シリーズ「私が出会ったおもしろ人物紹介」(2) 藤田邦彦の職能形成と武谷三男

投稿者: | 2000年2月10日

猪野修治

★はじめに
第10回「科学と社会を考える土曜講座」(1999年12月11日)は、「私が出会ったおもしろ人物」の紹介であった。私は「藤田邦彦の職能形成と武谷三男」という話題を提供した。話題の焦点は藤田邦彦氏である。藤田氏との出会いは衝撃であった。そして圧倒された。昨年の6月の中頃、 週間「読書人」編集部の武秀樹氏から書評文を依頼された。武谷三男・小田実=対談者、藤田邦彦=司会者『都市と科学の論理-阪神・淡路大震災がつきつけたもの』(こぶし書房、1999年5月31日)である。私は恒例の通勤読書で本書を読み進むうちに熱いものがこみあげてきた。本書の内容もすばらしかった。しかし、それよりもなによりも、武谷氏と小田氏の対談をしかけた、黒子役で司会者の藤田邦彦氏の企画と発言と存在のすごさであった。実は私はこのような対談を私自身が実現したいと思っていた矢先だったからである。おもしろ人物の主役藤田邦彦氏を語るにはどうしても本書を語らないわけには行かない。そこで私はさっそくその暑い想いを、「週刊・読書人」(1999年7月9号)と『技術と人間』(1999年8・9月号)に、いくぶん論調を変えてダブルで書いた。その熱い想いの概略を述べたのち、再び藤田氏と私の衝撃的な出会いを述べることにする。

★1.武谷三男・小田実『都市と科学の論理-阪神・淡路大震災がつきつけたもの』
上記のふたつの書評文のうち、ここでは、「週刊・読書人」に掲載した文章を再録する。
1995年1月17日午前5時46分、戦後最大級の災害「阪神・淡路大震災」が起こった。被災の規模は、関連死を含めて死者6430名、負傷者4万3773名、家屋の全半壊約24万9000棟、焼失床面積83万平方メートルに及んだ。起こり得ない大災害が現実に起こったのである。それはいまだに被災地の人々に大きな傷跡を残し続けている。
最近では「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)がいとも簡単に国会を通過し、日本のアジア侵略への戦争加害責任問題が真摯に論じられることなく、平気で「日の丸・君が代」の法制化の動きが起こり、マスコミの論調も大手を振っているという有様である。
こうした日本社会に漂っている批判的精神の閉塞的状況を解体して、どのように新たな批判的運動をつくるのか。本書の対談を立案・企画・執筆した司会者の藤田邦彦氏は「この状況こそ、かつての侵略戦争を許した時代と全く共通の空気ではないのか、しかし、絶望してはいけない、人はひとりでもたたかい続けることができる。今こそ、その論理を明らかにする」必要がある、と述べる。藤田氏がいう、ひとりでもたたかう論理を明らかにする目論見のひとつが、本書の対談そのものである。
その目論見の内実とはすばり、たたかいを担ってきた人々の歴史を虚心坦懐かつ真摯に学ぶことである。20世紀日本の科学技術者運動と国際的な市民運動に深く関わり大きな役割を果たしてきた物理者・武谷三男氏と作家・小田 実氏のたたかいの質的内実を十分に引き出し、藤田氏の世代が担うべき21世紀のひとりひとりの市民が、現代社会と真正面に向き合いたたかうための「市民的学問と運動の在り方」を探ろうとするものである。

本書における司会者・藤田氏の立場は単なる対談者の調整役ではない。市民的学問と運動の研究者・探求者の視点と立場である。私はこの藤田氏の視点と立場に自分を重ねて読んだ。そして共鳴した。現在、1952年生まれの藤田氏自身が市民運動の渦中にありながら、1911年生まれの武谷氏、1932年生まれの小田氏の世代間を越える著作と運動に十分通じ、両者の本質的発言を的確に取り出し、豊かな対談をつくりあげているのが、なによりの証拠である。
さて、本書の項目は、「阪神・淡路大震災の現場から」、「武谷理論をめぐって」、「天災が人災になる」、「戦争責任と日本社会」、「未来へのメッセージ」、「関連年表」である。対談者の一方の武谷氏は、本誌の読者には周知のことがらであるが、戦前・戦後、現在まで、一貫して科学技術者運動の前線にあり続ける、日本の科学技術者運動の事実上の草分け的存在ある。私は若い20代にほんものの市民的哲学者の久野 収氏とともに武谷氏を知り、彼らの著作を読みついできた。数年前、期するところがあり、武谷氏の全著作を集中的に読み直し、1996年11月(新宿区中井の武谷研究室)と1999年2月
(清瀬市の静養先)、武谷氏を訪ね懇談する機会があった。話題はもっぱら科学技術者運動について武谷氏自身の考え方と生き方を聞くことで、その内容は同氏の『思想を織る』(朝日選書、1985)を追認するものであった。が、その行間からはうかが知れない沢山のことを知った。
本書には、その様子が対談相手の小田氏と司会者の藤田氏の実践的な問いかけに応えるように具体的に述べられている。京都大学の青年時代に武谷氏を社会的に開眼させることに大きく影響した雑誌『世界文化』、新聞『土曜日』の発刊と運動、物理学理論と資本論から学んだ武谷三段階論の形成、戦後大きな物議をかもした原爆投下容認的発言の論拠、特権と人権の論理の構想とひとりひとりの原理原則の重要性などである。

そのほか、これもよく知られたことであるが、武谷氏の科学技術者運動における膨大な著作群の中で、たとえば『安全性の考え方』(武谷編著、岩波新書、1967年)は、水俣裁判支援グループ「水俣病研究会」の指針に大きく影響しことが、藤田氏によって、具体的・実証的に紹介されている(原田正純『水俣病』、岩波新書、1972年)など、武谷氏の原理原則が戦後の科学技術者運動に与えた影響は武谷氏本人も気がつかないほど計り知れないのである。

他方の小田氏であるが、私の世代には彼の存在は空気と水のように身体のなかにしみわたっている。鶴見俊輔氏が小田氏へかけた1本の電話で始めることになったベトナム反戦運動、いわゆるベ平連運動(1965年?1974年)において、小田氏は国際的な政治的・文化的運動を展開し、当時の若者に絶大な影響を与えた。私も例にももれず、その一貫としての在日米軍基地「相模補給敞」(神奈川県相模原市)から搬出される戦車阻止闘争にひとりの市民としてかかわった。さらに、1973年7月から8月にかけての1ヶ月間ほど、当時のサイゴン市(現ホーチミン市)を訪ね歩いた。相当の時間を経て、ゆっくりした時間をもちながら小説を書こうと大阪へ移った作家・小田氏を急襲したのが、阪神・淡路大震災である。自らも被災者のひとりとなった小田氏はいてもたってもいれず、公的援助を求める「市民=議員立法」のひとつの「被災者生活再建支援法」の成立のために、ふたたび悪戦苦闘の日々を余儀なくされる。その被災者の苦闘の体験から小田氏は、阪神・淡路大震災の生々しい現場を語りつつ、ヴェトナム反戦運動のときとはことなる、「都市プロレタリアート」の存在の重要性、日本社会の完全な非暴力のシステム、市民社会の原理原則としてのデモ行進、民主主義に国家にあわない天皇制、被害者と加害者が同居する精神構造等々、を語る。

このように、武谷氏の「特権と人権」を基軸としたひとりひとりの原理原則と、小田氏の「都市プロレタリアートの直接的なデモ行進」を機軸とした市民社会の原理原則が、司会者・藤田氏の用意周到に準備された構想の中で、実質的に「三者の真摯な座談」となり、きわめて現代的場面にそくして縦横に絡みながら進んでいく。この世代間を越える「三者の原理原則にもとづく真摯な座談」は、民主主義の永続革命者のひとつの営みである。 私は昨年(1998年)5月以来、「湘南科学史懇話会」なる市民運動と学問を融合するような市民的文化運動を主宰しているが、その目論見は、懇話会の内実自体を充実することはもちろんだが、それにまして重要でこころすべきことは、本書の刊行に中心的役割を果たした藤田氏が進める市民運動などと、「ゆるやかな共存関係」をはかることだと考えている。アカデミズムの世界で時間を持て余し余技にとして本づくりをしている人間などとは対極にあるフルタイム教育労働者藤田氏が、この本を編むのにどれほど大変な仕事であったかを、私は身を持って知っているからである。

★2.1999年7月31日、湘南の海と藤田邦彦氏
私の上記の書評文が刊行される直前、突然、武谷氏から私に電話があった。よく読み込んでくれたと言われた。私はその電話で、即座に名古屋在住の藤田氏と交流したいと武谷氏に申し出た。こうして武谷氏との電話の直後、藤田氏と電話会談となった。そして7月31日の午後2時に、湘南の江ノ島で会う約束をした。こうして、私と藤田氏は、江ノ島駅で会うやいなやすぐさま議論し始めていた。すばらしい快晴であった。湘南の海を眺めながら、我が家で、鎌倉で、逗子の海で、一睡もせず、ほぼ20時間ぶっ通しで議論した。私にとって衝撃的な出会いであった。
その藤田邦彦氏のプロフィールを藤田氏からいただいた資料で簡単に紹介しておこう。1952年、名古屋に生まれる。愛知教育大学教育学部保険体育学科卒。自分の可能性にかけ続け、「出会いを求めて旅に出る」が学問スタイル。元来が天文学志望。天体観測・登山・スポーツ・読書を愛し、育つ。1976年名古屋市立小学校教員となる。教育現場で主任制反対闘争、「日の丸・君が代」追放運動を、新任教員として開始する。転任、研修、公開授業等、教員の職能を確立するための裁判、人事委員会闘争等を10件以上、担う。勤務校に大石武一氏(初代環境庁長官)、ブォー・バン・スン氏(駐日ベトナム大使)、田中宏氏(在日外国人の人権確立を進める運動家、一橋大学教授)、林光氏(作曲家)、吉岡忍氏(ノンフィクション作家)、小田実氏(作家)、鎌田慧氏(ルポライター)、辛淑玉氏(人材育成コンサルタント)等を呼び込み、全校あげての公開授業をやり続ける。また、在日する朝鮮人に子供たちの人権確立のために10年以上も名古屋市教育委員会と交渉し、厳しい追及を持続し、市教育委員会の方針を人権の側に向けて変えさせた。
1977年11月、転勤2年目の学校で、PTA会計報告の不正に気づき、保護者と共に、経理公開裁判を提訴し、今年1月、裁判史上最初の全面勝訴を勝ち取る。この過程で、経理公開を恐れた学区ボス等による「藤田邦彦追放」署名運動が画策され、今まで、行政交渉で痛い目にあってきた市教育委員会との策謀により、判決5日前に不当解雇となる。現在、市人事委員会での闘いをエネルギッシュに開始している。
名古屋市立千成小学校、大高北小学校、名北小学校などで、23年間働き、闘い続けてきている。現在は、解雇処分撤回の裁判闘争中である。彼は多くの著作を刊行している。主な著作をあげておこう。

著書(共著を含む)・『愛知の主任制』No-1(愛主闘1977)・『愛知の主任制』No-2(愛主闘1979)・『日本はこれでいいのか市民連合』(講談社1982)・『日本の教育1982』(現代書館1982)・『窓のない教室から』(風媒社1984)・『ひとりでもたたかえる日の丸・君が代』(ユニテ1984)・『xデーがやってくる』(柘植書房1984)・『教育改革、私ならこうする』(麦秋社1985)・『トーキング・ハイ』(毛沢東思想学院1986)・『とびだせ教室』(梨の木舎1988)・『ひとりでもたたかえるXデー』(ユニテ1988)・『自民党、社会党につける薬』(ほんの木1991)・『歩かない足には泥はつかない』(ほんの木1993)・『子どもの本から戦争とアジアが見える』(梨の木舎1994)・『やさしいボランティア』(ほんの木1994)・『私たちの戦争責任』(ジャスティス1996)・『都市と科学の論理』(こぶし書房1999)

★3.藤田邦彦氏の職能形成と武谷三男氏
藤田氏の職能とはなにか。藤田氏は小学校の教師のプロである。藤田氏の職能とは小学校教師の「専門職」に徹することでである。その職能の観点は武谷氏の基本的哲学「特権と人権」に基づいている。世の中には千差万別の職業があるが、その職業のひとつひとつが職能である。その職能は人権と密接に結びついている。人権とは特権の対概念である。人権と職能が連帯するのだ。武谷氏の技術論は物理学者や科学者に語られるのは日常のことであるが、その技術論を小学校教師の藤田氏は、日々の教育実践に具体的に適用してすばらしい業績を展開している。まことに驚くべきことばかりである。その武谷氏を簡単に紹介しておこう。武谷氏は藤田氏の人生の師匠となった。その武谷氏の簡単なプロフィールを紹介しておこう。

1911年生まれ。福岡県出身。京都大学理学部物理学卒業。53-69年立教大学理学部教授。湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一らと並ぶ、世界的な理論論物理学者(素粒子論)。専門的研究のみならず、現代の科学技術問題にかんする積極的な発言をしてきたことで知られ、日本における科学技術者運動の草分け的存在である。現在、東京清瀬市に在住。
武谷氏は17年間はアカデミズムの物理学者であったものの、湯川秀樹氏、朝永振一郎氏、坂田昌一氏とはことなり、若い時代は無給の立場で科学技術論の執筆で生計を立てながらの研究者であった。理論物理学者(素粒子論)の立場から「原子力三原則」(平和、公開、民主)を提唱するなど(1952年)、日本の原子力行政に多大な足跡を残した。また、ニュートン力学の考察から提唱した武谷哲学の三段階論(現象論、実体論、本質論)(1942年)はあまりにも有名である。そして戦前戦後から今日まで、現代科学技術批判の活動する先導的な科学者として現代の科学技術社会に知れない影響を与えてきた。こういう私自身も多大な影響を受けたひとりである。武谷氏の著作はきわめて実践的である。膨大な著作を刊行されている。主要な著作をあげておこう。

・『武谷三男著作集』全6巻(勁草書房、1968、1968、1968、1969、1970、1969)・『武谷三男現代論集』全7巻(勁草書房、1974、1976、1977、1976、1975、1977)・『自然科学概論』全3巻、(勁草書房、1957、1960、1963)・『科学入門-科学的なものの考え方』(1964、新版1970、増補版1996)・『安全性の考え方』(編著、岩波新書1967)・『原水爆実験』(編著、岩波新書1957)・『都市の論理』(羽仁五郎著、勁草書房1968)本書は武谷氏が組織統括・『素粒子の探求』(湯川秀樹・坂田昌一と共著、勁草書房1965)・『安全性の考え方』(編著、岩波新書1967)・『現代技術の構造』(星野芳郎氏と共著、技術と人間1975)・『原子力発電』(編著、岩波新書1976)・『特権と人権-不確実性を超える論理』(勁草書房1979)・『科学者の社会的責任-核兵器に関して』(勁草書房1982)・『現代技術と政治』(星野芳郎と共著、技術と人間1984)・『思想を織る』(朝日選書1985)・『現代の理論的諸問題』(岩波書店1967)・『フェイルセイフ神話の崩壊』(技術と人間1989)・『現代学問論』(湯川秀樹・坂田昌一と共著、勁草書房1970)・『量子力学の形成と論理』全3巻(勁草書房、1972、1992、1993)・『罪つくりな科学』(青春出版社1998)・『環境と社会体制』(技術と人間1998)・『都市と科学の論理』(藤田邦彦編、小田実と共著、こぶし書房1999)その他、多数。

★おわりに
1999年夏の私と藤田氏の出会いは市民的運動の渦中のひとつである。一つの著作を真剣に作ったものと真剣な読者が連帯したのである。実にさわやかな出会いと議論であった。ものすごく勉強になった。このふたりを結びつけたのは、言うまでもなく、武谷三男氏である。私は20歳代から武谷氏の著作の真剣な読者であった。少なくとも科学と社会にかんする種々の問題のありように関心をもつ者は、みなそうであろう。武谷氏は物理学者のなかでは群を抜いた活動家である。また、物事の判断を毒舌的にすばりと語ることでも知られる。その明晰さに魅了されるのだ。しかし、私のような俗人はそれだけである。藤田氏は違っていた。藤田氏は武谷氏の技術論の哲学を、自らの職能である小学校教育に実践的かつ具体的に適用してきたのだ。これはそう簡単なことではない。日の丸・君が代問題をひとつとってもそうである。その教育実践の先見性は藤田氏の著作を一読されれば一目瞭然である。
また藤田氏の教育実践は市民運動と不可分である。人権と職能が不可分であると言ってもよい。たとえば藤田氏の『歩かない足には泥はつかない』を読めばそれがわかる。ここでは藤田氏の第二の故郷となった与那国島の人々との交流を具体的に教育に生かしている様子は感動的である。湘南と名古屋。新たな交流をしたいと考えている。環境のことなる場における人と自然が緩やかに共鳴することとはどんなことか。それは多種多様な生活現場における人権と職能に基づくたゆまない批判精神の持続性を共有することだろう。

 

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