2010 私のおすすめ3作品 (市民研会員有志による)

投稿者: | 2011年2月21日

2010 わたしのおすすめ3作品 原稿締め切り2011年2月14日、到着順に掲載

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● 杉野実
今回はいつになくまじめにいきましょう。
いきなり数学です。
1◆ 五輪教一『ケプラーの八角星・不定方程式の整数解問題』(講談社ブルーバックス)
(プラス 阿部恒『すごいぞ折り紙・折り紙の発想で幾何を楽しむ』(日本評論社)
はなからの「3点」のルール違反ですね。でもこの2冊は、どうしても組にして紹介したいのですよ。一応『ケプラー』の方を「本題」としますが、これは、高校生4人が集まって数学の難問(?)を自力でといていくという、ちょっとかわった構成の(一応)小説なのです。著者は現役の高校教諭、ただしこれは校外で、地域の生徒たちを相手におこなったセミナーをもとにしたものだそうです。原点となる問題は、「4隅に穴がある正方形のビリヤード台で、ひとつの隅から球をついたとすると、どの角度で打ち出しても、かならずどこかの穴に入る、といいきれるか?」という、一見単純なもの。(球が完全に大きさのない点なら、という前提がつきますが)射出角のタンジェントが有理数のときと無理数のときとでは本質的にちがっていて、前者ならいずれどこかの穴に入るが、後者だと永久にどの穴にも入らないという世にもおそろしい(「おそろしさ」の本当の意味はぜひ本書で!)結果となります。本書を読むと、「整数の比で表現される」有理数とは、この宇宙に滅多にあらわれないめずらしい種類の数であるが、それなのに宇宙の秩序はいつも有理数で表現される、という深遠なことがわかります。「秩序」は勿論図形ともかかわっています。その方面が好きな方は、折り紙の本で「正多面体」折りに挑戦してみてください!
ちょっと息抜きをしましょう。古典芸能です。
2◆ 歌舞伎『与話情浮名横櫛』
読めますかね、この題名。「よはなさけうきなのよこぐし」です。この題名でなにかぴんときませんか。こうもり安、切られ与三郎...まだだめ?う~ん、じゃあ、お富さん!...はあ、ようやく「知ってる」という方が出てきそうですね。実はこの話の舞台、千葉県の木更津なんですけど、別に私が「千葉県親善大使」だからとりあげたわけではありませんよ。(千葉県を舞台とする作品なら、『佐倉義民伝』とか、あるいはあの『里見八犬伝』とか、ほかにもいろいろあります。)私はこの芝居を、去年の正月に教育テレビで放送された、『初春江戸ににぎわい』という番組で見ました。音に聞こえた生世話狂言の代表作...ですけど、やっぱりよかったです、実際に見てみると!死んだと思っていたのが実は生きていた、主人と妾が実は兄妹だった...なんていかにも歌舞伎らしい因縁話がてんこ盛りで、それだけ聞くとばかばかしいようにも思えるのですが、舞台を見たらやっぱりひきこまれちゃうんですよね。すごいのはこれが(一応)実話をもとにしている(こうもり安の墓も木更津にある!)ことで、「源氏店(げんじだな)」も本当は「玄冶店(げんやだな)」なのです。わかりますか、玄「冶」・玄「治」・源氏という流れですよ。
またアカデミックになりますよ~。最後は経済学です。
3◆ 小池浩一郎・磯崎成昭編『森林資源勘定・北欧の経験アジアの試み』(アジア経済研究所)
(プラス小沢勝徳『現代の形而上学・新古典派経済学の批判』(新生出版)
またしても「3点」ルール違反ですね。でもこの2冊は、どうしても組にして紹介したいのですよ。一応『森林資源』の方を「本題」としますが、これがなんと、日本・フィリピン・タイ・インドネシア・ノルウェー・フィンランド・フランスの研究者による共同研究なのです。天然資源の一部としての森林資源の価値の増減を、経済学的にどう把握するか、というのが主題なのですが、協同研究者らは一貫して、そういうときによくおこなわれる「疑似価格による市場価値評価」を否定して、経済的な価値の生成流通(いわゆる国民経済計算)とは別個に、生物資源それ自体の増減を、その場面ごとにもっとも適切な物理的単位をもちいて記録する、という方法をとっています。そんなのあたりまえじゃん、という方もいそうですね。でも経済学者のあいだではありそうでなかった発想らしく、ノルウェーも日本もフィリピンもほぼ同じ地点から手さぐりでスタート、という感じが読んでいてすごくしました。で、「実物を実物のまま評価する視点がない」との角度から主流派の経済学を批判したのが、『新古典派経済学の批判』です。でも小沢さんには申し訳ないけど、その批判は「マル経」にもあてはまっちゃうんですよね。小沢さんによる「近経」批判は黙殺されるべきではないけど、彼のマルクス論はやはり「ひいきのひきだおし」だと思います。■
● 林衛

1◆ 映画『私の中のあなた』
白血病の姉を救うために「遺伝子操作」で生まれた妹が,腎臓移植を拒否する ために裁判を両親相手におこすというストーリです。番組案内の「遺伝子操 作」に目がとまって,衛星放送でみました。
デザイニング・ベイビーという私の想像はまちがいで,実話をもとにした両親 による人工受精卵から姉に適合する妹を選んでドナーとして誕生させるという 「遺伝子操作」だというのはちょっと意外でしたが,ストーリの後半はもっと 意外。
時間をつくって,もう1回見直したいと思っています。
2◆ ミッシェル・ド・ロルジュエリ『コレステロール 嘘とプロパガンダ』(浜崎智仁・訳,篠原出版新社(2009)
子どものころ,卵二つ食べるとコレステロールのとりすぎになると注意された ことをいまでも思い出します。そのコレステロールとりすぎの根拠とされた 1961年のフラミンガムスタディーや1970年の七カ国スタディーといった初期の ころの疫学調査に始まり,世界で最も売れた薬の一つ,コレステロールをさげ るスタチンの臨床試験をつぎつぎにとりあげ,その評価をくつがえしている本 です。
コレステロールは無害で,動脈をふさがない。コレステロールを減らすこと で,寿命を延ばし,梗塞のリスクを軽減するという期待は幻想。薬と抗コレス テロール食には効果はなく,望ましくない作用がある。というのが,ロルジュ エリの結論。
もしほんとうにロルジュエリのいうとおりなのだとしたら,世界中の専門家た ちは何をしていたのか。製薬会社がスポンサーとなった臨床試験が,事実をひ っくりかえしてしまう過程も分析されています。
遠藤章『新薬スタチンの発見 コレステロールに挑む』(岩波書店(2006))とは正反対の内容。どうやって決着をつけたらよいのか。
『文藝春秋1月号』近藤誠「抗がん剤は効かない」では,いくつもの臨床検査デ ータがとりあげられ,分析されています。データのグラフの形を問題が問題に なっています。下に凸になるべきグラフが上に凸になっているのはデータ改ざ んの証拠だ,とする指摘に注目してしまいました。
グラフの形でもってデータ改ざんの有無が判定できるというのは便利だと思わ れたからです。
 同じグラフを別の論文のちがう(はずの)データで使っていたことから発覚し た高温超伝導のねつ造論文の事件が思い浮かびました。
12月31日現在,その最初の何ページかが「立ち読み」可能です。そのなかに も,問題のグラフが掲載されています。
◆3 (おすすめではありませんが…。)
11月の終わりの日曜日,千葉国際水泳場にて開催されたコナミマスターズ東日 本大会という水泳の試合にでました。
二つ目の私の出番の何レースか前に事件はおこりました。100メートルを泳ぎ 切った年配スイマーがプールサイドで倒れたのです。医療スタッフがただちに かけつけたのが,反対側のプールサイドの招集所でレースを待つ,私たちの組 の選手の目にとまりました。心肺蘇生法が始まっています。
医療スタッフのうち女性看護師が,目の前を走り抜けていきました。AEDをと りに行ったのでしょう。またたくまにコナミ関係者が集まってきて,敷居や毛 布で「壁」をつくり周囲から倒れた方や治療のようすがみえなくなりました。 それにもかかわらず,スタートや計時といったレース進行スタッフの数が不足 する事態が生じないのです。いざというときのための備えがそれだけできてい たのでしょう。
私たちの組は,招集所から指示を受けて,プールサイドのスタート側の倒れた 現場に近づいていくことになりました。試合が中断されるのかと思いきや,そ のまま続行。
そのおじさんのことが気になった私は,レースどころではありません。現場か ら1,2メートルのところを通過してスタート台に立たされ,人生最悪の100メ ートルを味わいました。おじさんのことを忘れて自分のレースに集中するなん てことはできずに。
主催者によれば,水中での事故の場合は競技は中断するが,プールサイドであ った事故にはスタッフで対処し競技は続行するとのことでした。今回も,ある 意味,確かにみごとな運営だといえます。
自発呼吸をとりもどしたその方は,救急車で病院に搬送されたとのこと。一命 はとりとめたことでしょう。
まだ2回出番があったのですが,私は棄権して会場を離れました。
コナミスタッフさんたちがライブでみせてくれた「備えあれば憂い無し」?を 最後にあげました。■
● 猪野修治
1◆ ヨーゼフ・T・デヴレーゼ/ヒード・ファンデン・ベルへ『科学革命の先駆者シモン・ステヴィン-不思議にして不思議にあらず』(山本義隆監修・中澤聡訳、朝倉書店、2009年)
著者のヨーゼフ・T・デヴレーゼとヒード・ファンデン・ベルへは、ベルギーとオランダの大学で教鞭をとる。前者は理論物理学、後者は数値解析を講じる。本書は日本おろか国外でもほとんど知られていないオランダの科学者シモン・ステヴィン(1548-1620)の本格的な評伝です。もちろん日本では初公開です。全460頁もある大著。内容を一読するとビックり仰天。シモン・ステヴィンはガリレオに先んじる科学革命の先駆者だという。なぜ知られていないか。ステヴィンは当時の学問の共通語のラテン語を「意識的」に使用せず、母国語のオランダ語を「意識的」に使用したことにある。ここに革命性があると力説しています。私は苦労して何度か通読したが、実に面白い。最後に監修者の山本義隆さんが「シモン・ステヴィンをめぐってー数学的自然科学の誕生ー」(全75頁)を解説しています。オランダまで留学して翻訳した中沢聡さんには脱帽です。高校・大学の物理教師にはぜひ読んでもらいたい革命的な力作だと思います。
2◆ 佐々木 力『数学史』(岩波書店、2010年)
数学史家の佐々木力さんは「デカルトの数学思想」を主要なテーマとしていますが、その他、多数の重厚な東西の科学史書を刊行してきました。その東西の科学史の集大成としての通史『数学史』(全919頁)を刊行しました。これも読むのに苦労するが学問の営みとしての「数学とは何か」を壮大な歴史空間から詳述しています。参考文献が詳しく明示しているのでとても参考になる。日本の数学史家の到達点でもいえるかも知れない。昨年一年、真剣に読んだ貴重な一冊です。高額なのが難点です。
3◆ 柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店、2010年)
柄谷行人さんは故江藤淳につぐ文芸評論家として思想界に論陣を張ってきました。私の専門領域からかなり離れていてしかも肌合いが異なるという偏見を持っていました。しかし、読み始めるとこれまたシンドイが面白い読書となり、やめられませんでした。われわれの世代は一向に読みきれない内外の思想書の原典を読むことにこだわるが、柄谷さんはその内外の古典とされる原典を自分のものとして、本当に自分の言葉で、縦横無尽に現代の世界の構造の見方を述べる明晰性と簡潔性には驚きました。具体的に現代を読み取る思想を獲得するとはどういうことなのだろかと思いました。■
● 内山治樹

 まず映画ですが、NPOテクノロジー犯罪被害に関わっているということもあって、今結構の人気のあるシリーズ映画の「フリンジ」を1番に挙げます。シリーズものですので、一気に鑑賞というわけではありませんが、ここに登場する事実上の主人公といえるウォルター・ビショップという学
者の、物事に対峙する姿勢や観点には本当に賛同できるものがあって、どのストーリーもその部分に集中し鑑賞してしまいます。バイオアクションともサスペンスともホラーとも言える類いの作品ですので、当然人間に身体を巡って様々な珍事ともいえる事件が次々と発生するのですが、人間の身体を分子レベルまで掘り下げて再認識すると、今までとは全く違った受け取り方ができるということを学べます。
これは私の自著『早すぎる?おはなし』ででも記したことですが五感送信技術において何故特定ターゲットだけに五感情報を送信することができるのか、そこには分子レベルの技術が関わっていると私は確信しています。
とにかくそういった所に関心のある方だけでなく、ホラー好きの映画ファンも楽しめると思います。
まさにすぐこれからのバイオ技術のヒントがこの映画には沢山発見できると思いました。
もう1本、「フリンジ」とは対照的ですが、歴史上の事実を描いた作品でアンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が大変なインパクトを受けた作品であったこともここに記させて頂きます。
やはりこういう叙事作品はハリウッドよりもヨーロッパの方が優れているように思えます。
次はCDですが、今やベテランの域に達し始めている女流ピアニストのエレーヌ・グリモーの最新盤を上げます。
この人が発表する作品の殆どが演奏者本人の企画盤であることが多く、通常の演奏者とはそこが違います。
また共感覚の持ち主で有名でもあるこのピアニストがどのように音楽をイ
ンプットし、どのような音楽をアウトプットするのかそれも関心のあるとこ
ろです。
この作品の一つ前にもバッハの作品集を発表しましたが、それも全く独創的な内容のものです。
今回はモーツァルトの8番のソナタ、ベルグのソナタ、リストのロ短調のソナタ、バルトークの民族舞曲という構成で成り立っています。当人のコンセプトもしっかりしていて、こういう点からも従来のこれらの作品を鑑賞するのとは全く違った新鮮な聴き方ができます。
1月17日にサントリーホールにてライブも鑑賞しましたが、テクニックも卓越していて、何と行っても若さから噴出するパワーを存分に感じることができました。
次はライブですが、2月13日に東京三鷹の三鷹市芸術文化センター・風のホールで開催された沼尻竜典指揮、トウキョウモーツァルトプレイヤーズ演奏による室内オーケストラによる、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」とマーラーの「交響曲第4番」のコンサートを上げておきます。
 共に本来は大オーケストラで演奏される曲なのですが、これをあえてモーツァルト編成で行うとどうなるか。
 これは本当に面白い企画でした。しかし実際に聴いてみるとほとんど違和感はなく、却って小編成の方が透明度が高い仕上がりになっていたように思えました。
 さらに徹底的に切り詰めた編成のために構成がくっきり浮かび上がることも強く感じ取ることができました。
以上の3つが昨年私の印象に残った作品や催しでした。共通しているのは従来普通に存在しているものを観点を変えて眺めるとどう感じ取れるか…。 ということでしょうか?■
● 山田耕作
◆1  悪魔の新・農薬「ネオニコチノイド」― ミツバチが消えた「沈黙の夏」-著者 船瀬俊介、三五館(株)(2008年6月出版)
著者船瀬氏はロバート・ベッカーの『クロスカレント』を翻訳し、電磁波の被曝の危険性をわが国に紹介した人です。常に消費者の立場から食品・健康・環境問題に取り組む行動派のジャーナリストです。
「農薬をまけば、まくほど強力にパワーアップした超昆虫や超雑草がはびこる。こうして殺虫剤をまくと、逆に、昆虫はぶりかえして、前よりもおびただしく大発生してくることもある」。「アメリカでは1945年から45年間で殺虫剤使用量は10倍に激増している。そして皮肉なことに、全収穫量に占める害虫被害率は7%から13%と約2倍増。農薬耐性昆虫が爆発的に増えてきたからだ」。殺虫剤ネオニコチノイドの登場も、一つの背景は、それまで濫用されてきた有機リン系殺虫剤が効かなくなってきたからだ。著者が悪魔と呼ぶように、この新型農薬ネオニコチノイドは極めて危険な農薬である。その理由は次のとおりである。
①通常の農薬は100m程度に拡散するが、ネオニコチノイドは半径4kmに拡散する。
②毒性が「神経毒性」にあり、昆虫の神経系を冒し、神経情報を遮断するため、虫達は死に至る。人間の神経系は昆虫に近い。
③水溶性であるネオニコチノイドは土壌から植物内部に吸収され、植物(野菜、果樹など)の表面を洗っても取り除けない。
④環境指標生物ミツバチの大量死が世界で同時多発している。植物の受粉を担うミツバチの大量死は、食物連鎖の崩壊を招き、世界の食糧危機に拍車をかける。
⑤農業大国フランスでは最高裁がミツバチ大量死の原因をネオニコチノイド系殺虫剤「ゴーショ」と断定し、これを全面禁止した。
 わが国でもミツバチの大量死が起こり養蜂家は苦しんでいるが、 製薬企業はその毒性を知りながら、利潤追求のためにネオニコチノイドが低毒性というまやかしの宣伝をし、大量使用を助長し 放置している。すでに土も水もお茶も脳までも汚染されつつある。土壌細菌を全滅させ、ミミズを殺し、生物多様性を破壊し、神経毒物が脳に蓄積する。
 最後の第11章 銀座の空にミツバチが翔ぶ!-新しい都市の姿―は楽しい章である。農薬が散布されていない東京都心こそ、ミツバチの楽園であり、「銀座ミツバチプロジェクト」が発足し、2006年は150kg、2007年は260kgの蜂蜜が獲れた。
◆2  新版 悪夢のサイクル -ネオリベラリズム循環- 内橋克人著 文春文庫 (2009年3月)
 新自由主義的改革を厳しく批判した旧版「悪夢のサイクル」は2006年の出版で、リーマンショックの以前であった。著者の言うネオリベラリズム循環とは次のような循環である。「需給バランスの調整で好景気と不景気を繰り返す一般的な景気の循環と異なり、ネオリベラリズム(新自由主義)の政策によるサイクルは、規制緩和で、激しく流出入するようになった大量の海外マネーが引き金となる。抑制の効かない振幅の大きなサイクルは、国家の実体経済を破壊してしまう」。今回のネオリベラリズム循環は世界同時に起こり、リーマンショックというサブプライムローンの破綻から生じた金融恐慌から、消費と生産の縮小をもたらした世界恐慌に発展した。世界同時に起こったのは世界中に新自由主義が広がった結果である。著者によると「日本がネオリベラリズム循環に積極的にかかわる政策変更を1990年代以降に推し進め、小泉構造改革によって、最後の総仕上げをした」ことがわが国経済に大きな打撃をもたらした。
 さらにあとがきでに次のような記述がある。「今回の危機が興味深いのは、循環のバブルがはじけたのがネオリベラリズムを生み出した本家本元のアメリカであったことです」。「今回の危機がこれまでと決定的に違うのは、もうバブルを起こせそうなところはないということです。それが世界同時不況の怖さです」。
 内橋さんは生活者、勤労者の目線で広い視野から分析される。今回の世界恐慌以前から新自由主義の危うさを警告されてきた。著者による新版あとがきは貴重である。
◆3  原子炉時限爆弾―大地震におびえる日本列島― 広瀬隆著 ダイヤモンド社 (2010年)
 原子力施設に耐震性がないことを警告する書である。特に浜岡原発が東海地震の危険にさらされていることを例として強調している。東海地震は必然的であり、浜岡原発は時限爆弾である。ただ、我々にはいつ爆発するかが不明であるが、一刻も早く爆弾を取り除かないとわが国の未来は無い。
 著者はわが国が抱える現在の最大の危機として原発震災の危険性をていねいに説明している。なかでも地殻変動という地球の運動から地震や火山活動を統一的に説明し、それらの関連を説明している。その活動の結果として大規模地震の発生は不可避である。それ故、全国にある原発や原子力施設は時限爆弾である。
また、現在わが国に危険な震源域に原発が乱立する原因として、原発の建設初期にプレートテクトニクスを認めなかったわが国の地震学者の独善的な姿勢を批判し、責任を追及している。
 一見、危機を強調しすぎるように見えるが、詳しく読むと、むしろ、適切に危険性が表現されており、現在のわが国の抱える重大な危機を警告した書である。わが国の将来を憂える国民全てに必読の書である。
原子力を擁護し、推進する人たちを批判する言葉は決して品が良いとは言えないが、私の経験から心中に密かに感じてきたことに一致し、全く同感である。原子力施設の耐震性がないことは最近の観測事実でもって証明されていることである。この重要性が理解できない人が原子力に関して意見や決定を行うことは重大な犯罪であると思う。しかも償いようの無い大犯罪である。原子力を推進して来た人たちやあいまいに肯定してきた人たちは広瀬氏の責任追及の声に応えなければならない。反論しないなら、自己批判をし、これまでの見解を撤回し、謝罪すべきである。
 その意味でこの書に全く賛成であり、著者の怒りや心配はよく理解できる。若い人や子供達に対する遺言とも考えられる。国民の総意を結集して一刻も早く原子炉を停止させたいという気持ちがひしひしと伝わる書である。■
● 松田美恵子
「思い出のアンネ・フランク」
  ミープ・ヒース/アリスン・レスリー・ゴールド 著 1994年 文藝春秋社

 ちょうど1年前の2010年1月、ミープ・ヒースさん100歳で死去、のニュースが世界中に流れました。ナチのユダヤ人迫害を逃れて隠れ家に身を潜めたアンネ・フランクの一家を支援し、フランク一家が連行された後も、アンネの日記を保存し続けた女性です。彼女を初めとした支援者達なしに、フランク一家の隠れ家生活はあり得ませんでした。 
「アンネの日記」にしばしば登場するこの女性が何者なのかは、アンネの記述からはわかりません。ミープ・ヒースの手記である本書を読み、彼女自身の波乱に富んだ感動的な生涯を初めて知りました。
1909年、オーストリアのウィーンに生まれたが、食料不足に悩まされるオーストリアの子供達を救うプロジェクトにより、11歳からオランダの家庭で育てられます。やがて、アンネの父、オットー・フランク氏の経営する会社に勤務し、フランク氏から厚い信頼を得るようになりました。ユダヤ人への迫害が強まるなか、フランク氏に隠れ家計画を打ち明けられると、身の危険を厭わず全面的な支援を約束します。隠れ家に食料や本を届け、さまざまな手助けをしたうえ、隠れ家の住人たちが連行された時には、担当官の買収を企てゲシュタポ本部にまで乗り込みます。残念ながらその試みはあと一歩のところで水泡に帰しました。
 しかも、彼女自身も、夫とともに住んでいる家にドイツ軍に抵抗した学生をかくまっており、互いの安全のため、フランク一家にもそのことを知らせていません。
 ドイツ・ナチスによる常軌を逸したユダヤ人弾圧下、密告もする人もいればかくまう人もいたオランダ社会。著しい食糧難の中で食料探しに奔走する人々。占領下の極限的な状況が伝わってきます。
 ミープ・ヒース自身は、自分の経験を積極的に語ろうとはしなかったが、アメリカ人ジャーナリストのアリスン.L.ゴールドの強い薦めによって本書を出すに至りました。一読して、彼女が並外れた勇気と決断の人であることがわかります。しかし、彼女は「異常な狂気の時代を生きた、ごく平凡な市民の物語」と言い「このような時代が二度とこないこと」を望むと述べています。それこそが、語らずにいた記憶を綴った理由であると。
 昨年読んだ本の中で、最も心に残った一冊でした。■
● 石坂信之

◆1『理科読をはじめよう ― 子どものふしぎ心を育てる12のカギ』滝川洋二編,岩波書店,2010.3
 
 「理科読(りかどく)をはじめよう」という本のタイトルには、「科学の本を読む社会をつくろう」という思いが込められています。12編から構成されていますが、各編のそれぞれの書き手が実施してきた理科読の活動例でもあります。
 次に引用する、この本の編者のことばに共感しています。<科学読み物の新刊が年間で200~400点も出ていて、子どもにぜひとも届けたいと思う本も少なくないのに本屋さんに置いていない。……今後、長期にわたって少子高齢化が進む日本で、みんなで新しい課題に挑戦し続けていくには、だれもが高い科学リテラシーをもつ社会にすることが大切です。テレビなどの受動的な情報を受け取るだけでなく、能動的に理解していく「本を読む文化」は個人の能力を高めます。高い科学リテラシーを身につけるには、子どもだけでなく大人も、とくに科学の本を読む文化を育てることが不可欠です。>
 むずかしい話ではありません。受けとめていただければと思います。
2◆ 『生きもの上陸大作戦 ― 絶滅と進化の5億年』中村桂子・板橋涼子,PHP研究所,2010.8
 5億年前の上陸後、生物は絶滅と進化を繰り返しながら今の生き物があるわけですが、
最近のDNA解析の成果を切れ味良く紹介しています。1つ1つの内容はかなり難しいのですが、カラーの図やイラストが楽しさを誘ってくれます。
1つ例を見てみましょう。花の形づくりには3つの遺伝子が関わっているといいます。がくはA遺伝子だけが関わり、AとBの遺伝子が関わって花びらができ、BとC遺伝子が関わっておしべが、めしべはC遺伝子だけが関わっていることなどがわかってきているそうです。八重咲の花ではC遺伝子が壊れているので、がくと花が次々とできるけれどおしべとめしべはできないという。何の花だか、八重咲の花で確かに種ができないことを教わったことがあります。納得したり、でも「例外はないのだろうか?」というような妄想も生まれたりと楽しめる本です。
◆3 ショパン年における仲道郁代のコンサート等をまとめて1作品とします
(1) 2010年8月6日東京芸術劇場大ホールにおける「有田正広&仲道郁代&クラシカル・プレイヤーズ東京のコンサート」
(2) 2010年8月29日神奈川県立音楽堂における「仲道郁代のコンサート」
(3)「ショパン鍵盤のミステリー ― CDでわかる」仲道郁代編著,ナツメ社,2010.4
2010年はショパン生誕200年として例年にも増してショパンがモテモテでした。その中で仲道郁代を取り上げたのは、ショパンが好んで使った、当時のプレイエル社のピアノを使ってショパンの時代を彷彿させる演奏をしっかり聞かせてくれたからです。とりあげた演奏会以外にも仲道郁代はショパンのコンサートを開いていますが、私が聞いたのはここに掲げた2回のコンサートです。
 (1) 平野啓一郎がこだわり人物伝(NHK)でピアノ協奏曲1番ホ短調の名演奏として掲げていたのはアルゲリッチの1968年の演奏版(これは確かにすばらしい!)でしたが、仲道郁代のコンサートでは、余計な飾りをそぎ落としながら澄んだクリアーな響きを聞かせてくれ、この曲がショパンのデビュー作ということを想い起こせてくれました。ピアノ演奏時は、各パートが1つの楽器で演奏するというのもすがすがしく、新鮮で味わい深いものでした。後にショパンが好んで弾いたプレイエル社のピアノ(同時代の1841年製)と古楽器を使ったオーケストラという演奏(しかも初版譜)は日本では初めてものだそうです。このコンサートの日にこの曲の録音収録が終わって、ごく最近にCDが発売されました(2011年1月)。このCDは音質も優れていて(私のCDプレーヤーは対応していませんがSACDでダブル録音されている)おすすめです。
 (2) 仲道郁代は以前から子ども向けの楽しいコンサートも数多く開いていますが、このコンサートではプレイエル社のピアノ(1846年製)と現代のピアノとの弾き比べ(ワルツ、練習曲などおなじみの曲)、ピアノの響板をはずしてみたりしながらの解説、さらには何人かの子どもに会場でそれぞれのピアノを弾かせ、コンサート終了後はCDの販売を止めて、その場所(ホワイエ)で子ども達との交流をしていました。子ども向けに特別な配慮をすること、きちんとした演奏と古楽器の演奏を加えるなどを行っていながら、子ども向けに安価な料金設定をしていて仲道郁代さんには頭が下がります。
 (3) 表紙を見るとビジュアル本だな、と思ってとまどいますが、中身はなかなかちゃんとしており、演奏の息づかいのヒミツなどなかなか演奏者でなければわからないことも書かれていて、気ままに楽しく読むことができます。古楽器は使っていませんが、仲道郁代の演奏する13曲がCDに収録されています。子ども向けかもしれませんが、手軽でありながら、しっかりとしていて楽しい仕上がりです。
 私にとって、素晴らしいショパン年になりました。
● 秋山和男

 作品としての1冊目は、『テクノサイエンス・リスクと社会学・・科学社会学の新たな展開』(松本三和夫著 東京大学出版会 2009)です。
 本の帯に「地球環境問題、エネルギー問題、放射性廃棄物処分、生命倫理問題…。巨大な力をもった現代の科学技術への不安と期待。テクノサイエンス・リスクをふまえ、社会のあるべき姿を構想する」とあります。松本氏は「ここでリスクとは、不確実性がともなう、人間にとっての将来的かつ集合的な不利益と考えていただきたい」(11頁)と述べています。不利益を被っている「日本製風力発電、風力タービン」の例、将来的かつ集合的不利益となりうる「放射性廃棄物の地層処分について」の例から、いかに科学的根拠や将来の見通しのない政策や判断等がなされているか。また、「生命倫理」に関する例からは、当事者(医師と患者の関係)での直観的な捉え方とマクロな社会問題として捉える、そのずれ。専門家・非専門家の問題の捉え方のずれ。さらに、官・産・学・民のセクターごとに、認知等の次元の異同があることについても書かれています。その問題解決には、つまり「社会のあるべき姿の構想」として、課題やひずみを「誰の眼にもわかるかたちに可能なかぎり可視化し、社会全体の問題となる可能性を万人が事前に察知できるようにすることが肝要である」(321頁)とし、それにはテクノサイエンス公文書館の設置が必要だと述べています。
 「日本製風力発電、風力タービン」の例では、「日本ではじめて風力発電プロジェクトを推進したサンシャイン計画の顛末が、風力発電に関して公につまびらかにされなかった空隙を縫って、日本特有の風況のために日本での風力発電は困難という神話が・・偶然生まれ」、「国産メーカーがこぞって自主技術開発から撤退、・・国内市場で輸入技術が優位を占め」、風力発電の海外機と国産機別の導入機数は、2006年現在の累積値で、海外機998機、国産機316機、国産機率24.0%という状況です(108-111頁)。  最近のニュースで、風力発電機設置の自治体の調査で、想定をはるかに下回る発電量であったことが話題になっていました。国産機は、「日本の風況の特徴である風速変動に対応する独自技術の開発」も行われているにも関わらず、「保守、点検、修理が不可欠である風力タービンにおける保守、点検、修理費用の割高感など」(110頁)で、採用されず輸入風力タービンが大勢を占めていると、松本氏はこの本で書いています。ですから、この記事に使用されている風力タービンが海外機なのか、国産機なのか触れて欲しかったと思います。
 「放射性廃棄物の地層処分」では、地層処分は「それは唯一の解という」のではなく、「他の選択肢のフィージビリティ(可能性)が低いため残ったといったほうが正確である」(235頁)状況での地層処分の判断でありながら、また、初期の高い放射能の減衰期間が1000年。半減期は数万年から数百万年掛かるので、政策決定に関わる人々の責任、将来世代に及ぼす結果の責任を思いえがけない中で、多くの国民を納得させる説明と、将来にわたって、なんとか「無限責任を有限責任の範囲に事柄を変える」思考がなされていない日本の現状に対し、松本氏はフランス、スウェーデン、カナダの取り組みを紹介しています。フランスでは、「地層処分に限定せず、社会が望ましいと考える他の選択肢(群分離・核種変換、長期貯蔵)も並行して研究・開発をすすめ、15年後までにすすむべき方向を決める旨を1991年に法律に明記した。そして、2006年に、他の選択肢を残しつつ地層処分をすすめる計画を具体化し、処分した廃棄物はいつでもとりだせる状態で、100年間可能性を開きつつ、多段階の決め方をしている」(237-238頁)。
 これらの例および他の事例等から、松本氏は、テクノサイエンスリスクに関する議論が丁寧でしかも実りあるものにするため、テクノサイエンス公文書館の設置が必要だと述べています。
 「科学的証拠が存在する(しない)範囲と、賛成派も反対派も含めた、さまざまな立場や想定からどのような政策立案、実施、評価過程の選択肢が導かれるかに関するできるだけ正確かつ多様な情報を、網羅的に一箇所にまとめて系統的に保存、整理、分類、更新して万人に供する、テクノサイエンス公文書館の設置をもとめたい。施設だけではない。理科と文科の適当な部分での専門知の訓練を受けたテクノサイエンス公文書士が、形式的な情報活用サービスをこえる実質的な検索支援サービスを提供することをもとめたい」(265頁)とあります。私の素人の感想で恐縮ですが、そうなればテクノサイエンス公文書館に「市民研」の研究や知識や知恵の多くが提供されれば、その「市民研」の活動の一つが、結果的に市民のために活用されるのではないかと思いました。ですからテクノサイエンス公文書館が設置されることを期待したいです。  
 2冊目は、『心を生みだす遺伝子』(ゲアリー・マーカス著 大隅典子訳 岩波現代文庫 2010)です。
 ゲアリー・マーカスは、「いかに遺伝子が働くかということに対する理解がより豊かになりつつあるということである。遺伝子は単独でも、共同でも、環境と関わり合いながらも働く。21世紀においては、生まれか育ちか、というような曖昧でほとんど定義できないような抽象概念で考えるのではなく、(中略)この2つがいかに協調して働くかを理解するようにしよう。(中略)経験に依存せずに構造を作るためのシステムと、経験に基づいてその構造を較正しなおすメカニズムの両方が胚に備わっているらしい」(229-230頁)。
 さらに、「地球上に知的生命が生じた謎を解く一つの鍵・・もしかしたら唯一の鍵」としてあげたのが、「動物が学習できるのは、外界での経験に基づいて自らの神経系を改変しうるからである。(中略)、一つの例を挙げるとすれば、生まれたばかりのネコやラットやサルをほんの短時間でも光にさらすと、遺伝子発現の複雑なカスケード(cascade:「縦つなぎ」の意味、引用者注)を開始することができる。光は光受容体を活性化し、光受容体がシグナルを送り、そのシグナルが経路のできるきっかけとなり、このことが神経成長因子や、『最初期遺伝子』あるいは『初期応答遺伝子』として知られる一群の遺伝子の発現をもたらし、各々の遺伝子が今度はさらに多くの遺伝子の発現のきっかけとなる」(137頁)と。
 「光」をあてるという上の事例から、実際に「光」をあてることもあるいは比喩的な意味で「光」をあてることも含め、私には可能性を広げてくれるものでした。人はその光を感じ、受け入れ、心身が活性化していくのです。その結果、可能性が開かれていくのです。
 これに絡む話題があります。2010年10月3日放送TBS『夢の扉』で「歩くことを諦めていた脊髄損傷者を自分で歩けるようにさせたい」と「そんな患者たちに光を与えるようなリハビリ法をアメリカで習得して日本に広めようとしている人がいます、J-Workoutの渡辺淳さんです。渡辺さんは日本でただ一人、世界でも10人しかいないという脊髄損傷回復スペシャリスト(CSRS)。渡辺さんの行うリハビリは従来のものとは違い、感覚を失った神経に刺激を与え、再活性化させるという新しい発想のトレーニングで、切断された神経繊維とわずかに生き残った神経繊維との間に新しい神経回路を創り出し、歩行を可能にさせるというもの。また新たな試みとして歩行可能になった人たちに社会復帰のサポートも始めました」(TBS「夢の扉」HPより)。
 「光」をあてることは、病む人を治療することや子どもを育てることなども含めた広がりのある共通の要素です。それが、人の本来もっている力なのだと教えてくれたゲアリー・マーカスの『心を生みだす遺伝子』でした。
 3冊目は、『植物生態生理学 第2版』(W・ラルヘル著 佐伯敏郎・舘野正樹監訳 シュプリンガー・ジャパン 2004)です。この本と関連して『新しい植物ホルモンの科学(第2 版)』小柴共一・神谷勇治編 講談社 2010)を紹介します。
 私は、以前から、食物から摂取する抗酸化作用などのある栄養素のビタミンEや、ポリフェノール等は、植物(果実)そのものが紫外線その他から身を守るためにもっているもので、それを人間がいただいている、と想像していました。
 つまり、「植物の置かれた環境とカロテンなど栄養素とのつながり」があると。
 さて、『植物生態生理学 第2版』の231-307頁に「6 ストレスを受けている植物」の記載があります。
 植物の「生育に不適当な条件が”ストレス”である。(中略)ストレスは生物のすべての機能的レベルにおける変化や反応をもたらす。このような変化や反応は初めのうちは可逆的であるが、永続的(不可逆的)になることもある。(中略)植物はストレスに対して、環境と細胞内の間の熱力学的な、あるいは化学的な平衡状態が変化することを和らげたり、防いだりする多様な防御機構をもっている」(231頁)。「原形質がストレスに抵抗する能力は耐性という」(232頁)。
「すべての観察からいえる重要な結論は、ストレスに対する反応には時間依存性があるということである」(233頁)。同じストレスでも、どの程度の時間与えられたら、細胞が破壊され、死滅し、数時間なら耐性があるなどと、ストレスがかかっている時間が問題になる。
「あるストレスに耐性になる場合にはほかのストレスに対しても強くなる場合には、原形質を安定化させるような遺伝子産物に基づくことが多い。乾燥、凍結や高熱といった単一のストレス要因や休眠のシグナル(ABAなどの植物ホルモン、日長による誘導)が防御タンパク質の生合成を誘導し、その結果、原形質がさまざまなタイプのストレスに抵抗性をもつようになることもある。乾燥ストレスタンパク質、凍結保護タンパク質、熱ショックタンパク質、塩ストレスタンパク質は構造的に類似しているため、気候的なストレスに対する耐性メカニズムをもつための共通した分子生物学的な基盤があるといえる。同様に、フラボノイドの集積やペルアオキシターゼの活性化などの非特異的なストレス応答よって、紫外線、菌類の感染や被食などのさまざまなストレスに対する防御能力が備わる」(235-236頁)。
 「強光ストレスでは、活性酸素が蓄積する。これらは葉緑体の色素や膜脂質を破壊する。スーパーオキシドジスムターゼ、ペルオキシターゼ、カタラーゼなどの酸化還元酵素やアスコルビン酸、グルタチオン、α‐トコフェロールなどの抗酸化物質が活性酸素の消去系として機能する」(240頁)。「強光ストレスへの適応」として、「展開途中の葉に含まれるアントシアニンは、葉肉を守る光学フィルターとして働く、さらに、強光下では、葉緑体内の防御物質であるカロテンやルテインの量が増えることが知られている」(241頁)。
 次の図は、植物が紫外線を吸収して、細胞の核を守っていることを示すものです。
【図の説明】 「植物の細胞による紫外線の吸収.(上)イチゴノキの生葉の切片の紫外線(280~320 nm)顕微鏡写真.フラボノイドやタンニン濃度が高い液胞は黒く見える(W. Larcher原図).(下)紫外線はおもにクチクラや表皮の外壁,液胞で吸収される.このため,細胞の内側にある細胞の核は紫外線から守られる.紫外線の5~10%程度が葉肉の上層に到達する(Wellmannより, Caldwellら1983による).植物の生活形による紫外線吸収の効率についてはDayら(1992)やDay (1993)を参照.強い日射や紫外線にさらされた高山植物は,抗酸化物質の濃度を増やすことによって,光合成などの主要な細胞の機能を安定化することができる(Wildi, Lutz 1996,Strebら1997).」(245頁)(この説明文中の参考文献名は省略する)
次は、植物にかかるストレスと植物ホルモンについてです。
 『新しい植物ホルモンの科学(第2版)』で、「植物ホルモンとは、『植物自身がつくり出し、微量で作用する生理活性物質・情報伝達物質で植物に普遍的に存在し、その物質の化学的本体と生理作用が明らかにされたもの』と定義してよいだろう」(1頁)とあります。ここでは、よく知られているエチレンを例にあげます。
エチレンの「最も代表的な生理現象は、果実の成熟である」。「果実には、十分に成長したあとに、呼吸量(二酸化炭素の発生)の増大する(中略)リンゴ、バナナ、トマト、アボガド、モモ、ナシ、カキなどがあ」る。「成熟開始前にエチレン生成量が増加する。そのエチレンに応答して(中略)呼吸量の著しい増加が」起こり「軟化をはじめとする成熟が促進される」。「エチレンによって(中略)トマト果実ではリコペン(トマトの赤い色素)の生合成にかかわるファイトエン合成酵素などが誘導される」。
 「エチレンは葉や果実の器官離脱を促進する。葉の齢が進行するとエチレンが生成されるようになり、老化が起こり葉柄の基底部の離層形成を促進し、(中略)器官は脱離する。病原菌の感染により誘導されたエチレンによっても葉の離脱は起きる」(96頁)。
「風による曲げや機械的な接触のような物理的なストレスがかかると、植物体は一過的にエチレンを発生する。その結果、伸長成長の抑制と横方向への肥大が起こり、背丈が低く、太い丈夫な植物体になる」(98頁)。丈の短い太いもやしが最近出回っているけれども、これは、エチレンで処理したものであるとも書かれています。
エチレンは「過酷な環境によるストレスなどの外的な刺激によっても生成される」。そのなかでも、傷害によるエチレン生成は代表的なもので」、エチレンによって、「抗菌性物質のファイトアレキシンの生成を誘導し、植物の防御反応のための生理現象を引き起こす」(100-101頁)。
 このように、栄養学の内容を植物生態生理学の知識から見るのは、例えば「旬」のものが美味しいし体によいと伝えるだけでなく、地球上のあらゆる生物が、同じ環境の中にあって、ストレスを受けながら、うまく対応しながら生きていることを知ります。そして、その力を私たちが「食」を通していただいていることを知ります。
 以前、私は「市民研」の出張授業「発酵という魔法・・小さな生き物(微生物)の大きな力をさぐる」を高校の授業でお願いしました。そこから、微生物の多様性、重金属や高温の世界で生きる微生物がいることも学び、さらに、その生きている環境に順応する微生物の力を、発見し取り出して人間が利用して、水の浄化等を始めとして研究がされていることへと、発展させてその後の授業につなげました。出張授業で見せてくださった目の前で起こっている「酵母の分裂」の顕微鏡映像に、生徒は驚いていました。■
● 横山雅俊
1◆ DIS+COVER サイエンス「科学技術は日本を救うのか」 北澤宏一(著) discover21
 聞くところでは、サイエンスアゴラがきっかけで生まれたという DIS+COVER サイエンスシリーズ。その輝かしい第一段が本書です。既に多くの論評があり、それに屋上屋を重ねるまでもない気もしますが、JST 理事長ならではの大局的な視点から書かれた、見事なまでの日本の科学技術論は一読に値すると思います。科学技術という側面を抜きにして、日本の近現代のマクロ経済的な動向を知ることが出来るという副産物もあります。
 ややおめでたい認識に過ぎるかなと読める一面もありはしますが、大局的動向を語るにはそのくらいの方が良いのでしょう。科学と社会の接点における負の側面(いわゆる研究問題や価値衝突問題など)をどう克服していくのかに関しては、機を改めて論じるべきでしょう。
2◆ 新潮新書「医薬品クライシス」 佐藤健太郎(著) 新潮社
僕自身、薬学出身にして薬学部で研究歴を持ち、且つ薬剤師としての勤務歴もあることから、日本の医療問題の動向には関心があります。ただ、日本の医薬品産業の現状を広く世に知らしめる一般書の存在は、これまで希有でした。著者は理工学出身にして製薬メーカーでの研究開発従事歴のある科学ライターであり、その経験から得た知識と見識を存分に発揮して本書を書いていますが、本来なら薬学出身者に書いて欲しかった本だと思います。
それはさておいても、本書はいわゆる「ブロックバスターの 2010 年問題」(→各製薬企業の稼ぎ頭である医薬品の特許切れに伴う大幅収入減の懸念)を主題にしています。この問題が、実は日本を初めとする世界の医療の動向において、どれだけ大きな影響をもたらすかに関して、本書では当事者の視点から論じられています。医薬品の値段、安ければそれで良いのか。本書を通じて、このことを多くの方に考えて欲しいと思います。
3◆ 「科学技術社会論の技法」  藤垣裕子(著) 東大出版会
 現在の僕にとっての、自称専攻としている2つの学問分野の一つが科学技術社会論です(大学できちんと学んだ訳ではなく、専ら独習と実践あるのみですが;もう一つは生物物理学です。今回は詳述略)。その分かりやすい教科書として、本書は非常に使いやすく書かれていると思います。9 つの分析事例と方法論の紹介という形でコンパクトにまとまっており、本書を学んでその通りに実践するだけで研究や調査として成り立つという雛形が提供されており、(それを独自の問題意識に沿って実行するのは生易しくないとは言えども)演習書や参考書としても使えるものだと思います。他方で、過去の科学と社会の接点に関する問題群を振り返り、日本の近現代における科学技術の負の側面を整理して、これらを直視するという意義もある書籍だとも思えます。■
● 角田季美枝

1◆ E.O.ウィルソン著、岸由二訳『創造 生物多様性を守るためのアピール』紀伊國屋書店、2010年
 2010年は日本・名古屋市で第10回生物多様性条約締約国会議が開催されたこともあり、日本の各種メディアに「生物多様性」という文字が久々に多く飛び交った年であった。生物多様性条約の交渉はほぼ生物という資源から得られる利益を公正かつ衡平にどう分配するかという内容になっているが、生物多様性がそもそもどういう概念であるのか、なぜ大切なのかについて、日本語の科学雑誌において踏み込んだ解説や論文を私は見つけることができなかったように思う。その中で、E.O.ウィルソンの『創造』は、生物多様性の保全のために宗教と科学の連携を熱く呼びかける異色の文献である。「異色」というのは、ウィルソンのそれまでの著作とかなり様相が異なるという意味である。
 まず南部バプテスト派牧師への書簡という形式をとっている。次に、科学と宗教の共通基盤を確認しながら、生物多様性保全は人類の責任としてすべき行為であることを科学の言葉で語っていること。そして、生物多様性保全の教育論も展開していることである。とくに教育論の展開では「市民科学」というキーワードも使い、アマチュア・ナチュラリストと専門家との協働や子ども期の教育について非常に具体的な実践を紹介している点がおもしろい。
 翻訳者である岸由二の親切かつ丁寧な解説も白眉である。生物多様性に関するウィルソンのスタンスについては、この岸が解説をつけたデヴィッド・タカーチ著(狩野秀之、新妻昭夫、牧野俊一、山下恵子訳)『生物多様性という名の革命』(日経BP社)の第7章も参照するといいだろう。
2◆ 鶴見良行著、森本孝編『エビと魚と人間と 南スラウェシの海辺風景 鶴見良行の自筆原稿とフィールドノート』みずのわ出版、2010年
 1994年になくなった鶴見良行は、「歴史ルポルタージュ作家」と自称したとおり、ひたすら「辺境」を歩いた人であった。見て聞いて歩いて確かめたことを、フィールドノートに几帳面な文字や地図、イラストなどで記すのだが、そのノートはそのまま印刷会社に入稿できるほど完成度が高いものであった。本書はそのことがよくわかる自筆のフィールドノート(1983年7月27日~9月17日)と、フィールドノートをもとにさらに完成度を高めた覚書ふうの「エビと魚と人間と」の二部構成である。なんという自筆の文字の圧倒的パワー! 行間から、自分の「謎」を追いかける楽しさがこぼれている。ほくそえみながら、「どうやー! 研究は楽しいでー!!」と、指をパチンパチンと鳴らす姿が見えてくる。本書がまとまるまでの経緯は村井吉敬によるものである。村井は鶴見の旅仲間であり、鶴見の学問の特徴や意義を的確に伝えている。
3◆ ウケ・ホーンダイク監督『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』2008年
 オランダ・アムステルダムにある国立美術館は現在、大規模改修工事中である。そのため、収蔵作品が海外で貸し出されている。工事は2004年から始まり、終了は2012年末とも2013年ともいわれている。当初の予定より長期にわたる工事になっているが、その理由は、当初の計画が従来の自転車通路を狭くするという内容だったため、地元のサイクリスト協会をはじめ住民がクレームをつけ、計画自体が二転三転してしまったからである。陣頭指揮をとっていた館長はとうとう嫌気がさして辞任しウィーンへ引っ越してしまう……絵画の修復作業、展示品を選ぶ学芸員、自分の家のように愛する警備員、サイクリスト協会、教育・文化・科学省の担当官、スペイン人建築家など美術館改修をめぐる悲喜こもごも、愛憎模様を淡々と伝える。これぞオランダ民主主義!のドキュメンタリー映画である。■
● 池澤淳子
1◆ 小野竹喬展  <冬日帖>
 
 この作品にハッとしました。生まれ育った岡山の田舎を離れ、鳥取に暮らして30年になります。
 けれど、この作品に出合ったとたん、幼いころの瀬戸内の冬の色合いと匂いの感覚にスッと戻っているのでした。
 竹喬さんも十代でふる里 笠岡を離れられたようですが、心象風景としての冬の感覚(というと大袈裟ですが)を共有できている気がして、とても懐かしく心和むひと時でした。
2◆「生命と医学」 多田富雄 (『現代思想』2010年7月号、62-77)
  
昨年亡くなられた多田富雄先生が、1990年に『信州医学雑誌』に書かれたものの再録とのことです。
 「すべてのものを断片化する断片の時代」から、「その断片と断片の『関係』、断片の全体の中での『意味』をDNAの構造の中に見ようとする新しい立場」への生命観の変換を説かれています。私は個人的に敗戦直後の日本の優生学について調べていますが、私がこだわっている木田文夫という医学者も、要素還元主義的な当時の人類遺伝学に異議を唱えています(たとえば、「生命の現れの研究の道はただ一筋で、連絡のない断片的な研究方法が夫々別に成り立つ訳ではないと思われる。」・・・など)。半世紀近い時を超えて、二人の医学者の間に生命観の共有を見る思いがしています。私の思い込みに過ぎなければよいのですが……
3◆ 『これからの『正義』の話をしよう」  マイケル・サンデル著、鬼澤 忍 訳、早川書房
 
「公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、・・・・」。中絶の問題を考えていて、ずっと胸につかえていたものが少しずつスッキリしてくる気分でした。今すぐ解決できるわけではないけれど、論点がすれ違ったままだったと気付かされました。■
● 上田昌文
1◆『火の賜物 ヒトは料理で進化した』
(リチャード・ランガム ・著/ 依田卓巳・訳 NTT出版2010)

 優れた科学書というのはどんな本のことだろう。それはいわゆる専門書や教科書ではない。一般向けの解説書でもない。それらのすべての要素を併せ持った、著者である科学者(あるいは科学者たちの業績を咀嚼した科学ライター)の強い個性とオリジナリティが発揮された、説得力の高い”物語”と言うべきだろうか。あるいは、ある領域・テーマについて百科全書的に知識と経験の豊富な一流の専門家が、その領域やテーマを自分の立場を鮮明にしつつ1本筋の通った概観を提供する本だろうか。かつてE.シャルガフは物理学者シュレディンガーの名著『生命とは何か』について、「偉大な科学者が、とくに自分のあまり知らないことについて発言しているときは、傾聴に値する。自分自身の専門領域では、彼らはとにかく偉大で、かつ鈍感になる」と述べていたが(『ヘラクレイトスの火』原著1978年)、専門分化がさらに著しく進んだ今では、こうした巨匠のアマチュアリズムとでも称すべき作品は、きわめてまれになってしまったように思える。
今年(2011年)は、市民科学研究室の活動の一つとして、企業とも連携して子どもたちに対して「火育」をすすめることにしているが、それは、「火を知らない、火を扱えない」子どもが増えていることに対する危機意識があるからだ(エッセイ「火育について」参照)。
 その教育プログラムを作成する中で出会ったのが、『火の賜物』であり、これは科学書の傑作と呼ぶに値する、じつにスリリングな本だ。著者の仮説は単純だけれど斬新で「火の使用と料理がヒトを作った/ヒトは料理するサルである」というものだ。あなたなら、「料理した食事は(生食に比べると)栄養摂取効率がとても高くなる」という栄養学的な事実を出発点にして、どんなヒトの進化の可能性を想像するだろうか。男女の役割分担、結婚形態、コミュニケーションや社会構造、現代の肥満の蔓延までをも決定づける(説明できる)、と言われれば、どう反論するだろうか。いまだ仮説の域を出ない部分も含みつつとは言え、緻密な学術データと論証、大胆で豊かな推理で、読者を大いに楽しませ、考えさせてくれる科学書だと言える。
 なお、この本の編集・レイアウトについて付言しておきたい。本文の字の大きさ、行間のとり方、注、文献一覧、索引の字体や配置の具合など、きわめて目に優しく、たどりやすい。これは他の出版社も見習うべき素晴らしい点ではないだろうか。
<オマケ>
科学書ではないが、「ベストセラーは、読むのなら、5年以上経ってからでもよい評判が続いているものを、古本屋で激安価格で(100円とか200円で)で買い求めて読むべし」との主義を守る私にとっての、今年楽しめたベストセラー小説は、宮部みゆきの『火車』(『模倣犯』も読んだが、私は『火車』の方が好きだ)、東野圭吾の『白夜行』でした(新潮文庫、集英社文庫)。ノンフィクションでは、辞書の最高峰OED(Oxford
English Dictionary)の生誕の奇想天外な秘話を綴った『博士と狂人』(サイモン・ウィンチェスター (著)ハヤカワ文庫)が読書の愉しみここにあり、という感じを満喫させてくれました。
2◆『環境・自然エネルギー革命 食料・エネルギー・水の地域自給』
  (中村太和・著/日本経済新聞社2010)
  『環境の政治経済学』
  (除本理史、大島堅一、上園昌武・著/ミネルヴァ書房2010)

 ここ2年、恵泉女学園大学で非常勤で環境政策論を教えている。NPOの活動とうまく両立させるには、私の能力では大学の非常勤は週1コマが限界で、他からのお誘いは、申し訳ないけれど、すべてお断りしている。二十歳くらいの学生さんを相手に、自分が環境題をどうとらえ、何をなすべきかと考えているのかを、可能な限り系統立てて、客観的にかつ刺激的に教えようとしているのだが、普段の活動で知り得た様々な人々による様々な取り組みを織り込みつつ、市民科学研究室が所蔵する膨大な映像資料も活用して、毎回、自分なりの話の展開を組み立てるのが、なかなか大変だ。そんな折りに、確実に役立っているのが、毎月連載で書かせてもらっている『企業診断』という雑誌の環境ニュースのコーナーだ。500字で2本という制約の中で、環境に関する膨大な時事的情報から、多くの人に紹介したい話題を選んでわかりやすく解説する、という役回りであり、毎回、話題選びに大いに苦労している。でも2年も続けていると、合計50本を超す記事からは、自分なりの見通しのようなものが少しずつ形成されてきているような気もするのだ。
 温暖化、化学物質汚染、ダムと流域生態系、廃棄物、交通、遺伝子組み換え食品……等々、きわめて多岐にわたる個別の問題は、専門誌や専門NPOのウェブサイトなどで、最新情報をたどることはなんとかできるにしても、全体の貫く論理(問題発生のメカニズムと実効性のある対策の構成原理)をいくらかなりでも把握しようとすると、巷に溢れる、通俗的でとおりいっぺんな概説書ではほとんど助けにならない。学問的に鍛えられた綿密な分析と、争点となっている現実問題へのコミットメントを統合させたようなアプローチが必要なのだろう。そうした点で、昨年読んで、啓発されるところが大きかったのが、『環境・自然エネルギー革命』と『環境の政治経済学』の2冊だった。両書とも文献案内も丁寧で、大学で環境問題を教える際に大いに役立つばかりでなく、一般の人たちにとっても断片的に見聞きしてきた環境に関する時事的な事柄を、自分なりに整理し直すのに最適であろう。
 市民科学研究室では現在、「住環境研究会」を作って、住宅問題・住宅政策の市民的リテラシー形成のための方法を、ここ1年ほどかけて模索しているのだが、土地・不動産、金融、住宅性能、建築基準と法規、都市計画、住宅政策の諸外国との比較……を的確にとりまとめた、市民にとって真に役立つ概説書がないことを痛感している。その意味でも、ここに紹介した2冊は、私にとってヒントを与えてくれるものとなっている。
3◆ ヤナーチェックのオペラ『利口な女狐の物語』のDVD
 クラシック音楽ファンを自認する人でも、その人がオペラファンである割合はあまり大きくないのではないか--自分を例にとって、なんとなくそう思ってしまうのは、まず、皮肉な見方をすれば、ベルカント唱法で朗々と喜怒哀楽を表現すること自体の”作りものっぽさ”に違和感を覚えてしまうからだが、実演に接する機会が極端に少ないので(何しろ1回の公演で1万円を超えるチケット代があたりまえだ…)、ということも関係している。対訳をとおしてでしか会話を追えないという制約もある。CDだけの鑑賞ではあまりに取りこぼしが大きいので(演劇の鑑賞を”音声”だけすませる人はいないだろう)、DVDに頼りたいのだが、それがまた高価だったり、そもそもDVD化されていない場合も少なくないのだ。もちろん、オペラの普及にはTV放送が大きく貢献していて、『カルメン』『フィガロの結婚』『薔薇の騎士』など、私自身、画面に釘付けになって陶酔の時間を過ごした例は多い。いやCDだけでも、豊穣な音世界とストーリーの面白さを十分に堪能したと感じることも少なくない(『魔笛』『ヴォツェク』『火刑台上のジャンヌ・ダルク』など)。チェコの大作曲家ヤナーチェックのオペラもそうだ。9作品のどれにも実演に接したことがなく、CDだけが頼りだった。その中の唯一の例外が、ここで紹介する『利口な女狐の物語』で、メルヘン風な色彩鮮やかな舞台で、若い歌手たち(子どもを含む)が狐、雄鳥や雌鳥、飼い犬、カエル、きつつき、蚊……に扮して、人間と動物が混然となった不思議な時空間が現前する。息つく暇もなく次々に繰り出される、独特な抑揚と音色をもった、奇妙な懐かしさたたえた美しい旋律たちが、全体として生と死の綾なす永遠の息吹を感じさせることで、それ自身が一つの自然となっている、と言いたくなるような音世界を展開する。こんな音楽は他ではまったく体験できないものだろう。CDだけだと、初めての人はちょっととっつきにくいと感じるかもしれないのだが、DVDなら、タイトルロールの女狐ビストロウシュカを演じる若いエレナ・ツァラゴワの美貌としなやかな肢体の動きの妖艶さにひっぱられて、見入ってしまうのではないかと思う。
 ヤナーチェクが9曲のオペラをはじめとして、何故かくも独特の音楽を創造することができたか、音楽史の一つの重要な探索課題だろう。このことに本格的に取り組んでいる希有な書物として『チェコ音楽の魅力』(内藤久子・著/東洋書店2007)を挙げたい。一般書の体裁をとっているが、どうしてどうしてこれはとても高い水準の学術研究書だと思われる。小説家ミラン・クンデラがこの同郷の大作曲家に寄せたオマージュも忘れられない(『裏切られた遺言』所収(西永良成・訳、集英社1994)。姿は違えど、両書ともヤナーチェクの音楽へ深い愛情に貫かれている。演奏家や愛好者にも独特な深い献身を引き出すのが、彼の音楽の特徴なのだろうか、2010年はこの人なくしてはヤナーチェクのオペラの世界的な普及はありえなかった、英国の指揮者チャールズ・マッケラスが亡くなった年だったが、彼の音源が安価でまとまって手に入ることはありがたい(『イェヌーファ、利口な牝狐の物語、死者の家から、マクロプロス事件、カーチャ・カバノヴァー、シンフォニエッタ、タラス・ブーリバ』マッケラス&ウィーン・フィル(9CD))。オペラの鑑賞には良質の対訳が欠かせないが、「日本ヤナーチェック友の会」が提供する対訳集は実に丁寧な作りで感心する(この協会のホームページは、数ある日本語の大作曲家サイトの中でも資料やデータの充実度ではピカイチではないだろうか。素晴らしい!)。さらに驚いたことに、「オペラ対訳プロジェクト広報室」というものがあって、なんとヤナーチェックのオペラの主だった5作品の全訳がネットで読める(ちなみに、このネットを使った対訳事業は現在も進行中で、オペラファンには大変な恩恵だろう。素晴らしい!)。マッケラスのCDをパソコンで再生しながら、インターネットで開いたこの全訳をスクロールしながら楽しむ、ということができるのだ。『利口な女狐の物語』の原作も翻訳されていて(ルドルフ・チェスノフリーデク・著/関根日出男・訳八月舎2005)参考になるが、原作者の数奇な人生にふれると、この物語のちょっと違った相貌が見えるようで興味深い。■

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