匿名
Ⅰ. 前置
この文章を書く前に、あらかじめ前提としたいのは、私はなにも「勉強は学校で”しか”できない」と考えているわけではない、ということ。その上でなお、学校という手段を利用した方が比較的便利な類の勉強があり、そういう勉強をするにあたり、今ある「大学」という施設を、どれだけ有効活用できるだろうか、というアイディアを「一納税者の立場から」「一消費者の立場から」考えてみたい。
Ⅱ.4年(+1年)
一浪後、1986年に四大の文学部に入学し、4年後に卒業。教科書代以外の学費は(予備校代も含め)親が負担。バブル期だったこともあり、所謂「楽しい学生生活」を送った。授業の一部にも興味深いものはあったが、大学生活の中で、私にとって最もありがたかったのは、議論や会話等を存分に楽しめる仲間と時間と空間が与えられたことだった。卒業後、「学問の道」に進むという考えも才覚も全くなく、「抽象論には、もう飽き飽き」と、好んでより”泥臭い”世界を希望。大学の専攻とは全く無関係の広告営業という職種でずっと会社員として働く。
2年位前から(仕事や趣味の活動を行う中で)「果たして日本には個人というものは存在しているのだろうか」という疑問が、非常に切実なものとして浮かんできた。そういう疑問に対して所謂”実生活”だけではなかなか答えにいきつかず、一人煮詰まっていたところ、たまたま、大学在学中に授業を受けたことのある、文化人類学者の公開の講演会を聴く機会を得た。その内容が(学生時代以上に)今の自分に必要だと感じ、その教授に「どこへ行けばあなたの講義が受けられるのか」尋ねたら、「今、○大(私の母校)でしか教えてないんで、一般の人が参加できるようなのは無いんだけど、なんだったら普段の授業にもぐっても大丈夫ですよ」と言われた。スケジュール等は自分で調べ、1999年4月からの1年分、(既に同級生は助教授になっている10年振りの母校で)週1回土曜日にその教授の授業を聴講した。「変な奴」と周囲から警戒されるかと当初懸念したのだが、思いのほかすんなり溶けこむことができ友人もできた。講義内容は(実社会と置き換えて考えることができる分)学生時代に受けたときよりピンとくることが俄然多く、現役時代は授業といえば寝てばかりいたのにこのときは遅刻もせず手を挙げて質問までしていた。
“完全なる部外者”として大学に通ったこの奇妙な1年間を通して、”正規の学生”だった頃には全くみえてこなかった大学問題が色々垣間見え、個人的に日本の大学の行く末について興味をもっている。
Ⅲ.学ぶとは
勉強とは対象を抽象化し、自分と世界との関係を客観視するパワーだと私は思っている。主観の海に溺れていたのでは、水の辛さはわかっても、自分がどこの何という海に溺れているのか、わからない。それを見せてくれるのが他者というもので、「勉強する」とは、他者という存在に敬意を払い、その知恵を生かすことで、自分も生きていこうとすることだと思う。だから、この”勉強”という需要は所謂”就学期間”だけに生じるものではなく、主体的に生きている間中、ずっとなんらかのかたちで現れるものだと思っている。
人と関わっていく中で、組織と関わっていく中で、自然と関わっていく中で、「これはどうしてこうなっているのだろう」と疑問、矛盾、怒り、感動を感じることはいくらでもあると思う。そういう「どうして」が学問のはじめの一歩だと思うし、そういった「どうして」に対し、何らかのヒントを与えるためのシステムのひとつとして、学校というものは存在して欲しいと私は思う。
Ⅳ.そういう眼で眺めてみると…
卒業してすぐ勤めた会社では、定時に終わるなど年1回ストのときくらいなもので、私は電車の中で、文庫本どころか手にした新聞さえ読む気力もなく、朝から立ったままつり革にぶら下がって眠っていた。同期の中には、出張帰りの新幹線の中で気を失い、気がついたら横浜駅の駅長室だったという者までいた。
そういう人達の税金を利用している日本の大学では、このサービスの受け手の9割以上が、高校を卒業したばかりの18~19歳の人間で占められている。その多くが遅刻をし居眠りをし、授業はといえば、定刻通りに始まった試しがなく、サラリーマンなら減給処分にされるはずの「無断休講」はどういうわけか「歓迎」されている(勿論、全部が全部ではないが…)。どう考えても人対人の関係性の在り方として、「新幹線の中で失神中のAさんの財布から金をとって、BGMつきの居眠りスペースをBさんのために建てよう!」というのでは、あまりにバランスが悪い。
誤解されては困るのだが、私は、今大学に通っている学生の方々に「俺達労働者は、こんなに苦労してるんだからおまえらも死ぬ気でやれ」と浪花節的に迫る気はさらさらない。私自身「○○さ~ん、顔にノートの跡ついてるよ~」と言われたクチである。そういう学生だったからこそ安易に説教に流れるのではなく、このアンバランスを是正するためにどのようなシステム変更が可能か、なるべく”合理的に”考えてみたい。
Ⅴ.脱・供給先行型勉強
「あなたが大人になって後悔しないように、私はあなたのためを思って、今勉強しておけと言っているのだ」という言葉はよく耳にする。でもちょっと待って。確かに、後から「やっときゃよかった」と思わないですむように、今から勉強を強要する、というのも一つの方法かもしれない。でも、もし「あなた」が「やっときゃよかった」と思う日がきたら、その日から「じゃ、始めるか」と言えるような社会環境をつくることが、本当は「あなた」のために、そして「私」のためになることではないだろうか。需要が生じる前に、他人の手でお膳立てが整えられてしまうのはまだお腹が空いていないのに、頼んでもいないフルコースが次から次ぎへと運ばれてきてしまうようなものだ。「私だって、やらなくて後悔したんだから」と他人の後悔を心配してまわるより、そのエネルギーを、本人が後悔する間もなく「今日からはじめる」に回した方がずっと良い。今は需要のあるところに供給がいかず(サラリーマンだから?主婦だから?年だから?時間が無いから?お金が無いから?子供がいるから?)需要のないところに過剰に供給がいってしまっている(「今、やっとかないと、あと知らないからね~」)。
あまりに一箇所に集中してしまっている学校というサービスの供給先を、もう少し必要なところに散らそう。
Ⅵ.たった一本の横断歩道
社会人になってから大学に入った人の「仕事を辞めた一大決心」が最近よくマスコミを賑わせている。すごいなあと思いそうになって、ふと気づく。待てよ。そもそもなんで、大学の授業を受けるくらいで、「一大決心」を要求されねばならないのだろう?税金を払うのも、授業料を払うのもこっちなのに、なんで”大学のシステム”に”人生”の方を合わせなければならないのだろう?
私は仕事ばかりの人生も嫌だけれど、例えば小・中学生の頃のように、経済活動から全く除外され、”社会のお客サン”として生きていくのもまっぴらごめんだ。
働きながら大学の授業を受けてみて初めてわかったことが、いくつかある。一つは、抽象論というのは(少なくとも私にとっては)具体があって、初めて生きてくる、ということ。もう一つは、(よく「学生は楽で羨ましい」というがとんでもない)もし本気で受講したら、1日何コマもの授業を受けつづけるのは相当しんどいということ。
例えば文学部の授業は(理想論はともかく現実には)「抽象論を一方的に聴く」というスタイルが殆どで、あれだけを日に何コマも受けていたら、眠くなるのも、おしゃべりしたくなるのも、準備がおろそかになるのも無理はないと思う。単調な高速道路で居眠り運転が起こりやすいのと同じ理屈だ。
勉強にせよ仕事にせよ、一つのことを何時間もぶっ続けで通すのが良い、とする考え方がこの国は根強いが、必ずしもそうではないことをそろそろ冷静に考えるべきだ(勿論、好きでそうする人や、まとまった時間を確保しないとできない作業は別)。
苦労してアルバイトをしながら通う学生の方が、勉強する時間は少ないはずなのに、どういうわけか優秀、という話が昔からある。あれは単なる美談にとどまらせておくべきではない。現実に人間の脳は、単調な刺激が続くと活動が低下するのだ。勉強も、他のこととのバランスの中で行うというやり方を、方向性の一つとして受け入れた方が良いと思う。
現状の供給先行型勉強では、道路の右側は学生・研究者の人生、道路の左側は一般労働者の人生とされている。道路の右側にいるうちに、人生の中で必要になる可能性のあるものを全て買っておかなければならない。右側と左側をつなぐ横断歩道はたった一本で、一度道路の左側に渡ってしまったら、二度と右側には戻れないからだ。
だが、例えばそれが勉強以外の買い物だったら、道路の左側に欲しいものを売っている店があるのに「自分はもう横断歩道を渡ってしまった人間なのだから、しょうがない。ずっと我慢して右側を歩きつづけよう。あのとき買っておかなかった自分が悪いのだ」と諦める人がいるだろうか。寧ろ「ここに横断歩道を造ってくれないと不便でしょうがない」と文句を言うのが普通だろう。
一方「最近の学生はアルバイトや遊びばかりしてちっとも勉強しない」という批判は多い。
アルバイトに関していえば、私は、誰かが自主的に働くのは大歓迎である。どんどん社会貢献して、扶養控除枠内なんてケチなことはいわず、税金を負担して欲しい。そうすれば、みんながその分楽になる。
「アメリカの大学生はあんなに勉強するのに」という非難もよく聞く。私はアメリカの大学生と日本の大学生を単純比較するのはかなり危険だと懸念している。日本の大学生の一部が大学に入った途端、馬鹿みたいに遊ぶのは、それ以前にあった詰め込み教育という名の高速道路と、そのあとに予想される過剰労働という名の高速道路との間で大学生活が人生唯一のパーキングエリアとして事実上機能している部分があるからだと思う。「今やっとかないと…」という愛情という名の元に行われる”脅迫”や、”新幹線内の失神”を改善することなしに、日本の大学生に向かって、ある種の強制力をもって「大学時代も、わき目もふらずに勉強しろ」とやってしまったら(好きでやる人は全く別)理屈上は正しいが、現実には、人生の早い段階で燃え尽きてしまう人を量産する結果になるだろう。
大学問題の本質は、彼らが「アルバイトと遊びに”現を抜かしている”」ということでは決してないと私は思う。
問題は、彼らが興味を感じない授業の分までが大量に「卒業資格」とセットになって販売され、そのため、彼らがいつまでたっても現れない教室で、冷暖房つきのその席がわざわざ確保されていること。その無駄遣いの負担が、当人にではなく、親や納税者の側に回ってきているということ。「あなた、働く人」「私、勉強する人」という住み分けが歴然としてしまっており、納税者の側に純粋な需要があっても、大学の敷居が様々な面で非常に高いこと。逆に”需要なき需要”の占める割合が大きいことで、授業全体の温度が下がり、ひいては大学というサービス全体の質の低下につながっていること。
誰かのライフスタイルが問題なのではない(誰かのライフスタイルを批判する権利なんて、そもそも私にはない)。システムが問題なのだ。
Ⅶ.ロシアの魚
ソ連崩壊直後、こんな新聞記事が載っていた。
一人の漁師が、「もうソ連ではないのだから、自力で稼がねば」と市場に出掛けた。立派な魚を丸ごと一尾で○ルーブル。声を限りに売って歩くが、皆がお金に困っているときので、そんな余裕はとてもない。日は暮れかかっている。漁師は嘆く。日本人記者は結ぶ。「買う側のことを考えて切り身にする、という発想がない!これが今のロシアの切実な問題だ。」
私に言わせれば、「遠いロシアの問題?とんでもない!これは今の日本の切実な問題だ!」
もしも私が大学の”販売担当者”だったら、今までの”4年間分セット売り+卒業資格のオマケつき”というフルセット販売と平行して、授業の1コマ単位のバラ売りをする(放送大学では既にこのシステムをとっている)。卒業までに要する年数に制限を設けない。
自分の人生の中で、労働や遊びや勉強にどのようなウェートをおくかなんて、結局は当人にしか決められないことだ。出たくない授業は最初から買わなければ良い。「大学にいくのは週1回くらいで、あとはバイトとかな~」という人は週1回分だけ授業を買う。みんが4年間で卒業する必要なんてない。そもそも、みんなが卒業する必要さえない。みんながみんな”勉強を本分”にしなければならないなんて法はないと思う。
例えば私にとっては、働きながら1週間に1コマの授業というペースは、思いの他快適だった。週1コマだと残り6日間、本屋で立ち読みをしているとき、友達と話しているとき、テレビを見ているとき「そういえば、これは先週の授業で聞いたことと関連があるな」という具合に、授業以外のことに対して自然とアンテナを張り、そこからじっくり興味を広げ、それをまた翌週の授業につなげることができる。これが例えば、日に5コマ受けていたら「質問はないですか」と問われても、質問を考えつく”余裕”がそもそも無かっただろう。
授業はサボっても友達の溜まり場には顔を出す、という人がいる。「勉強は嫌いだったから、大学にはいかなかったけれど、話を聞いてると楽しそうで、いけば良かったと思ってしまう」という人も多い。そういう人は、大学のもつ”雰囲気”を評価しているのだと思う。あまり表立って評価されないが、これは、案外馬鹿にならない日本社会における大学の魅力のひとつだ。私はこの”サロン的需要”と”授業需要”も切り離した方が良いと思う。友達に会いに大学にくる人が、こそこそ授業中におしゃべりするよりサロン需要のみを感じる人に対しては、部室やラウンジの利用権だけを授業と切り離して、別売した方が健全だ。そもそも「そういう楽しみを享受できるのは、学力試験に受かった人だけ」という変な貴族意識が、不要な大学コンプレックスを生んでいるように思う。
「大学図書館が閉鎖的で、一般向け開放が一向に進まない」というのであれば、妥協案として、開放に伴う経費を利用者で頭割りするかたちで、図書館利用権だけを別売する方が、今よりは少しはましだと思う。
今は(基本的には)”数年間というまとまった時間”及び”入学金+授業料数年分+施設料というまとまった金”が用意できた人間にしか、大学というサービスが適用されない。
社会人講座、公開講座なるものを多くの大学がはじめているが、これが”大学の公開”とはならず、通常の大学から隔離し「公開という名の特別枠」となってしまっているのは皮肉な現象だ。
この1年、各大学主催の公開討論会に三つほど参加した限られた経験で言わせてもらえば、残念ながらそのいずれもが、「専門用語」という村言葉を脱しておらず、それどころか「それが話せる人は頭の良い人」「それ以外の一般言葉で話す人は頭の悪い人だから、適当にあしらって本気で相手にしない」という態度が見え見えで、非常に不愉快だった。
そもそも本気で「社会に対して開く」ということを考えたら「どなたでもお気軽に…」などということは、逆に気軽には言えなくなるはずだ。社会には様々な人々がいる。それらの存在を無視して、安易に「どなたでもお気軽に」と言い、実際には「誰かにとって参加できない、理解できない」という状況を生じるのは大変失礼にあたるからだ。公開ということを本気で考えれば考えるほど重要になってくるのは”公開といううたい文句”ではなく「そこでどのような講義内容とスタイルと場を想定し、そのために相手に対してどのような準備や心構えを要求しているのか」を前もって正確に伝えようとする”情報公開”の努力だ。
今まではフルタイムの学生に対してさえ、大学は(これだけの高額商品を扱いながら)”コンセンサスをとる”という努力を殆どしてこなかった。(昨年、大学の事務所でたまたま耳にした会話:「僕、来年この学校受けようと考えてて、授業内容を知りたいので講義要綱を見せて欲しいんですけど…」「え~?講義要綱ですかあ。あなた、まだ、ウチの学生じゃないんですよねえ?そういうこと言ってくる人、いないんですけどー。前例がないんで、困っちゃうんですよね~」)
広報活動はイメージ先行で具体的情報は何もなく、コンセプトはといえば最後は100年も前の「創立の精神」なんてところまで遡らないと何も出てこない。講義要綱はいまだに、独り言&村言葉の羅列、要求している論文のスタイルと評価規準は教授毎に微妙に異なるのに、それは明言されることなく、仕方なく学生が「このへんのとこかな」と”ツボ”を予想することで、提出物の内容がなんとなく決まっている(その”気遣い”たるや「給料の無い営業マン並だね」と私が言ったら、大学院に通う友人の殆どが苦笑していた)。どのような授業を行い、どのような大学をつくっていくか、を学生と授業担当者と当局の三者が意志疎通を図る場は全くなく、「授業とは、そもそもこういうものなんです」と事後承諾的にことが流れていく。方向性を示すことなく、「入学金さえ払ってくれれば」と”レジャーランド需要”にも”就職予備校需要”にも”象牙の塔需要”にも”いい顔”をし続け、イメージという大風呂敷を広げて、何でもかんでも押し込んでしまった結果、今や大学は”誰にとってもわけのわからない不気味な闇鍋”と化してしまった。そして、そのコンセプトの矛盾は、結局は教室や研究室という現場で”教える側と教わる側との思惑の違いに因るトラブル”というかたちでもって押しつけられ続けている。
皮肉なことに、今まで機能していた唯一のコンセンサスが入試だったのだ。それが受験者数が減った今、機能しなくなってきている。「講義を受ける上で必要な基礎学力のない学生がいる」とあたかも自分達が自然災害の被害者のような口ぶりで嘆くが、私は当然の成り行き、身から出た錆だと思う。
今必要なのは、厳密にいえば、入学試験ではない。「この講義を受けるにあたって必要な基礎知識は何か」を明言すること、場合によっては各講義毎の”受講資格”を得る為のレベル設定や試験。逆にそれが無い人に対しては、どこにいけばその知識が得られるのか、その前段階にあたる講義をどこで受けられるのかを示すインフォメーションだ。そして、それによって確保できる人数を想定し、やみくもに象牙の塔になるのでも、やみくもに対象を広げるのでもなく、現実に根ざしたところで、どのような規模で各大学を運営していくかを設計していくことだと思う。
日本では勉強には湯水のようにお金を使って良いと考える傾向がある。幸せな考え方なのかもしれない。だが、金は天から降ってくるわけではない。新しい施設は確かに綺麗だが「新しい施設をつくる」ということは、「それを誰かが確実に労働で支えなければならない」ということだ。教育を高コストにすればするほど”サービスを享受できる人”と”それを労働で支える人”との差が広がってしまう。
文系は特にコストを削減しやすい科目が多い。例えば、”社会人向け講座”なんて、なんでわざわざ新しく建物を建てるのだろう。その分の税金を負担しているのが、当の”社会人”なのに。昼の学部の授業が終わった教室や、高校や中学の空き教室、企業の会議室で出張授業を行ったってできるはずだ。そもそも”建物=学校”ではない。今大学にある施設だって、100%有効活用できているとは思えない。新しいAV施設をつくっても、教授が使い方をさっぱり理解しておらず、30分位かけて機械をいじくりまわした挙句「やっぱりわからないから、いつも通り黒板を使って授業を…」などということは、よくあることだ。これらも”供給先行型”の弊害だと思う。
任期中の学長の勲章みたいな感覚で、何かを造ることをやめてほしい。各大学共通で使う、公共施設や企業の施設を利用する、逆に大学の施設を公共施設として開放する、という方向をきちんと検討した上で、それでも尚、必要なものだけを造るべきだ。今まで勉強に関しては、あまり言われてこなかった経費削減が、長い目でみれば、寧ろ人々の就学のチャンスを広げることにつながると思う。
新聞奨学生が美談としてよくメディアに掲載されている。「偉い、偉い」とばかりは言っていられないのではないだろうか。それがマスメディアに取り上げられるのは、そうやって就学を続けていくことが「やろうと思えば、気軽にできる一つの手段」として紹介されているのではない。「かなり大変で、最後まで続ける人がある程度珍しい」からだ。あの記事の後ろには、続けられなかった人達が大勢いると思う(私の同級生も体を壊し、結局はドロップアウトしていった)。
セット売りにこだわりつづければ、大学にこれるのは(かつての私のような)親がかりが大半になる。どんな業界もそうだが、サービスや商品の受け手と、金の払い手が一致しない業界は不健全化しやすい。(ギフト業界然り、医薬品業界然り、介護業界然り、葬儀業界然り…)
私は授業料の一律完全無料化には反対だ。勿論「授業は受けたいが、経済力がない」という場合に、就学のチャンスをつくることは、一社会人として当然の義務だと思っている。だが、公的負担の割合を”一律に”極端に上げれば健保が引き起こした問題の二の舞になる。自力で負担できる人に対しては、お金と言うコードは大いに利用すべきだと思う。
バラ売りなら、自費負担はより容易になる。今すぐ必要な科目以外は、経済力に合わせ、人生の中で長期的に受講すれば良い。
自腹を切って大学に通う人が増えれば、当然「授業料がもったいない」という意識が生じる。
現に、早稲田大の第二文学部(夜間)で「どの授業が休講が”少なくて”サービスとして良心的か」等を記した働く学生によるミニコミが発行されており、売りきれるほどの人気を博している。(私の知る限りでも)「今日○○先生は教室に現れなかったんですけど、一体どういうことですか!?」と事務所に食ってかかるのは、やはり夜間学部の学生である。
税負担を上げて今よりさらに”文部省の顔色伺い”傾向を強めるより、経済原理をある程度利用する方が、この業界を健全化する自然な方法だと思う。
Ⅷ.「とりあえずビール」?「とりあえず大学」?
日本では「どこかに所属していない人間、出身が特定できない人間は、胡散臭い、いいかげんだ、信用できない」と考える傾向が強い。
極端な例をあげれば「あら、やだ。鈴木さんちの息子さんたら、今日も平日にフラフラしてて、一体何やってんのかしら…」というとき、鈴木さんが週3日労働のフリーターの場合と、とりあえず大学に籍だけはある場合では、どういうわけか前者の方が風当たりが強い(税金の無駄使いをしている、という点において、迷惑なのは後者なのに)。
「組織とどのような距離をとるかは、当人の考え方を尊重する」という敬意を皆が相手に対して、ある程度もとうとしない限り、数百万円する身分証明書の発行機関としての大学の役割は残り”主のこない座席を税金で暖める”という矛盾はいつまでたってもなくならないだろう。
日本人が皆「とりあえずビール」言いつづけていたうちは、”スーパードライ”も”一番絞り”も生まれてこなかった。良い大学をつくるためには、逆説的な言い方だが、各人が大学以外の選択肢をきちんと冷静に考えること、認め合うことが必要だと思う。
また、雇用主が労働者に対し「入ったからには組織の人間。どんな風に使おうとこっちの勝手」という考え方を押しつけるのをやめさせ、個別の労働契約を浸透させて、例えば「私は(水)の13:00~15:00は授業だから、その間は契約しない」というような条件提示が労働者の側から可能となるよう、働きかける必要がある。
Ⅸ.開放とセキュリティ
大学開放を行おうとするとき、最後の砦として残るのはこれからの日本では、恐らくセキュリティの問題なのではないか、と私は予想している。
「10年前の卒業生が授業に潜っても、別に誰も気にしない」という比較的おおらかな側面をもつ私の母校では、一方で、カルト集団による、キャンパス内での強引かつ非合法的な勧誘活動が跡を絶たず、世間でオウム事件等が取り沙汰される何年も前から、既に様々な被害を生じていた。大学当局が、比較的何に対しても閉鎖的なのは、「わけのわからない集団に乗り込まれたら困る」という懸念も手伝っているように感じる(尤も、この懸念が必ずしも有効には機能していないようにも思うのだが…)。「日本で初の開かれた大学」をうたったのが放送大学であったことは、この点においても、まさにその”放送”によるところが大きかったように思う。
この点については、私には未だ解決策が浮かばない。良いご意見があれば教えて欲しい。
Ⅹ.とりあえず実現可能な提案として…
大学問題は社会との絡みもあって、一般的に議論が「真面目に考えれば考えるほど、どこから手をつければ良いかわからなくなる」というところに陥りがちのようだ。そういう場合は「とりあえず、今やれることを今やる」という姿勢が必要だと思う。
週1日、土曜日だけでも”授業開放日”とし、一般向けには1コマ単位のバラ売りを行い、フルタイムの学生とパートタイムの学生が、同時にひとつの授業を受講できるようにしては、どうだろうか(勿論、その前提としては、前述の”授業を受けるにあたっての、コンセンサス”が必須となる)。
経済コードや社会常識を有している人間が、大学の中に多数入ってくることで、今の閉塞状況を打開するひとつの刺激になっていくのではないだろうか。
ⅹ.最後に:大学の横能力について
競争心は社会にとって大切なエネルギーのひとつだし、競争は純粋にゲームとしても楽しめるものだ、と私は思っている。
だが、この国における勉強熱(社会人のものも含め)には、あまりに「誰かに威張れるものを手に入れよう」「誰かをぎゃふんと言わせよう」「誰にも文句を言われない人生を送ろう」という思いばかりが強く感じられ、「自分と自分の周囲をとりまく人々を少しでも良い方向にもっていこう」という声を殆ど耳にしないということについて、私は少し背筋の寒い思いがしている。
私が勝手に”縦能力”、”横能力”と呼んでいるものがある。
徹夜して勉強して英検1級に受かって、外資系企業に就職できて、給料倍になりました、というのが縦能力。勉強した英語で、道に迷っている旅行者に”Can I help you?”と話し掛けることができるのが横能力。
集団から抜きん出るための能力があると同時に、誰かと手をつなぐための能力もあるはずだ。
今、日本において教育問題とされていることの大半は、縦方向を極端に重んじて横方向をないがしろにし続けた結果、縦→横へのエネルギーの流れがスムーズにいっていない、ということに因ると思う。
人類は好むと好まざるとに関わらず、関わり合いの中でしか生きられない。縦に積み上げられた能力は、横方向に還元されることで、はじめて良い循環を生み、何倍もの力になる。
大学が自らの上に縦方向に積み上げてきた力を、社会の一員として、今度はいかに横方向に転換していくか。
少子化時代の到来を、寧ろそのことについて真面目に考える良いきっかけとして生かしたいと、社会人の一人として思う。