北朝鮮飢餓問題 続報

投稿者: | 1999年4月16日

北朝鮮飢餓問題 続報

山田 修

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***日中協働「飢民」支援フォーラムより 参加報告***
「北爆」の意図が迫るなか、我々はこの冬中国側から中朝国境に足を運ぶことができました。そして子どもを含む二百数十人の避難民に直接救援する方途を確立しました。我々は十名ほどで「日中協働『飢民』支援フォーラム」を結成しました。覚悟ある人士の参集を求めたい。■(色平哲郎 内科医)

私にとって今回ははじめての訪中でした。今回のとりくみは、韓国の『民族助け合い仏教運動本部』KBSMの呼び掛けに応じたもので、以下は中朝国境を越えて中国領にはいった北朝鮮食料難民の実態調査にとりくんだ記録です。
事前の情報では、国境地帯では人身売買をはじめ、難民がらみの犯罪が少なくなく、中国の公安に見つかり次第、北へ強制送還され、北へ戻った後は北の警察所持品、金品を没収された上、暴行を受ける、というものでした。
そこで北朝鮮に最も近い中国側の都市で、難民も多くいるといわれている東北部の吉林省、延辺朝鮮族自治州の延吉市へ行ってみることにしました。延辺朝鮮族自治州は人口200万人のうち朝鮮族が40%を占め、北朝鮮とのルートとなる橋も7ヶ所あって、州都である延吉市(ヨンギル、中国語ではイェンチー)は中国というより、韓国の地方都市に見える位ハングル語の看板のあふれる街でした。国境貿易の恩恵と同一民族でつながりのある人も多いせいか、韓国の資本も多く投入されている様であり、市場には韓国製品があふれ、かなり活気のある街です。
中国へ行く前に韓国のソウルへ行き、KBSM執行委員長で僧侶の法輪師に会い、中朝国境の現状と支援の実情を教えてもらうことにしました。KBSMの活動とは別に北朝鮮国内の咸鏡北道に特別地区があり、この地区における食料救援事業にも法輪師らはとりくまれていらっしゃるわけですが、ここの地区は部分的に外国人に開放されているとはいっても韓国籍では入国できないので、JTS という別団体をつくってアメリカ合衆国から直接に資金と食料を送り、現地には中国人4名を駐在させているとのこと。現地の人々が20人ほどで食料を炊き出し、保育園児向けの栄養食となるトウモロコシ食品の調理などにとりくんで働いているとのことでした。

延辺朝鮮族自治州の現地調査ですが、1999年1月半ばの8日間を延吉市を基点にして周辺で過ごし、調査にとりくみました。延吉市へは北京から寝台列車で27時間かかります。地方都市ですが中心部には高層ビルが建ち並び、市内の延辺大学には日本人留学生も多く、中学校では3年間日本語を勉強するそうで、カタコトの日本語を話す人も少なくはありません。
また、街にはトヨタやニッサンの車、それも比較的新しい車が多く、北京で外車と言えば(中国製らしいですが)プジョーやシトロエン、フォルクスワーゲン、アウディそれに韓国のヒュンデやデェウーといった車が多いのと対照的でした。延吉市の人の話ではこれらの日本車はほとんどが北朝鮮からの密輸入車で、最近は公安の取り締まりも厳しくなり、数は減ったと伺いました。クラウンクラスで10万元(公定レート1中国元=約14円なので日本円で140万円)前後だそうです。ちなみに右ハンドルの日本車を中国国内で通用させるために左ハンドルに改造するのに1万元かかるそうです。また比較の為に中国製の中型シトロエンの値段を聞いたら15万元でした。
延吉市では、・北の難民の子ども2人、・難民の保護をしている宗教者、・北朝鮮にいる兄弟に面会に行ったことのある市内の74才の男性、・延吉近郊の農村に住む56才の朝鮮族農民の男性、・農村に隠れて住む食料難民の家族の奥さん、・北と取引のある現地の経済人、の7人にインタビューすることができました。

●まず二人の難民の子どもです。
A君(18才)は慈江道の出身で、もうひとりB君(16才)は両江道の出身です。いずれも中国国境に近い山岳地域の出身者です。この二人は身長は160cm位ありますが、体つきが貧弱で、見た目には中国人の12才児と変わりがない印象でした。私は写真でしかみたことがありませんが、日本の終戦直後の戦災孤児を思わせる顔つき、体つきをしています。たとえていうなら、ふかしたてのジャガイモにハシで孔をあけて目鼻をつけた、とでもいう様な、今の日本にはいなくなった素朴な顔つきです。
彼らはいずれも故郷ではご飯が食べられず、B君は母親だけが故郷に健在とのことですが、他の家族は病気や飢えの為に体が衰弱して亡くなり、あるいは行方不明となっているとのこと。北朝鮮の中で列車にタダ乗りし、物乞いや盗みをして放浪していたそうです。彼らの話では故郷の村では村人の多くは亡くなったり、離村したりで、今では半分は空家になっているとのこと。彼らは放浪しているときに仲間となり、孤児達の噂で国境を越えて中国へ行けば食べ物はある、と聞き、国境の川である冬の図們江が凍った時に歩いて中国へ密入国してきたといいます。最短で30m位の川幅です。中国に入ってからは言葉の通じる朝鮮族から食べ物や着る物を恵んでもらったり、バスの運転手の好意でタダで乗せてもらったりで、めぐりめぐって延吉市へ着いたとのこと。街を徘徊している時にキリスト教の信者らに保護され、最初は教会でかくまわれたといいます。
何度か訊ねているうちに少しずつわかってきたことですが、彼らは実ははじめての中国ではなく、自発的に北朝鮮へ帰ったり、あるいは中国国内にいる時に公安につかまって強制送還されたりで3?4回は国境を出入りしているとのことです。中国公安に「飢民」として強制送還される場合はまず留置所に2週間入れられ、マイクロバスで男女とりまぜて10人位の単位で、最大の国境の街で、延吉市から車で1時間ほどの図們市に行き、図們江にかかる国境の橋を渡って、北朝鮮に送られて行くのだそうです。
A君によると、北の警察へ引き渡された時は所持品を没収され、かなりひどく殴られたとのこと。身寄りがないので孤児院へ入れられたとのことでした。孤児院では3度の食事には茶碗一杯のぬかと身の入っていない塩汁が出されたが、なれないうちはのどを通らなかったけれど、なれたら全部食べられる様になった、といいます。
また、中国から「北」へ向かう道中、公安のマイクロバスの中でいあわせた大人の難民達は次々と走るバスの中から飛び降りて逃げ、「北」へ送られたのは子どもばかりになっていたと。そして妊娠した若い女性が途中で飛び降りた時は目の前で着地に失敗して頭を打ち、意識不明で図們の病院へ送られた。後から聞いた噂では、その女性を病院に連れていったが、入院費用を公安が負担しなければならず、その予算が無く、公安も困っている、らしいと。最近ではそんな事故、また増える食料難民を留置所に入れつづけておく予算も中国側にはなく、つかまっても犯罪でもおこさない限り「悪いことをしないと約束すれば、釈放する」と説教され、半日か1日で釈放された人もいる、とききました。
以上のききとり結果について少し考えてみました。
延吉にいれば言葉もナマリさえ直せば朝鮮族にまぎれてくらせるし、また善意の人からお金や衣類、あるいはうまくいけばですが仕事や住むところの提供を受けることもできる。ではなぜ自発的に戻ろうとするのだろうか?
第一に望郷の念があります。延吉でひっそりとくらせば行動の自由こそ限られているものの、物乞いしてでもお金は入手できます。しかしある程度たまると北に残っている家族や親戚にお金や衣類を渡そう考えて帰ろうとする。あるいは行方不明の肉親を探しに帰る、ということがあります。A君は後者、行方不明の兄をさがしていました。B君は前者、母親にお金を届けました。中国の100元札と500元札を筒状にまるめ、ラップでくるんで、尻の穴の中へ入れる。少額は靴底の内へ入れるなどして、すぐに相手に渡して逃げる為の分も分けて持つようにする、等々のやり方を彼らからききました。また現金さえあれば、今の北朝鮮にはヤミ市場があって、中国元は北朝鮮のウォンに両替でき、食べ物も買えるとのことでした。
第二に、延吉市にいては食事と衣類はなんとかなっても「住む所がない」。
以下のように罰金制度まであるとききました。延吉ナマリを器用に話し、世渡りの上手な人でもないと公安に密告されたりする。かくまってくれる人がいても公安にバレると5000元(約7万円)の罰金を支払わなくてはならず、衣食の提供はあっても住まいまでは、短期間ならともかく、長期には難かしい。
この5000元という金額は最貧困層の年収の約2年分弱[560元?600元/年 が家族一人当たりの平均年収で 560元×5人家族=2800元/年]に相当するものです。
第三に身分が不安定なところへもってきて、人身売買や差別、仕事についても中間搾取などの人権問題、いつ強制送還されるかわからない不安や見えない圧迫感がある様です。

●次に難民の保護をしている宗教者の話。
延辺朝鮮族自治州にはキリスト教の教会が200ヶ所以上あり、延吉だけでも十数ヶ所、非公認の小さいものもいれると50ヶ所以上とききました。80%がプロテスタント、20%がカトリックだそうですが、それぞれ横のつながりはないとのことで、信者が街で見つけた食料難民を連れてくる。あるいは「教会へ行くと助けてもらえる、と口コミで難民が来る。難民が来るとシャワーを浴びせ、新しい服を着せ、多くは皮膚病や「肺病」を持っているので、その場合は病院へ連れていく。その後仕事を紹介したり、住む所を見つけ、子どもには読み書きを教えたりする。公安のトップには難民が衰弱している場合には人道的に3?4ヶ月であれば面倒みさせてほしい、と黙認してもらっているが、年に数度ある「難民送還キャンペーン」の時には他の土地へ逃れさせる。公安にはこのキャンペーンの時にはつかまえた人数に応じてボーナスが出るらしいとのはなしをききました。2年前に衰弱した27才の女性がはこびこまれてきた時、病院で点滴注射して治療してもらったが、3日後に死んでしまったそうです。教会が殺人罪に問われそうになったが、遺体を火葬する前に検死してもらい、助かったこともあると。教会の多くは似たようなことをしているようですが、表だっては動けないので、はっきりした全体像はわからない、とのことでした。
北朝鮮の平安南道の地方都市に住んでいる弟に面会した延吉市内の74才の男性の話です。弟さんは元炭坑労働者で現在は定年退職して、家族は奥さんと娘さんの3人家。97年に手紙で「食べ物がないので送ってほしい」と連絡があり、すぐに国境の図們で25kgの米袋を5つ買って国境バスで北へ入ったそうです。米は中国国内では1.5元/斤(42円/kg)の値段に対し、北の税関で1元/斤(28円/kg)の課税がなされました。北の肉親に会うにはいつ、どこで会うかを申請しなければならないそうですが、許可がおりるのにとても時間がかかったそうです。また、北の国内の列車運行は列車の部品不足などからとききますが、時刻表通りではなく、一日の行程が四日かかるなど、国内の移動や手紙のやりとりもスムーズにいかないとききました。親戚訪問であれば北朝鮮国内のどこへでも行ける、という中国人もいましたが、この人の話では、ごく短時間、しかも国境沿いの街でしか親族訪問の許可が下りない、と言っていました。面会は図們の対岸の街の民家に一泊する形であったそうです。あくまでも親戚訪問の形式なので、その民家が親戚であったことにして、縁のない人に頼んで泊めてもらうことにしたと伺いました。弟の話では定年者には配給と年金は無く、かなり衰弱していた印象でした。弟とその娘、そして泊めてもらった家の家族8名の合計10人で、25kgの米が一晩で食べ尽くしたことにこの男性は驚いていました。
前述の通り北の国内の列車事情がかなり悪いので、4袋の米をとても家へ持っては帰れないだろうと心配したそうです。話の様子からは日本の終戦直後の買い出し列車のようなスシ詰め状態らしいと想像しました。

●延吉近郊の朝鮮族30世帯(人口110人)の農村でのインタビュー
対象者は56才の朝鮮族農民の男性です。延吉市内の親戚が17才の難民をかくまっていることをたまたま伝え聞き、本人がケガをしていたので、農繁期にこの村に2ヶ月間居候させたといいます。家族同然にうちとけ、良く働いてくれたが、ナマリがひどく、密告の危険があると考え、延吉市へ帰したそうです。彼の家の小さい娘は「兄さん」といって慕っていた、と伺いました。村には今も26才と27才の難民の青年がいるが、村のナマリにすぐなれたので、村の誰かが密告さえしなければ、完全に村人にとけこんでいるので、バレることはないであろうと。この、27才の青年は家長と一度ケンカして家を出たが、すぐ戻ってきてあやまり、一緒に暮らしていると。村人は宗教を持たないが、善意から彼らをかくまっているし、彼らは田畑を良く手伝ってくれるので、助かっているとのことでした。
この村のひとり当たりの年収は1400元(約2万円)程で、一家族4人とすると総収入は年5600元程になります。過去に公安に見つかり、18,000元(25万円強)をとられた農民や、一晩かくまっただけで5000元(約7万円)の罰金をとられた人もいると伺いました。村には年2度は公安がキャンペーンで難民を探しに来るが、村長が気骨のある人で「難民はいない」と言い、みんなで協力してかくまったそうです。
北京で、ある国連関係者に伺ったところでは、今中国では都市と農村の経済格差が大きくなり、農民には年金も支給されていないとのこと。農村でかくまわれている難民と一般の村民とでは、日常生活における国の保障面では(うまくまぎれこんでさえいれば)この先もそれほどの差はないであろう、とのこと。
違いがあるとすれば身寄りのない天涯孤独のさみしさと、居候あるいは養子としての肩身の狭さがある。あと中国の制度では、申請すれば田畑を30年間無償で借りられ、その後は本人の土地になる、というものがあるが、難民には法律上はこれができないので、一生小作人として終わる、ということです。

●次に話すのは延吉市から車で3時間程離れた農村での話。
面談者はその村の親戚をたよって、1年前に中国に逃げてきた20代後半の夫婦のうちの奥さん。一緒に逃げて来たのは当時3才の男の子と夫の母、夫の妹の5名。現在母親は夫の妹、つまり自分の娘を人身売買したことで村にいられなくなり、行方不明。夫は北へ残った親戚を訪問中で留守。インタビューは留守を守る奥さんでした。
・出身地は咸鏡北道
・ご主人は北では鉱山の建設労働者で、今も中国の親戚の紹介で中国の鉱山で働いている。
・北では給料は安く、また配給食料がはほとんどなかった。食べられないので、家族総出で山へ柴刈りに行った。一日全員で働いて70ウォン(一北朝鮮ウォン=0.7円)の収入があったが、ヤミ市場ではトウモロコシが44ウォン/kgで生活は苦しかった。
・今の村での生活は村人みんなから良くしてもらい、衣食住とも北にいた時からみれば信じられないくらい快適である。ただ、これほどみんなに良くしてもらって、北に残してきた肉親のことを思うと申しわけなく、逆にかなしくなることがある。
・「今一番困っていること、心配なことは、北にいる肉親。」
後はただ泣かれるばかりで、それ以上の質問はできませんでした。

●最後のインタビューは北とのパイプをもつ現地の企業家。
彼の意見は以下の如くです。
・北朝鮮内部には食料は充分ある。ただ国民はそれを買う金がないだけです。
・だから支援するなら米よりも現金を直接手渡す方がベター。
・資金や食料を現地へ運ぶのを北とパイプのある中国人に依頼することは可能ではあるが、たかり体質になってしまい、今後の商売がしにくくなると考える。
NGOなどの効果的な支援方法をたずねたところ、以下の返答。
卵をあげるか卵を産むニワトリをあげるか、どちらが有効か考えてみてはどうか?
例えば咸鏡北道の鏡城という所では良質の陶土が産出されるし、陶磁器をつくる工場もある。しかしエネルギー事情や食料事情がわるく、稼働していない。
そこへ外国の企業が投資して現地人へ給料を払えば直接現金が渡せるし、継続的に支援がつづけられる。日本のTOTOやINAXなどへ産出した陶土を輸出したりするとか、検討の余地はあるのではないか?
あるいは北朝鮮は工業化が進んでいない分、雄大な自然が多く残っている。観光面でバックアップしてもよいし、水がうまいのでミネラルウォーターの工場を作ってブランド品として売るなら低資本ですむ。以上の様な支援も検討してはどうか? との経済人ならではのご指摘でした。
さて、私が直接あって話を聞けたのは以上の7人の人達でしたが、他に印象深い2つのことがありました。
ひとつは国境の町図們でのことです。国境は250m程の橋を隔てているだけですが、記念撮影をしていたら、中学生くらいの子どもが二人寄ってきて、何か言っています。現地の人に通訳してもらったら、彼らは凍った川を歩いて渡って来た目の前の対岸の村の子ども(19才と16才)で、「中国の金をくれ」と言っている、とのことでした。 見た目はジーパンにブランド物の上着で北京や日本にいる若者と大差なく、血色もよかった。通訳してくれた人がからかってポケットの中を探ったら洋モクが出てきました。このように国境地帯では交易の為か比較的豊かそうでした。
もうひとつは北京に帰る寝台列車の中のことです。延吉駅を出てすぐ私の斜め向かいに、15才くらいの男の子が座りました。その後すぐ車掌が検札に来て、その男の子は無賃乗車がバレ、また中国語が話せなかったので、私の前に座っていた朝鮮族の女性が通訳したところ、やはり難民の子どもでした。彼はすぐ次の駅でおろされ、公安に引き渡されましたが、車掌も公安もけっして手荒なことはせず、その点はA君から聞いた通りでした。少なくとも中国国内では特別なことでもない限り、ひどい目にあうことはないというところが確認できました。
報告は以上です。
今回ご報告申し上げますことはあくまで中国国内の難民の問題です。北朝鮮の国内事情については聴いてきたことのみを示し、コメントを控えたいと考えています。現場で取り組むことを趣旨とする職業柄、現場での問題解決にむけた救援策として、日中で避難民を支援するフォーラムを作ることを考えてみました。フォーラムには仏教者が多いので、断食の実践なども考えています。中国側のカウンターパートに迷惑がかからないことを確認して、支援を広げていきたいと考えています。

 

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