上田昌文
●何が遺伝子問題の焦点か
「遺伝子へのまなざし」と題した項を閉じるにあたって、特に人間の遺伝子にかかわる操作技術の意味を、できるだけ広い文脈に位置付けて考えてみます。
私たちは遺伝子についての詳細な知識と遺伝子操作の技術によって、人類史上初めて、人間の持つ生物学的特質を自身で変えるという可能性を手にしています。遺伝子の問題の最大の焦点はここにあります。その可能性を封じるべきか、部分的には容認すべきか。はたまた、これまで多くの技術的応用がそうであったように、なし崩し的に既成事実化してしまうのか。我々は傍観者でしかないのか、あるいは技術を適正に制御する主体となり得るのか。
クローン羊ドリーの出現で、クローン人間が作られるかもしれないという予測が生まれ、世界中がクローン技術の是非をめぐって議論が湧き立ったことを手がかりに考えてみましょう。はたして”クローン人間”が問題の焦点でしょうか?
●クローン技術の意味
この技術が大きなインパクトをもたらすとすれば、それは特定の人間のクローンを作るというほとんど荒唐無稽の行為を可能にしたという点ではないと私は考えます。たとえ遺伝的に同一でも、本人とまったく同じ人間に育つなどということはあり得ませんし、「兄弟」とも「子供」とも「本人」ともつかない存在を社会がそう簡単に受け入れるはずもありません。
クローン個体の健康の面から見ても問題は多いのです。クローン羊ドリーを誕生させた科学者によると、全体でみればクローン作製が成功するのは3%に満たないとのことで、移植した胚が成長してできる子供には致命的な心肺障害や免疫不全などを持ったものが多いようなのです。ごくわずかに正常に生まれたクローンにしても、成長するにつれ予期せぬ健康障害が観察されています。ドリーは、老化の加速というクローン動物が抱える問題の犠牲者になるかもしれません。生まれて五歳半という年齢にしては早すぎる病気である関節炎を患っています。
この技術の核心は、遺伝的に改変した動物を量産できる点にあります。「ヒト疾患モデル動物」(病気の予防や診断、治療の実験に役立てられるように、ヒトの病気と似た症状が起こるよう遺伝子を操作した動物)や「動物製薬工場」(遺伝子を組替えて、人間用の医薬となる物質を体内で生産させる動物)あるいは「異種間移植」(ヒトに移植しても拒絶反応を起こさない臓器を持つ動物を作り、その臓器をヒトに移植すること)などがその主たる応用です。クローン技術はそれ自身が有用というより、遺伝子操作の産物を著しく増幅して市場に持ち込めるようにするという点が画期的なのです。
●人間の遺伝子を変えるとは
人間の遺伝子を変えるというとき、大きく分けて、次のニつを区別しなければなりません。
一つは、遺伝子の改変が子孫をとおして受け継がれるタイプのものです。これは卵子か精子かあるいは非常に初期の胚の遺伝子を改変することです。発生の出発点にあたる細胞の中の遺伝子を変えるわけですから、誕生するのは遺伝子が改変された子供であり、その子供が出発点になる代々の子孫は改変された遺伝子を受け継ぐことになります。ヒトの生殖細胞の遺伝子操作を許容している国は今現在はありません。
これに対して、改変が当人だけに留まって、この人物の子孫には及ばないタイプのものがあります。基本的には、病気の治療を目的に、卵子や精子以外の細胞(体細胞)の遺伝子を改変することです。これはすでに遺伝子治療として臨床試験の現場で応用されていて、現在の社会が容認しようとしている技術です。
問題は、生殖技術が著しく発達するにつれて、研究目的でのヒトの胚や精子、卵子の利用が進み、ヒトの生殖細胞の遺伝子操作へと道が開かれてくることがあり得るだろうという点なのです。
私たちは人間の遺伝子の改変に至りつくような技術の進展が結局は「何のために、誰のために、何を変えようとしているのか」という点をしっかりと見極めておく必要があります。
●遺伝子操作の表の顔と裏の顔
人間の場合、生物学的特質は、物理的な環境や他の生物、あるいは人間が築いた文化そのものと相互に複雑に作用しながら、人間の特質を決めるのに与っているという面がとりわけ著しいので、「何が人間の特質であるか」を明言することはおそらく誰にもできません。また話をもっと絞り込んで病気に限るとしても、遺伝子と最も一般的な病気との間に、直接の因果関係を持つ単純なつながりを見出すことはほとんどありえない、と言えます。
ですからそれほど不確定要素が多い中で、「劣悪な遺伝子」と「優れた遺伝子」を区別するということ自体が、すでにイデオロギーの領域に足を踏み入れることになりかねません。そして「病気を診断し、治療する」という、それだけを取り出してみれば誰も反対しようのない行為を、より精緻により効率よくすすめるために遺伝子研究はなされているのだ、という表向きの顔の裏には、医療という商業市場へのがむしゃらな突進という顔があり、商業的な成功を収める技術開発が積み重ねられることで、一歩一歩、ある特定の価値観・イデオロギーが強化され既成事実化していくのです。
●経済格差とバイオテクノロジー
その価値観とは何でしょう? その価値観は何に組するものなのでしょう? そのことを鮮明に示すのがじつはいわゆる南北間の経済格差の問題でしょう。
人間を対象とした遺伝子技術のどれを禁じ、どれを容認すべきなのか。そして診断や治療や薬剤開発に有用ないくつかの遺伝子技術を社会が受け入れていくとして、それは経済的、地理的状況にかかわらず必要な人々が等しく恩恵を受ける技術になりえるのか。
現段階では、前者の問題について私たちはかなり不十分な対応しかできていません(ことに日本では首尾一貫した規制政策を打ち立てようとする動きは鈍いのです)。新たな技術の出現に対して規制が追いついていかない、という方が正確かもしれません。後者の問題にいたっては、まったく手付かずのままであることは明らかです。いや、むしろバイオテクノロジーは科学技術における史上最大級の投資としてグローバル化の波の一部を形成していて、一部の先進国と第三世界との貧富の差を拡大することに相当貢献していると言うべきなのでしょう。
産業化したバイオテクノロジーが、富める者にターゲットを絞ることで、貧しい者への不公正な分配にさらに追い討ちをかけてしまう、という構造の中で動いていることは、たとえば次のような製薬産業の構造的なジレンマについてみてみると分かりやすいかもしれません。
●「健康な人向けの薬」が開発されるわけ
薬という製品の顧客は普通は病人です。病人は死亡することもあり、(薬を使って)元気になることもありますが、そうなればいずれにしても薬を買わなくなります。病気が治らず長引く場合、当人は仕事を続けるのが難しくなり、収入は減り、薬を買う余裕がなくなります。”病人が買えない高い薬”のイメージは製薬会社に不利に働きますから、そう簡単に値段を吊り上げるわけにもいきません。
このジレンマを脱する一つの手は、健康な人向けの薬の開発でしょう。”美しくなる”ためのダイエット薬(たとえば満腹になるまで食べても決して太らない薬)、”頭のよくなる”薬(あるいは痴呆やアルツハイマー病を予防する薬)、不安やストレスを抑制する薬……等々、いずれもヒトの遺伝子データを利用してより精巧な効き目を持つ薬剤の開発が目論まれています。
「美しく」「頭がよく」「不安がない」という、それ自体をとってみれば退けるにはあたらないだろう価値観が、技術の受容をとおしてまことしやかに社会に浸透し、その価値観からの逸脱を”劣悪”とみなす傾向が次第に強まっていきます。
そればかりではありません。たとえば効果的に不安を抑制する薬は、ストレスの多い様々な職場で、あるいは戦場に駆り出された兵士達に、服用が義務付けられるかもしれません。反社会的な行動をとる人物に”性格を穏やかにする”ための薬剤投与や遺伝子治療が施される日が来ないとも限りません。特定の事柄の記憶を遮断する薬が開発されたなら、誰かが拷問を受けた記憶を消すことさえ可能でしょう。
●貧困と差別から目をそらすもの
この光景に次のような事実を重ねて見るとき、現在なされている医療のための遺伝子研究開発がどこか間違った道をひた走っていることを感じないではいられないのです。
1975年から96年にかけて市場に出された1223種の医薬品のうち、世界の数百万の貧しい人々の致命的な病気である熱帯病の薬はわずか13種であり、そのうち民間企業から市場に出たのはたった4種類であること。また、肺炎、下痢、結核、マラリアが世界の疾病の5分の1を占めているにもかかわらず、それらの病気の研究費は医学研究費全体の1%にも満たないこと。残念ながら、市場システムに立脚した現在の遺伝子研究開発は、医療費の軽減にも役立たないし、病気にかかる根本的原因の究明から社会の関心をそらすことにつながりかねないと断定できるでしょう。
また、バイオ研究とバイオビジネスのメッカ米国の国内では、癌による死亡率は、黒人男性が白人男性よりも40%も高く、黒人女性は白人女性より 20%も高いことがわかっています。劣悪な住環境(有害物質などに曝される度合いが大きい)、質の悪い食物、充分に受けられない医療サービスなど、人種差別がからんだ環境の差異が影響していると見なさざるを得ません。
●予測し得なかった”技術の破綻”
新しい技術への信頼は、予期しなかった結末を迎えて裏切られてしまうことがなんと多いことでしょう。車の内燃エンジンが発明された時に、誰が交通渋滞や大気汚染や地球温暖化を予測しえたでしょう。使用が禁止されているDDTが奇跡の害虫駆除剤として熱烈に歓迎されたのはそんなに昔のことではありません。(第三世界では使用が続いているところがありますし、環境中に拡散したDDTが環境ホルモンとして野生生物などに負の影響をもたらしていることは最近はっきりしてきました。)洪水防止や発電の目的で作られたダムや堤防が、しばしばより破壊力の大きな洪水を誘発し、河川の生態系を損なうことも、事前に予測できた人がどれだけいたでしょう(日本を除くすべての先進国はすでにダム開発から撤退しています)。原子力発電によるエネルギーが「限りなくゼロに近くなるほど安価になる」と喧伝された頃から40年ほどを経て、今世界は放射性廃棄物の管理にどれほど膨大な金がかかるかを見通すことさえできないでいます。
●予防原則をふまえた「命へのまなざし」
このような技術の破綻への反省から生まれてきたのが「予防原則」の考え方です。
端的に言って予防原則とは「安全かどうかわからないことはやらないでおこう、できるだけ控えておこう」という考え方です。それは、技術は社会生活を形作るものだから、将来に備えて慎重に考慮し、民主的に監視するのが望ましい、という姿勢です。技術開発一辺倒の中で失われていた、自然に対するあるいは人間自体に対する謙虚さを意識的に取り戻そうとする試みであるとも言えるでしょう。
様々な環境的危機の真っ只中にあって、予防原則に立脚して技術のリスクをとらえようとする流れが少しずつ生まれてきていますが、バイオテクノロジーの開発と産業化には、人間と自然との関係を根本から変えてしまう恐れがあるにもかかわらず、予防原則をうまく適用できないでいるのです。何故か? それは生命現象があまりに複雑で未知の要素が計り知れないほど多いため、そのごく一部を”解明”したにすぎない事柄を、かえって全体の中でどう位置付けてよいものか、評定しきれないからかもしれません(そもそも何がどう「全体」なのかをつかみきれていないのですから)。
「遺伝子=生命現象の基本単位」という考え方を拠り所とする限り、「遺伝子が分かれば生命が分かる」という還元主義的単純化が抜き難く成立し、それが一方で「遺伝子さえ分かれば生命が分かる」という研究の方向付けを、そして他方で「分かりさえすれば操作し得る」という開発の動機付けを生んでいるように思われます。「操作し得る」ことは決して「操作してよい」ことを意味しないのですが、予防原則的な配慮が欠けているとき、市場の強力な後押しによって、「操作し得る」から「操作してよい」への転移は容易に生じるのです。
この転移を許容してしまう安易な価値意識をを射抜く「まなざし」、生命操作を社会の進歩の必然とみなす思想に抗して真に生命を尊重するとはどういう行ないなのかを根本から見つめなおす「まなざし」が、21世紀に生きる私たちには必要なのだと思われます。■
(『ひとりから』2002年12月 第16号)