低線量放射線被曝リスクをめぐる最近の動向──BEIR VII 報告を中心として

投稿者: | 2006年7月5日

柿原 泰
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● 放射線は低線量なら安全なのか?

 昨年(2005 年)6 月末に米国科学アカデミーが低線量放射線被曝による発がんなどのリスクについて、「放射線被曝には、これ以下なら安全」と言える量はないと発表し1、日本のいくつかの新聞紙上などでも報道された。それは、後述するように、BEIR 委員会の報告書(BEIR VII)2 がまとめられたことによる発表であり、国際がん研究機関のE・カーディス(BEIR 委員でもある)らによる15 カ国の原子力施設労働者を対象とした調査の研究結果も同時期にBMJ(イギリス医学雑誌)に発表されたこと3 とあわせて注目を浴びることになった。

 市民科学研究室・低線量被曝プロジェクトは、2004 年にECRR(欧州放射線リスク委員会)の報告書(2003 年勧告)を読み解くことから始めて、2005 年1 月には第167回土曜講座「低線量放射線被曝のリスクを見直す」を行った4。その後、上記のような報道に接して、BEIR VII 報告の要旨の部分を翻訳しながらその検討を進めてきた。

 低線量の放射線被曝のリスクをどう捉えるかが、なぜ注目すべき問題なのか? 放射線を被曝することによる人体への影響としては、19 世紀末から20 世紀初めにかけての放射線利用の初期における過剰照射の例や、言うまでもなく原爆の被爆や1999 年の東海村臨界事故のような原子力施設の重大事故を想起すれば、高線量被曝による急性障害の甚大さは推し量れるだろう。では、低線量被曝による晩発性の障害はどうなのか? とくに近年、低線量被曝のリスクが懸念される場面がきわめて多くある。いくつか例を挙げてみると、CT スキャンの使用の増加などの医療被曝、原子力発電所などの施設で作業に従事する労働者などの職業被曝、廃炉の時代を迎え一層深刻になっている放射性廃棄物の処分(昨年、いわゆるスソ切りが法的に認められた)、さらには今年20 年を迎えたチェルノブイリ原発事故による影響や最近運転(アクティブ試験)を開始した六ヶ所再処理工場から放出される放射能の影響など、多くの関連することがらが低線量放射線被曝と関連し、その健康影響はどうなのかが懸念されている。(もっとも、核/ 原子力の開発・利用の問題点は、放射線被曝による直接的な健康影響だけではないことは言うまでもないだろう。かりにがんなどの影響が出ないとしても、はっきりしにくい身体的・精神的影響も考慮する必要があるだろうし、生活環境や広く社会のあり方などにも関わることであるのだが、上記のような場面においては、低線量放射線被曝の影響がどうなのかが重要な争点となっているということである。)

 これまで低線量の放射線の影響については、大きく分けると、1 ある量以下なら安全である、つまり「しきい値」があるという説、2 低線量域においても高線量域の場合に比例して影響があるとするLNT(直線しきい値なし)説、3 低線量であれば、被曝すると生命活動が活性化されるというホルミシス効果があり、かえって健康によいという説、4 逆に、ECRR などのように、これまで低線量被曝の影響は過小評価されてきたとして、外部被曝だけでなく体内に取り込まれた放射性物質による内部被曝をも考慮に入れると、低線量においてはより影響が大きくなることがある、という見方があった。そうしたなか、新たに提出されたBEIR VII 報告では、低線量被曝をどう捉えているのだろうか。

● BEIR VII 報告の概要とその特徴

 冒頭で述べたように、BEIR VII 報告は、2005 年6 月にその報告書の全文(約750 ページ)がウェブサイト上で公表された。さらに今年(2006 年)になって、2 段組に編集されて全424 ページとなり出版された、とても大部な報告書である。

 報告書の構成は、冒頭に「一般向け概要」(Public Summary)と「行政向け概要」(Executive Summary)が置かれている(今回われわれは、2005 年版の2 つの「概要」を訳出した)。続いて、本論は全13 章からなり、補論、参考文献、用語解説、索引なども付されている。本論の章立
ては、以下のとおり。

1. 背景となる基本的情報
2. 電離放射線に対する分子・細胞応答
3. 放射線誘発がん──メカニズム、定量的な実験研究、遺伝的要因の役割
4. 人間集団に対する放射線の遺伝的影響
5. 疫学的方法の背景    6. 原爆被爆者の研究
7. 医療放射線被曝の研究  8. 職業放射線被曝の研究
9. 環境放射線被曝の研究  10. 生物学と疫学の統合
11. リスク評価のモデルと方法
12. がんリスクの推定
13. まとめと今後の研究の必要性

 BEIR VII では、低線量(100 ミリシーベルト以下)の低LET 放射線(X 線やガンマ線)の被曝による健康影響に着目し、がんや遺伝性の疾患、さらには心疾患のような他の影響までを対象としている。主なデータとして、長年続けられている広島・長崎の被爆者調査、すでに触れた15カ国の原子力施設の労働者調査、医療被曝や環境放射線被曝の調査などの疫学研究を包括的にレビューし、さらに適応応答、放射線感受性、バイスタンダー効果、ホルミシス効果、ゲノム不安定性などについての生物学的研究をふまえている。1990 年のBEIR V 以降の新しい疫学的知見と細胞レベルの生物学的研究とを総合して、低線量放射線のリスクをモデル化した。

 その結論として、放射線被曝のリスクは、低線量でもしきい値なしの線形を示し、どんなに小さい線量でもリスクを少しは増やす、とLNT リスクモデルを支持した。具体的には、例えば、100 ミリシーベルト(職業上の被曝の5年間での線量限度とされている値)の被曝でも約1 パーセントの人が放射線によるがん(固形がんや白血病)になる、つまり、他の原因でがんになる人(100 人中42 人と推定)に加えて、さらに100 人に1 人が放射線被曝が原因でがんになる、という。

 このBEIR VII 委員会のメンバーは、委員長はじめ疫学者を多く含んでいて、アメリカの研究者を中心としつつも、ヨーロッパ諸国の研究者も複数含まれている、という特徴がある。そのことが多くの疫学的知見の重視につながっているのではないかと思われる。

● BEIR 委員会とは?

 BEIR 委員会とは、「電離放射線の生物学的影響」に関する委員会のことで、米国科学アカデミー(NAS)/ 米国研究評議会(NRC)の下に置かれている放射線影響研究評議会(BRER)内の1 つの委員会である。もともとは、1954年のビキニ事件をきっかけに、アメリカ国内の放射線防護基準の策定に資するために設けられたBEAR(原子放射線の生物学的影響)委員会が前身で、1970 年に名称変更されBEIR 委員会となっている。BEIR 報告は、アメリカ国内にとどまらず、国際的な放射線防護基準の基礎とされるICRP(国際放射線防護委員会)の勧告やUNSCEAR(国連・原子放射線の影響に関する科学委員会)の報告にも大きな影響をこれまで与えてきた。近く提出されることになっているICRP の新勧告や、さらには日本国内の放射線防護指針に、どのように反映されるのか、注目される。

 また、BEIR 委員会というのは、そもそも原爆を開発・使用し、その後も核開発の先頭をきってきたアメリカという国が創ったものであるということをどう考えればよいのか、BEIR 報告の科学的内容だけでなく、その歴史的・社会的意味を含めて検討する必要があるだろう5。

● BEIR VII 報告はどう捉えられるか?

 これまで、ICRP1990 年勧告などは、はっきりと影響がわからない低線量域でも放射線防護の観点から、より安全を考慮してLNT 仮説を採用する、としていた。それに対して、BEIR VII 報告は、細胞レベルの実験や動物実験による生物学的基礎研究と人間集団の疫学データをあわせて考慮したうえで、LNT 仮説は低線量域でも科学的に正しいと結論づけた。その反響を把握するには、まだ時間が必要であろうが、ここではいくつか紹介しておこう。

 BEIR VII 報告の公表とほぼ同時期に、フランスの医学アカデミーと科学アカデミーが合同でまとめた報告書「低線量電離放射線による発がん効果の評価と線量効果関係」が発表された(ウェブサイト上では英語版が2005 年3 月、フランス語版は4 月、出版は7 月)6 が、そこでは、低線量域(100 ミリシーベルト以下)でLNT 仮説を適用することは過大評価になる、とその妥当性に疑問を呈し、しきい値の存在を示唆した。

 その他にも、科学者の立場から、丹羽太貫・京都大学放射線生物研究センター教授などは、現状ではLNT 仮説を明確に否定する材料も出ていないが、科学的に証明されたとも言えない段階にある、とする7。

 たしかに、これで決着がついたわけではない。BEIR VII報告でも、今後の研究の必要性として12 の項目を挙げている。科学的観点から、放射線による発がんのメカニズムが十分に解明されたわけではないし、データの制約など疫学的手法の限界も指摘されている。ただし、疫学については、メカニズムの解明こそが科学的であるとされ、これまでの公害事件などにおいて疫学の意義がよく理解されてこなかったがゆえに被害が拡大した歴史がある、という指摘に注意を払っておきたい8。また、前述したECRR の勧告も科学的には十分な手続きを経て結論づけられたものと認められているわけではないが、世界中に起こった被害という現実から考えようとし、BEIR VII 報告では考慮に入れられなかった内部被曝の問題を重視したその議論も参照されるべきだろう。

 低線量被曝プロジェクトでは、今後、広島・長崎で被爆者調査を続けている放影研(放射線影響研究所)の疫学調査について、その歴史も含めて検討していく予定である。また、先日、ICRP が新勧告の草稿の新しいヴァージョンを公表し、パブリック・コメントにかけているところで、そうした動向も引き続きフォローしていきたい。今回訳出したBEIR VII 報告の要旨を市民科学研究室のウェブサイト上(http://www.csij.org/)に掲載しているので、放射線被曝の問題についての今後の議論の参考にしていただければ幸いである。

1 :米国科学アカデミーのプレスリリースは、”Low Level of Ionizing Radiation
May Cause Harm,” June 29, 2005( http://www4.nationalacademies.org/news.
nsf/isbn/030909156X?OpenDocument).
2 :”Health Risks from Exposure to Low Levels of Ionizing Radiation: BEIR VII –
Phase 2″( http://books.nap.edu/catalog/11340.html)
3: E. Cardis, et.al., “Risk of cancer after low doses of ionizing radiation:
Retrospective cohort study in 15 countries,” British Medical Journal, Vol. 331
(2005), pp. 77-80.
4 :その記録は『どよう便り』第85 号(2005 年3 月)に掲載されているので、あわせて参照されたい。
5 :その際にまず参照すべきは、中川保雄『放射線被曝の歴史』(技術と人間、1991 年)であろう。
6: 英語版は、http://www.academie-sciences.fr/publications/rapports/pdf/dose_effet_07_04_05_gb.pdf。
7 :例えば、第9 回放射線安全規制検討会航空機乗務員等の宇宙線被ばくに関
する検討ワーキンググループ(2005 年9 月6 日)の配布資料第9-2 号(http://
www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/gijyutu/004/shiryo/006/05092801/002.
pdf)を参照。
8: 津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(岩波書店、2004 年)を参照。

(市民科学第13号 2006年7月)

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