放射線の非がんリスクに閾値がない? ―ICRPで大事件―

投稿者: | 2016年12月20日

放射線の非がんリスクに閾値がない?
―ICRPで大事件―

(上)

永井宏幸
(市民科学研究室・低線量被曝研究会、福岡市在住・フリーランスの研究者)

もくじ
1.確定的影響に関するICRPの従来の見解(2007年勧告まで)
2.近年の研究成果
3.ICRPの確定的影響に関する新見解(2012年声明)
4.市民はこれから何を学ぶか

放射線の人体への影響は,がんや遺伝的障害などの形で現れる確率的影響とそれ以外の形で現れる確定的影響に分類できるとされてきました。これはICRP(国際放射線防護委員会)が提唱し,各国政府が公認してきたことです。ところが2012年,ICRPは確定的影響に関する見解を根本的に変更する声明を発表したのです。確定的影響と確率的影響の従来の分類が妥当だったのかという問題さえ生じています。

本稿ではまず,ICRPが確定的影響についてどのような見解をもっていたかを整理したうえで,この見解が最近の研究によって揺らいできた流れを紹介していきます。それから,ICRPの2012年の声明でその見解がどのように変わったかを解説していきたいと思います。私は,今回のICRPの見解の変更を多くの研究者の努力がもたらしたものであるという点では評価していますが,これが職業被曝の線量限度の見直しに結びつかなかったことに残念な気持ちをもっています。

本稿は ’ICRP Statement on Tissue Reactions and Early and Late Effects of Radiation in Normal Tissues and Organs‐Threshold Doses for Tissue Reactions in a Radiation Protection Context’(2012年公表) をもとに書いています。日本語の訳は執筆時点で公開されていません。

1 確定的影響に関するICRPの従来の見解(2007年勧告まで)

放射線の人体への影響に関するICRPの見解は,教科書,参考書,専門書で「公認された事実」として引用され,公的機関,マスコミ,専門家などにより広く国民に浸透しています。ICRPの確定的影響に関する見解を整理しておきましょう。

放射線の人体への影響は,確定的影響と確率的影響に分けることができる。確率的影響はがんと遺伝的障害として,確定的影響はがん以外の疾病や傷害として現れる。確定的影響には次のような性質がある。

(1) 線量閾値があり,線量閾値以下で確定的影響は生じない。
(2) 線量-反応関係はS字曲線(シグモイド曲線)で表される。
(3) 閾値は全線量よりも線量率(一定時間内に被曝する線量)で決まる。
(4) 潜伏期間は確率的影響に比べて短い。
(5) これらの性質は細胞死モデルで説明ができる。

(1)~(3)は「公認の説明」で特に強調される性質です。たとえば,放射線医学総合研究所の一般向けホームページでは,確定的影響と確率的影響の違いを次のように説明していました(図1)。(研究所の改組にあわせて今は削除されているようですが。)

確定的影響には線量閾値があって,それ以下の線量で放射線の影響は現れないと説明し,この性質のおかげで,確定的影響は完全に防止できているといっています。確定的影響の図には,被曝量と影響の現れる確率の関係がS字型(シグモイド曲線)になることも示しています。

それでは,その閾値はどのくらいの線量なのでしょう。ICRPの2007年勧告にこれが示されています(図2)。

図2の水晶体の項で見てみましょう。単回被曝(原爆被爆者)と分割被曝・遷延被曝(治療の分割照射・職業被曝など)に分かれていますが,分割被曝・遷延被曝に着目すると,検出可能な混濁の閾値が5Gy,視力障害(白内障)の閾値が8Gy超となっています。広島・長崎の原爆被爆者の被曝による死亡率が50%になる線量が3Gyだといいますから,これは相当に高い線量です。低線量(累積線量0.1Gy以下)の被曝で水晶体混濁や白内障になる心配は全くないことになります。

表を見たついでに,睾丸の一時的不妊の項もみておいてください。閾値に総線量の記入はなく,年線量率だけが記されています。理由は,欄外の注に書かれていますが,閾値が総線量よりも線量率に依存するからというのです。1年間の被曝が0.4Gy以下なら何年被曝しても影響はないというわけです。この閾値は50年間の総線量に直せば20Gyの閾値ということになります。常識的には納得できませんが,ICRPはこう考えているのです。骨髄についても同様です。

ICRPは,影響の発生メカニズムの違いをあげて,確定的影響と確率的影響の区別を説明しています。がんなどの確率的影響は1個の細胞のDNAの損傷からでもおこるが,確定的影響は一定量の細胞の細胞死によっておこるというのがそれです。
放射線は電離作用によって組織/器官の細胞を傷つけて細胞死を起こします。しかし,生体には日常的に起こる細胞死を周辺の細胞の分裂/分化で補う修復能力があります。したがって,細胞死する細胞の数が修復能力を越えなければ,組織/器官に障害が生じることはないと考えられます。また障害が生じても,それが軽微であれば修復能力によって組織/器官はもとの状態にもどるでしょう。修復能力を超える数の細胞死がおこったときにだけ,組織/器官の機能が不全となり死に至るのです。これが確定的影響を説明する「細胞死モデル」です。

繰り返します。被曝によって細胞死が起こる。その数が多ければ死に至る。数が少なければ何事もない。その中間だと,障害が現れ,やがて回復する。細胞死モデルではこの3つのシナリオが想定できます。どのシナリオをたどるかは被曝時の細胞死の数で決まります。だからこれを「確定的影響」といっているのです。

細胞死モデルによれば,確定的影響に閾値が存在するのは自明です。また,定まった時間に修復できる細胞の数には限界があるでしょうから,閾値が線量率に依存することも理解できることになります。潜伏時間が短いことは,損傷した細胞の数が時間とともに減っていくと考えることで説明できます。細胞死モデルでは損傷した細胞の数が修復能力の働きで減っていくことはあっても増えることはないのです。

このように,確定的影響の性質は細胞死モデルでうまく説明できるのです。しかし… 。

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