連載「生命へのまなざしと科学」(13)教育が作るまなざし/教育へのまなざし

投稿者: | 2004年3月14日

上田昌文

●私たちの”まなざし”はいかに作られるか

私はこの連載でいくつかの個別の社会事象を扱いながら、今の科学が持ついろいろな側面を浮き彫りにしてきました。”生命へのまなざし”はここで扱うような問題に目を向けることで、少しずつ変わってくるものと私は期待しているのですが、今回はそもそも今の私たちの”まなざし”がどのように形成されるのか、といったあたりをいくらかはっきりさせてみたいと思います。

どんな個人も社会の中で育つのだから、その社会で支配的な価値意識をあたりまえのものとして身に付けてしまう傾向がある、という大筋がまず描けます。その上で、ある考え方や感じ方が支配的であるのは何故か、それがどう変化していくものなのかといった側面と、人々はいかにしてそうした価値意識を我がものとするのかという側面がからんできます。その両者がからみあって、私たちのまなざしが作られるのだし、そのからみあいを解きほぐし新たに撚り合わせることで、新しいまなざしが獲得されもするでしょう。こうした様相を念頭におきながら、「人はいかにして命の問題への気付きをなしていくか」を探ってみましょう。

これには「教育」が大きく関係してきます。教わることと自ら経験して学ぶこと全部が関わってくる、広い意味での「教育」ですが、ここでは特に、私たちの考え方や感じ方やふるまい方の枠組みを作るのに大きな力があるように思える二十歳頃までの教育、ことに学校教育を取り上げます。科学が科学たりえることに学校教育がどう関係しているのか、 “命へのまなざし”の観点からするとそこからどんな問題が浮上してくるのか。

●教育という謎

学校教育については誰もが一家言を持っています。それは自分が受けてきた教育や自分の子供が受けている教育について様々な満たされない思いがあるからです。あるいは子育てをとおして「何が我が子にとってよいことなのか」を常に考えつづけるからです。私たちの心の中で学校への期待と不満が絶え間なくせめぎ合い渦巻いているようです。

どういうわけか私は、中学生の頃から赤ちゃんや幼い子どもと接する機会に恵まれ、自分自身の子どもはいないものの、今でも小学生たちと一緒に楽しく過ごす時がたびたび訪れます。その際にいつも感心するのは、子どもたちが信頼を寄せる大人と自由に交流することでいろいろなことをごく自然に学んでいくたくましい力を持っている、という点です。生命ある者の伸びやかな力の一部として、新しいことに触れ、知り、理解することへの本能的な意欲が確かにあるのです。「学校はその力を削がないようにさえしてくれればいい」という気持ちを抱く私にとって、しかし学校教育には謎のように思えることがいくつもあります。

たとえば次のような疑問にあなたはどういう答を用意しますか?

クルマの免許を持たない人がいて当たり前であるように、大学を出ていない(中卒あるいは高卒である)人がいて当たり前だと思うのですが、後者の人々が肩身の狭い思いをしなければならないのはどうしてでしょう? 同じ年齢の者が一同に会して、全国津々浦々同じ内容を同じ進度で学ぶ必要はどこにあるのでしょう? 「個性を育てる」といいながら、画一的な評価基準を用いていつも他人と比較するように仕向けるのはなぜでしょう? (私には、たとえば「歌うこと」「絵を描くこと」の出来不出来を測ろうとすること自体がナンセンスであるとしか思えないのですが。)「試験は受けたい人だけが受けたい時に受ける」という具合にどうしてできないのでしょうか?……

●科学の知の「担い手」と「受け手」

科学は現在の社会において最も支配的な知の形態です。その姿の全貌をとらえることは容易ではありません。でも、その姿の形成と維持に大きく関わっている教育を手がかりに、私たちが「知」をどうとらえ、科学をどんな営みだと理解しているかを探り出すことはできそうです。

今の科学の姿でとりわけ目立つのは、「担い手」と「受け手」の乖離です。一般の素人には近づきがたい高度な専門知、その権威付けられた知が研究室という名の密室で黙々と容赦なく産み出される……というイメージです。しかし当然ですが、はじめは「受け手」であった者の一部が教育によって「担い手」になるのです。世に言う”理科離れ”への危惧は、「受け手」の減退が「担い手」の凋落を招き、科学に対する国民的支持が低下して国際競争に負けるかもしれないことを憂えるものでしょう。

私たちは教育を受ける側の子たちを「知識の受け手」であると当然のごとく規定し、専門知の習得に向けての助走をいかに効率的になしていくか、を科学教育の眼目だと考えがちですが、この時点ですでに「担い手」「受け手」の乖離を前提とした価値観を刷り込ませることになってはいないでしょうか。カリキュラムに沿って体系的に知識を注入することが大事だという考え方は、じつは私たちの知のイメージを大きく縛り、偏らせている原因の一つではないかと私には思えるのです。

●学びの前提としての信頼・共感

子どもを教えたことのある人なら痛感しているはずですが、子どもが学ぶ内容は、目の前にいる人間を信頼するという体験と深く結ばれています。あたかもコンピュータにデータをインプットするように子どもに知識を注入できるのだと考える人がいるとしたら、その人は、生命あるものの発達が機械的な因果でとらえきれない精妙な複雑さを持っていることをまるで理解していないことになります。学ぶ内容とそれを教える者への共感があってはじめて子どもは学ぶのです。(この「共感」をいったい誰が科学的に定義できるのでしょう?)

こうした前提に立つ時、学ぶこと・教えることにはいくつかのポイントがあるように思います。

第一は、知的な事柄を教えたと言えるのは、教えられる側にその事柄への知的な関心が生まれた場合に限ってである、という点です。学校には行きたくないという気を子供に起こさせる学校は、どんなに言い繕ってもその子にとって教育は失敗であり、おもしろい楽しいと感じさせない授業は、無益であるばかりか、知的な関心が育まれる機会を奪うという意味で有害です。知的な活力を持たせることが目標であるならば、「できる/できない」という他者との能力比較を前提にした評価にこだわるべきではありません。「どれだけ興味をもって喰いついてもらえたか」という教える側自体の評価こそ重視すべきでしょう。

そして言うまでもないことですが、”知的な活力”は”前向きに生きること”の一部に過ぎませんから、評価を下されることで前向きに生きる元気がそがれてしまっては話にならないのです。「数学ができること」より大切なのは「数学なんかできなくても元気に生きていけること」でなければなりません。「できる/できない」を超えた共感と信頼があるところに”元気”が生まれる、と言えばよいでしょうか。

●体験に根ざした知の重要性

第二は、無人格的な”完成された知”を規範にしないこと、です。

私たちはもっと、体験に根ざしその人なりの必要性と興味に応じて形成される知を尊重しなければなりません。それは言ってみれば、自分の身体のことを一番知っているのは自分であり医者ではない、と考えることです。自分の身体の変化を自分なりに観察して推理を重ねながら病や不調に処していく――これこそが科学的な態度であり、専門家である医者にお任せするのは決して科学的ではないのです。(この点はいくら強調しても足りないくらいです。最良の医師とは、患者との密接な関係を通じて、患者自身が考える意味での”健康”の状態に近づけるように、患者をサポートする人です。医師は患者を理解し患者から学ぶことによって患者を治療できるのです。健康とか治療というのものは、患者個人を離れて一律な抽象的な状態として定義できるものでは決してないのです。)

あるいはそれは、試験で満点を取ることを目標に置かないという態度にも通じます。学校では、正解のある問題を設定しその解法パターンへの習熟をとおして学習するというやり方が支配的ですが、これは知の一面的な発動であり、そもそもその問題を解く意義が予め理解されねばならないはずです。より大切なのは、様々な状況のなかでどうやって問題を切り出してきて言葉に置き換えるか、どのような問いを作り解決の糸口を探ることができるか、という知の働かせ方です。「解を求めること」が、紙の上で正解を出して先生にマルをもらうことに留まってしまってはいけないのです。「解を求めること」は、自己の選択で何らかの対策を立て、行動し、結果を吟味する、という主体性を投影した行為であるべきでしょう。

●自ら変わることへの促しとして

第三は、学びを強制して他者を変えようとしないこと、です。

人は何のために学ぶのか。詰まるところそれは、より深く自分の現実と触れ合い、生きていることの確かな感触と見通しを得るためです。世界の成り立ち、ものの仕組み、自己と他者のつながり……こうしたことへ認識を深めることが自分にとって現実の新しい局面の発見につながり、新しい可能性が開示されるからこそ、私たちは学び続けようとするのです。現実の事態に接して自分にとってのその”意味深さ”が触発されさえすれば、何が自分にとっての必要な知識であるかは、探求の途上で自ずから決まってくるでしょう。

学びの強制は現実との触れ合いを決して促しませし、他者をほんとには変えることもできません。自ら変わることが結果的に他者が変わることを促すかもしれませんが、自らは変わらずして他者を変えようとすることは権力の行使なくしては成り立たないでしょう。勉強しない親が「勉強しなさい」と子どもに言うことは、親が権力を振るっているという事実を子ども教えるだけで、子どもを勉強に向かわせるものではありません。

●隠れた装置としての教育

現実には学校教育は、誰もが受け入れるべき一つの制度として機能しています。それが果たしている役割は、端的に言うと、現代の産業社会に適した人間の行動様式と心性を一人一人に”埋め込む”ことです。教育は人々に「こうありたい」「こうしたい」という気持ちを自ら抑圧し、「こうした方が周りから自分がよいと思われる」という外部の既存の規範に従う精神を植え付ける――こうした面があることは否定できません。多くの人は、自己の内面のこうした分裂の中で、他者や自然との深い交わりが停滞を余儀なくされている、というのが私たちの置かれている現状ではないでしょうか。

命と科学の行方を見すえるなら誰の目にも明らかな、私たちの社会が抱えてしまっている大きな矛盾――物質的な豊かさを目指して奔走しながら、自分の心も周りの自然も将来の世代の生命をもますます危機に追いやっていくような生き方――を乗り越えるには、教育が既存の価値観を埋め込むための隠れた装置であることを脱していけるのか、そして他者や自然との交わりを深めるための”促し”として作用できるのか、が大きな鍵になるように思います。■

(『 ひとりから』2004年3月 第21号)

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