「まち歩き」を中核にした総合イベントの可能性(その1)

投稿者: | 2016年12月20日

はじめに

先の10月29日(土)の午後に、文京区の湯島・本郷・向丘・千駄木のめぐる「まち歩き」を軸にして5時間ほどをかけての「第1回 健康まちづくりフェスタin文京・台東」を実施しました(同時間帯に併行して、文京区立目白台運動公園を使っての「ポールウォーキング教室」も実施しました。

これは現在、市民科学研究室が科学技術振興機構(JST)からの助成を受けてすすめている事業の一環です(※)。「健康まちづくり」を創発する協働型市民フェスタ事業の推進」と題したテーマを掲げ、「地域」「科学」「健康」への関心を相互に関連付け、健康に住まう意識の向上を創発できるモデル事業を確立する試みです。

※科学技術コミュニケーション推進事業 問題解決型科学技術コミュニケーション支援 ネットワーク形成型 平成27年度企画提案

この連載では、2015年7月から開始されて1年半を迎えようとするこの事業をふりかえりつつ、「健康まちづくり」とは何か、全国にどのような取り組み事例があるのか、医療や保健政策においてどのような位置づけがなされているのか、さらには科学技術の面からみてどのような興味深い開拓的な要素があるのか、といったことを論じてみたいと思います。

連載「健康まちづくりとは何か?」 第1回
「まち歩き」を中核にした総合イベントの可能性(その1)

上田昌文(NPO法人市民科学研究室・代表)

●あなたにとって「我がまち」とは

あなたは「我がまち」をどれくらい知っているだろうか?

「我がまち」とは普通、その人の出身地もしくは居住地、あるいは職場のいずれかがある市町村を指すとみていいと思う。では、あなたにとってのその「我がまち」で、あなた自身が少なくとも10年住んでいる(いた)か通っている(いた)場所がある(あった)として、その場所とその周辺のおおよその街並みや主だった建造物が、たとえば50年前や100年前はどうであったか、あるいはもう少し遡って江戸時代はどうであったか―それを知っている人はどれくらいいるのだろうか?

もし仮に、そんな人はごく少数で、日本人全体の1%にも満たないとするなら、そのことは何か重大な意味を持っていると言えるのではないだろうか?

まちを知る、ということには、言うまでもなく多様な側面がある。気候風土、地形、自然環境、歴史、文化、産業、人口構成、建築物、景観、人々の暮らしぶり……等々。これらには総務省や自治体行政などがとっている様々な統計の指標として扱われる事柄も含まれていて、その数字を使って客観的に「まちの特徴」が記述されることもある。ただ、そのような統計上の情報は、まちを知り、まちを探るよすがにはなっても、それ自体で、まちの魅力を表出するものではない。人がまちに愛着を覚え、かけがえのなさを感じるのは、自らがその中で過ごすことで自身に刻印される―別の言い方をすれば、人々の営みと街並みや景観が一体となって形成される―その人固有の「時間と空間の記憶」があるためだ。逆に言うと、その愛着やかけがえのなさが感じられない場所は、その人にとっては「我がまち」の魅力は失われているか見いだせないでいる、ということになるだろう。

生まれてから少なくとも10年ほどを同じまちで過ごしたなら、たとえそれが都会であったとしても、それはおそらく幼少期の記憶と分かちがたく結ばれた「故郷」と呼ぶにふさわしい「我がまち」になっていると考えられるが、もしこの故郷がその後何らかの事情で景観や街並みが一変し、昔の面影を今はまったく残していないとすれば、「我がまち」は記憶の中に痕跡を留めるだけで、現実には消滅したことになる。

●失われゆく「我がまち」

極めて大雑把な言い方になるが、おそらく日本の都市部の大半の地域と少なからざる郊外の市町村(いわゆる田舎のまち)において、人々に魅力を感じさせてきた「我がまち」がこの50年ほどの期間で、見る見る間に―いや多くの人にとっては「故郷」を離れている間の知らぬ間に―に失われた。まちの魅力を発見する機会とは無縁になってしまう、余裕のない生活スタイルが一般化したし(住民間、世代間、旧住民と流入した新住民との間のつながりの希薄化も関係するだろう)、住まうまち自体が利便性と経済性といった機能性のみが重視される造りに変貌をとげなるなかで、人々が愛着を覚える契機となる(景観や街並みが生み出す)まちの魅力そのものが減退した。

「50年前100年前の我がまち」を語れるのは、今や地元の地域史家や郷土史愛好家に限られる、といったお寒い状態なのかもしれないが、じつはここには、「我がまち」が失われるにまかせてきた、私たちの無自覚のあるいは無力の反映をみるべきではないのか。それを阻止し回復する術は、歴史的建築物や景観の保存運動、そして都市計画がらみの種々の取り組みなど、いくつかあるように思う。そのことも追々この連載で考えていきたい。この第1回目では、身近で誰にでもできる、もっとも基礎的なその手段が、「まち歩き」であるらしいことを私は指摘したい。

●まちの変貌とそれへの順応

「我がまち」は、その人にとって「日常化した生活圏」と重なるところが多いはずだが、まちの変貌と生活の変化が分かちがたく結びついているがゆえに、「我がまちの喪失」の問題は解決の緒を見出し難い、といえそうだ。多くはインフラ整備、宅地開発、商用利用の拡張などと絡んで、道路やマンションや店舗などの新規の建設が一部の地域に集中し、そのことで人口の移動や流出入に変化が生じ、交通網なども含めて地域的な偏在が生じ、そのことが過密と過疎の二極化を亢進する……といったことを繰り返しながら、まるで都市計画などあってなきがごとき「開発」が進められてきた。この開発によって変化した生活は基本的には、元には戻れない。よって、人は失われた「我がまち」―変貌を遂げてしまった生活圏―にいつ知れず順応するしかなくなり、それがやがて新しい日常となる。

失われた「我がまち」がやどしていた価値は、失われてしまってはじめて気づくことがあるが、気づかれないままであることも多い。それに反して、失われる前にその価値を認識し、「我がまち」が失われないように(場合によっては損なわれないように)住民たちが―もしくは住民の後押しで行政が条例などによって―何らかの手を講じている、あるいは「我がまち」を破壊する恐れのある「開発」に対して、直ちに反対運動が組織される、といった事態は―明確な環境破壊や治安の悪化などに対する場合は別にして―かなり稀であったし、今も稀である。

●失われゆく銭湯とその価値

「我がまち」の失われる様相の一端を明瞭に示している例として銭湯を挙げることができる。銭湯は地域によっては「我がまち」の生活圏の中核的要素であり続けてきたが、それがここ30年から40年でほぼ姿が消そうとしている―そんな地域が日本のいたるところにある。

私は半年ほど前に、そのことの意味を問う短い文章を書いたことがあるので、それをここに全文転載してみる。

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