、大きな衝撃を世界にもたらした。その衝撃は、誰も予測できなかった新しい事態にいきなり直面したこと、つまり、これまで揺らぐはずがないと思っていた足元の大地がいきなり崩れ始めたような感覚に襲われていることから来るのではないだろうか。その崩壊感覚は、社会の安全や平穏を支える土台がこれほどまでに脆かったのかと、誰もが驚愕を隠せないでいる。

アキ:しかしテロリズムはこれまでも歴史の中で繰り返し発生してきたし、戦争もこれまで人類は何度も何度もひっきりなしに体験して来たと言える。この度の戦争が世界的な大戦に発展するわけではあるまい。少し大げさなのではないか? それとも、いずれ人類はテロリズムを根絶し戦争を克服していくだろう、という見通しがまったく立たなくなったというわけなのか? それほどこの度の事態は決定的なものを含んでいるのか?

フミ:次の二つの点で、新しいのだと思う。これを二つの新しい”絶望”と表現してみることもできると思う。 一つは、激しい憎悪が科学技術と結びつき、その矛先をこちらに向けるのなら、もう「安全」を保障するものは何もなくなり、見通しのつかない不安に怯え抜かねばならないという点(第一の絶望)。そしてもう一つは、私たちの拠って立ってきた社会の根底的なあり方が関係して世界に大きな歪みがもたらされている、この度のテロリズムで示された憎悪はその歪みに由来しているため、この憎悪をなくすことが本当にできるのだろうかと考えると、その難しさを前に絶望的な気持ちになる、という点だろう(第二の絶望)。 前者は、憎悪を心理的・物理的な暴力に変換する手段として科学技術が使われているという点で、そして後者の「歪み」とは、科学技術を社会発展の主力に据え、外部世界を搾取し支配することを是としてきた、いわゆる西洋的先進文明のあり方がもたらしてきたものだという点で、ともに科学技術と深い関係を持っていると言えるだろう。

●テロリズムの道具としての科学技術

アキ:「第一の絶望」は、テロリズムと核兵器や、生物・化学兵器の結びつきという事態に端的に現れているのか?

フミ:それに限らないところが恐ろしいのだ。人類が科学技術を手にしたということは、人間が普通に平穏無事に、他の動物のように悠久の流れに身を寄せて暮らしていくというレベルからすれば、まったくスケールの違う力と巧妙さを自然から引き出し利用できるようになったことを意味する。この力と巧妙さは、それが適用できる限り、どんな目的にでも使えるという点がやっかいなのだ。 実際、民間航空機そのものが爆弾と化す事態を誰が予測し得ただろうか。航空機自爆テロとの関係は不明だが、炭疽菌を封書に入れて送りつけるという犯罪も、これだけの”効果”を発揮することが世に知れれば、悪意を持った者が、炭疽菌に限らない様々な病原生物を、封書に限らない様々な方法で使用するだろうことは充分に考えられる。オウム真理教のサリン事件を引き合いに出すまでもなく、それなりの知識と金を集めさえすれば、ある社会に激しい憎悪を抱く者たちが、科学技術の力を利用してその社会を根底から撹乱し不安に陥れることは、難しいことではなくなったのだ。 科学技術の多くの部分が、国家間の戦争を勝ち抜くために、国家がその権力によって知力と金を総動員することで、あるいは巨大企業が(国家との深い結びつきのもとに)戦争特需をあてこんだ強力な研究開発をすすめることで、生み出されてきたものだ。戦争が終わっても、この動員体制と儲けのしくみは容易に変わるはずもなく、「安全保障」の名のもとに兵器(とそれに転用可能な種々の技術)の開発は進められていく……。

●憎悪と悪意の”鋭い針”

アキ:しかし、通常兵器は別にしても、核兵器や生物・化学兵器は国際的な取り決めで、開発や使用を禁止することになってきたではないか?

フミ:いったん生み出されたものを絶対に使わないようにする、使われないようにするということが、そもそも大変難しいことなのだ。それに核爆弾の原料になる放射性物質や生物・化学兵器の素材になる病原菌や化学物質は、今も原子力発電所や各種研究機関で日常的に扱われているものだ。 そうした場所での危険物の管理がより一層厳しくなることは避けられないのだが、管理の強化は一般市民のごく普通の生活のレベルにまで及びそうだ。

アキ:水も漏らさぬ封じ込めのバリアは、憎悪と悪意の鋭い”針”には通用しない、というわけか。
フミ:そうだと思う。特にシステムが巨大になればなるほど、巨大な事故や災害に転じてしまう可能性が大きいので、より狙われやすい、ということになるだろう。原発、新幹線、地下鉄、通信の集中的な管理網、上水道設備、ガスや石油の備蓄センター、大きな食料品工場、化学工場、病院……。考えてみれば、私たちの生活、とりわけ都市の生活はこうした巨大なシステムに完全に依存しているわけで、そのすべての仕組みと安全設計を「憎悪と悪意の鋭い針」に備えて見直すには、気の遠くなるようなコストがかかるだろう。そしてその結果生まれるのは、「安全を確保するために」何事にも何重にもチェックが入る、そしてその度に心のどこかで破局への恐怖をぶりかえさせるという、なんとも息詰まるような身が凍りつくような日常かもしれない……。

●安全はいかにして確保できるか

アキ:ほんとに絶望的な話だな。私たちは国家間の戦争を確実に防止する手段を知らず、軍事技術の研究開発や民生技術の軍事転用を確実に抑制する方法も知らない。それに加えて、こうした科学技術テロリズムを予防する手立てもほとんどない、ということなのか。

フミ:テロリズムの手段と目的に分けて考えよう。手段に関係するのが”第一の絶望”、目的に関係するのが”第二の絶望”と言えるかもしれない。 “第一の絶望”については、今述べたとおりだが、私たちの生活がすでに多種大量の化学物質に依存してしまっているし、遺伝子工学が当たり前になり、多くの研究室で生物兵器開発に応用できるノウハウが蓄積されている。核兵器解体や原発の稼動に伴って出る核物質も、扱う量が増えれば増えるほど管理の厳正を期すことは難しくなるだろう。

アキ:何らかの対策を取る必要があるわけだが、どうすればいいのか?

フミ:科学テロを防止する手立ては、技術が潜在的に持っている危険度を減らす方向で、現存の技術体系を組み替えていくこと、つまり兵器になりかねないものの研究から、兵器には決してなりえないものの研究へと、徐々にシフトさせることが基本だ。そしてもっと根本的には、私たちの生活の科学技術への依存度を減らしていくことも必要だろう。

アキ:それは、”言うは易く行うは難し”、だね。

フミ:残念だが、その通りだ。科学の性質上、何が兵器に繋がる研究かを初めから見極めることはできまい。科学技術への過度の依存からの脱却も、原子力、医療、農業、交通、情報…などどの分野においても真撃な模索はなされているが、いったん慣れてしまった利便性(民衆の側)を離れ、開発や生産にかかわる利権の構造(エリートの側)を改めていくには長い時間がかかるだろう。ただし、危険度が高いと推定できるものに関して規制や管理を強化していくという方針自体は、科学テロを防止するという意味合いにおいても、その正しさは否定できないわけだから、この方針をどこまで具体化できるか、当然検討しなければならないだろう。 化学物質の流通や使用後の処分の厳正なチェック、危険な病原徴生物を扱う実験に関する情報の公開など、既存の制度をきちんと機能させたりいくぶん強化させることで前進できることは少なくない。原子力などは必要な情報が公開されないできた分野の典型で、それが結果的に安全性のチェックを甘いものにしてきたという経緯がある。薬害がいつまでたってもなくならないのも、厚生省が薬の安全性の確保を何よりも優先するという姿勢を貫いてはいないからだ。大学の研究開発や企業の生産活動を、市民に対する安全性が確保できない限り認めないというのが、本来行政が取るべき立場だろう。

●富と力の偏在が生み出す憎悪

アキ:では、その「安全の確保」は行政に決めてもらえばいいことなのか?

フミ:それが違うのだ。この点が”第二の絶望”ともかかわってくるので大切だ。これだけ科学技術に依存を深めてしまった社会においては、その安全管理システムにおいても、それぞれの専門家に委ねつつ中央で集中的に管理するという形を想定しがちだが、じつはその発想でいくとこれまでと同じ脆さを生じてしまうのだ、と気付いて欲しい。小回りの利く柔軟性が発揮できるかどうかが安全管理面の一つのポイントになるわけで、それを生み出すには、科学技術と市民生活との様々なかかわりの場において、市民が何を不安に思い、どう対処していきたいと思っているのかを常に取り込みながら、安全を探っていくことが大切だ。「安全性の確保」を検討する際に市民が意思決定に加わることが必要なのだ。

アキ:君の言う”市民”とは?

フミ:ここでいう市民とは、専門性の細部にとらわれず、科学技術を社会や文化の中でどう位置付けて人間生活にどう生かすべきかを、いわば総合的・直観的に判断する存在だ。断片的であり、直観を排除する限定された整合性しか持たない科学の「知」。その知が危険な方向に暴走することをあらかじめ察知しコントロールするには、どうしても”素人の感覚”をそれに対置させる仕組みを設けておかねばならないと思う。科学技術への過度の依存からの脱却という視点も取り込みながら。

アキ:その”素人感覚”の尊重は、「第二の絶望」とどう関係するのか?

フミ:この点は徐々に明らかにしていくが、次回扱うことになる、生物特許を次々と持ち出して生命の商品化をすすめるバイオビジネスの現状からも、浮き彫りになるだろう。なぜかくも破壊的なテロリズムが生まれるのか。それは生命科学を含む科学技術のほとんどの分野で、米国が”世界の覇者”の地位を揺ぎないものにしている、という現状と深くかかわっている。世界の上位に並ぶ億万長者477人の資産をあわせると、貧しい人々28億人分の年収に相当したという(1992年国連開発計画の報告)。その時から10年、世界の貧富の差はますます拡大している。科学技術の力を背景に、”持てる者”が”持たざる者”からさらなる収奪を可能にしている世界。誰がどうみても正当化できないこうしたあり方を、私たち自身で変えていかない限り、私たちに安全と平穏は訪れることはないだろう。

アキ:科学技術文明はそうした宿命を背負っていたのかもしれない、という気がするね。■

(『ひとりから』2001年12月 第12号)

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