上田昌文
●土曜講座での10年
この連載で私は爆発的に進展する生命科学のいくつかの側面にスポットをあてて、それが社会をどう変えようとしているのか、そして私たちがその事態をどうとらえるべきなのかを明らかにしたいと思っています。今回は、私がこうした問題を提起し解決を探る上で土台となり手がかりともなっている活動(「科学と社会を考える土曜講座」、以下「土曜講座」)を紹介しつつ、市民が科学に向き合うときのポイントとなると思われることを記してみます。
私自身が土曜講座の活動を始めたのは1992年の夏ですから、今年で10年になります。とにかく今の世の中で起こっているいろいろな問題を、ただ遠目に眺めるだけでなく、一歩でも自分にひきつけて考え、できることなら行動の手がかりを得られるようにしたい¬――という思いがあって、友人たちに声をかけて、半ば私的な勉強会のつもりで始めたのでした。何をどう扱っていくかを決めたのは、自分がいくらか慣れ親しんできた自然科学の素養を生かしてみたいという気持ちと、学生時代から数年間かかわってきた市民運動の経験で自分の中で生まれてきつつあったセンスや見通しのようなものでした。とりあえずのスタイルとして、科学技術に関連するさまざまな社会問題を、月1回か2回ほどのペースで調べ、発表することにしたのです。
●多様なテーマを分かりやすく
いろいろな仲間が集い、個人的にも交流が深まってくると、次第に問題の扱い方・取り組み方の焦点が定まってくるとともに、取り上げる対象自体はますます多様な広がりを示してきます。私個人の資質もあるのでしょうけれど、活動を続ける中で明確に自覚できたのは、「可能な限り幅広いテーマを取り上げる」という点、そして「どんなに難しそうな話題を扱うときでも、初めて来たどんな人にも分かってもらえるように話す」という点の大切さでした。
これまで継続してきた140回ほどの研究発表会のテーマは、言ってみるなら、百科事典的に多様です。バイオテクノロジー、核・原子力、薬害、廃棄物、軍事技術、環境と経済、戦争責任、科学教育、映像メディア……。毎月の運営会議でスタッフと一緒に「こんな問題を調べてみたいね」と話し合いつつ決めているわけですが、これらのテーマの広がりは、科学技術問題への攻め口がじつにいろいろあり得ることを示していると思います。未成熟なもの、問題の端緒にしか入り込めていないものも多いのですが、流動する世界の情勢に対応すべく分野・領域横断型の問題設定が必要とされる時代にあって、この振り幅は何らかの示唆を投げかけるものではないでしょうか。
また、分かりやすさを保ちつづけるという点は、裏返して言うなら、自分が本当に分かるまでしっかり調べ考える、自分の考えたことを仲間の考えと擦りあわせて吟味する、といった掘り下げのための努力があって初めて確保されるのです。もちろんこれについても、仕入れたばかりの知識を未消化のまま紹介しているという部分もあったりして、いつも成功しているとは言えないのですが、「自前の共同研究」を重視してきたこと、つまり素人がチームを組んで3、4ヶ月かけて勉強して発表するというやり方をできるだけ貫いてきたことは、必然的に”学問を既成のアカデミズムの世界にだけ閉じ込めないで市民に開かれたものにしていく”ことの一つの実践であったと思うのです。分かりやすさの追求には、アカデミズムへの挑戦の意図が込められている、と言えるでしょうか。
●市民自身がすすめる運動と研究
問題を知り研究を深めるのは、市民にとってはそれ自体が目的ではなく、問題解決に向けて今の自分と今の世の中を少しずつでも変えてゆくためであるはずです。「科学と社会」を扱う以上、専門性に切り込んでいくことは避けられず(研究の必要性)、しかも扱うのは被害・加害や利害対立を含む政治性を帯びている問題がほとんどですから、”客観的な”分析だけにとどまってはいられません(運動の必要性)。 私たちが発足させているいくつかの調査研究チーム(「プロジェクト」と呼んでいます、以下PJ)は、一つのテーマに持続的に取り組みながら、その成果をふまえて省庁との交渉を行なったり、報告書をまとめて政策提言をしたり、学校や自治体と連携して新しい市民活動を提起したりすることを目指しています。
現在は「科学館PJ」(各地に点在する科学館を市民と科学のよりよい接点を作り出すために活用する)、「電磁波PJ」(身のまわりの電磁波を実際に計測しながら、世界中でなされている人体影響研究を広くレビューし、政策提言する)、「科学技術評価PJ」(国が進める巨大な研究開発プロジェクトに対して、意思決定や資金の流れや内部的な”評価”といったことに市民の立場からどのように情報公開を迫り立ち入っていけるかを探る)、「総合学習PJ」(科学技術と社会の様々な問題をより体験的に知るためのプログラムを開発する)の4つが動いています。この中でたとえば電磁波PJは現在、携帯電話の電波の人体影響を詳しく調査していますが、並行して行なってきた東京タワーからの放送電波(高周波)、そして図書館などに設置されている”盗難防止装置”からの電磁波(低周波)の計測は新聞紙上でも大きく取り上げられました。
今後さらに、まさにこのエッセイと関連の深い「生命操作PJ」や「土と水のPJ」の発足が予定されています。
●研究と運動の相互作用を重視する
私たちが取り組む学習や調査研究は”自前”を目指してはいるのですが、当然のことながら多くの部分をアカデミズムの研究者たちの成果に頼っています。では、市民とアカデミズムはどんな関係にあるべきなのでしょうか。
アカデミズムは、個々の研究を継続・発展させれば総体として世の中全体の進歩に寄与することができる、という前提に立っています。研究者たちは、アカデミズムの世界の中でわりふられた個別のテーマを窓口にして世界を見ます。しかし現実の問題は常にそうした個別のわりふりの枠を超えたところで複合的な事態として発生します。原子物理学者はモノとしての原子の構造の専門家ではあるが、決して「核問題」の専門家ではなく、むしろ「核問題」を問題たらしめている張本人の一人と言えます。「科学と社会」の問題はすべてこうした複合性を持っています。したがって、既成のアカデミズムの研究成果から私たち市民は学びつつも、逆にアカデミズムの分析視角そのものをも批判の対象にしていかねばならないのです。学者と市民とが知識と問題意識を共有し、相互に批判的に摂取することで、研究も運動もより豊かで実効力のあるものになるのでしょう。
そして本当に実りある批判を行うための土台は、やはり両者に人間的な信頼関係が築かれていることなのです。
●科学者と素人の間の信頼関係はどこから
なにも科学者の場合に限りませんが、人間の有限牲の自覚において他者と共通の了解を持つこと――これが信頼の基礎になるのではないか、と私は考えています。
あたりまえですが、科学者は生まれながらにして科学者であったわけではないのです。時代、そして個人の境遇といった様々な条件と制約のもとに、職業として科学の研究に従事するようになったのであって、それが唯一絶対の選択であったとはいえないでしょう。産業化社会においては、我々は人間の職能化した部分をその人の全体と等価とみなしがちですが、他者を理解するためには、その職能的に特化した部分だけに注目するのでなく、人間としての普遍性・全体性や同時代を生きる共通性にこそ目を向けなければならないのです。科学という活動も、科学者という職能も、人間の営みの総体の中に位置付け、人間の営みであるが故の当然の有限性(限界)を持っていることを、科学者も非科学者もともに白覚することが大切なのです。
アインシュタインは晩年、複雑な方程式で埋め尽くされた計算用紙の回りを飛ぶハエを見て、「アラーの神は偉大だ……」と漏らしたそうです。そう、どんなに高度に発達したように思えても、我々の科学は、ハエ一匹をつくりだすことはおろか、その生命の信じ難い複雑さをとらえきれないでいる、不細工で原始的な段階にあるのでしょう……。
●望まれる両者の交流の場
科学者は、いってみれば”説明の人”です。専門用語で武装された”説明”の要塞も、骨格は論理的整合性というただ一点であり、天空高く築かれたかに見えるその城壁も、土台は人間の基本的な知覚と常識的な認識にあるのです。「説明不可能な科学」なるものは存在しません。
そこで狙い目の一つは、科学者を市民との対話の場に招き、市民に理解可能な形で専門の知見を語らせることです。たとえば、開発が目論まれたり、導入が検討されていたり、あるいはすでに市場に出回っていたりする技術の問題点について、専門家に一般市民が納得のいくまで質疑に応じてもらうのです。そうすることで、専門の知見に潜んでいた偏った判断や、その専門性では解決のつかない問題の広がりなどが、専門家と一般市民の両方にはっきりしてくるでしょう。とにかく専門家たちが一方的にことを進めるという密室性を破るために、新しい制度的裏付けや支援のためのメカニズムが必要なことは明白だと思われます。
●楽しく集い、素人の強みを発揮する
土曜講座を始めて痛感したことの一つは、いろいろな職業や考え方の人々が自由に物事を論じ交流できる場が今の大人にとってどれほど希少になっているか、です。職場に生活の大部分を吸収されてしまってそこでのつきあい以外の人間関係をほとんど持てないでいます。今必要なのは、職業にとらわれず私たちにとってより良い未来を共に構想する(そして各自の持ち場でその構想と建設的に向き合える)場、人間関係です。
運動というものは本来、明確な目標と戦略のもとに、参加者の意思と行動を統制していくという側面を持ちます。しかしその統制が強くなればなるほど、参加者個人の自発性や個性は失われていきがちです。研究と運動を”両輪”とするなら、その真ん中に「魅力ある人たちと集うことの楽しさ」や「今まで縁遠かった分野に関わっていくことのおもしろさ」を体験できるという”車体”が据えられていること。素人が素人の強みを発揮して生き生きと運動を続けていく秘訣はここにあります。
自分が直面する現実から生まれる問題意識を手放さず、粘り強い探究心を持ちつづける市民という存在は、職業的科学者とはまた違った意味で、一種の「科学者」たり得る――それを私はこの10年の活動をとおして実感しています。”素人であることの意義・強み”を大切に今の活動を続けていきたいと願っています。■
(『ひとりから』2002年9月 第15号)