等身大の生きものの視点から

投稿者: | 2021年11月3日

国立市の「くにたち水めぐりマップ」より http://kunitachiaruki.jp/?p=8744

等身大の生きものの視点から

倉本 宣(明治大学農学部)

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市民科学講座でお話ししたとき(注1)に少し違うと感じた。私の「姉」と多くの知人が信じていた、会員のYさんに、市民研は私たちとはなにかがちがうという電話を茅ケ崎公園自然生態園からセンター南駅へ戻る歩道からかけた。私とYさんは、私が学生のとき、高島平団地の南側の区画整理事業の反対運動で知り合い、40年間にわたって姉弟のように一緒に活動してきた。反対運動は東京の箱根と言われるこの地域の自然を知ってもらうことから始まった。いたばし自然観察会と高島平ナチュラリストクラブが協力して、毎月、自然観察会を開催した。崖線の部分はグリーンベルトとして、高速道路の緩衝緑地を兼ねて、都立赤塚公園の一部となった。雑木林を経営していたのは農家だが、公園の雑木林を管理するのは公園管理者と自然保護団体とボランティアである。両者にほとんど継続性はない。赤塚公園大門地区のニリンソウの生育する林分の生態調査と環境管理について、区の花ニリンソウを保存する会を中心に活動してきた。40年前の知見は不十分だったのでニリンソウのある林を雑木林(二次林)と理解して植生管理計画を立てていた。40年経って広い視野で見直してみると、京都下賀茂神社の糺の森と同じムクノキ‐ケヤキ林(自然林)と考えるようになった。現在管理している、東京都公園協会赤塚公園サービスセンターとニリンソウを守る会に連絡し、植生管理計画を変更するように勧めているのだが、返信は来ない。

私の小学校低学年までは、現代とは違って、生きものが豊かであった。一部が矢川緑地保全地域に指定されている南武線の南側の立川段丘崖の下は、小川、水田、梨園が広がっていた。ボックスカルバートをくぐって、南武線の南側に出ると、別世界が広がっていた。小川には、キンブナ、モツゴ、アメリカザリガニ、ドジョウ、水田にはマムシ、ヤマカガシ、トウキョウダルマガエル、アマガエル、矢川にはナガエミクリが生息・生育していた。

矢川は立川駅南口の立川高校付近から、矢川緑地保全地域を経て、旧甲州街道を横断し、府中用水に合流する。私が子どものときには、立川市錦町の耕地整理によって職業訓練校までは地下化されていたものの、氷屋やもやし工場などの水と関係のある産業が立地していた。今も、弁財天と池がある。矢川の流域の一部は東京都農業試験場の労働組合と共産党の市議の運動によって、災害時の飲み水としての意義から1976年に東京都の緑地保全地域に指定された。保全地域は東京都独自の制度であり、地域制の緑地である。指定に当たって、崖線の斜面を含まず、低地のみを指定したことは、斜面全部が戸建ての住宅地として開発されて、ツリフネソウなどの湿地の生態系の重要な構成種が失われたり、蚊の発生に対する苦情から敷地境界付近の草刈りを行わなければならなくなったりという問題を生じさせた。指定運動が、水に着目したものであり、崖線の生態系保全まで視野に入れることができなかったという時代の制約があったのかもしれない。この土地は都営住宅用地として買収済みであったので、指定とともに自然保護のための場所として、まず極相を構成する常緑広葉樹(照葉樹林)が植栽された。植生自然度のランクが遷移段階の進んだものほど高いことに示されているように、当時は遷移が進んだ照葉樹林に価値があるとされていた。その後、落葉広葉樹林(雑木林)の価値が見直される時代がやってきて、目標植生が変更されて照葉樹の大部分が伐採されて雑木林の構成種が植栽された。水田は、ハンノキを一部に植栽した、湿性林と湿性草原に替えられた。当初は東京都公害局(当時、現在は環境局)が管理していたものの、現在の管理業務は立川市と自然ふれあいボランティアによって行われている。生物の取り扱いはむずかしく、指定時には、沈水型のナガエミクリが同定できなくて沈水植物のセキショウモなどと誤同定されていた。立川市は本来この地域に分布していない樹種を最近植栽した。自然保護のための場所には国内移入種を持ち込まないのは当然であり、さらに種(しゅ)には地理的な変異があり、変異をかく乱しないことは基本的な取り扱いであるので、生きものを取り扱う基本的な素養を管理者が身に着けていないといわざるを得ない。

保全地域の下流は国立市域で、ナガエミクリの草刈りが定期的に行われ、国立第六小学校わきの憩いの広場は国立市によって断面も底質もまったく本来の矢川と異なるものに変えられてしまった。その下流は旧甲州街道に面した農家の裏で、今も野菜の洗い場が多い。旧甲州街道の下流は、住宅が隣接している。その下流は滝乃川学園で、府中崖線を横断する急流であり、崖線の林を流下し、府中用水に合流する。指定時の運動が飲み水の確保であったことから、矢川の自然、特に農業が成り立っていた時代における矢川における人と自然のかかわりがまだかろうじて残っている。しかし、中央線側からの開発の歴史は、私を冒頭に述べたエートスに再び立ち返らせる。国立市では、中央線寄りから、西武資本(箱根土地)による国立開発、住宅都市整備公団(JR)による富士見台開発、そして、最後に組合施工の土地区画整理事業による南部地区の開発が進められてきた。この3段階の市街地の開発も、市街化こそいいものだというエートスを反映しているのではないだろうか。市民研で話をさせていただいたときに関心を示す方のいなかった新たな人と自然との関係についての新たなエートスを作ることこそが、自然保護の最重要課題だと考えている。

ここで、些細なことをいくつか述べておきたい。樹木は成長するので、公園の植栽は将来を考えて密度を決めていた。前の東京オリンピックにあたり、植栽時に見栄えがする大きさの樹木を見栄えのする密度で植栽するようになった。十年余り経1980年代には過密になった。一部を伐採するか、全部を強剪定するか。伐採すれば苦情が来る。現場の責任者が苦情に答えられない公園では強剪定するしかなかった。強剪定によれば、どの樹木も不健全で、費用も伐採と比べてけた違いにかかるにもかかわらず。また、東京都は丘陵地の風致を都立自然公園という地域制の緑地制度で守ろうとしたものの、開発圧力に抗しきれず核になる園地を都市公園(一般の都立公園と区別して特に丘陵地公園と呼んだ)にした。丘陵地公園の地主は東京都なので、雑木林の管理も農家ではなく東京都が行うことになった。雑木林の皆伐更新に当たって、平山城址公園周辺の住民から、「ヤマザクラを伐ってはいけない」という強力な苦情があり、担当の部局は説得できなかった。そのため、皆伐更新の後には、林内で成長したひょろひょろのヤマザクラが残されていた。ヤマザクラの樹形を見れば、スタンダード(1本立ち)ではなく株立ちであり、これまでくりかえし、伐採されて切り株からのひこばえによって再生してきたことが明らかであるにもかかわらず、だれも現実を正しくみて理解し、行動につなげることができなかったのである。市民研の活動の一部は現実をみることからスタートしていると私は理解しているので、その部分で私も参画したいと考えている。

もちろん、現実の自然をみて、自分たちのなすべきことを決めることができる市民が増えることは必要条件である。しかし、温度のデータロガー(注2)についてはお貸ししようとした5つの保全団体のうちで借りてくれたのは2団体、データをみせてくれたのは1団体であった。光を測定する器具の中で貸し出ししやすいオプトリーフとその測定器をお貸ししようとした4団体のうちで借りてくれたのは3団体、測定に成功したのは1団体、データをみせてくれなかったものの解釈と応用が間違っていると推測されるのが1団体であった。私の研究室では市民と共用できる備品をなるべく購入して使用するようにしているものの、市民の側には測定器を使用することに抵抗があり、しかもデータを私たちに見せて一緒に考えたくないようなのである。コウモリの超音波を我々に聞こえる音に変換するバットディテクターや簡易実体顕微鏡ニコンファーブルなどの観察会の用具は、調査用具とは異なり、借りていただくことに抵抗はないので、これは保全団体の測定に対する意識を反映しているのではないかと考えている。そのため、現状では、市民研の自然保護に対する参入は、動植物の同定から入るしかないであろう。ただし、日本の自然観察会運動では名前を覚えることは生きものの生活から目をそらすこととされてきたので、社会的な運動と同定の両方の能力のある市民は多くない。

この60年間をもう一度やり直せるとしたら、我々はどうするだろうか。環境ポテンシャルは元に戻せない。保全地域からは梨園や水田の農家の存在がなくなったものの、下流では野菜の洗い場が今も使われている矢川。二次的な自然を成り立たせてきた人の手につながる、現在の地域活動の再興をめざし、いつの日にか、農家とともに保全地域と矢川との持続可能なかかわりを再建したい。私たちはこれこそ市民科学の重要な挑戦の一つだと信じている。ほぼ全国で変質した人と自然の関係についてのエートスを再構築し、個別の場面で具体的に関係を作っていくには、市民研が現在もっている方法論や人材だけでは十分でないように思われる。私は目標とする時代を知っているおそらく最後の世代である。使われていた時代の雑木林の樹々は私の腕くらいの太さであった。しかし、私が現場で活動できるのはあと5年ほどであろう。それは里山の時間スケールに比べて短すぎる。そのあいだに次の世代にどうやってバトンを渡すのかをよく考える。市民研でも紹介させていただいた(けれども関心は持たれなかった)ナラ枯れとその周辺課題に関する連続講演会(注3)はこれまで10 回開催し、形を変えながらあと54回開催する予定である。大学生の教科書「新版生態工学」(注4)では第12章として市民のための章を設け、zoom読者会を展開してみた(注5)。自然保護は現場があってこそ成り立つものなので、市民研内部の活動ではなく、現場的な活動と市民研が協働するアプローチが望ましい。先に述べたような現場では生きものにシフトした運動が多いとしても、しっかり寄り添っていけば、1つの現場で10年単位くらいかかって成果があることが予想される。

このときに、必要とされるバックグラウンドは、市民運動や環境問題に対する取り組みのセンスのほかに、生きものに対する理解、特に同定能力である。私の研究室の学生の1/3は生きもののマニアである。環境問題を解決したい学生が1/3、個人単位で野外研究することが楽だからという学生が1/3くらいのように思っている。生きものマニアは自然保護に向かうとは限らない。岸由二(私信)のとおり、改心した生きもの屋は役に立つのであって、ハビタットと切り離された自分が好きな分類群を飼育・栽培している生きもの屋は自然を守るのに有害である。生きもの屋が持っている膨大な標本は同定に必要であり、マニアの家では引っ越しも容易でないほどの標本が保管されている。私は生物学で社会を動かすことをめざして大学に進学したので、マニアではないため、彼らの改心のきっかけはよくわからない。

遠いむかしにMayr(1942)が述べた、howのbiologyとwhyのbiologyについては、Yさんに何度か話したものの、生物学はすべてhowの学問であるという彼女の認識を変えることはできていない。Howは生理学、whyは生態学や分類学の研究課題を示したものであり、私たちが大学院生であった時代には生理学が生物学の中心であったので、我々はwhyの意義を主張したものである。Yさんは生理学者なのですべての生物学はhowの学問だととらえているのは当然かもしれない。

自然を守ることはwhyの生物学を尊重しながら、必要に応じてメカニズムを突き止めて現実の世界に反映することであろう。この世には風散布種子が大量に飛び交っているものの、風散布種子がどの季節にたくさん飛ぶのか、どれほど遠くに飛ぶのかを知っている人はいない。今日は、風散布種子の捕獲器の設置に向かうところであるものの、現象論が進めば、自然保護にも役立てることができると予想している。今までの市民研の議論から、現場の市民のwhyを運動に生かすhowを解明して蓄積していくのが一つの役割ではないかと考えている。

注1
第13回市民科学入門講座「首都圏におけるナラ枯れを契機に人と自然の関係をつなぎ直す」2021年2月22日(月)
注2
任意の時間ごとに対象物の温度を測定し、そのデータを記録・保存する計測器。
注3
ナラ枯れとその周辺課題について考える、連続講演会
http://www.jsrt.jp/research/research_diversity.html#2021
注4
『新版 生態工学』(亀山 章(監修)/倉本 宣・佐伯 いく代(編著))朝倉書店2021年8月
https://www.asakura.co.jp/detail.php?book_code=18060

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