上田昌文
●近代科学と資本主義の結びつき
「何ゆえこれほどまでに男性支配が執拗に続くのか」という問題に「科学技術が文明の支配的な要素になったこと」が関係していると言うと、意外に思われるかもしれません。次にとりあげる考え方はまだ仮説の域を出ないものですし、ラフなスケッチでしかありません。しかし歴史的な検証も経つつ、科学を見直していくための重要なステップとして受け止めるべき問題提起ではあると、私は考えています。
近代科学の発展は資本主義社会の発展と深く関わっています。実験的方法を用いて自然現象を”読み解く”こと、つまり現象の背後にある”隠されたメカニズム”を、まるで巨大なジクソーパズルの個々のピースをはめ込むように、一つ一つ解き明かしていく――という知的作業は、書斎の中の思索としてとどまるものではなく、資本主義の成立や発展と相互に影響し合っていたことが、今でははっきりしています。
大航海時代の航法と新しい天文学、工作機械などの発達とガリレイの力学実験、イギリス市民社会の成立と職業的科学者の形成(ニュートンの力学・光学研究の時代に相当します)、産業革命期のエネルギー利用の革新と熱力学の成立……等々、近代科学は中世以降の職工的技芸と結びついたテクノロジー科学としての趣を強く持っていたのです。
この世界は合理的な法則によって構成され動いているので、実験と観察によってその法則を明らかにすれば、この世界を理解し支配できる――17世紀の哲学者ベーコンが提唱したこの考え方が近代科学の方法論の基礎となりました。ベーコンは一方で「我々がそれに十分な敬意を払いつつアプローチしていくならば、自然はその秘密の姿を我々に露わにしてくれる」と述べつつ、「自然に拷問をかけ」「その要塞や城を強襲せよ」という暴力のメタファーを用いた呼びかけを行なっていますが、まさにこの表現は、自然を大きくて複雑な”機械”とみなしてそのメカニズムを解き明かそうとする探求(近代科学)と機械を用いた大規模な自然の改変と大量生産によって可能となる経済活動(資本主義)とに共通する性格を浮き彫りにしてはいないでしょうか。
●男性支配のしくみと「二分化」
資本主義と近代科学に共通する要素はいろいろありますが、その中で目立っているのは、主体と主体が操作を加える対象との「二分化」です。労働によって自然に働きかけ富となる商品を生産することと、実験的方法で自然に働きかけて真理を明らかにしていくことは、ともに人間(主体)とは分離された操作可能な対象として自然(客体)を見る点で共通しています。この主客の「二分化」は、その主体の担い手が男性であることによって、男女の役割分担の「二分化」、すなわち男性支配のしくみを作り上げることになったものと思われます。
資本主義社会のもとでは基本的に、男性が交換のための商品の生産を分担し支配します。そして、女性は家事と育児といった、労働力と社会的諸関係の再生産を担うものとして位置付けられます。女性たちによる家庭内労働には賃金が支払われず、女性の担う再生産は、男性の担う生産よりも低い位置しか与えられません。人間の再生産は、女性の身体をとおして行なうしかありません(生殖・出産)。資本主義的価値観からすれば、女性は子産みと子育てのための道具とみなされてきたと言っていいでしょう。
女性に則して見るなら、さらに複雑な二分化の様相もあります。ビクトリア朝の時代に典型的だった、理想化された”淑女”としての妻(子産みの道具)と性欲のはけ口としての娼婦(商品化された性)の二分化です。この男性の側の手前勝手な使い分けは、精神と肉体の分離(二分化)を前提にしていることに注目してください。
「精神=男性、自然=女性」の二分化された図式が基本になり、そこに
(1)自然を操作する対象とみなす資本主義の営みと科学の営みとの共通性
(2)そのニつの営みの担い手としての男性の優位性 (3)資本主義の進展と相互に深く関連する科学技術の進展
といった要素がからんで、科学技術と性抑圧・性差別の微妙な関係が成り立っていると考えることができるでしょう。
●核兵器開発にみる性のメタファー
この観点から分析すると、例えば核兵器開発には露骨なくらいに性のメタファーが使用されていて、核軍拡競争はまさに男社会が生み出したものとの印象を強く持ちます。
原爆製造のマンハッタン計画に参加した科学者はすべて男ですが、彼らの様々な回想記を読む限り、この「あらゆる時代を通じて最も偉大な科学技術の功績」(計画の指揮官であるグローブス将軍の言葉)の達成に向けて熱に浮かされたように夢中で研究していたことがわかりますし、アラゴモルドでの最初の原爆実験の成功には歓喜の叫びをあげて抱擁する様もうかがえます。「”男の赤ちゃん”(=原爆)を誕生させるのだ」という隠喩はしばしば用いられましたし、実際、広島と長崎に落とされた原爆はそれぞれ、「リトル・ボーイ」と「ファット・マン」と名付けられました。(ちなみに、「リトル・ボーイ」を腹部から産み落とした――投下した――飛行機「エノラ・ゲイ」は操縦士の母親の名前にあやかっています。)また、水爆開発においても同様に「赤ん坊」という言い方が使われましたし、「ジョージ」「マイク」といった男性名で爆弾が命名されてもいます。この世で最も殺傷力の大きなものに”生命を与えよう”とした男たちが用いたこうした性のメタファーは、科学という営みに奥深く埋め込まれている男性支配のあり方が深層心理的に露呈した例だと言えるでしょう。それにしても極端に大量の死と破壊をもたらす技術が「産むこと・生まれること」のメタファーで語られるとは、なんという皮肉でしょうか!
●生命科学にみる性のバイアス
このような性のメタファーやアナロジーは、じつは物理学だけでなく生命科学をはじめとする様々な科学の分野でも見え隠れしています。
たとえば学術概念に無意識的に付与された「男らしさ」「女らしさ」の問題があります。一例を挙げると、受精のプロセスで精子はまるで”英雄”であるかのように描かれることがあります。精子が、過酷な環境を生き抜いて多くのライバルに打ち勝ち、”おとなしく待ち構える”卵子との合体を目指して突き進む、といったイメージはおなじみになっていますが、じつはこのイメージに囚われていたために、卵子が受精にあたってなしている活発な働きのことは、長い間気づかれないままだったのです。
私たちの生命観は、分子生物学が持ち込んだ「生命現象は生命を構成する物質の物理化学的作用を明らかにすれば、解き明かせる」という考え方に大きく影響を受けていますが、それは言ってみれば生命を極めて精巧な機械とみなす見方であり、それが故に先にふれたベーコン的”暴力”の危うさを抱えることになります。この連載ですでに論じた遺伝子還元主義やバイオビジネスの問題は、近代科学と資本主義の結びつきの問題の現代的な現れと理解することができるでしょう。そうである以上、そこにはやはり性抑圧・性差別が絡んでくるはずです。
この連載でも取り上げることになる生殖技術(体外受精をはじめとする様々な不妊治療など)もその一例です。それが「妊娠・出産を望むどんな女性の希望をもかなえる」という看板を掲げながら、じつは「男が提供した技術によっていつでも子供が産める以上、産まないという選択は許さないよ」という暗黙の強制ともなり得ることを、私たちは忘れるべきではないでしょう。
「核」という言葉は、物理の分野での原子核と生物の分野での細胞核の両方に用いられるわけですが、前者の操作の終着点の一つが原子爆弾であり、これは世界を大きく変えました。後者の操作はますます精緻さの度合いを強めつつ、どこに向かおうとしているのでしょうか。前者で見られた「性のメタファー」が、色合いや形を変えて後者に立ち現れる様を私たちは注意深く観察しなければなりません。
●男性支配的でない科学はどこから
では、男性支配的でない科学のあり方は可能なのでしょうか?
これは単に科学の門戸をもっと女性に開いていくことだけでは解決のつかない、大変難しい問題です。端的に言って、例えば男女機会均等のもとで女性の軍人が現れることがあることからわかるように、この先、軍事科学に従事する女性研究者が増えてくるとすれば、それは問題の解決になっていないことは明白です。問題は、軍事科学に典型的にみられるような「力による支配」に組する科学研究のあり方を、両性の平等や共生的な関係の実現を求めていく中で、どう転換させるかでしょう。
主体と対象の分離、感情や主観を排除した”客観”的分析など、近代科学に特徴的なあり方は、”自然の支配”を前提にした社会の方向付け(経済開発優先主義)によって、その男性支配的な様相をあらわにすると言っていいでしょう。だとするならば、その社会の方向付けを改めることが肝心です。私たちは今なされている、そしてこれからなされるだろうすべての研究開発について「いったいそれは百年、いや千年後に地球上に生命が存続することを助けるものですか、それとも阻むものですか」という問いを根気よく突きつけていかねばならないのでしょう。転換の第一歩はここにあるように思われます。
●自分の性意識を問うこと
そしてその転換が本物であるならば、おそらくそれは個々の男女の性意識・性のあり方とも無関係ではあり得ないでしょう。本来「性」とは、生殖からみれば”融合”するプロセスを含む循環の中ではじめて”分離”が定義できるものです(ギリシャの哲学者プラトンが『饗宴』で示した「エロス」のとらえ方も示唆的ですね)。身体と精神、自然という客体とそれを認識する自分という主体、男性の役割と女性の役割……という固定的な二分法を超える様々な認識や試みは、互いにどこかで深くつながっているような気がします。
あなた自身が自分の性別に囚われずにどこまでふるまえるかを点検すること。あるいは性の役割固定の押し付けに対してその根拠を問い質し、納得できない限りそれを受け入れないこと。プライベートな部分に関わることの多い性の領域の問題を、それゆえに漠然と曖昧に見過ごしてきた点を自分なりに見つめなおすこと。「生命のまなざし」と関わりがないように見えるかもしれませんが、そうではありません。むしろ最も身近なところから今の社会とその中の自分を問う、意義深い問いかけだと思えるのです。■
(『ひとりから』2003年9月 第19号)