上田昌文
●動物への隠されたまなざし
人間が「生命」に対してどのようなまなざしを向けているのかという問題は、科学技術と社会が生命現象を媒介にして関わりあうさまざまな事象から探っていくことができます。しかし今回扱う「人間が動物に向けるまなざし」の問題は、そうした事象のなかでは、問題として取り上げにくい特殊な理由があります。人間は人間以外の動物をどう扱っているのか、つまり「他者」としての動物の生命に対して人間がどのような価値判断を下し、どのようにして現行の社会で容認されている行動体系を作り上げているのかを探ろうとするわけですが、言うまでもなくこの問題は個別の生物種に応じた歴史的・文化的・地理的に幅広い考察が必要でありながら、私の知る限りごく少数の研究例を除いて、学問として充分に探りが入れられる分野にはなっていません(動物と人間の関係についての歴史的・文化人類学的考察とでも言えるかもしれません)。さらに、まなざしを向けている対象でありながら、同時にそのまなざしをあらわにはしないでおこうとする対象として、動物という存在が社会の中で位置づけられているという、やっかいな面があります。娯楽のために狩猟され、自然環境から引き離されて動物園で監禁・飼育され、ペットとして愛玩され、サーカスのために調教され、食料として捕獲され、家畜として飼育・屠殺・食肉化され、実験動物として利用される……このおよそ統一がとれているようには見えない、人間と動物とのかかわりの裏には、人間の文明のあり方の非常に痛いところを突く倫理的・道徳的な矛盾が、見え隠れしています。
今回は、この見たくないけれど見ずにはすまされない「動物へのまなざし」を論じます。
●なぜ人はペットを愛しながら肉を食べるのか
子供たちはたいてい小さな動物が好きです。犬や猫などペットとして家で飼う動物には深い愛情を抱くようになったりします。身近な動物が死んだり殺されたりすることに強い悲しみや痛みを覚え、自分が原因でそうなった場合には罪悪感さえ感じるものです。しかしそうした子どもたちが、では豚や牛や鶏を殺して得られる肉を食べなくなるのかというと、決してそんなことはありません。ハンバーガーにフライドチキンといったファーストフードを食べ慣れた彼らが成長すれば、食肉の消費は増えることはあっても減りはしないでしょう(ちなみに、1975年の日本人1人あたりの肉の消費は18キログラムでしたが、1991年には29キロに増えています)。では一体、このペットと家畜に対する扱いの差を私たちはどう説明できるのでしょうか。
まず何よりも大きいのは、私たちは食肉やその加工品を見たときに、そこに元の生きた1匹の動物とそれが生活している姿を想像することがほとんどできなくなっている、という点です。現代の畜産は、飼料の調合から家畜の飼育や出産にいたる様々な段階で種々の化学物質を投与しながら極めて大量かつ高密度に飼育する(「ブロイラー化」)、科学技術を用いた一種の工業であり、家畜たちは食肉としての価値に応じて等級化され規格化されたいわば蛋白源製造機械(「アニマル・マシーン」)です。運動と日光を欠いた環境の中で、薬漬けとストレスのせいで内臓の病気を患い生命力が衰弱する夥しい数の家畜たち(多くの獣医たちは、家畜たちが短期間において「前癌状態」を呈するようになる、と指摘しています)――現象だけを取り上げれば、生命をこれほど大量に奴隷化し殺傷するシステムというのは歴史上例を見ないものであり、そこには「他者」としての生命に対する尊厳は微塵も感じられません。工業的畜産の現場をわが目で見れば、誰しも「人間はいかなる理由でこの行為を正当化しているのだろうか」と呟かざるを得ないでしょうが、スーパーに並ぶ食肉やレストランの肉料理を見ただけでは、決して思いがそこに到ることはないのです。
いったん産業として確立してしまったシステムは、規模が大きくなればなるほど、生産・流通・消費の場をつないで全体を把握することがますます困難になり、そこで扱われている「生命」が命としての特質を失い、商品として「モノ」になりかわっていく度合いをいよいよ高めます。大量で高効率の飼育を強いられる生産の現場では、「命」の問題にかかずらっている余裕はまったくありませんし、食肉とその加工品があふれ返る消費の現場では、誰もその商品が「命」あるものに由来するのだとは実感できなくなってしまうのです。
ただし一言加えるなら、発病直前の家畜から動物医薬がたっぷり入った食肉を切り出してわが体内にそれを「モノ」として流し込んでいる私たちは、化学物質汚染、抗生物質の大量使用による薬剤耐性菌の出現、そして狂牛病の発生など、畜産システムによって自分の「命」が痛撃される事態を招いているのは、なんとも皮肉なことです。
●人間と動物はどこが「違う」のか
さらに一歩踏み込んで、社会全体がこの動物搾取のシステムを容認していることの根拠を探ってみましょう。
最も根深いものは、動物と人間の線引きをする世間一般の常識でしょう。すなわち、動物は人間に比べて人格や自己意識など高度な精神面を持ち合わせていないという意味で「劣った」存在であり、したがって人間という「優れた」種の生存に寄与すべく他の種である動物を利用することは許されることである、という考え方です。この常識は、少し考えればいくらでも反駁可能なものであり、科学的にも次第に明確な反証が積み上げられてきているにもかかわらず、あまりに強固で抜き難いものになっています。
まず、抽象的な原則の水準で考えると、他の動物が我々よりも知的・精神的ではないからといってその動物の生きる可能性を奪ってよいということにはならないし、ましてやヒトと種が違うからといって別の種を搾取してよいということにはなりません。
動物が、現在我々が理解しえる範囲においても、さまざまな「苦痛」を感じる存在であることは、多くの場合確かですし、そうである以上、その動物の苦しみに配慮しないという態度は道徳的に決して許されるものではないでしょう。
さらに、動物の中に自己意識を持つものがいるということには、明確な科学的証拠が示されるようになってきました。手話を用いてある種の創造的な自己表現ができるチンパンジー(「アイ」や「ウォシュー」という名前)、ゴリラ(「ココ」)、オランウータン(「シャンテク」)、約1000語の英単語が使えるボノボ(「カンジ」)たちのことはよく知られています。また、ジュリアという名のチンパンジーは、5つの箱にそれぞれ別々に収められた4つの違った鍵(他の箱を開けるための鍵)を順番に箱から取り出して、バナナの入った最後の箱を開けるという、一連の操作に必要な推論を、最初の鍵を選ぶ時に正しく行うことができました。たとえ人間に似た「言語」が使えるように見えなくても、精密に観察してみると、この種の推論をはじめ、明確な意図を持って将来の行動を設計したり、仲間を欺くような振る舞いをしてみたり、ときにはユーモアのセンスさえあるのではないかと思わせるような素振りを示したりすることがわかります。
こうした動物の認知行動の解析は、人間に近いからという理由で、霊長類で特に盛んですが、動物と親しんだ経験のある人なら誰もが直感する「動物にも感情があるに違いない」ということを、科学は様々な種について少しずつ時間をかけながら裏付けていくのではないかと、私は考えています。たとえば野生の豚は、最もきれい好きな動物の一つであることはよく知られていますが、極度に嗅覚が敏感で、遊び好きで、高度な母性を発揮し、少なくとも頭の良い犬に匹敵するような「賢さ」を発揮する動物であるとも言われています。このような動物を、アニマル・マシーンとして虐待・搾取・殺傷することが正当なのかどうかを、科学的に検討する日がやってくるかもしれません。
私は次のように考えます。現在の脳科学でも人間の「意識」のメカニズムはつかめていない、したがって人間以外の動物に「意識」がないなどという断定もそう容易に下せるものではなく、愛情ある直感に支えられた慎重で根気強い観察によって、おぼろげな「意識のようなもの」の存在を少しずつ明らかにしていくという態度が、動物を扱う科学に求められるのだ、と。動物を「劣った」存在とみなすのは、未熟な科学の傲慢さの現われではないかと思うのです。
●弁護できない現代の肉食習慣
現実の問題として、健康のためには動物の肉を摂取する必要のないことが医学的に数多くの事例で証拠立てられていますし、肉がなくてもそれに替わる同等の栄養価を持った食事をすることには実際に何の困難もありません。また、家畜の飼料として世界中の大量の穀物が消費されるため、食肉はエネルギー的に大変効率の悪い食料であり、食糧生産の持続可能性の点からも問題があります。端的に言って、地球の大地は動物を飼うより植物を育てた方がより多くの人を養うことができるのです。
以上の考察から、私たちが動物の搾取という現実を(無意識的に)隠蔽することで維持できていると思える肉食の習慣は、今の工業的畜産システムに頼っている限り、弁護することができないもののように思えます。問題の解決は困難ですが(皆が急にベジタリアンになるとはとても考えられません!)、個々人が取るべき態度の一つは明らかです。それは、自分が食べることになる動物たちの現実に、これまで伏せていたまなざしを向けることです。道徳的に許されざる「命」の侵犯を行ってまで肉を食べる必要があるのか、と自分に問いかけることです。厳しい話ですが、やむを得ないのです。
●動物実験は本当に科学的か
問題はこれで終わるわけではありません。「動物の苦しみと引き換えに人間の苦しみを軽減することができる」という理屈が掲げられれば、食べるために動物を殺すことに反対する人でも、人間を「救う」ためならやむを得まい、と考えるのではありませんか。これが動物実験を擁護する論理です。
しかし少し考えてみれば、動物実験はそもそも矛盾した前提から出発した行為に見えます。つまり、「動物で得られた実験データが人間に適用可能であるほど、動物と人間は近い存在である」という前提(1)と、「人体でやることが許されない実験を動物でならやってかまわないと考えることができるほど、動物と人間は遠い存在である」という前提(2)の矛盾です。いや待て、(1)は生理学的・行動学的な同等性という科学の領域の話であり、(2)は道徳的な価値意識の問題だと言われるかもしれません。しかし、事実が示しているのは次のことです。まず、先ほど触れたように(2)の反証として動物にも何らかの「精神活動」を示すものがあると認めざるを得ないケースが次第に明らかになってきました。さらに(1)で述べている生理学的な反応については、これまでにもすでに種によるばらつきが極めて多いということがわかっています。
(1)に関連しては次のような反例を挙げることができます。モルヒネは麻酔剤・鎮痛剤として使われますが、猫やマウスには逆に興奮剤になります。また人間の毒殺薬として有名な砒素は、羊に対して人間の致死量の数十倍を与えても安全です(マウスやラットやハムスターで発ガンさせるためにはヒトへの投与の何倍・何十倍もの量が必要です)。モルモットの致死量のペニシリンを投与されてもマウスは平気です。このように毒性や効果の発現は動物種によって大きく異なるため、人間へのはっきりした結果を動物実験から推測することは難しいのです。
では、いったい動物実験の価値はどこにあるのでしょうか。科学の名の元で密室において日々大量に実験に付される動物たちに、あなたはどういうまなざしを向けるのか。次回はそれを考えてみたいと思います。
(『ひとりから』2000年9月 第7号)