第16回市民科学講座 講座記録
呼吸器系疾患は減らせるか ~大気汚染の変遷から読み解く
講師:嵯峨井 勝
(つくば健康生活研究所代表、青森県立保健大学名誉教授、
元国立環境研究所大気影響評価研究チーム総合研究官)
日 時:2015年5月9日(土)18:30~21:00
場 所:新アカデミー向丘 リクリエーションホール
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・講演の部→csijnewsletter_031_sagai_20150724.pdf
・質疑応答の部→csijnewletter_031_sagai_questions_201507.pdf
(1)主催者のあいさつ
上田:今日は大気汚染のことをじっくり考えるということで、嵯峨井先生をお呼びしました。先生とは初対面なのですが、市民研には電磁界のことやナノテクのことを研究しているグループがあり、私も電磁界について記事を書いているのですが、どうも酸化ストレスが鍵になるのではないかと思ってきました。ただ、その関連の本は非常に難しく、筋が見えずに困っていたところ、権上さんから紹介された嵯峨井先生の本が、非常に良くまとまっていて、分かりやすかったのです。それで先生をお呼びしたいと考えました。ナノテクノロジーについて、ナノサイズの粒子が健康にどう影響するかということを調べていても、PM2.5などについて会員からの問い合わせが多かったのです。
大気汚染と言うと、1970年代の公害のことが思い浮かびますが、その後は東京都などの努力で相当の規制がなされて、もう大気汚染は良くなったのではないかと思っていました。しかし、それにもかかわらず、呼吸器の病気はどうも減っていないのではないか。呼吸して取り込む物質について、私達はよく知らないのではないかという気がしています。 二酸化窒素、カーボンブラック、オゾン、それらはサイズなのか化学的性質なのか、非常に複雑です。これらのことを正しくおさえておくべきではないか。中国のPM2.5問題についても、これからどういう規制をして、どうやって調査して、これから改善していくか、一般市民の間でも知っておくべきではないかということで、広範囲の話題になるのですが、これから基本からのお話を90分嵯峨井先生にうかがい、その後で、皆さんと質疑をしたいと思います。質疑の途中で映像製作会社「アイカム」社さんが作った『大気汚染の原点を見る』という映像も皆さんと見てみたいと思います。
(2)演者の自己紹介と資料の説明:
嵯峨井: 皆さんこんばんは。私は元国立環境研究所「大気影響評価研究チーム」の総合研究官という立場で、ディーゼル排ガスのあの黒いスス(DEP, PM2.5)が気管支喘息の原因物質であるという研究を行ったあと、青森県立保健大学に転出して9年間勤務し、2008年に定年退職し、つくば市に戻り、今は「つくば健康生活研究所」という名前だけの私設研究所・代表と名乗って細々と研究を続けている者でございます。
お話に先だって、最初に資料の説明ですが、白黒とカラーの2つの資料に沿ってお話します。最後にある論文は「日本衛生学会雑誌」という今月(2015年5月)中に発行になる雑誌に投稿した論文(Part 1)です。インターネットでどなたでも見られます。この論文には、今日の話の中心のPM2.5とは何か、どういう仕組みで体内に入って、どんなメカニズムで体に悪さをするのかを説明したあと、脳神経系に及ぼす影響を中心に Part 2 に紹介したものです。国内では環境庁などから様々なレビューが出されていますが、脳神経系に対する影響の紹介は全くないので、それを紹介しました。Part 2がこの論文の本体部分ですが、それは9月に出版される予定です。原稿はできていますので興味のある方にはお見せできます。
(3)最近、大気汚染は改善してきたのに喘息患者が増えるのはおかしいのか?
先ほど主催者の上田さんがおっしゃいましたように、大気汚染はずいぶん改善されて来たのに、喘息の患者さんはぜんぜん減っていない。むしろ増え続けています。タバコも喫煙率はどんどん減っているのに肺がんで死ぬ人は増えています。こういう問題が出たとき必ず、「タバコは肺がんの原因ではない」という人がいます。大気汚染についても「今の大気汚染と喘息は関係ない」と言いう人が出てきて、だから補償している法律も削ってしまえといいます。今日は、そういう意見は果たして正しいのか、ということをお話させていただきます。それと私のやった研究と、その結果を患者さんから求められて裁判で証言したのですが、法廷でどのようなやり取りがあり、どういう考え方に基づいて裁判所は患者さんの言い分を受け入れたのか、ということもお話させていただきたいと思います。そのことから、患者さんの主張の正当性を再確認したいと思います。
(4)戦後日本の大気汚染の変遷と公害健康被害補償法(公健法)の制定と改悪
歴史的に見ると、1950年代から日本では燃料が石炭から石油に劇的に変わりました。そのことで問題になったのは二酸化硫黄(SO2)の激増でした。三重県・四日市市で大規模石油コンビナートが創業を開始し、50 年代後半には喘息の患者さんが続出し、苦しさのあまり自殺する人が何人も出るような時代でした。その濃度は 1 時間値でしばしば 1 ppm を越え、最高は 2.5 ppm が記録されています。現在の環境基準値は 1 時間値で 0.04 ppm ですから 25 倍にもなります。当時の汚染がいかにすさまじかったかがお分かりいただけると思います。1967 年に四日市民が提起した第一次大気汚染公害裁判は1972 年に住民側が勝利しました。この頃、世界的にも反公害運動が盛り上がり、国内では SO2除去技術も急速に進歩ました。70 年代に入ると SO2の環境基準値は全国でほとんどクリアされ、今日では環境基準値の 4 分の 1 以下にまで低下しています。
こうした反公害運動が高揚した社会状況の中で、1973 年には患者さんの健康被害を補償する「公害健康被害補償法」いわゆる「公健法」が成立しました。これでかなり患者さんも救われた面がありました。ところが、80 年代に入ると、大気汚染は改善されてきたのに、患者さんは逆に増えていたのです。そのため、補償金を払わされていた経済界が「大気汚染と喘息は関係ない」というキャンペーンを大々的に展開し、1987 年には当時の環境庁がそのお先棒を担いで、せっかくできた「公健法」が改悪されてしまいました。その後に喘息になった人は認定も補償もされなくなり、今日に至っています。
(5)大気中粒子状物質の種類およびサイズと歴史的変遷
大気中の粒子状物質の種類とサイズ、及び時代的変遷を図1に示しています。終戦後は石炭を大量に使っていましたので、粒子が浮遊するというよりは降って来るような大きさ(約 10〜1,000 マイクロメートル(μm)の粒子(煤塵)が工場の煙突から降ってきた時代がありました。この問題は、電気集塵機が開発されて解決しましたが、その後燃料が石油に代わって、より小さな SPM と言う粒子が問題になってきました。
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