【連載】ベル電話研究所とポップカルチャー(2)機械がおしゃべりしているとき

投稿者: | 2021年11月3日

連載

ベル電話研究所とポップカルチャー (2) 機械がおしゃべりしているとき

瀬野豪志 (市民研理事&市民研「アーカイブ研究会」世話人)

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電気の「産声」

“Greetings, everybody!”

人々に「ご挨拶」をしているこの声は、電気から生み出された。「彼」の出身地は1930年代のベル電話研究所で、ホーマー・ダッドリーという科学者がその父親である。彼の声がはじめて人々の前に現れたのは、1939年から1940年にニューヨークとサンフランシスコで開催された万国博覧会のときで、電話会社AT&Tによる音響技術のデモンストレーションにおいてであった。そのとき、彼は「ヴォーダー(The VODER)」と呼ばれていた。”The Voice Operation DEmonstratoR”の略である。

ヴォーダーが産声をあげたとき、はじめは「ペドロ・ザ・ヴォーダー(Pedro the VODER)」と名付けられていた。この「ペドロ」という名前は1876年に発明されたアレクサンダー・グラハム・ベルの「テレフォン」のデモンストレーションでの出来事からきていた。1876年6月25日、フィラデルフィアで開催されていた博覧会で、ベルが発明したばかりのテレフォンを展示していたとき、そこにブラジルの皇帝ドン・ペドロ二世(Dom Pedro)がやってきた。ベルが「テレフォン」の通話を実演してみせると、テレフォンから聞こえてくる声を耳にしたドン・ペドロ二世は、「おお、しゃべってる!」と驚いたといわれている。電話会社は、電子音の合成という方法でも「機械がしゃべっている!」というストーリーを利用してデモンストレーションをしたわけである。

ヴォーダーのデモンストレーションは、機械がしゃべるという「魅惑」的なコンテクストを利用していたが、それだけで本当に機械がしゃべっているといえるのか、そんなに驚くほどの声だったのかという問題はさておき、人間の声を電気的に伝送・再生する「テレフォニー」の技術は、このような魅惑的なデモンストレーションを繰り返しながら、様々な分野で普及してきた。音響技術は、自前の「音」によって自己を演出し、人々にアプローチし、人々を魅惑するときがある。このように、実用的な目的が受け入れられるよりも先に自らをデモンストレーションする、いわば「コミュニケーション能力の高い」ような、「魅惑」が先行するような技術は、現在の「人間らしい」技術のデモンストレーションでもしばしばみられる。多少の違和感を覚えることはあっても、新しい技術のデモンストレーションにおいては、その人間らしき何かが実現されていることを参加者は認め合い、それをもって新しい魅惑的な存在として受け入れられるときがある。

ヴォーダーの名前には、機械がしゃべるデモンストレーションによる「魅惑」の技術であることに加えて、もうひとつ強調されていた点がある。それは、VODERのO の「operation」である。ヴォーダーは、楽器のオルガンのように「声を電気的に操作する」機器になっており、声が生まれる「操作」を見せるライブパフォーマンスでもあった (注1)。司会者から「録音ではない」ことが説明され、ヴォーダーのオペレーターは、どこかに隠れているのではなく、演奏をするかのようにステージの中央でその操作を見せた。

ヴォーダーは、楽器演奏のような操作によって、おしゃべりをするレベルのコミュニケーションのシステムとして考えられている。つまり、声を発するだけでなく、オペレータの操作によってわれわれを「おしゃべり」に引き込むのである (注2)。

電気の声の「ショウマンシップ」

ヴォーダーのデモンストレーションを体験した人々は、その声をどのように聞いたのだろうか。ベル電話研究所やAT&Tによる報告には、わざと発音が難しい言葉をリクエストする人がいたことや、ある東洋言語学者がアラビア語のような発音の難しい言語の学習に役立つのではないかと考えて同僚の研究者にも観に行くように勧めていたことなどが書かれている。電話会社によるこのような報告は、アレクサンダー・グラハム・ベルが教えていた「視話法(口腔内の動きを記号化したことによる言語の発音法)」を連想させて、「どのような言葉でも正しく発音できる」技術によって、どのような言語でも習得できるようにする方法につながる可能性を示唆している(注3) 。

しかし、聴衆にとっては、電子音だけではあるが、その不完全さからくる非言語的なコミュニケーションの印象も生じていたことがうかがえる。聴衆の多くは一度(5分間)だけでは立ち去ろうとせず、ヴォーダーの声を何度も聴こうとした。その「おしゃべり」は、聴衆にとっては、どこか笑いを誘うような声でもあった。実際のところは、ヴォーダーの声から言葉を「了解」するには司会者が問いかける文脈がなければ難しかったのではないかと思われるが、言葉としてわかるようになるかどうかというよりも、思わず笑ってしまうような面白さが感じられていたようである。

サンフランシスコでのデモンストレーションの責任者だったローレンス・N・ロバーツ(Laurence N. Roberts)は、ヴォーダーの「ショウマンシップ」について「ヴォーダーは、ベルシステムによって行われてきた電気通信の研究の価値を聴衆に印象づけるだけでなく、フレンドリーなエンターテインメントを通じて、親しみやすさを築くのに重要な役割を果たしている」と書いている。その証拠にと、彼は小型カメラで撮影された聴衆の写真を紹介している(注4) 。

ヴォーダーの「ショウマンシップ」がどこまで計算通りだったのかはわからないが、デモンストレーションの司会者とのやりとりからすると、聴衆を楽しませようとするシナリオにはなっていたようである。ヴォーダーの「ヴィブラート」の操作方法が説明され、「ヴォーダーは話すだけでなく、歌えるんですよ」と促されると、ヴォーダーは生真面目に発声練習をして、「(司会者)いいかな?」「はい、いいですよ……」と歌い始める。

ヴォーダーの声を生み出したダッドリーは、その音声合成の技術について「モノマネ芸(mimicking)のようなもの」とも言っているが(注5)、あなたは聴衆としてこの声をどのように聞くだろうか。

機械がおしゃべりするときのコミュニケーション

ドン・ペドロ二世のように機械が「しゃべっている!」と驚くのは、過去の博覧会だけでなく今日でもありうることである。「しゃべる機械」は、いたるところにある。人々の注意を引くための声として、公共的な場所や自動販売機のガイドとして、放送の受信機からの声として、そして「ロボット」として。たとえ技術的にはとるに足らないように見える機械であったとしても、不意に「声」が聞こえてくると、その機械に注意を向けてしまい、近づいてみたり、話しかけたり、ときには驚いてしまったり、その冷静なトーンに怒りをぶつけてしまうこともある。このように「しゃべる機械」は、人々の行動に関わり、人々がテレフォニーの技術に参加する(文句をつける)きっかけになる。「なぜそんなことを言うのか。」「なぜこれは声がするのか。」「これはどういう声なのか。」「ここに声や音楽はいらないのではないか。」「この機械はいったい何をさせようとしているのか。」このように機械からの声を意識するとき、われわれもおしゃべりをしている。社会に浸透してきた機械からの声とおしゃべりをして、テレフォニーがもたらしているコミュニケーションに多少なりとも関わることになる。

AT&Tのデモンストレーションは、テレフォニーのコミュニケーションには人間の要素が含まれるということを強調しようとしていた。テレフォニーの機械やモノだけではなく、「博物館の展示品のようにしておくのでもなく、電話サーヴィスの自動的な展示でもなく、全ての電話サーヴィスの公共性と全ての通信技術の進歩の背後にある主導者である、ビジネスにおける『人間の要素』を強調し(中略)全てのデモンストレーションは、出来る限り、個人に向けられているように、また、活動的でパブリックな参加となるように設計」されていた(注6)。機械が発するにしても、人間同士で通話をするにしても、相手の人格的な同一性が崩れないような音質の信頼性がなければ、現在のようなコミュニケーションや社会的活動にともなうテレフォニーの使い方はできないであろう。

機械からの声が「おしゃべりしている」と認めるならば、自分自身の私的で言語的な聴取が成り立っており、機械を通して自分に話しかけてくる声を自分の社会的な活動に関わる存在として認めるだろう。それは、なぜか会ったことがなくても、である。実際に、通話や放送を利用しているとき(機械からの声がおしゃべりをしているとき)、その声の「主」の存在を疑うときはどれだけあるだろうか。

すでに80歳をこえている元祖「エレクトロヴォイス」のヴォーダーは、声としては完全ではなかったかもしれないが、機械が発する声という考え方は、文化的に見れば様々なところへと広がっている。映画や音楽でこのような声の存在に出会っているかもしれないし、機械の余計なお節介を街の中で聴いているかもしれない。もはや、われわれは機械からの声の魅惑から逃れることはできないが、テレフォニーを介して人とも機械ともコミュニケーションの場を生み出すことがある。

すでにわれわれには、機械からの声との間の長い付き合いがあるが、実際のところ、技術的な目的が定まるよりも先に、むしろ定まらなくても、その付き合いが「おしゃべり」になることをどのように考えてきただろうか。今後も機械からの声との親密な関係があるとするなら、それは言語的な技術の可能性や「機械の音」としての評価をすればいいだけの問題だろうか。たとえば、技術のデモントレーションの「魅惑」という側面は、一見すると人々の趣味に過ぎないように見えることも多いが、技術と社会の両面に関わるこのような文化的な要因を軽視すると、良い面にしても悪い面にしても、実際に起きること(社会における使われ方やコミュニケーション)を見ていないことになりはしないだろうか。

ヴォーダーの奇妙な声を聴くことは、機械と人間が一体になっていくテレフォニーのコミュニケーションを考えるためのいいエクササイズになるはずである。

 

注1 “Pedro the Voder: A Machine That Talks,” Bell Laboratories Record, 17(1939), pp. 170-171.
注2 Homer Dudley, “The Carrier Nature of Speech,” Bell System Technical Journal, 19(1940), pp. 495-515.
注3 ”Our Exhibits at Two Fairs,” Bell Telephone Quarterly, 19(1940), p. 63.
注4  ”Our Exhibits at Two Fairs,” Bell Telephone Quarterly, 19(1940), pp. 78-79.
注5  Homer Dudley, “Synthesizing Speech,” Bell Laboratories Record, 15(1936), p. 98.
注6  C. T. Smith, “Exhibiting Telephone Progress at the World’s Fair,” Bell Telephone Quarterly, 13(1934), p. 5.

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